二番目の彼女

岩月すみか

二番目で我慢してくれ

 わたしには彼女が二人いる。

 朝、わたしはいつも二番目の彼女に起こされる。


「すみれさん、起きて」


 朝のベッドは心地が良い。冷房の効いた部屋で布団を被り丸くなっていると覚えているはずもないのに母の子宮にいた時の記憶が頭をよぎる。胎児の頃、外がどれだけ暑かろうと寒かろうとわたしは母に守られてお腹のなかでぬくぬくと過ごしていた。あの時のわたしは外の世界は子宮よりももっと居心地が良くて自分には素晴らしい未来が広がっていると信じていた。しかし実際、子宮の外では毎日悲惨なニュースが流れ、毎日誰かが死んでいる。母の子宮のなかで何も知らずうつらうつらと舟を漕いでいることが無上の幸せであるとも知らずに、わたしは外の世界を夢見ていた。


 くみは布団の上からわたしの肩をゆすった。不本意な状況や理不尽さに気持ちが沈んだ時、わたしは母の胎内へ思いを馳せる。起きる時間さえ自分の思い通りにできないなら生まれてくるんじゃなかった。そう思いながら目を開けて首を回して頭上を見ると、おはようと満面の笑みを浮かべたくみがいた。

 むくりと起き上がると、くみは


「朝ごはんできてるよ」


 と言って寝室を出ていく。わたしは何度も瞬きをしてから目を擦り、ベッドから這い出した。まだ寝ていたい、というわたしの本音を見透かしたように未練がましく足に布団がまとわりついてくる。わたしだって本当はお前のなかに戻りたい。でもくみが呼ぶから行かないと。


 リビングへ行くとくみが朝食の準備をして待っていた。テーブルにはこんがり焼けたバタートーストにコーンスープ、黄色くとろけたスクランブルエッグと鮮やかなサラダが並んでいる。席につきいただきます、と手を合わせてトーストを齧った。わたしの口元からこぼれ落ちるパン屑を見て


「こら、お皿の上で食べなさい」


 とくみは笑う。口先だけでごめん、と謝る。わたしは朝はご飯派で一人で暮らしていた時はどれだけ忙しくても白米を炊き、味噌汁を作り塩鮭の切り身を焼いて食べていた。なのにくみと暮らしてから、朝はもっぱらトーストかコーンフレークになっている。くみはわたしがいやいやパンを齧っていることを知らない。むしろ、わたしのための自身の献身に満足し、献身に報いようとしないわたしの態度を不本意だと思っている。

 わたしとくみは付き合っている。でもわたしはくみのことを好きではない。人としては好ましくてもくみはわたしの恋愛対象にはならない。


「美味しい?」


 不安を隠した笑みを浮かべてくみが尋ねる。トーストを齧りながらわたしが頷くとくみは心の底からホッとしたように「よかったぁ」と眉を下げた。

 くみはわたしの二番目の彼女だ。くみがわたしの一番になることは未来永劫あり得ない。




  ◇




 仕事を終え帰宅後、2LDKのアパートをくまなく歩き、くみがいないことを確認する。彼女は夜勤のある仕事に就いているから時折こうして家を空ける。くみの夜勤は週に一回。この日をわたしはギフトと呼んでいる。神が与え給うた貴重な一人の時間。誰かと一緒に暮らすのは安心だけれど、安心と引き換えに不自由という鎖で拘束されるのだ、とくみと暮らすようになってからわたしは知った。くみがいるとわたしはまひるに集中できない。だからできるだけくみには長く多く家を空けて欲しい。


 自分の部屋へ向かいローラーつきの椅子へ腰を下ろす。デスクの上に設置されたノートパソコンの電源を入れ、ヘッドホンを耳にかけ慎重に音量を調整した。指定されたWEBページの待機枠へ飛んであと十秒。四、三、二、一……。


「こんばんは、こんばんみ、まひるだよー!」


 まひるの配信が始まった。先週公開された新衣装に身を包み、絶妙な角度で首を傾げて自分が一番かわいく見えるポーズをとる。新しい衣装は彼女の白い肌がよく映えるよう黒で統一されていて、西洋風のフリルが随所にあしらわれているところがとても可愛い。ヴァーチャル世界で暮らすまひるはヴァンパイアの末裔、という設定で繊細な筆で描かれた顔、体の造形はこの世のものとは思えないほど美しい。


