梅雨


 雨水に溶いた青と赤紫の水彩絵の具を、何度も重ねたような紫陽花が咲いていた。


 カタツムリの這う濃緑の豊かな葉との対比。

 宇宙の色彩にも似た吸い込まれるような色に、星の瞬きのような水滴がまぶされた様子が美しくて、思わず立ち止まってしまう。


 午後からの半休の余裕で、いつもと違う帰路を辿って見つけた紫陽花の小道。

 しとしとと雨が降り続くどんよりと濡れた景色に、控え目な鮮やかさを添付してくれる。


 紫陽花が咲くから、梅雨は嫌いになれない。


 今朝おろしたばかりの傘の表面で、弾かれた雨滴が軽快に転がっていく音を感じながら、スマホを取り出す。

 水溜りを慎重に避けて、画面を点灯させるが、メッセージは、届いていない。

 それなのに、もしかしたら見落としているかもしれないと、会社を出てから何度も確認している始末だ。

 そんなことをするだけ無駄なのは、わかっているのに・・


 彼氏の春人は、生来の女好きで浮気性の、どうしようもない男だった。


 春人との出会いは、わたしが求人ライターとして雇用されている紹介予定派遣を主に行っている派遣会社。

 そのオフィスに置いてあるコーヒーメーカーの営業として来ていたのが、春人だった。

 レイヤーが入った短髪に黒ぶち眼鏡。長身で小さなお尻と、大胆な押し出しの強い性格がわたしのドストライクで、関係ないのに無駄にしゃしゃり出て行って名刺をゲットした。

 その時に向けられた、太陽のような無邪気な笑顔が、わたしの自慢になった。

 それから、個人的に連絡を取り、ご飯に誘って、わたしから強引に迫るような形で付き合い始めた。

 付き合い始めた当初、わたしは有頂天で、彼と一緒にいられればなにもいらないとさえ思っていた。

 もちろん、その時点ではまだ、春人の浮気癖は発覚していなかったのである。


 初めの兆候は、やたらと目に付くキャバクラの女の子の名刺だった。


 付き合いがあるから仕方ないのかと最初は見て見ぬ振りをしていたが『また誘ってね♡』『キスは一回だけ』などといったメッセージ入りの名刺は、さすがに見逃すことができなかった。

 本人に問いつめると、あっさりと認めて且つ悪いかと開き直ったのである。


「嫌なら、別れればいいじゃんか」と平気で言い放つ春人は、しょっちゅうどこかの女を追い掛けていたのだ。


 強引なので殆ど相手にされなかったが、時々、報酬目当てなのかなんなのか、いかにも金持ちっぽいハイブランドゴテゴテの年増女と歩いていることもあって、心底恥ずかしくて嫌だった。

 その度に喧嘩をして、別れてやると罵るのに、なぜか未だ続いている。

 友達からは苦労するだけだから別れな、と散々警告されていたが、時既に遅し。


 わたしは、もう春人以外、考えられなくなっていた。


 それでも、押し掛け女房よろしく四六時中存在を主張するわたしに、春人は暫く迷惑そうにしていたが、嫌がりながらも、常にくっついているわたしのペースに次第に飲まれていき、わたしが側にいるのが当たり前になっていった。

 気のせいか、あんなに酷かった浮気虫も成りを潜めているようなのだ。

 通話しながらゴロゴロしている時には、唐突にテッシュ取ってとか、リモコンとか言ってくることがある。

 いや、いないんだから無理でしょと伝えると「おお、今日はフリーダムの日だった」と嫌味を返してくる。


 そんな春人だが、記念日やイベントの類いは絶対に外さない。


 わたしが欲しがっていたものや花束を事前にリサーチして、しれっとドンピシャで決めてくる。

 もちろん「見切り品」とか「拾った」とか「女からもらった」なんてコメントも忘れない。


 ロマンチストでジェントルマンのくせに、基本はそっけないのだ。

 わたしは、そのギャップがたまらなく好きだった。


 けれど、さすがに結婚となると、話は別らしく「ただでさえ、おまえがいて不自由なのに、このうえ更に、おれを鎖で繋ぐのか!」と散々拒否された。

 モテないくせにと皮肉を言えば、おまえがくっ付いてるからだ!と怒鳴られ、少しはわたしの気持ちも考えてよ!と切れると、おれの気持ちも考えろ!と喧嘩になる。

 そうなると、二、三日はそのまんまだ。


 でも、こんなに長くなったことは、ない。


 だいたいいつも、春人が女にこっぴどく振られて、寂しくなったタイミングでわたしにすり寄ってくるのだ。

 と、いうことは今回は、女と上手くいっているということ?

