12.ミラ

 太陽が月に隠されたのは、自然現象であった。

 シリウスは魔術など何一つ使っていない。しかし彼女の目論見通り、みなが魔族の力で太陽が隠されたと信じきっている。


 この隙に、ミラはシリウスをくるんでいたマントを剥ぎとった。薄暗闇の中の赤い目が鈍く輝く。もうじき逝く星のように力が無い。

 ミラが抱きかかえると、彼女は喉を開けた。

 その歌声を聴いた途端、誰もが吸い寄せられたように地面に倒れ込む。子どもたちの身体が光りだす。


「……!」


 ミラは息を呑んだ。

 光っているのは子どもだけではなかったのだ。よく見れば大人たちの身体も淡く発光していた。シリウスは大人たちからも生命力を抜き出し、我が物にするつもりらしかった。


 光はシリウスの元に集まってくる。いつもよりも強い光に目も開けられなくなる。隠されたはずの太陽がミラの腕の中に落ちたかのようだった。


――もう一度、魔族に対する畏怖の念を抱かせるのです。


 シリウスの言葉だった。

 ミラの足にわざと怪我を負わせ、魔族の仕業だと言い張る。魔族を討伐するようにとみなを扇動し、廃教会に集める。魔女退治に失敗させれば、人間は魔族には敵わないのだと知らしめることができる……。


 縋るように小さな身体を抱きしめる。


 彼女がいなかったら、ミラはとても生きていけなかった。母がこの施設を選んでくれなかったら。プロキオンが信心に基づく慈愛を持ち合わせていなかったら……。


 物を乞うために鈴を鳴らす子どもたちは、冬になると死体として道端に転がる。大きな屋敷には、ほとんど日の目を見たことの無い子どもたちが隠されているという。シリウスは、ごみのように廃村に棄てられた。


 彼らと自分の違いを考える機会は、頻繁にあった。しかし、何度考えてもみても、必ず一つの結論にのみたどりつく。


 自分たちは、何も違わないのだ。

 身体に抱える秘密が暴かれ、家畜以下の扱いを受けることになっても、何ら不思議なことではないのだ――。


 シリウスの歌と同時に、光も止む。

 誰かに見られていないうちに、またこの魔女をかくまう必要がある。

 廃教会へはもう戻れないが、次の住処はもう決めていた。ミラの部屋だ。施設の内部に、それも次期施設長の部屋に魔族が潜んでいるとは、誰も思わないだろう。


 シリウスを腕に抱き、右足の激痛に耐えながら立ち上がったミラの脚を誰かが強くつかむ。

 息を呑んだ。

 見知らぬ老婆に足を掴まれた。ミラはそう思った。しかし老いた女の正体に気がつき、目を剥く。

 脚を掴んだのは、施設長のプロキオンだった。起き上がる力が無いのか、脚の悪いシリウスを真似るように地べたに這いつくばっている。

 「昔は美しかった」。そう噂されていた施設長の顔は、さらに十も二十も月日を重ねた老婆のようにたるみ、しみを濃く浮き上がらせている。墓から出てきた屍のようにも思えた。


「シ、リウス……。ミラを、おまえのところに、寄越した恩を、わ、忘れたか……!」


 子どもの扱う唇代語しんだいごのようにたどたどしく、プロキオンはひび割れた口で訴えた。

 彼女の言葉を聞いた途端、シリウスの、花弁にも似た美しい唇がねじ曲がる。


「――おまえのような老いぼれになど、もう用は無い」


 歌声からは想像できないような低い声だった。

 おぞましさにミラは思わずシリウスから手を離す。シリウスは地面に顔を打ち付けたが、悲鳴も上げず、けらけらと笑い身体をひくつかせた。


「今日まで生きながらえたことを、この私に感謝するのだな。出来損ないのおまえたちの神より先に」


 彼女は地面に額を擦りつけるようにして笑い続けている。

 その姿は「魔女」としか呼べなかった。


 生きる屍と化したプロキオンは、むせながら自分の胸をむしっている。激しく咳込むと口から大量の血が吐き出された。骨に皮がぶら下がったような手をミラの顔の前に差し出す。


『おい。おまえ、耳が、聞こえにくい、だろう』


 口の利けなくなったプロキオンの唇代語に、ミラはさらに目を見開く。そして自分の左右の耳を手で隠した。


『私を……、私の手を、よく見なさい。……元々、耳が聞こえなかったのは、おまえではない。この、魔女のほうだ。長い時間をかけて、おまえの耳から、聴力を奪っていたのだ』