「週末だね。みんなお疲れ様ぁ」


 鼻にかかった甘ったれた声。鳥肌が立つほど好きだ、と思い衝動的に三万円の赤スパチャを無言で投げつけた。瞬間、チャンネルメンバーからナイスパ! の文字の羅列が舞い踊り、まひるはわたしが投げた三万円に気が付く。ぱあっと彼女の顔がほころんだ。


「すみれさん、いつもありがとう! 大事に使わせてもらうね」


 名前を呼ばれただけでぞくぞくと多幸感が這いのぼる。嬉しい。まひるの視界にわたしが入った。嬉しい。銀色の髪をしたアニメ柄の少女にわたしはこのうえなく興奮した。




  ◇




 自分が生身の人間を好きになれないと気が付いたのは小学校五年生の時だ。

 クラスの女の子たちがイケメンと評判のはやとくんに淡い恋心を抱く傍ら、わたしははやとくんの良さがわからないでいた。

 だってはやとくんは汗をかく。目やにがついてる時もある。かっこいいとは言っても笑うと上の歯茎がはみ出るし、大口を開けたときには治療済みの銀歯が口の奥から見えてゾッとする。たまたま廊下で彼とすれ違い、水場で洗ったわたしの手に軽く、はやとくんの手がぶつかった時、わたしは自分の手を汚された気分になった。はやとくんの菌がついた、と思ってしまった。


 はやとくんはどうしようもないほど人間だ。はやとくんだけじゃない。他の女の子が好きだ、かっこいいというのは全員人間の男ばかりでわたしはついていけなかった。自分以外の人間の菌が耐えられない。普段は潔癖、というわけではないのにこと恋愛対象となるとわたしは異常に綺麗好きになる。好きな人の菌なら耐えられるのだろうか。はやとくんよりもっと素敵な、綺麗な人の菌なら。


 唯一、可愛いと評判のあさみちゃんにわたしは好意を寄せていた。あさみちゃんは目が大きくて鼻が高くて背の小さい女の子だった。異様なほど可愛くてアニメの世界から飛び出てきたみたいな女の子。当時、ハマっていた子供向けアニメ、魔法少女ミコミリのミコミにあさみちゃんはとても似ていた。わたしはミコミが大好きで、夜寝る前には必ずミコミとデートをしたりキスをしたりする空想をしてから寝た。だからあさみちゃんを見た時、ミコミがついにわたしの隣にやってきた、と興奮した。


 わたしはあさみちゃんに話しかけるたびにドキドキし、じゃれあいで手を繋いだ時には口から心臓が飛び出るかというほど緊張した。はやとくんを好きになれなかったのはわたしが女の子が好きだったからで、わたしのタイプはミコミのような美しい子で、ミコミに限りなく近いあさみちゃんはまさしく、わたしが好きになるに足る女の子なのだと浮かれた。わたしが今まで恋ができなかったのは人を好きになる能力がなかったからではなく、単に好きになれる人に出会っていなかったからだとその時は思った。


 嬉しかった。みんなして、愛だの恋だの騒ぎ立て、どんな時代にも一定の需要がある恋愛という産業に自分だけが溶け込めないのは辛かった。これでようやくわたしも人並みに恋ができる。しかしその安堵は長くは続かなかった。


 花粉の季節、不意にあさみちゃんがくしゃみをした。瞬間、空気中に細かい飛沫が舞い上がる。噴射機みたいだと思った。美容師が使う、レバーを引くとノズルからぶわっと水が飛び出るスプレー。あさみちゃんの小さい鼻の穴からぶわっとウィルスの詰まった菌が噴き出し酸素のなかに霧散する。

 呼吸をするたびにあさみちゃんの菌が鼻や口から酸素に混じって入ってくるような気がしてわたしは思わず息を止めた。ごめんね、とあさみちゃんは恥ずかしそうに笑った。大丈夫、と相槌を打ったけれど、わたしはまったく大丈夫ではなかった。


 あさみちゃんは人間だった。はやとくんより嫌悪を感じにくかったからわからなかったけど、皮を一枚剥いでしまえば彼と同じ人間だった。そんな当たり前のことに気がついた途端、高鳴っていた心臓は息を止め、上昇していた体温は急速に冷えていった。あさみちゃんの菌でもダメだった。わたしは女の子が好きだけど、人間の女の子は好きになれない。菌があるから目やにがあるから汚れがあるから、わたしは人間を好きになれない。

 助けて、と心の中で絶叫する。


 助けて! ミコミ!

