9.最期
アルネブに邪魔をされ後れを取ったものの、今宵も奇妙な行進を無事に終えた。
ミラは小さな魔女を廃墟の中にかくまう。
窓の外を吹く風の音が聞き取れるようになっていた。次にここを訪れる日までは、この聴力も保たれるだろう。子どもたちの質問に耳を傾けるくらいはできるはず。再びアルネブのような勘の鋭い新参者が訪れても、きっと出し抜くことができる。
「お兄様、ごめんなさい。私の力が及ばぬばかりに……」
十分に聴力を回復させられないことを、シリウスは横たわりながら詫びた。ミラは微笑み、首を振る。
『謝らないでおくれ』
彼女を寝かしつけ廃教会を出る。
満天の星を見上げた。耳を澄ませば星の囁きすら聞こえてきそうだった。
実の母も、どこか遠い地で同じ星空を見上げているだろうか。次期施設長という座まで上り詰めた孤児はそんなことを思う。
母が自分を捨てた理由はきっと、息子の聴力の衰えに気付いたからだ。
だから、彼女を恨んでいない。これは、致し方の無いことだった。
昨今珍しいほどの厳格な規律を守り、唇代語の使用を徹底するあの施設であれば多少は生き延びるかもしれない。そう踏んで、母は自分を預けたのだ。
その胸にすがることはもうできないけれど、彼女の愛を確かに感じることができた。
あの施設で生きていくことこそ、母の愛を受け取った証。自由という幻想を追い求めて与えられた場所から出て行こうとは
立派な施設長となり、ともに暮らす子どもたちのために身を捧げて生きていくつもりだった。それが自分の天命だ。ミラはそう考えている。
シリウスさえいれば、聴力を失わずに済む。
もし彼女という存在に出会えずそのまま聴力を失っていれば、次期施設長を任されていなかった。
――それどころか……。
「妹」を見る度に思うことがあった。彼女はいつかの自分の姿だと。耳の衰えに気付かれれば、自分も虫の死骸のように捨てられるのだと。
ミラは人間で、シリウスのような魔族ではない。誰からも施しを受けず、喉を潤すこともできなければ数日たらずで死んでしまう。
ミラは身体を震わせた。
彼女を失うことなど、とても考えられない。
哀れな魔女を、シリウスを、愛おしいと思う。彼女の額にキスするときには自ずと、施設の子どもたち以上に心を込めてしまう。
しかし、愛情とは全く別の、神には決して見透かされたくないような感情が胸で渦を巻くのもまた事実だった。
*
人間の鼻と口を塞ぐのは、
ただし、相手が熟睡している子どもであれば話は別だ。枕か毛布で顔を覆ってやればいい。
ミラはアルネブの眠る客室へ向かった。間もなく地平線から太陽が顔を出す時間だ。手早く済ませなければならない。
身体がはち切れんばかりに脈が高鳴っていた。己の鼓動が周りに聞こえていないか不安になるほどだ。
部屋の中にしのび込み、水で濡れたように汗を掻く手を毛布に伸ばした。
「!」
つい、声を上げそうになった。
ベッドはもぬけの殻だった。
施設長のプロキオンは朝食の祈りの前に時間をとり、子どもたちを自分に注目させた。
彼女は食堂の中央に立ち、「アルネブは真夜中に息を引き取った」と、静かに知らせた。子どもたちはもちろん息をのみ、しばらく騒然となったが涙を流す者は一人もいなかった。
「彼は魔族の子どもだったのだ。しかし、私が始末した。安心するように」
施設長の「安心するように」という言葉に反し、全員が顔が凍りつかせた。一番顔を青ざめさせたのは、他でもないミラだ。
部屋を出て行く施設長の背を見送りながら、思い返すのは昨晩の出来事だった。
――魔女を殺そうよ。
ごっこ遊びに誘うときのような、純粋な瞳の持ち主は死んだという。
あの時の会話を、プロキオンに聞かれていたのだとしたら……。
「怖いよおーっ!」
