第9話 父との対面


 リーシャが父親から呼び出しを受けたのは、それから数日経ってのことであった。


「何故呼ばれたか、わかっているかね」

「お父様……」

 当主の執務室で、静かに向かい合う二人。

 その間に流れる空気は、とても血の通った間柄のものとは思えない程に冷たい。親子二人きりで言葉を交わすなど実に半年ぶりくらいのことになるのに、そこには何の情も存在していなかった。


「いえ。お父様がわざわざこのような場を設けてくださるなんて、恐縮です。一体、何の御用でしょうか」

 努めて平静を装いながら、リーシャはしおらしく返事をする。


 ――彼女が死に戻ってから始めた、破滅を避けるための行動、婚約解消に向けた数々の手配。それらは父に知られることのないよう、慎重に隠してきたつもりだった。

 彼の悲願である王家との婚姻を無に帰すなどと知られたら、父が烈火のごとく怒り狂うのは想像に難くない。

 それが勘づかれてしまったのだろうかと、リーシャはこっそり震える手のひらを握りしめる。父と敵対することは、現時点ではできれば避けたかったのだが……。


 小さくため息をついて、彼は端的に告げた。

「ハロルド殿下のことだ。彼は今、他所の男爵令嬢に夢中だと聞いたが……彼との仲は、大丈夫なのか」

「……っ!」


 このタイミングで、ハロルドのことを聞かれるとは。

 つい表情を取り繕うのも忘れて、大きく息を呑んでしまった。そのひと言に、リーシャの心が大きく揺れるのを感じる。

 ――ハロルドとの仲を心配している。それはもしかして、父なりに娘のことを気遣っているということではないだろうか。

 そんな都合の良い期待が、胸の裡で抑えきれないほどに膨れ上がる。


「お父様に……申し上げたいことがあります」

 その声が震えそうになるのをできる限り抑えて、リーシャは口を開いた。突然差し込んだ一条の希望の光に、リーシャは恐る恐る手を伸ばす。

 思いがけず手に入れた、父との対話の機会。前回の人生では叶わなかったけれど、しっかりと向き合えばもしかして……。痛いほどの胸の鼓動が、リーシャの諦めていた想いを声高に叫びはじめる。


 ――今まであきらめていた父との関係も、やり直せるかもしれない。




「ハロルド様は私との婚約を、不快に思っていらっしゃるようです。会話は最低限ですし、言葉を交わすのは我が家のツテをあてにしたお願い事ばかり。最近は非合法な集まりにも顔を出していらっしゃるようでして……私もいさめてはいるのですが、浮気相手に夢中で耳を傾けてくれる様子はありません。このままですと、家にも影響が及びかねません。お父様からもどうか、事態の改善に向けて……」

「失望したよ」

 はぁーと大きなため息を吐いて、彼は娘の訴えを最後まで聞くこともなく静かに切り捨てた。


「前から言っている通り、この婚約は紛れもない政略的なものだ。ハロルド殿下のお心がついてこないのも、当然のこと。それを自分に向けさせるのが、お前の務めだろうに」

「……っ!」

「とはいえ……」

 リーシャの反応を気にも留めず、穏やかな声で父は言葉を続ける。

「まぁハロルド殿下にも好みというものがある。どうしても、ということであれば愛妾を認めるのもひとつの手段だ。しっかりと後継者さえ作ってもらえれば、彼には好きなように過ごしてもらって構わないからね」

 いかにも優し気に、彼はとんでもなく残酷なことを娘に向かって言い放つ。まるでリーシャのことを想いやっているかのような口調で。


「…………」

「それと、非合法な行為についてだが……それはやめさせなさい。多少のことであれば金で何とかなるが、我が家を引きずり降ろそうとする貴族は多い。付け込まれる隙は少ない方が良い」

 何も具体的な対策を出さぬまま、彼は無茶な内容を平然とリーシャに指示する。

「返事は」

「……はい、かしこまりました」


 奥歯をぎりりと噛み締めて、リーシャはなんとか返事を絞り出した。その答えを聞いて、父親は満足げに頷く。

「わかったのであれば、それで良い。今後とも励むように」

 そうして父との対話はあっさりと終わった。リーシャの訴えは何も彼に届くことなく、父親は一方的な指示ともいえぬ無茶だけを口にして。

 そしてそれが済むと、もう用事は終わりだとばかりに彼はリーシャを執務室から追い出したのであった。




 ――わかっていたはずだったのに。

 執務室を後にしたリーシャは、鼻の奥がツンとなるのをこらえて背筋を伸ばし大股に自室へと進んでいた。

 父が自分と向き合うことなど、ありはしないと。娘などただの道具としか思ってないことなど、知っていたのに。

 それでも期待を抱いてしまった、一縷の望みに縋ってしまった……そんな自分の弱さに、ただ嫌気がさす。これでは、死ぬ前の自分と何も変わっていないではないか。


 涙をこぼさぬようにずんずんと早足で歩いて、淑女にあるまじき勢いで自室の戸を開ける。

 ちょうど外出から戻ったらしき執事が、驚いたように振り返った。外套のフードが外れ、灰緑の彼の瞳があらわになる。

 その色を目にした途端、内側で溜めていた色々なものが溢れ出してくるのを感じた。つかつかと無言で歩み寄ると、リーシャはそのまま体当たりするかのような勢いで彼にしがみつく。


「お嬢様?」

「余計なことは言わないで……少しの間、壁になりなさい。何も言わず、何も聞かず、ただ黙って」

 低い声で告げると、しばし呆気に取られていた執事は「はい」と大人しく頷いてその場に直立不動になった。その厚い胸板に、頭突きをするかのようにリーシャは額を打ち当てる。自分より少し温かな体温と、自分より少し早めの鼓動が彼女を包み込む。

 それに身を任せているうちに、やがてじわじわとおりのように胸の裡に沈んでいた涙がリーシャの目尻から流れ落ち始めた。こぼれはじめた涙は、次から次へと頬を伝って流れていく。


 静かに震える彼女の身体を、執事はただ黙って受け止めていた――。

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