 あなたみたいにずっと綺麗で汚れ知らずな女の子はどこにいるの?


 脳内に召喚したツインテールのミコミがにっこり微笑む。


 そんな人、いないよ。


 わたしはようやく理解した。


 菌を飛ばすこともなく、汗をかくこともなく、常に綺麗で清潔で、どんな時でも変わらない理想のままでいてくれる空想の女の子しか、わたしは好きになれない。興奮できない。欲を感じない。

 異常性癖。その言葉を知ったのはそれから何年も経ってからだ。




  ◇




 どうにかしないといけない。けれどもどうしようもない性癖を抱えたまま、大学を卒業し一般企業の経理部に就職した。くみと知り合ったのは就職して3年が経った頃だ。


 くみは同じ経理部の二つ下の後輩だった。彼女を一言で表すと柴犬になる。顔やサイズ感も似ているが、一番似ているのは性格だ。上司や先輩からの命令に従順で何を言われても笑顔で応える。人に逆らうということを知らない真面目だけが取り柄の忠義の人間。柴犬について詳しく知っているわけではないから、彼らがくみほど忠実で従順な性質の持ち主なのかは知らないが、世界有数の真面目大国日本を代表する柴犬はくみの比喩としてふさわしいような気がした。


 くみは明らかなパワハラを受けていた。経理部の部長は豚に似ていて横に広く、自分で動くことが嫌いなので何かといえば仕事を部下におしつけた。その癖、作業が遅いと給料泥棒という前時代的な言葉で罵ってくる。面の皮が厚いわたしのような人間は給料泥棒、と言われるたび「ご指導あざまっす」とか「痛み入りまっす」とか返していたから、いびり甲斐がないと判断されてすぐ相手にされなくなった。部長は新卒が来るたびに同じようないびりを繰り返し、彼のいびりに耐え抜いた人間だけが経理部に残ることができるという状況が常態化した。お局のおばちゃんは


「部長は試してるのよ。仕事に耐えられる人間かどうか。その証拠に一度認めた人間には優しいのよ?」


 なんて言っていたが、部長の仕事は部下に試練を与えることではなく部下を育てることである。仕事に耐えられるかどうかの見定めは採用面接の段階で人事がやっているはずなので、改めて部長がやる必要はない。しかしわたしも含め、面倒ごとに巻き込まれたくない経理部一同は部長のパワハラを止めなかった。心のどこかでみんな、これくらい耐えろよ、と思っていた。自分が酷いことをされたからと言って、同じような目に遭っている人間を見放すなんて最低だ。でも自分も含め周りみんなが最低だと最低なのが普通になる。


 例に漏れず、新卒のくみも部長からのいびり、もといパワハラを受けていた。入社当初、ハキハキとした話し方が特徴的だった彼女は次第に語尾が萎み、出社中は誰とも目を合わさなくなった。今日も経理部のオフィスには部長からくみへの罵声が飛ぶ。


「午前までに終わらせとけって言ったのになんでまだ終わってねえんだよ!」


 部長のデスク前に立たされたくみは蚊の鳴くような声ですみません、と呟いた。


「すみませんじゃねえだろ。どうすればいいか答えろよ。給料泥棒」

「……」

「いいよなぁ、黙ってても給料もらえて。お前あれだろ? 仕事なめてんだろ?」

「……」

「お前、女のくせに女が好きなんだってな。知り合いから聞いたぞ」


 くみの肩が跳ねた。が、彼女は何も言わない。調子づいた部長は彼女を刺す言葉をわざと選んで吐き出していく。


「別にいいけどな、マイノリティ側にいるんだったら余計仕事は頑張んなきゃならないんじゃねえか? だから差別されるんだよ。同じ性癖のやつだってお前と一緒にされたくないだろうにな。生きてて恥ずかしいと思わねえのか」

