8.代償

――なぜ、と訊き返すミラの声が掠れる。


「今しがた、この部屋の前にチビが来たことにも気付かなかったじゃないか。小便が漏れる!って騒いでたぞ。そんなに耳が悪いんじゃあ、おめえさんは外に行けないはずだね」

「……チビというのは、ニハルのことだな?」


 全身の血が冷めていくのを感じながら、静かにき返す。


「チビの名前まで知らねえが、他の誰かに便所へ連れて行かれたみたいだよ」

「僕は、話し込んでいると周りの音が耳に入らなくなるたちなんだ」

「へえ、賢いやつは頭の作りがちげぇんだ。……そうだな、聞こえねえわけがねえな。聞こえなかったら、次期施設長にはなれねえ。とてもじゃねえが」


 アルネブは目を擦る。


「体が重いや……」


 唇の動きで、彼がそう呟いたのがわかった。だらりと前に倒れた身体が淡く光る。そのまま床に突っ伏してしまった。


「……」


 ミラは立ち上がり、すうすうと寝息を立てている彼の顔を見下ろした。片足を上げ、少年の日焼けした横面に自分の靴底を押しつける真似をし――、やめた。


 ミラは新参者を担ぎ、客室のベッドまで運んだ。

 自分の部屋に戻ろうとして気がつく。ニハルが階段にもたれて寝ていた。彼の小さな身体も発光している。魔女の歌が彼の耳に届いたせいだ。


 しかし、ミラには聞こえていなかった。

 ニハルの寝息も。幼子を寝かしつけてしまう魔女の歌も。中庭で葉が風に落とされる音も、何もかも――。


 聞こえにくくなったはずの耳の内側で、アルネブの声がよみがえる。


――そんなに耳が悪いんじゃあ、おまえさんは外に行けないはずだね。


 




 ミラがいつもより遅れてやってきたことを、シリウスは少しも責めなかった。それどころか、兄の身に何があったのかと不安で堪らず泣いていた。

 ミラは謝り、いつものように食事を与えると彼女を抱いて街を練り歩いた。


 歌唱するシリウスが呼び寄せる光をミラも浴びる。すると、彼女の歌が徐々にはっきりと認識できるようになっていく。失われつつあった聴覚が、いくらか回復してきたからだ。

 しかし、アルネブと交わした会話のせいで、彼女の美声に聴き入ることができない。


 シリウスは、血を分けた妹ではない。

 ミラが施設で暮らすようになって数年たった頃、門の前に捨てられていたのだ。

 施設長のプロキオンが真夜中に泣き声を聞きつけ、中庭で赤ん坊を発見した。しかし他の子どもたちにお披露目されることもなく、夜のうちにまた何処かへ捨てられてしまった。

 

 その当時、ミラはまだニハルのような幼い子どもだった。

 用を足すために寝室を抜け出していたミラは、マントを着こんだプロキオンが赤ん坊を抱いて施設を抜け出す様子を目撃していた。赤ん坊のように見えるは大きさも泣き声も人間そのものだったが、皮膚は皺だらけで、足は二本とも機能していないようだった。


 ――ただならぬことが起きた。

 暴れる心の臓がとび出してしまいそうで、口を押さえてベッドに潜り込んだが、一晩中寝付けなかった。

 しかし、次の日からは何一つ変わらない日常が訪れた。プロキオンは昨晩の出来事を子どもたちに話さなかった。平然と業務をこなす施設長の顔を盗み見ているうちに、あれは夢だったのではないか、と思うようになった。

 さらに次の晩、幼いミラはまた尿意を感じて部屋を恐る恐る抜け出した。

 何かがおかしい、という感覚に全身を舐められながら廊下を走る。不思議な夢を見たせいかもしれない。月の無い夜だったせいかもしれない。


 廊下の真ん中で、何かにつまづいた。転びこそしなかったが、ミラは自分の足にかかったものを確かめて、悲鳴を上げてしまった。

 口を両手で押さえつけ、暗闇に横たわる何かの正体をのぞく。

 横たわっていたのは、ともに施設で生活する友人だった。よく見れば、朝晩の聖歌を捧げる時のように身体が光を帯びている。


 大急ぎで施設長の部屋に向かう。入室の許可も取らずに中に飛び込むと、施設長も机に突っ伏していた。

 べそをかき、おろおろとしていると、どこからから女性の歌声が聞こえてきたのだ。


「……」


 その歌声に誘われるかのようにミラはランタンを持ち出して施設を出た。このようなこと、普段なら許されるはずがない。見つかれば尻を叩かれて物置小屋に丸一日閉じ込められてしまう。しかし、ミラは足を止めなかった。

 声の持ち主が助けてくれるのではないか……。幼心にそんなことを思い、飲み込まれそうなほど暗い林をひとり抜けた。


 街には誰の気配も無い。昼の明るい時間に訪れることは度々あったが、その時とはあまりにも様子が異なる。

 構っている暇も無しに急ぐ。細い道に差し掛かった。ここを抜ければ街から出ることになり、先には魔族狩りにあったという村の跡がある。「決して近づかないように」と言いつけられている場所だ。


 歌は、村の中央の廃教会の中から聞こえていた。

 躊躇わずにドアを開ける。舞った砂埃のせいで涙が出た。

 闇の中に目を凝らす。

 動物のような影が、説教台の前に一つあった。蝶番ちょうつがいの音に反応し、影がこちらを向く。


 歌が、止んだ。

 赤い目がぎらりと光り、ミラはその場で腰を抜かした。


「ひいっ……!」


――魔族だ。


 ミラはやっと理解した。

 昨晩、施設に捨てられていた赤ん坊は、魔族の子どもだったのだ。

 は腕を使い、床を這って近付いてくる。

 ここへ来てはならなかった。

 身をひるがえして逃げようとしたが思いきり転倒した。

 ミラの足をが掴んだ。


「殺さないで……っ!」


 声を上げた。

 半狂乱になりつつも、頭の片隅で禁忌を犯してしまったことに気がつく。しかし、ミラは何度も同じ言葉を叫んだ。


「殺さないで! 助けて! 助けてぇ……っ!!」


 掴まれた足をじたばたと振り回したが、魔族の子どもの手は離れてくれない。

 食べられる。そう覚悟した時、


「……水」


 と、その生き物は一言だけ呟いた。




 月の無い夜に施設を抜け出して魔女に会いに行くようになったのはそれからだ。

 彼女は「シリウス」と名乗った。魔族の子どもで、やはり施設長のプロキオンによってこの廃教会に捨てられたという。

 恐らく、プロキオンはこの赤ん坊が息絶えたと思っている。しかし彼女はミラによって一命をとりとめることができた。


 ミラが自分の耳に違和感を覚えたのは、それから数か月後のことだった。まず、小さな音や高い音が聞こえづらくなった。

 真っ先に相談したのはシリウスだった。プロキオンにこのことを知られれば、最悪の場合、施設を追い出される。廃教会に捨てられたシリウスと同じ目に遭わされるかもしれなかった。

 

 月の無い夜、シリウスは歌を奏でる。街中の子どもたちから「命のみなもと」、つまり生命力を奪うためだ。

 彼女の生命維持に、歌唱は欠かせないものだった。そして彼女はほどこしの代償として、ミラにも力を分け与えていた。


 そうすると、次期施設長であるミラの聴力は、幾ばくか回復するのだった。

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