わあっと激しい泣き声があがり、ミラは我に返った。魔族の話に怯え、顔をぐしゃぐしゃにさせているのはニハルだった。それを封切に、幼い子どもたちが次々に号泣し始める。
「まったく」
ミラは口角を無理やり持ち上げ、席を立った。
「施設長様が始末したとおっしゃったっだろう?」
動揺する子どもたちを落ち着かせ食事の介助をし、彼らに今日の動向を指示してから食堂を出た。駆け足で二階へ上がり、施設長の部屋のドアを叩く。
待っていたとばかりの咳払いが聞こえてきた。入室を許可されドアを開ける。彼女は落ち着いた様子で書き物机の前に腰かけていた。
日はとっくに顔を出している。しかしプロキオンは諸手をひらひらさせ『掛けたまえ』とミラに椅子をすすめてきた。
施設長が明るいうちから唇代語を使うのには、いくつか理由がある。一つは、患っている身体に負担を掛けないようにするため。
もう一つは、他人に聞かれてはならない話を伝えるため――。
『アルネブの――』
皺だらけの手が『アルネブ』と形作られるのを見た途端、ミラの腋はじっとりと湿った。
椅子をすすめられていたことも忘れ、ただ老女を見返す。
『アルネブの暮らしていた家の中でも魔術が使われた形跡が見つかったそうだ。母親は人間だったが、父親は魔族だった。すでに教会が討伐したはずの魔族だったのだ。これは由々しき事態だ。わかるな?』
――聞かれていなかった……!
昨晩のアルネブとの会話は聞かれていなかった。
安堵のあまり、ミラは瞼を一度強く閉じた。
彼女の耳に入っていたわけではなかったのだ。魔女狩りの誘い話が。廃教会の噂が。
ミラは静かに頷いて、再びプロキオンを見返した。
さも期待を集める次期施設長に求められるような、真面目な表情を作りながら。
「……魔族が生き残っていたとなれば、教会の威厳に関わります。信者たちの信心はより薄れるでしょう」
あの少年は、組織の力によって夜のうちに葬られた。ミラが施設を留守にしていた月の無い晩のうちに、だ。
中庭を駆ける子どもたちの笑い声が聞こえてきた。言いつけておいた作業にまだ取り掛かっていないようだ。後で叱らねばという思いと、今朝味わった恐怖心を払しょくできたことへの安堵がないまぜになる。
『人里離れた土地には、まだ魔族の残党がいるのさ……』
そう言うと彼女は手招きをしてきた。ミラは指示された通りに書き物机のすぐ正面まで歩み寄り、少し腰を折る。
金色の髪が掛かる耳を近づけると、彼女は口を開いた。
「おまえは昨夜、アルネブと話をしていたな」
悪魔のように低く、絡んだような声で彼女は訊いた。
「ニハルがそう言っていた。やつと何を話した?」
彼女の言葉を受け、ミラは数秒かけてゆっくりと姿勢を戻し、そして、左右の手を机の下に隠した。この指先の震えを見られるわけにはいかなかった。
プロキオンの目の奥が、怪しく光っている。ミラはしばらくの間、その双眸を見返し、やっと口を開いた。
「……お互いの身の上話を、少々交わしたまでです。彼は一度目を覚ましたあと、寝付けなくなってしまったようなので。そうですね、あとは、早く
目頭に手をやり、「弟のように可愛がってやるつもりでしたから」と言って話を締めた。
無論、哀れな少年を想って泣いているのではない。
決死の覚悟で嘘をつきながらプロキオンの顔を直視するなんて、不可能だった。
「……彼は最期に、何か言っていたでしょうか?」
念のため、聞いた。殺される前に、何か余計なことを言っていなかっただろうか。
耳について指摘してきた、あの身の程知らずは。魔女を殺そうと言ってきた大馬鹿者は。かけがえのない妹を葬り去ろうとした愚か者は――。
「何も……」
咳込みながら、事も無げに彼女は言った。
「やつは司祭に毒を盛られて、のんきに寝ているうちに死んだよ」
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