「部長」


 突然割り込んできたわたしにくみは驚いたように目を開く。柴犬がびっくりしてる、と思いながらわたしは部長に伝票を手渡した。


「この伝票、確認してもらってもいいっすか」


 部長は舌打ちをした後、しぶしぶ伝票を受け取った。直後、いいことを思いついたとばかりに口角を上げる。


「なぁ、鈴本。お前はどう思う?」

「なにがっすか」

「女のくせに女が好きで、その上仕事もできねえ新人」


 わたしは怯えるくみを見た。女なのに女が好きなこと。仕事ができないこと。本人にとっては重大なことなのだろう。でもわたしにとっては。


「どうでも良くないすか?」


 部長はわたしを睨み、くみはわたしを見上げる。


「いまどき同性愛とか珍しくないですし、性癖と仕事に因果関係ってあります? 三宗さん、確かに仕事遅いっすけど新人なんてそんなもんでしょ。いちいち怒ってたらキリがない。部長の時間が無駄になるだけっす」


 伝票確認終わったら回してください、と言ってわたしは自分のデスクに戻った。

 なんであの時、くみを庇ったんだろうと不思議に思う。いつもだったら放っておくのにあの時だけ、庇ってしまった。性癖のことで彼女が責められていたからだろうか。もしかすると同性愛という受け入れられるべき性癖で誰かが責められているのを見たくなかったからかもしれない。同性愛すら受け入れられないなら、わたしはどうなるんだ? 二次元のアニメキャラにしか興奮できないわたしは非国民かなにかか? せめてそのくらい認めてやれよ。人間が人間を好きになってるんだからわたしよりははるかにマシだろ。

 まさかそんなセンチメンタルな理由で誰かを庇うなんてと思ったが、それ以上は考えないようにした。




  ◇




 その一ヶ月後、くみは会社を辞めた。転職先が決まったのだという。彼女は会社を辞める直前にわたしをバーに誘い、カクテルを片手にこう言った。


「嬉しかったです。あの時、鈴本さんが守ってくれて。好きだなと思いました」


 雰囲気のいい淡い間接照明。カウンターの、一本脚の丸椅子に並んで腰掛け、熱っぽい目でわたしを見るくみ。


「好きなんです。鈴本さんのこと。それだけ伝えたくて」


 くみはグッとカクテルを煽った。グラスの淵には赤いグロスがべったりこびりついている。くみもちゃんと人間だ、と思った。くみはいい子だ。後輩として嫌いではない。でも彼女は人間だから好きにはなれない。


「わたしと付き合いたいってこと?」

「……可能なら」

「付き合うだけならできるけど、わたし三宗さんのこと一生好きにはならないよ」

「え?」


 わたしは自分の性癖を説明した。くみが同じ職場に居続けるなら隠し通したけれど、いなくなるのだからいいだろうと判断してのことだった。自分以外の菌が無理だから、付き合っても接触はできないと思うということまで告げた。くみは息を呑んだが、顎に手をあて思案すると


「エッフェル塔と結婚した人、いましたよね」


 と呟いた。わたしの口からはぁ? と怪訝な声が漏れる。


「無生物しか愛せない女性のことです。確かその人、エッフェル塔と結婚したんですよ。そう考えるとエッフェル塔よりはわたし、鈴本さんの理想に近いと思います。人間の形してますし、女だし、今は無理でも可能性はゼロじゃない」

「いや、ゼロでしょ」

「一緒に暮らしてみましょう。そしたら何か変わるかも」


 くみの目はきらきらと輝いていた。まだ見ぬ未来への希望を感じいきいきとしている。

 断るべきだった。でも思わず信じたくなってしまった。

 くみと暮らせばわたしでも、人並みの恋愛ができるようになるのだろうか。そうしたら人と違うことに悩まなくてもいい。わたしにも人間の恋人がいるんです、と大手を振って宣言できる。くみの菌に耐えられるかは心配だったが、部屋を別にすればなんとかなりそうな気がした。

 なんて素晴らしい未来だろう。わたしはくみからの提案に頷いた。




  ◇




 あれからくみと暮らし始めて一年が経つ。くみの菌が嫌になる時は自室に引っ込み、気にならない時はリビングで二人で過ごしている。けれどわたしはまだくみのことを好きになれない。それに引き換え相変わらずくみはわたしのことが好きだった。手を繋がなくてもキスをしなくてもくみはわたしのことを好きでいてくれる。ここまで慕ってくれている彼女のことを嫌いにはなれず、なんとかしなければと思っているうち、さらに悪いことにわたしはVtuberという限りなく理想に近い虚構と出会ってしまった。


