氷雨


 鈍色の空が憂鬱に広がる午後だった。


 走り抜けた一台の粗大ゴミトラックの荷台から、古ぼけたアルバムが、落下した。


 道路への着地の衝撃からアルバムの表紙が捲れ、挟まっていた大量の写真が、飛散。

 風景や家族を撮ったものや、飼い犬や恋人と思われる被写体が映った写真が、交通量が多い道路に散乱していく。

 その中で、満面の笑みで映った若い女性の写真が一枚。

 高く舞い上がって路肩に落ちた。と思う間に、ダンプカーに轢かれ、その後を、様々なタイヤ達に圧し潰されていく。

 見計らったように、冷たく大粒の雨が降り始めた。

 雨滴に打たれ、水分に浸食され始めた笑顔が、見る間にふやけていく。

 雨は止むことなく降り続け、排水を求めて押し寄せてきた汚水に押し流された写真は、やっとタイヤから遁れて歩道に打上げられた。

 そうして夜になるにつれ、気温は下がっていき、霙混じりになった雨は、濡れた笑顔を凍り付かせていった。


 夜半、交通量が減り、人気のない街路灯の下、クラゲのようなビニール傘が、ふらりと現れた。


 くわえ煙草の男が一人、傘の柄を引っ掛けた肩を窄めて千鳥足で歩いてくる。


 だらしない無精髭の酔いが回った赤ら顔をぶら下げて、引きずるような歩き方のせいで、ズボンの裾が濡れている。その半開きの口から漏れる溜め息混じりの煙が、陰気な景色を白く染めては溶けていく。

 男は短くなった煙草をぷっと飛ばすと、うんざりと顔を上げた。

 その男の視界の隅に、色褪せた例の笑顔が、入り込む。

 んん~? と首を傾げた男は、近寄って屈み込むと、写真と思しき残骸を凝視した。

「・・美人だな」美人だと呟くと、よいせと立ち上がり、冬の宵闇にヨタヨタと消えていった。



 離婚をされたのは、自分に甲斐性がなかったからだと、山本勘四郎は思っている。


 仕方ない。


 デイサービスを立ち上げたばかりだったし、行政手続きや利用者確保なんかもあって、軌道に乗るには時間がかかる。

 妻はそれを理解してくれていると頭から信じ込んでいたから、離婚届を差し出された時は青天の霹靂だった。聞けば、高校生の息子も賛成しているらしいのだ。


 ・・だよな。


 妻と息子は、数日後に後足で砂をかけるようにして、家を出ていった。

 その日から、勘四郎の稼ぎの大部分は、高額な養育費へと変換されるようになった。

 それが、三年ほど前。


「嵐さーん!来たよぉー」

 車イスに乗ったヨシさんが、ステップから手を振っている。

 九十の大台に乗っても元気溌剌の彼女なのだが、最近、要介護度が上がり特別養護老人ホームへ引っ越したらしい。


「ヨシさん、その嵐って、嵐勘四郎のことだろ? オレは、山本なんだけどなあ」

「いいよぉー山本より、カッコいーい」カッコいーい、と他の利用者とそれを誘導するヘルパー達が真似しながら脇を通り過ぎていく。某有名なアイドルグループ名とも被るし、確かにカッコ良くはあるのだが・・


