4.歌声

 林を抜けると、街がよく見下ろせた。ミラは道の悪い斜面を注意深く下りていき、息を押し殺したような夜の街に滑り込む。

 普段ならば――月の出ている夜ならば――、諦めの悪いまだ商人が家々の窓を叩いているような時刻である。

 しかし今、明かりを灯す家は一件も無く、出歩くのは痩せた猫のみだった。


「――よお」


 後ろから肩をつかまれ、強引に身体を引き戻された。


「呼んでいるんだから、挨拶ぐらいしようや」


 いつの間にか、背後に三人の大柄な男たちがいた。にたにたした、品の無い笑みがランタンの灯に照らされている。

 このごろつきたちも赤ん坊の頃に洗礼を済ませ、「信者」という肩書を与えられたのだろう。しかし信心の有無は尋ねるだけ無駄だ。

 伝わらないだろうと思いながらも、ミラは諸手もろてを出し、彼らに向けて動かしてみる。


『あいにく、金目の物は、何も持っていない』


 彼らがろくに唇代語しんだいごを扱えないからといって、信者同士とあっては夜間に口を利くことはできない。

 ミラは相手の反応を待つふりをして、汗の滲んだ手をマントにしのばせた。穏やかなやり取り以外がいいなら、ちょうどふところにナイフを忍ばせてある。しかし体格のいい男たちのほうが刃物の扱いは一枚上手だろう。


「なあに、おまえさんのその身体さえ差し出してくれればいいのさ」

「……!」


 ――まさか、唇代語が通じるとは。

 目を見開いたミラを男たちが覗き込んで笑う。舐めるような視線を浴び、顔がひきつる。


「へえ、かわいい顔をしているじゃないか。声を上げずに朝を迎えられるよう、神に祈るんだな。……あ、ああっ!?」


 ミラの金色の髪に手を伸ばそうとした男たちは突然威勢を失くし、しゃがみ込んで頭を抱えてしまった。


「まただ、これは一体何なんだ、クソッ……!」


 うめきながら、三人とも路の上に倒れ込む。ミラは下衆たちの顔へランタンを差し向けた。全員が赤子のような安らかな寝息を立てている。

 狭い路を塞ぐ男たちの身体をまたぐ。不快にさせた報いとして蹴り飛ばしてやりたいところだが、他者への暴力は神の教えに反する。

――まだ凍死するような季節ではないことを幸いに思え。

 心の中で毒づき、その場を離れた。はなは止まらなくなるだろうが、きっと死ぬことはない。

 ミラは、街の中心を走る大通りは辿らず、脇道に逸れてさらに進む。しばらく行くち、家屋の並びも途切れた。舗装されていない土の上を一人歩んでいく。




 ようやく目的地に到着した。かつては村があったとされる場所だ。魔族狩りが盛んだった頃にこの村も襲われ、教会までもが狙われて半壊になった。


 瓦礫がれき同然の家屋の間を縫うようにして、廃村の中心の広場へ出る。

 体当たりすれば崩れ落ちそうな教会の中から歌が聞こえてくる。今、世間を騒がせているという、異国の聖歌隊をも凌駕するのではないかというほどの美しい歌声だ。

 しかし、聞こえてくるのは劇場ではなく、近づくのも躊躇ためらうような廃教会。ただただ不気味なだけである。


 ミラは扉を腕で押した。ほとんど壊れた扉だった。風さえろくに防げない。

 蝶番ちょうつがいが鳴る。小動物が絶命する時のような音に反応したのか、歌はぴたりと止んだ。

 説教台の向こうで影が動いた。暗闇の中に小さな赤い光が二つ、と浮かぶ。


『――シリウス』


 ミラは、唇代語しんだいごで彼女の名を呼んだ。


 掲げたランタンの灯が礼拝堂の中を照らし、彼女の両目をさらに赤く光らせた。

 枝のような両腕を使って、彼女がゆっくりとい寄ってくる。膝より下は腕よりもさらに細く、変色してひしゃげている。体躯たいくはあと数年で成人として扱われるミラの半分くらい。

 一見すると子どものようだが、肌は干からび、老婆のようにしわだらけ。身長よりも長く伸びた黒い髪は、指を絡めれば音を立てて切れてしまいそうだ。


 ミラは彼女の前でひざをつき、飲み水の入った革袋やパンや芋を鞄から取り出した。


「ありがとう、お兄様」


 彼女は美しい声で礼を言い、口の両端をぎこちなく引き上げた。微笑んだのだ。

 そして飢えた野犬のように、ミラの与えた食料をむさぼった。

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