 今までずっと、好きになるのはアニメのキャラクターばかりだった。アニメのキャラクターには菌がない。清廉潔白でスキャンダルとも無縁。けれどアニメのキャラクターはアニメで開示される以外の情報をもたない。彼らが普段何を食べ、何を考え、何時に寝て起きて、何にときめくのか、こちらの想像で補うしかない。ようは生きていないのだ。生きてないから理想のまま、そこから一歩も動かない。眺めることはできても交流はできない。言葉を交わすこともない。


 でもVtuberは違う。

 彼らはちゃんと生きている。日々新しい情報が更新される。交流もできる。彼らがくしゃみをしても飛沫は飛ばない、ウィルスが霧散することはない。

 彼らはわたしの理想だった。まひるというVtuberは特にわたしの好みドンピシャで、わたしはくみに隠れてこそこそとパソコンの電源をつけては彼女へ会いに行き、愛の名のもとに彼女へ銭を投げた。


 ああ、まひる。

 まひるはわたしの一番の彼女だ。

 まひると結婚したい。まひると同じバーチャルの世界に行きたい。なんでわたしはこっち側にいるんだろう。肉体なんて存在しない、余計な菌もぬくもりもない世界でまひると交わりながら生きてみたい。


 その日、わたしはよりまひるを堪能したくていつもはしないヘッドフォンをして彼女の配信を食い入るように見つめていた。


 どのくらいそうしていただろう。まひるが可愛らしい歌声を披露し始めたので本日二度目となるスパチャを投げようとした時、ヘッドフォンが外された。まひるの声が遠ざかり、無音になったことに驚いて顔を上げる。くみがいた。手にはわたしがつけていたヘッドフォンが握られている。


「……おかえり」

「ただいま。なんでこんな早くに帰ってきたんだろうって思ってる? ごめんね、嘘ついたの。今日、本当は夜勤なんかないんだ。普通に日勤」

「そうなんだ」

「ずっと気になってたの。すみれさん、わたしに隠れてなんかしてるなって。すみれさんに限って浮気はないから考えすぎかなと思ってたんだけど、そっか。こういうことか」


 くみは画面に映ったまひるを見た。まひるはご機嫌で歌っている。くみは乾いた目でまひるを見ている。


「これって浮気だよね?」

「浮気なのかな」

「だってすみれさん、この人のこと好きなんでしょ?」

「でもくみと一緒に暮らしてるよ」

「だったら聞くけど、わたしとこの人、どっちが好き?」


 わたしは何も言えなかった。

 くみより圧倒的にまひるのほうが好きだ。まひるが一番、くみは二番。くみには二番目で我慢してほしい。わたしからしたら二番目に生きた人間を据えるだけでも大変なのに、一番になることを求めないでほしい。


 わたしが黙っているとくみはくしゃりと頬を歪め、裏切られたみたいな顔をして部屋を出ていった。バタン、と玄関扉が閉まる音がした。もう帰ってこないかもしれない。


 わたしはくみに奪われたヘッドフォンを耳にかけ直し、まひるの声を聞いた。

 でもなぜだか集中できない。ヘッドフォンにくみの菌がついている気がするからかもしれない。どうしてこうなったんだっけ。なにが間違っているんだっけ。どこからやり直せばいいんだっけ。

 多分、やり直すなら最初からだ、と母の子宮にいた時のことに思いを馳せる。きっとあの時、わたしは当たり前のように誰かを好きになる未来を思い描いていた。手を繋いだり抱きしめ合ったり結婚したり子どもができたり、ありふれた幸せを享受する人間になれると思っていた。でも違った。どれだけくみがわたしを好きでもくみが人間であるというだけでわたしはくみを好きにはなれない。好きになりたいのに、好きになれない。


 人間を好きになれないならいっそ、わたしもエッフェル塔と結婚すればいいのだろうか。そうすれば幸せになれるのかもしれない、とまひるの配信を聞きながら別窓でエッフェル塔と結婚した女性のその後を調べる。


 エッフェル塔と女性は離婚していた。ハハッ、と乾いた笑いが口から漏れる。

 エッフェル塔でダメならわたしは無理だ。完全に詰んだ。これはもう、あれだ。なんだったかな。人が全てを諦めた時に使う言葉。関西人がよく使う、さっぱりしているのにどこか哀愁が漂う言葉。そうだ、思い出した。

 ふう、と息を吐き椅子に深くもたれかかって一人呟く。


 しゃーない。



                (了)

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二番目の彼女 岩月すみか @iwatsuki_kisaragi

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