「嵐オーナー、面接の方がいらっしゃってます」

 昼食の食事介助が終わると、チーフが声をかけてきた。

 かしこまった場面で使うのは、止めてもらいたいという意味を込めて鋭く一瞥するが無視された。

 介護の世界は、圧倒的に女性が強く厄介だ。

 六十過ぎても我の強さが取り柄のチーフは、鼻息も荒く勘四郎と交代した。

 やれやれ、と溜め息をつきながら、事務室の応接間に向かうと、引っ詰め髪をした妙齢の女性が座っていた。

 緊張しているらしく、肩を強ばらせて俯いている。

 お待たせしました、と声をかけると、ビクッと飛び上がらんばかりに驚いて、手にした履歴者を乱暴に突き出した。

「初めまして、山本です」

 心持ち、山本の行をハッキリと強めに発音した。

「あ、はい。あの、片桐サヤです。よろしくお願いします」


 辿々しく言葉を綴って笑ったその顔が、どこかで見覚えがあるような気がした。


 だが、どこでかはわからない。

 もしかしたら、利用者の家族か、時々出入りする業者かもしれない。

 勘四郎は念のために、どこかで会ったことがあるかと聞いてみた。

 彼女は戸惑いから反応を決めかねているようだったが、少しして、ナンパですか? と笑顔の眉間に皺を寄せた。


 ・・だよな。気のせいだろう。


 介護福祉士の資格を取得していた片桐サヤは、今週末から働いてもらうことになった。


「あの新しい人ぁ金星だな」と、いつも無口なモモチさんが、ちぎり絵をしながら、ぼそっと呟いた。

 片桐サヤが休みを取っている日の午前中、趣味の時間でのことだ。

 金星とは、相撲用語で美人の意味がある。

 モモチさんに続いて、周囲にいた何人かのじぃさんたちが「金星だ金星だ」と頷き合う。

「あんたの嫁にすれば、いいんでない」と、老人ならではの突飛発言が飛び出した。

「いやいやいや・・なにを言ってるんですか」と慌てる勘四郎を尻目に、老人たちのお喋りは止まらない。

「あんた、チョンガーなってどんくらい?」

 勘四郎が三年くらいかなぁと言うと、なんでそのままでおるわけ? と誰かが突っ込んできた。

「誰もおらんだか」と、モモチさんが額に皺を寄せながら唸るように呟く。

「サヤちゃんなら上等よ」ヨシさんが太鼓判を押すが、勘四郎はいやいやいやいやと、手と首を振り続ける。

「皆さんなにを言っているんだ。彼女は若いんですよ。オレみたいな腹の出た中年男となんて、有り得ないでしょ?」最近、髪だって薄くなってきてるんだから、とブツブツ付け足す。

「おれは死んだ女房と、十五ちがう」モモチさんが唸る。

「歳なんて関係ないしょ」と声が上がれば、ないないと満場一致だ。心なしか、どの皺くちゃ顔もレクリエーションの時より輝いて見える。御光でも射しそうな勢いである。

「いいですって!オレのことは。大丈夫だから、放っといてください。大丈夫、なんかテキトーにやるんで」

「いつ、やるんだ」またしても、モモチさんだ。

 いや、やるってそういうやるじゃなくてですね、と勘四郎が説明しようとすると、わざとらしく補聴器が入った耳に手を添えて、あぁ? と聞こえない振りをしてくる。今までしっかり聞こえてたでしょうがよ!と、埒が明かない。そこに、中年ヘルパーが入ってきて、片桐さんなら明日出勤ですねーと余計な情報を年寄り共に与える。

「あんた、明日は、ぱきっとした恰好してこい」と誰かが言えば、髭も剃れと飛んでくる。

「嵐さんは、いっつもだらしない恰好してるからね。明日、死んだ旦那の服を持ってきてあげる。うちの旦那は若い頃、見栄坊でね。だから、洒落てる服ばっかりあるの」ヨシさんの旦那自慢が始まった。


「明日は、大一番だな」


 モモチさんが、にやっと笑った。寡黙な彼がそんな愉快そうな顔をするのを、勘四郎は初めて目にした。

「皆さんのお気持ちだけで、オレは十分ですよ」そう言って引き攣った笑いを浮かべるので精一杯だった。



 帰宅した勘四郎は、食事もそこそこに、発泡酒を飲みながら、敷きっぱなしのせんべい布団に寝転んだ。


 トタン屋根を打つ雨の軽やかな音が、心地よかった。


 この平屋に越してきて、二年が経とうとしていた。


 更新月が迫っている。家賃を二ヶ月分用意しなければならないことを思い出した勘四郎は、急に憂鬱な気分になって逃げるように目を閉じた。


 脳が、くわんとアルコールに溺れる感覚。


 夜の静寂に、雨音が近くなる。


 静かな拍手にも似たその音は、さざ波のように寄せては返していく。


 こうして目を閉じて横になっていると、ゆっくりと沈み込んでいくような錯覚を、覚える。


『あなたと一緒にいられるのは、ゲテモノ好きだけよ』


 不意に、響いた声が彼を現実に引き戻した。

 勘四郎の妻が、別れ際に残していった言葉だ。

 十八年間、一緒に暮らしていた妻にとって自分はゲテモノだったのだと理解し、少なからず傷付き、それ以来、奥手になった。気付いていないだけで、自分は女性にとってゲテモノらしい。


 妻の言葉は呪いとなり、勘四郎の思考に入り込んで抜群の効果を発揮し、故に彼はこうして独り身でいる。


 ついこの間、五十の誕生日を迎えた勘四郎は、これから死ぬまで、一人で生きていこうと密かに決めた。


 今の延長でデイサービスを運営し、年老いて体が動かなくなっても、デイサービスの権利と収益で生活していくことは可能だろう。大好きな酒を飲みながら年寄り相手にマイペースに働いて、平々凡々の人生を送る。


