5.お話
常人ならば夜目が利かず、真夜中の廃教会を訪問したのが人間なのか動物なのかを判別することは難しかったに違いない。しかし、魔族であるシリウスにとっては容易なことだ。夜は彼女の世界だった。
ミラは胃袋を満たした小さな魔女を抱きかかえ、廃村から出て街へ引き返した。
決してたくましい身体つきとは言えない少年にしがみつきながら、彼女は歌う。
その声は固い
明かりを落としたはずの家屋の扉や窓の隙間から、光が漏れ始める。家の中にいる者たちは、みな床に倒れ伏せているだろう。
シリウスの歌は、人間をすぐに眠らせることができる良質な子守歌だった。そして気を失ったように眠る子どもの身体を否応なしに発光させる。彼女はあの光の正体を「命のみなもと」と呼んでいた。
星屑を流した川のような瞬きは、歌唱するシリウスの元に集まってくる。そしてミラごと包み込んだ。
腕の中に納まるシリウスは、光を浴びながら歌い続けた。歌声はますます大きくなっていく。
異国の歌で、歌詞の意味をミラは知らない。しかしその歌は彼の遠い記憶を呼び起こし、身体だけではなく心の中まで光で満たしていくようだった。
――遠い記憶。
それは、「母」との思い出だった。
養母のプロキオンのことではない。ミラを命がけで産み、子守歌を奏で、頭を撫でてくれた本物の「母」だ。
すでに顔も名前も声も覚えていない。彼女はまだ幼いミラを施設の前に捨て、何処かへ去ってしまったという。施設に捨てられる前、どのような暮らしをしていたのかも、もうはっきりとは思い出せない。
ただ、いつも歌を歌ってくれていたことだけを覚えていた。シリウスのような美しい声ではなかったかもしれないが、ミラが彼女を腕の中に抱くように、母もまた、息子のことを抱いて歌っていた。
シリウスが歌を止める。
彼女の長い髪は油をしみ込ませたように艶めいていた。頬は薔薇の色に染まり、ふっくらと柔らかそうだ。瞳は変わらず赤いが、その色は濃くなり、炎を宿したような輝きを放っていた。
ふうと満足そうにため息をつき、生気を取り戻した魔女はミラを見上げて
「――お兄様」
一生涯、愛に飢えぬことが約束されているような、かわいらしい少女の顔が腕の中にあった。
「愛してる」
ミラは微笑み、同じ言葉の代わりに彼女の額にキスを返した。
教会の説教台の下に敷き詰めた毛布にシリウスを横たわらせる。そこが彼女の寝床だった。彼女は眠気に抗って何度も瞬きを繰り返し、
「お話、して」
帰り際にはいつも、彼女は小さな子どものように「お話」せがんだ。実際に、彼女の見た目は今、施設に預けられている子どもたちとほとんど変わらないのだ。
ミラは彼女と会えない間に身の回りで起こった出来事を話して聞かせた。彼女は情景を思い浮かべているのか、微笑みながら大人しく耳を傾けている。
施設の子どもたちが「お話」の相手だったら、こうはいかない。みな口々に「いつ?」、「だれが?」、「どこにあるの?」、「どうして?」、「どうして?」、「どうして?」……と質問してくる。そのために話がなかなか進まないのだ。
思い返せば、シリウスは何かを尋ねてくることがほとんど無かったように思う。尋ねられて答えたのは、己の名前くらいだっただろうか。
あれこれと
彼女が魔女だからだ。
知識の量で、人間は魔族に敵わぬ。彼らからすれば、人間など賢い犬のようなものだろう。
シリウスは、教会に属する聖職者や信者が憎む魔女だった。
ミラが持ち運ぶわずかな水と食料で生きながらえていることが、なによりの証拠だ。魔女であるがゆえに日の光を嫌い、活動するのはもっぱら夜。
魔族狩りの際に足を失った彼女は衰弱し、月の光すら浴びることを厭う。だからミラは、月の無い夜の間だけ、この教会を訪れるようにしていた。
しかし、今のようないたいけな少女の姿をしているシリウスを見ていると、彼女が魔族であることが疑わしくなってくる。
気付けば彼女は目を閉じて寝息を立てていた。ミラの
大切な用事もある。みなでメシエを送り出すのだ。
ミラは自分を奮い立たせるように軽く頬を叩き、静かに立ち上がった。
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