第2話 記憶にない彼
「さっきはありがとう。実のところ少し気分が悪かったから、助かったわ」
ハロルドが帰ったのを確認して執事然した男に声を掛けると、男は安堵したように小さな笑みを浮かべた。
「体調が悪いのに、無理をすべきではありません。あの男、自分の都合ばかりで結局お嬢様を心配するひと言すらなかったですね……」
「仕方ないわ、彼の言うとおり辛気くさい女だもの。気遣う必要も感じられないのでしょう」
浮気相手とは違って、という言葉は流石に口にするものではないので飲み込んでおく。
部屋の壁に飾られた鏡へと、ちらりと目を走らせた。記憶通りの姿がそこには映し出されている。
老人のような白い長髪は重くまっすぐに落ちていて、最近の流行りの柔らかな巻き毛風のセットはほぼ落ちているし、そもそも似合っていない。切れ長の薄い水色の瞳はキリリとしていて可愛さの欠片もなく、長身の身体は痩せて女性的な柔らかさからは程遠い。血管が透ける程に白い肌もそれだけ挙げれば長所だが、白い髪、水色の瞳と色素の薄いパーツが相まって、その佇まいはまるで亡霊のよう。
(私の見た目がもし良かったのなら……)
ほんの少しだけ、遠い目をして考える。
そう、たとえば明るい金髪、ふわふわとした巻き毛、小柄で豊満な肉体……そこまで考えて、リーシャはくだらない夢想を打ち切った。今思い描いた特徴が、そのままハロルドの浮気相手であるティアラの特徴であることに気がついたからだ。
「辛気くさいなんて、とんでもない!」
彼女としては至極当然のことを口にしただけだったのに、男は憤ったようにその言葉を否定する。
「何をおっしゃっているんですか。お嬢様のように美しい方など、他には居ないというのに。お嬢様の優美で綺麗な御姿は、流行などに左右されない絶対のものです」
あまりに買いかぶった男の賛辞に苦笑を浮かべながらリーシャは立ち上がる。
「ありがとう、その言葉だけでも嬉しいわ。ひとまず、自室に下がらせてちょうだい」
「かしこまりました」
リーシャの言葉を聞いて、彼はテキパキとメイドに室内着の手配等を指示しはじめる。その手際は慣れたもので、彼がこの屋敷で長く働いていることを窺わせた。
(それなのに……どうして、私は彼のことを知らないのかしら……?)
過去に戻ったのだとしたら、知らない人物が居ることは不自然だ。しかし、いくら考えても答えが出るものではない。
ズキズキと痛みを訴えるこめかみを手のひらで押さえながら、リーシャは考えるのをやめて自室へと引き上げたのであった。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「ホーンドラゴンの鱗、イッカクの角の粉末、吸血コウモリの精巣、それから……。どれもこれも稀少で一般には流通していないものばかりですね」
室内着に着替えてひと息ついたところで、リーシャの元に男は再び現れた。
ハロルドの用意した素材リストを読み上げるその姿を見るに、彼はどうやらリーシャ付きの執事らしい。
自分に執事など居ただろうか――そんな疑問をリーシャが抱えているうちに、男はひと呼吸置いて「お言葉ですが」と言葉を続ける。
「こうした素材は古くより、呪術のために使用されてきたものです。禁忌とされている呪いや、悪魔召喚……ハロルド様はそういった禁術に手を出そうとしているのかもしれません。冒険者に渡りをつければ手に入れること自体は可能ですが……いかがいたしますか」
――
かつての自分も、同じような忠告を受けたのだろうか。執事にまつわる記憶がないために、いくら考えても答えはわからない。
しかし、もし同じ忠告を聞いていたとしても当時の自分であればそれを聞き流しただろうな、とリーシャはうっすらと察する。
その時の彼女にとって大事だったのは、ハロルドの望みを叶えること、そしてそれによって婚約者として自分を認めてもらうことだった。そのためであれば、多少非合法な話であっても目を瞑って彼の我が儘に応えていただろう……その結果が、ハロルドの裏切りにつながることも知らないで。
悪魔召喚。かつてのリーシャが手をつけたとされる、禁術。
