10.数字の羅列

 その日の夜、ミラは闇から逃れるように頭から毛布を被り、自室のベッドの上で体を震わせていた。

 眠れるはずがなかった。

 ミラは年端も行かぬ子どもではない。独り立ちしていてもおかしくない年齢だ。まさか、魔族が登場するおとぎ話を思い出して怯えているわけではない。

 もっと具体的で恐ろしいものを想像すると、汗が止まらなくなった。

 窓の外で葉がざわめいている。それは、殺気立つ施設長の怒声のように聞こえた。

 自室の戸がかたかたと鳴っている。それは、毒を準備してやってきた司教の足音のように聞こえた。


 ミラとアルネブの会話を聞いたニハルは、何を施設長に伝えたのだろう。

 この耳について喋っただろうか。廃教会の魔女の話はしただろうか。

 施設長や司教はその話をどこまで信じているのか……。


 一睡もできず、日の出の時間を迎えた。朝の聖歌を歌い終えると、子どもたちがわらわらとミラの元へ集まって来た。顔色の悪い彼を心配してのことだった。



 それから数日。空には爪の先ほどの月が昇っていた。

 ミラは、夜の街を訪れていた。道には人が多く賑やかだ。夜食を売りに来た商人たちが家の窓を叩くと、中から子どもの手が伸びた。


「毎度あり!」


 商人がそう言ったのが、はっきりと聞こえた。窓が閉ざれた家の中から笑い声が漏れた。無論、口を利いてはならないとされている時間である。民衆のあまりの信仰心の薄さに、眩暈がしそうだった。

 ちりんちりんと鈴の音が鳴って、ミラは足元を見下ろす。痩せこけた少女が道端に座っていた。ミラは食糧庫からくすねたパンを取り出して一つ与え、「ありがとう」という言葉を聞き流し、音で溢れる街を立ち去った。


 廃教会へ踏み入れる。シリウスはうつ伏せになって、礼拝堂の床に何かを書きつけていた。彼女は度々、チョークを手に床に這いつくばることがある。

 以前、床に書き綴ったこの見慣れぬ文字は一体何かと尋ねたことがある。彼女は、数字の羅列だと教えてくれた。魔族の占いのようなものをしているそうだ。天候や、星の動きも予測できるという。


 ミラに気がつくと、彼女は手を止めた。ゆっくりと這って足元まで来たが、怯えたように窓の外を見上げる。月が浮かんでいるからだ。月の光は太陽の光を反したもの。今宵の月光はささやかではあるが、弱りきった魔女には障る。


「お兄様、光が怖い……」


 ミラはぶるぶると震える彼女を抱きしめ、アルネブ、そしてプロキオンの話を聞かせた。


『シリウス、よく聞いてほしい。ぼくは近いうち殺されるかもしれない。きみもどうなるかわからない』


「……」


 彼女は戸惑いを浮かべ、そして顔を伏せた。

 しかし次に顔を上げた時、その目には航海士を導く星のような輝きが灯っていたのだった。



 空が白み始め、子どもたちは客室のドアを叩いた。

 今日は待ちに待った殉教じゅんきょうの祭日だ。昨晩からこの施設に泊まっている司祭を起こしにやってきたのだった。

 司祭が準備を済ますと、みなで廊下を移動した。子どもたちは戒律を守って唇代語しんだいごを使っているが、口元がにやにやと緩んでいる。

 特別な日だ。教会の計らいで、普段は食べられないような食事も用意される。


 飾りつけを済ませた礼拝室に入るや否や、子どもたちはぎゃあっと悲鳴を上げた。祭壇の前にミラが倒れていたからだ。右足があらぬ方向に曲がっている。


「ま、魔族の呪いだっ!」


 規律を破ってニハルが叫ぶ。すると子どもたちは火が付いたように泣き喚いた。何事かとプロキオンが駆け付け、彼らをなだめる。


『何があった』


 血相を変えた司祭が、ミラの傍らに膝をつき唇代語を使った。応えるために、ミラは泥で汚れた両手を出す。


『魔族にやられました。おそらく、殺されたアルネブの復讐でございます』


 司祭とプロキオンが青い顔を見合わせる。


『夜中、目が覚めると、私は外におりました。決して近寄ってはならないと言われている、あの廃村です。私を抱えて走る者に、おまえは誰かと尋ねると、魔族だとはっきり答えました。そして崩れた教会まで連れて行かれたのです。足をやられましたが、雲間から月の光が差しこみ、やつらが怯んだ隙に命からがら逃げ出したのです』


 ミラはむせ、その場で嘔吐した。プロキオンが手を伸ばしたが、遮って続ける。


『夜になれば魔女が施設ここへ来るとも限りません。すぐにでも魔女を討ちましょう。司祭様、プロキオン様……!』


 唸るような次期施設長の言葉に、子どもたちが再び叫んだ。

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