 悪くない。


 晩酌しながら考えてみると、離婚はむしろ、これからの人生のための取捨選択だったようにも思えてくる。


 ただ、孤独死だけはご免だったので、早々と見守りホームセキュリティーに申し込んだ。


 そんな勘四郎の人生設計には、恋愛など入っていなかった。


 勘四郎は、片桐サヤの笑顔を思った。


 どこで見たのだったか、未だ思い出せないでいる。

 それはともかく、彼女は働き者だ。

 愛嬌があって、気が利いて、孫のような歳だからか、利用者からも可愛がられている。

 彼女自身は、昨年、祖父母を相次いで失くしていると聞いた。

「二人が住んでいた古民家は、思い出がいっぱい詰まった大好きな家だったので、絶対にわたしが住もうって決めてたのに、親が勝手に取り壊してしまって・・」

 目を潤ませながら言葉を濁す彼女を見て、優しい性根なのだなと感じた。


 だが、それだけだ。


 勘四郎の彼女に対しての感情など、他の従業員と同じであるし、その域を出ることはないだろう。


 彼は、近しい距離の他人に対して絶望していたし、同時に、うんざりもしていた。


 揺るぎない最高の形であるはずの夫婦、親子でさえ、ああだったのだ。


 人の気持ちなど、なにも宛てにはならない。


 勘四郎は雨に酔いながら、眠りの淵に引きずり込まれていった。



 翌日は、冷え込みが激しく、冷たい雨が振っていた。


 今年の冬は、例年より降水量が多いらしい。

 そう言えば、最近、雨ばっかりだなと勘四郎は玄関ポーチから雨空を見上げる。

 利用者たちをわんさか乗せた送迎車が、一台また一台と滑り込んできた。

 ふと見ると、片桐サヤは、送迎されてきた老女たちに隙間なく包囲されていた。

 どうやら、彼氏がいるかいないかを詰問されているらしいのだ。両手を困り顔の前で広げながら、老女たちの質問に答えている。やれやれ、と勘四郎が割って入ろうとすると、今度は勘四郎が囲まれた。

「いないって。チャンスよ」ヨシさんが、悪巧みをするような顔で囁いてきた。

「だから、なんだって言うんですか。朝から勘弁してくださいよ」

「大一番よ大一番」と、勘四郎の全身をチェックする。

 意識していたわけではないが、念のため、無精髭は剃ってきたが、服は特にいつもと変わらない。男やもめの証とも言える微かな半乾き臭を纏ったシャツとジーパンだ。

「ヤダよこの人。昨日と同じ恰好してるよ」目敏い老女達が、ほんとよほんと、と喧しく騒ぐ。

「持ってきてよかったわ」と、ヨシさんがビーズのバッグから亡夫が愛用していたという真っ赤なシャツを広げた。

 ド派手なシルクの背中には口を開いた龍と虎の刺繍がされている。色んな意味で度肝を抜かれる一枚だ。

「あらぁいいじゃない。きっとサヤちゃんも気に入ってくれるわ」真剣な表情で頷き合う老女達。

 歳を取ると派手好みになるらしいが、それにしたって、このシャツはどうにも行き過ぎていると勘四郎は感じるが、老人たちの間ではアリのようだ。それが証拠に、横を通ったじいさんが物欲しげな視線をシャツに投げてよこしている。

 気に入る訳ないだろ、引かれるわと内心突っ込みたいのを我慢して、丁重にお断りした。


「あの、山本さん・・ちょっといいですか?」


 片桐サヤが思案顔で声をかけてきたのは、午後の自由時間の最中だった。

 ははぁ、年寄り共がまた色々と言ったんだなと内容の察しがついた勘四郎は、先回りして話出した。

「利用者たちがなんか盛り上がって騒いでるけど、気にしなくていいからね。君も迷惑でしょ。ごめんね」

「え・・? いえ、わたしは迷惑なんて思ってません けど」言葉が途切れた。

「それならよかった。オレは、だいぶ困ってるから」参るよ、あははと大袈裟に笑って誤摩化そうとしたが上手くいかなかった。片桐サヤは、なぜか浮かない顔で俯いている。暫く後になにかを呟いた。