 でも、ここでわたしが折れたら、春人の言いなりになる。

 そう考えると、募る愛しさが萎えていく。


 けど、わたしも、自分のことしか考えてなかったのかもしれないと反省しそうになって、いや、違うぞと立て直す。悪いのは浮気ばっかりする春人だ。そもそも、春人がそんなだから・・

 色々と一人で討論してみるけれど、一向に溜飲は下がってくれないばかりか、増々意地になっていく。

 そのくせ、音沙汰がないと、あちこち目張りした隙間から不安が滲み出てくる。

 最後の捨て台詞は、なんて言ったっけ・・と喧嘩の記憶を掘り起こしては、自分に非がなかったかどうか確認するという意味のないことをやり始める。


 大丈夫。わたしの主張は間違ってない。


 だって、歳が歳なんだから、当然のことじゃない。

 わたしは春人との子どもだって欲しいのよ。

 早目に産んだ方が、体が戻りやすいって聞くし、若いパパとママなんて素敵だわ。

 様々な理由を所狭しと並べては、誇らしげに眺めることを繰り返していたが、春人との連絡が途絶えて一週間後には、そんな行為に価値を見出せなくなってしまった。


 ただ、ひたすらに潮が満ちるような不安がひたひたと押し寄せてくるのだ。


 どうして、連絡してこないのよ。


 わたしからなんて、絶対にしてやらないんだから。


 問題なのは、今日がわたしの二十六の誕生日だということだった。

 なので、余計に落ち着かない。


 せっかく会社も半休にしたのに、あーもうなんで、こんな時期に喧嘩なんてしちゃったかなぁー

 でも、それも仕方ないこと。

 わたしは誕生日に、指輪が欲しかったから。

 しかも、誕生石のムーンストーンが嵌った、エンゲージリングを。

 だから、こんな事態になった。


 このまま連絡がなかったら、ジ・エンド。

 本当に、終わりってことに、なるんだぁ・・


 視界が濁りかけ、足元の注意を怠った拍子に、前方にある水溜りの淵に躓きそうになって前のめりになった。

 転んだら水溜りに突っ込む!

 せっかく着てきた、とっておきのワンピースが汚れる!

 それだけは避けたくて、わたしは両手を振り回してなんとかバランスを取ろうとした。

 そのままもがいて、体勢を立て直すことに辛うじて成功したが、握っていたはずのスマホがなくなっていた。

 うわっ!

 うそ、うそ、うそ!

 焦って周囲を見回してから視線を戻すと、目の前で水溜りに沈んでいくスマホが見えた。

 曇天と紫陽花が写り込んだ水の表面を、雫が容赦なくぐちゃぐちゃに乱し、その水紋が揺れながら広がり重なっていく。

 その水面下にひっそりと沈没しているのは、待ち受けにしている春人の笑顔。

 その光が、徐々に弱くなっていく。

 それなのに、わたしは、茫然自失でその様子を眺めていた。


 まるで、花に囲まれ、棺に納まった最後の姿のように、紫陽花に彩られて沈む春人の笑顔は綺麗だったのだ。


 このままだと、終わっちゃう・・でも、


 それも仕方ないのかも・・


 小さな溜め息をふっとつくと、どっと疲労感を覚えた。


 ・・もう、春人に振り回されるのは、うんざり


 ・・でも、

 あの笑顔は、わたしに向けられた、わたしだけのもの・・


 目を見開いたわたしは、水溜りに手を突っ込んでスマホを救出した。


 やっぱりダメだよ!

 諦めるなんて、無理!

 こんなの、ヤダよ!

 このまま、終わるなんて!


 濡れたスマホをハンカチで包んで、胸に抱きしめた。

 暮色の帳が降りてきて、景色の明度をじんわりと落としていく。


 目を瞑ったわたしの鼓膜に、響き合う雨音。

 このまま、一緒に水溜りの中に沈んでいけたなら、どんなに・・


「ヤッベ、手すべった」


 微かな声と同時に、なにかが勢いよく飛んできて、水しぶきがわたしの顔を直撃した。

 なんなの!メイク落ちたし!と、怒ったわたしが前方を睨むと、先程の水溜りに、赤いリボンがかかった掌サイズの白い箱がプカプカと浮かんでいる。

 二メートルほど前方で、不機嫌そうな皺を顔中に寄せた彼がかけている細身の黒ぶち眼鏡が、光っていた。

 小箱を拾い上げて開けると、中にはムーンストーンが嵌った細い指輪が納まっていた。


「ま、いっか。どーせ、それゴミだし」


 鼻を鳴らして俯いた春人は、なぜか傘をさしていなかった。

 ずぶ濡れのドブネズミみたいな恰好をして、泥だらけの靴先で足元に広がる水溜りを蹴っている。


「おっそーい」

 泣き笑いのわたしは水溜りを飛び越して、春人に傘を差し掛ける。

 春人はわたしから傘を受け取ると、わたし側を心持ち多めに差す。

 湿気に混ざる春人の汗の匂い。

「ナオちゃんとユミちゃんとフミフミとアヤコが放してくれなかったんだから、仕方ねーだろ」

「ふーん。その人たち、傘は貸してくれなかったんだ?」

「傘なんていらねーし」と、春人は乱暴に眼鏡を拭った。

「梅雨なのに?」

「おまえが持ってんじゃん」

 ふんとそっぽを向く春人を見つめるわたしの胸に、じんわりと温かいものが広がっていく。

「ねぇこのゴミ、嵌めてよ」と、わたしは、指輪を掲げた。

「やなこった。さっさと捨てろ」

 仕方なく自分で嵌めてみると、左手の薬指にジャストフィットした。

 わたしは驚喜して、春人の名前を連呼しながら、がっぷりと抱きついた。

「ベタベタすんな!濡れんだろっ!おまえ、少し会わねーうちに、頭のネジが緩くなったんじゃねーか?」

 春人はそう言いながらも、わたしを払いのけようとはしなかった。

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