7.噂

「次期施設長様は、個室なんて貰えるのかい?」

 アルネブは観光地にでも訪れたかのような顔でミラの部屋を見回している。

「明かりがついているから、もしかしたら起きているんじゃないかって思ったんだ。マントなんか出して、こんな夜に散歩に行くんか?」


 ミラは彼の腕を思いきり引き、部屋の中に入れてドアを閉ざした。身体から血の気が引いていく。


『喋るな!』


 顔を生白くさせたミラが咄嗟とっさに手の形を作ったのを見て、アルネブは笑ってみせる。


「もじもじされてもわかんねえって。異端者には特別に口を利いていいことになってんだろう? だから大丈夫さ。俺は、洗礼は受けたが、異端者みてえなもんだ。教会にだってほとんど行ったことはねえ」


 彼は自慢げに言うと、ミラのベッドにどっかりと腰を下ろした。


「……では、せめて声を潜めなさい」


 ミラは「ほつれていたから直そうとしただけ」と言い訳してマントを掛け直し、彼のすぐ隣に座る。


「若いのに、施設長なんてよくやろうと思ったなあ。おめえ、まだ身体が光んのか? いつこの施設に入った? その年齢になればもう光らないんだろ? 家に帰りたくなくなっちまったんか?」


 「どうして、どうして」と繰り返すニハルではないのだから……とつい苦笑した。


 しかし彼の抱く疑問はもっともだ。大っぴらに話したくはなかったが、ここで暮らせば、いつかはどこかのお調子者から「施設長様」の身の上話を耳に挟むことになる。人から人へ渡っていく噂話は、時として災いを招く。


「僕は元々身体が光らない。孤児だったから、帰る家も無い」

「孤児?」

「そうだ。この施設に捨てられ、施設長のプロキオン様に拾われた。三歳くらいの時だったと聞かされている」


 アルネブのように施設の子どもたちに囲まれながら、わんわんと泣き叫んでいた日の記憶がまだ薄っすらと残っている。


「捨てた親のことは憎らしいだろう?」


 まさか、とミラは即答する。


「きっと何か事情あったんだ。母だって心苦しかったはず……」


 母は自分を愛していた。

 ミラには確信があった。そうでなければ腕に抱いて歌を歌ってやろうだなんて思わない。


「でもよぉ、出て行きたいとは思わないのかい、こんなところ。おめえさんは柵の中で生まれて死ぬ家畜とは違うだろう」


 家畜に例えられたのは初めてだった。

 彼の生まれ育ったという土地の景色を思い浮かべる。どこまでも広がる草原に、自由に草をむ動物たち。人里離れた施設で子守をする己より、家畜らのほうがよほど自由を謳歌している。

 ミラは「ぼくは自由というものに興味が無いんだ」と苦笑した。

 自由に心惹かれない。それは、次期施設長を期待されている少年の本心だった。


「珍しいやつだなあ!」


 アルネブが屈託なく笑う。喋っているうちに、彼は声を潜めるのをすっかり忘れている。


「さあ、いい加減に寝なさい。日の出の前には叩き起こすからね」


 次期施設長然として諭したが、方便だった。

 月の無い夜だ。今すぐにでも向かわねばならない場所がある。こうして話に花を咲かせている暇は無い。ぐずぐずしていると夜が明けてしまう。


「……べつに、俺はお喋りがしたかったわけじゃねえ」


 アルネブはドアのほうを見やり、きちんと声を潜め、ミラの耳元で囁いた。


「なあ、偵察に行かねえか? 街の外れにある廃墟の中に」


 石を投げ込まれた湖のように、胸が大きく波打った。その波紋はミラの指先にまで伝わり、小刻みに震えさせる。

 アルネブはミラの様子に気がつかず、鼻息を荒くして続けた。


「ここに来る途中、妙な噂を聞いたんだ。廃村があるんだが、誰も近付こうとしない。まともな奴らはもちろん、ごろつきさえもだ。面白半分で行った奴ら全員、二度と帰ってこなかったって。……だから、そこには魔女がいるって、みんなびびっちまってんだ」

「――魔女などいない!」


 つい、声を張った。


唇代語しんだいごは知らなくとも、魔族狩りの話は耳にしているだろう。教会によって、奴らは一人残らず狩り尽くされたのだよ」


 唇代語しんだいごは、魔族から身を守るための手段だった。

 太陽を嫌う魔族たちは、夜に活動する。夜な夜な妖しげな歌を歌い、その歌は子どもの命を奪う。夜の街を徘徊する魔族に気付かれぬよう、言葉を発する代わりに手や指で情報を伝達するようになった。

 それが唇代語の起源だ。


 しかし、魔族は教会によって討伐された。

 今しがた「魔女がいる」と発言したアルネブは、教会への不敬により絞首刑にされてもおかしくはない。


「俺はそうは思わねえ。みんな、まだ月の無い夜に怯えてるじゃないか」

「古くからのしきたりがそうさせるんだ」

「今日みたいに月の出ない夜、魔法にかかったみたいに寝ちまうことがあるだろう。俺は、魔族のせいだと思ってる。廃墟にはきっと、生き残りの魔女がいるんだ。魔女を殺そうよ。そうしたらみんな安心して月の無い夜を過ごせる。俺たちは英雄になれるんだ。教会や城に招待されて美味いもんが喰えるかもしれない。それに、俺は思うんだ。魔女はもういないってみんなが信じれば、面倒な唇代語しんだいごだって使わずに済むって。……でも、今晩は無理だな」


 彼は突然威勢を失って、喉の奥までのぞけそうな大きな欠伸あくびをした。とろんとした目を、きちんと閉ざされた窓に向ける。


「ほら、またあの歌が聞こえてきた……」

「……おまえには聞こえているのか?」

「ああ。この歌が聞こえると、眠くなってしょうがない。俺の母親なんて、この歌が聴こえた途端、老いのせいでもあるのか、吹矢で打たれたみたいに床に倒れちまう……」

「眠いのなら、部屋に戻りなさい」

「うん……」


 アルネブは渋々といった様子で立ち上がる。そのまま出て行くかと思ったが、ドアの前で足を止めた。


「なあ、おめえさんは――」


 彼は、ゆっくり振り返る。


「もしかして、耳が聞こえないのかい?」


「――!」


 井戸に張った氷を喉に詰められたように息が止まる。

 ミラはあどけなさを残す少年をただ見返した。

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