この素材を集めたことで、リーシャは罪に問われた。そして罪を裁かれる前に、口封じのために殺されてしまった。
利用されるだけされて殺されてしまったから結果はわからないけれど、リーシャに罪を押し付けたハロルドは結局、悪魔を召喚したのだろうか。そして、自身の望みを叶えたのだろうか――そんなことを考えながら、リーシャはゆっくりと首を振る。
「その件に関しては、すぐ動かなくても良いわ。少し考えさせてちょうだい」
なにしろその素材を集め終えたら、ハロルドに殺されてしまうのだ。これからどうすべきか、先に考えをまとめたい。
「……承知いたしました」
リーシャの答えが意外だったのだろう。少しだけ目を見開いてから、男は静かに一礼した。
(まぁ今までの私だったら、少しでも早くハロルドの依頼に応えようとしていたものね……彼に、そしてお父様に認められるために)
彼の反応に苦い納得感を覚えつつ、リーシャは目の前の見覚えのない男を静かに観察する。
黒い髪は短く切り揃えられ、薄暗い室内でも光を反射してサラサラとこぼれている。うつむき加減でもわかるすっと通った鼻梁と綺麗な首筋。背は長身のリーシャでも見上げる程に高い。黒い短髪とがっしりとした体躯は、執事というよりは護衛騎士の方が似合いそうな姿である。
年の頃は二十を少し過ぎたくらいだろうか。今年十八を迎えたリーシャより上には見えるが、その落ち着いた物腰のわりにはまだ年若い青年だ。
男性的ではあるが威圧感はなく、常に見えないところから守ってくれていそうな安心感を覚えるその姿。記憶にない存在なのに、何故か「彼なら信頼できる」という根拠のない確信が湧いてくる。
けれど不思議なことに、そうして個々のパーツがととのっていることは分かるのに、彼の外見は何処か漠然としていて記憶に残らない。目を凝らせば凝らす程正体が見えなくなるその感覚は、まるで夢の中で書を読もうとしている時のようだった。
ただひとつ確実に言えることは、いくら過去を
「ねぇ」
声を掛けると、男はゆっくりとこちらを向く。そしてその瞳があらわになった途端、リーシャは思わず息を呑んだ。
今まで目にしたことのない、灰緑の瞳。ふたつの色が混じり合うような不思議な色調の瞳は、見ていて吸い込まれそうな程に深くて底が見えなかった。夜明けの空のような、
印象に残らない彼の姿の中で、その
「貴方のその目……すごく、綺麗ね」
思わず言葉がこぼれ出した。その賛辞に、男は驚いたように顔を上げる。彼の表情に一瞬だけ辛そうなやるせない感情が浮かび、そしてたちまちのうちに消えていった。
あまりに刹那の感情に、リーシャはその意味を読み解くことができない。
「貴方、名前は何というの」
「ツルギ、と申します」
突然名を問われたにも関わらず、答える声は落ち着いている。まぁ使用人とはそういうものだ。突然名前を問われることに不審を感じたとしても、それをおもてに出すことはない。
「……そう。変わった名前ね」
「ロマの出身ですので。お嬢様に拾っていただき、この屋敷に置いていただけるようになりましたが」
「ロマの……」
ロマとは、定住せずに各地を渡り歩く民族のことだ。
音楽や踊り、占術などに秀でた者が多く、その実力は王城や貴族の館にも招かれる程に高い。そこで評価されて貴族の家に取り立てられるという話すら、珍しいものではなかった。
……そう。リーシャの婚約者であるハロルドの母もまた、かつてロマの踊り子であったのだから。
そこまで考えたリーシャは、ハロルドのことへと思考が誘導されて小さく息をついた。とにかく今は、落ち着いて考える時間が欲しい。
「今日はもう休むことにするわ」
「お薬、お持ちしましょうか」
「いえ、いいわ。疲れが出ただけだと思うから。貴方も下がってちょうだい」
「承知しました」
やがて足音が遠ざかっていく。
離れていく気配を耳で追いながら、リーシャはつい眉を
――今去って行ったばかりの彼の顔が、上手く思い出せなかったのだ。
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