 彼女は再び血反吐をまき散らす。ミラの膝が鮮やかな赤に濡れた。


『奪った聴力を、おまえにほんの少しだけ返していくことにより、長い間、おまえを、あざむいていたのだよ』


 それだけ告げると、彼女はとうとう、うつ伏せになって倒れた。

 死体ができあがると同時に、シリウスの笑い声が甲高く響く。


「どうして……」


 プロキオンの話はにわかに信じられるものではなかった。しかし脚の力が抜けてしまい、ミラはその場に頽れる。


 どうして、シリウスとあなたはお互いに知り合っているのです。

 どうして、あなたはシリウスの元に僕をよこしたのです。

 どうして、シリウスは僕から聴力を奪ったのです。


 どうして、どうして、どうして……。


 問い詰めたいことは山ほどあったが施設長はすでにこと切れている。


「僕の耳に問題が無かったのだとしたら、どうして……」


 最大の疑問が口をつく。

 


 ――母はどうして、僕を捨てたのです。



 月に隠れていた太陽が、完全に顔を出した。昼が戻る。雲も減っていた。すっかり威勢を取り戻したと言わんばかりの日差しが頭に降り注ぐ。


 月の作る暗闇は一日中続く。シリウスはそう言っていたはずなのに、どうして。


「シリウス……」


 彼女を守らなければ。

 ミラは咄嗟にそう考えた。魔族がこの光に曝されれば、地べたを這うことすらできなくなる。

 プロキオンの言っていた言葉を認めるわけにはいかない。確かに、母は自分を捨てた。愛ゆえにだ。他に理由があるはずない。


「シリウス」


 子どもが母親に縋るように、ミラもまた彼女の身体を揺らす。

 しかし次の瞬間に、ミラは何者かの手に後頭部を押さえつけられ、プロキオンの亡骸なきがらの上に倒された。

 押さえつけたのは、いつの間にか背後に回っていたシリウスだった。枝のような腕からは到底想像できないような力だ。

 シリウスは一度ミラから離れると、今度は折れている右足を諸手もろてで掴み、そして――洗濯物を絞るように捻じり上げた。

 少年の絶叫と魔女の笑い声が天まで響く。


「うふ、うふふ……、うふふふふふふ……」


 シリウスは楽しげに歌いながら立ち上がった。服の裾から脚がのぞいている。血の通っている様子の無い脚で器用に歩き回り、寝ている者たちを蹴り飛ばし、踏みつけていく。


「人間というものは、すぐ騙されてくれる。ほんの少し笑いかけてやれば、すぐに命を差し出してくれる……。ああ、なんと健気なことよ……」


 ミラはもう一度彼女を呼んだ。

 美しい少女は立ち止まってこちらを振り返り、愛らしく微笑む。そして、かろやかに走り去っていった。


 遠くで笑い声が聞こえた。

 聞こえた気がしただけだ。

 シリウスの姿が見えなくなると、どのような音もミラの耳にはもう届かなくなっていた。





 プロキオンの葬儀がしめやかに執り行われると、彼女の遺言通りに次の施設長が就任した。

 今回の魔女の出現を噂したり、著述したりする者は、漏れなく絞首刑に処されることが決まった。

 また、プロキオンの管理していた施設で、規律の厳格化が速やかに進められた。

 信者は一切の発語を禁じられたのである。

 




 豆の収穫の手伝いを終えた子どもたちが、畑の端で遊びまわっている。女児たちはままごと遊びをし、男児たちは蝶を見つけて追いかけてく。

 そろそろ母屋へ戻って昼食を済ませようかという時だった。花を摘むのに夢中になっていた少女が手を止め、『どうして、施設長様の体は、光らないの?』と尋ねた。

 子どもの問いかけは流れ星のようだ。思いがけない時に、思いがけない方角から光を放つ。星芒せいぼうを見つけた時に口にする言葉は、常に心の中に要しておかなければならないが、それは大人であっても容易ではない。


 椅子に掛け日光浴をしていた施設長は、皺だらけの両手を少女の前に差し出した。


『私は、呪われていないからです』


『おそろしい魔族は、まだ、どこかにいるの?』


『いますよ』


 彼はゆっくりと頷き、少女の頬についた土を払ってやった。


『私たちそれぞれの、心の中に』


 足元に咲く春の花たちが風に揺れている。月の無い今日の夜を思い、老いた施設長は鼻歌を歌う。


 異国の歌で、歌詞の意味を彼は知らない。





「シリウスが笑う夜」了

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【短編】シリウスが笑う夜 ばやし せいず @bayashiseizu

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