「・・わたしだから、困るんですか?」


「なんで? いや、困るのは君のほうだろう? オレみたいな中年オヤジとくっつけられて、さぞかし・・」


「わたしは、困ってなどいません。むしろ・・」


 勘四郎は、瞬間的に危ないと思った。


 彼女は飲まれかけている。


 年寄りたちの酔狂に巻き込まれようとしている。優しい性分が仇になっているのだ。

 なので、言葉を濁す彼女を遮り、まあ適当にいなしておいてよと無理矢理終わらせようとした。

 片桐サヤはむっとした顔をしたが、勘四郎に押し出されるままに、渋々戻らざる負えなかった。

 勘四郎は、外に設けられた喫煙スペースに向かった。


 冷たい雨は、一向に止む気配がない。


 水溜りと化した駐車場には、無数の水紋が描かれ続けている。

 軒下から垂れた雫が、クラウン状に跳ねて勘四郎の靴先を濡らしていく。


 間一髪切り抜けた安堵感を胸に、勘四郎は煙草に火をつけた。


 危ない危ない。


 情にほだされるなんて、絶対にあってはならないことだ。


 勘四郎の乾いた唇から吐き出された白い煙が、漂いながら雨の中に溶けていく。


 そんなことになったら、彼女が後悔するだけなのだから・・


 ところが、それは始まりに過ぎなかった。


 年寄りたちに入れ知恵されたのか、勘違いしたのかわからないが、片桐サヤの接近戦が始まったのだ。


 彼女は、勘四郎に好意を抱いているということを隠さずに表現してきた。

 ところが、勘四郎は冗談じゃない放っといてくれとばかりに逃げ回っていた。


「女に答えてやるのが男だ」モモチさんが、銀将で勘四郎の歩兵を取りながら不機嫌そうな声を出した。


「そういう問題じゃないんですよ」

 勘四郎が、歩兵を進めながら反論すると、どんな問題だ? と桂馬が飛んできて取られた。

 モモチさんは、将棋がめっぽう強い。

「惚れてる女、まんざらでもない男。なんの問題がある」

「ですから、そういうことじゃなく」そもそも彼女が自分に惚れているわけがないのだ。彼女は年寄りたちに担がれただけで、優しい性分から拒むこともできずに、なんとなくその期待に答えようと努力しているだけだから。


「碁で負けたら将棋で勝てばいいだけ」王手、と言ってモモチさんは勘四郎を負かしたのだ。



 夜になると、雨は霙混じりの氷雨となった。


 霙混じりの白い雨は、闇に細い線を何千何万と引きながら、蕭々と降りしきっている。


 勘四郎は、いつかの晩と同じように肩を竦め、前傾姿勢で足をずりながらトボトボと歩いていた。


 濡れて俯いているような街路灯が、侘しげな光を弱気に落としている。


 大勢の拍手の音が鳴り響く。

 束の間の有名人気分。


 今夜は熱燗だなぁ・・そんなことを考えながら、歩いていると、誰かとすれ違った。


 雨滴が忙しなく流れるビニール傘越しに一瞬見えたのは、片桐サヨの悲しみに歪む横顔。


「あの・・」思わず声をかけていた。


 何事かと振り返った片桐サヨが、驚いたように赤い目を瞬かせた。


「・・気まずいところ、見られちゃいましたね」彼女は、無理に笑顔を作ろうとする。


 なにか言わなければ、と勘四郎は思ったが、泣いてる女性を慰めるのは苦手だ。

 それに、こんなことで情が移りでもしたら、厄介だし。だが、


 放っとけなかった。


 もし、という言葉が最初に口を突いて出た。

「よかったら、飯でも食いません?」

 それは我ながら意外な台詞だった。


 勘四郎が自ら驚く前に、片桐サヤは莞爾に笑んで首を横に振った。


「ありがとうございます。でも、今夜は一人で過ごします。代わりに、今度、ご飯を作らせてください。それで、よかったら、その時にでも聞いてやってください」


「え・・はあ・・」と戸惑う勘四郎には構わず、彼女は、手を振りながら氷雨の中に消えていった。


 なんか・・だよな。


 全てがあまりに自然で、まるで狐にでも摘まれたような気分だった。


 けれど、悪い気は、しない。


 勘四郎は、煙草を取り出して火をつけながら、ビニール傘越しに落ちてくる無数の雨滴を見上げた。


 やっぱり、片桐サヤの笑顔を知っているような気がする。

 それが、どこでなのかは、相変わらず思い出せないけれど。

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