2.唇代語

 子どもたちからの問いかけは流れ星のようだ。

 窓から身を乗り出して今か今かと待ち構えていても、星芒せいぼうはなかなかやってきてくれない。待ちくたびれ、諦めてそろそろとこに就こうかという時になってやっと、思いがけない方向から姿を現す。夜空を爪の先でいたような輝きをちらつかせるのだ。


――施設の塀の中では、今日も星が流れた。


『どうして、ミラ様、光らない?』


 日の入りはとうに過ぎ、空には夜のとばりが下りている。月は無い。

 暗い回廊を歩きながら、六歳のニハルが小さな手をたどたどしく動かしてミラにいた。

 彼は先日この施設にやってきた男の子だ。毎晩、寝しなになると用足しに行きたいと訴える。それにつき合うのが、最年長者のミラの日課だった。


『どうして、光らないの』


 しつこく質問を繰り返すニハルの隣にいたメシエが、出し抜けで不躾けな問いに眉をひそめる。彼女のほうは、この施設へやってきてもう七年になる。ミラに次ぐ年長者だ。しかし、明日の朝には施設ここを去ることが決まっている。


『僕の、体は、呪われていない、から』


 ミラは、ランタンをげていないほうの手を、自分の整った顔の前で動かす。

 ゆっくりと、おおおげさに。

 唇代語しんだいごを学び始めたばかりの幼児、ニハルでも理解できるようにするためだ。


『どうして、ミラ様、呪われていない? どうして、ぼく、呪われている? どうして、魔族、ぼくたち、呪った?』


 今日の読み書きの授業では、質問なんて一切せずに黙りこくっていたくせに。

 そう思うと、ミラの薔薇のような色の口元に自然と笑みがこぼれた。「わからない」、または「また今度」という意味で首を横に振る。


『どうして……』

『――ニハル、もうやめなさい』


 メシエが同じく手を動かし、唇代語しんだいごで制止する。

 眠気のあまり目をとろんとさせたニハルは、それ以上『どうして』を繰り返さなかった。



 宵闇よいやみに怯えながらも用足しを終えたニハルの手を引き、三人で回廊を戻る。

 ままごと遊びでは物足りない施設の女児たちは、弟分のニハルを世話したがった。しかし彼はお姉さんたちではなく、ミラにべったりだ。ミラでなければ用足しを手伝うのを嫌がる。喧嘩でもしてへそを曲げれば、ミラがどんなに忙しくてもダニのように引っ付いてくる。

 甘えん坊のニハルの実家には、十七歳になる兄がいるという。年頃の近いミラと背格好が似ていて懐かしくなるのだろう。聞けば彼の兄もミラと同じ黄金色の髪の毛をなびかせていたらしい。新参者のニハルを、ミラはもうしばらくは甘えさせてやるつもりだった。


 寝支度を整えた子どもたちがそれぞれの寝室に向かうために回廊を行き交っている。ミラたちに気が付くと、両手で目を覆うような仕草を見せ前を通り過ぎていく。

 手の示す意味は、『おやすみなさい』。

 ニハルとメシエ、そしてミラも、彼らに同じ仕草で返した。


『おい、ニハル。また寝小便でもしたのか?』


 施設一のお調子者が、わざわざ足を止めてからかってくる。

 ニハルは下を向いた。彼に馬鹿にされるのはこれが初めてではない。『寝小便』という単語を示す手の組み方も、すっかり覚えてしまった。

 お調子者の揶揄にミラは顔をしかめた。六歳の子どもにだって、羞恥心は芽生えるものだ。


『早く寝なさい。今夜は月が出ていない。

『さすがは、施設長様』


ミラがたしなめたのも意に介さず、お調子者はにやついている。


『いや、違った。施設長様、だ』


 手で小言を告げると、彼はやっと寝室へと向かった。


『……お気になさらず』

 メシエがミラを気遣う。

『気にしてなどいないさ』

 彼は笑ってみせた。




 信者たちは日の入りから日の出まで、つまり夜間には発語してはならないことになっている。朝、神に聖歌を捧げてからやっと口を利けるようになり、そして地平線に太陽が沈む直前に聖歌を捧げてからまた口を閉ざす。


 発語の代わりとなるのが、唇代語しんだいごと呼ばれる伝達方法である。手の形や動きで、お互いに意志や情報を伝え合うのだ。

 空に黒い垂れ幕が下ろされている間に口を利くことが許されるのは、乳飲み子ぐらい。成長し、ある程度聞き訳ができる年齢なってからは「夜間には喋らぬように」と厳しく躾けられ、唇代語しんだいごの特訓を受けることになる。

 もし夜にお喋りしようものならすぐに魔族だと疑われ、絞首台まっしぐら……と脅されるが、実際は尻を叩かれ、物置部屋に一晩移されてことは終わり。

 世に混沌をもたらす恐ろしい魔族は教会によって全て狩られ、一人として残っていないのだから。

 昔からの戒律が残り、敬虔けいけんな信者だけはこの生活規律をよく守っているのだ。


――敬虔な信者だけは。


 魔族がいなくなったと聞いて、民衆の信心が薄くなっていることは、施設内での暮らしが長いミラもよく耳にしていた。




 廊下の突き当りにある木製のドアをそっと開け、ニハルとともに中に入る。

 部屋には十台のベッドが押し込められるように並べられている。その上ではニハルと同じくらいの背丈の子どもたちが健やかな寝息を立てていた。肌寒いのか、みな小動物のように丸くなって体と体をくっついている。

 ベッドの一番端にニハルを寝かせ、ミラは彼に毛布を掛けた。


『風の音、怖い』


 暗闇の中、ニハルは静かに訴えた。ミラは微笑み、彼の前髪をで額にキスを贈る。ニハルは諦めたように目を瞑ると、すぐに夢の世界へいざなわれていった。

 彼の兄も、物音を怖がる弟をこうして落ち着かせたのだろうか。「早く寝ないと魔族が来るぞ」と脅す夜もあったのだろうか。ミラは年下の子どもたちをよく世話するが、彼自身には「きょうだい」が一人もいなかった。同じ腹から生まれてきた、血を分けた「」は……。


 ベッドの上の誰かが、むにゃむにゃと何かを呟く。本来ならば声を発してはならない時間だ。しかし寝言までをもとがめることはできない。

 施設長や、大司教でさえ。



 部屋を出ると、メシエがまだ廊下で待っていた。


『ミラ様。最後にお伝えしたいことがあります』


 彼女の頬が赤いように見えるのはランタンの明かりのためであろうか。


『わたくしは、ミラ様のことを』


 言いよどむ彼女をミラは片手で抱きしめ、額にキスをした。眠れない子どもたちにそうしてやるように。


『メシエ。明日から僕は毎日、きみの幸せを神に祈ろう』


 明日にはここを巣立っていく彼女は、真っ直ぐに次期施設長を見上げた。餞別に言葉を遮られた少女の双眸そうぼうは濡れている。


『……わたくしも、次期施設長様の幸運をお祈りいたします』


 ミラには、彼女の頬を滑る涙が流星のようだと思えた。

 しかし、白い肌に伝う一筋の光は、なかなか消えない。やはり、その雫は流れ星とは似ても似つかないものだと思い知らされるのだった。

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