霧雨


 案内された部屋の窓からは、コバルトブルーに輝く横浜マリンタワーが、正面に、見えた。


 曇天を突き刺すような恰好に聳えるタワーは確固たる意思のようだ。


 タワーの横には先端が光る待針でとめられた海蛇浮雲の形をした首都高速神奈川三号狩場線を、深海魚のような車のライトが行き交い、更にその奥には、横浜ベイブリッジが幻想的に浮かび上がる。


 そんな夜景が堪能できるホテルニューグランドは、特別な日にだけ利用しようと二人で決めた記念のホテルだ。

 にも関わらず、窓辺に寄りかかっているみやこは、うかない顔だった。


 彼に誘われてホテルのロビーに足を踏み入れた瞬間から、嫌な動悸が続いている。


 彼の迷いのない足取りが、みやこの不安に余計に拍車をかけてくるのだ。


 今日は、どちらの誕生日でも、記念日でも、ない。


 彼は、部屋に入るなり、ジャケットも脱がずに、ベッドに仰向けに寝転がってしまった。

 そのまま、かれこれ一時間が経過した。


 スーツに皺ができてしまうことを危惧したみやこは、何度も声をかけようとして躊躇してを繰り返している。

 瞼を閉じてはいるが、彼が寝ていないことを気配で察したからだ。


 彼はなにかを、考えている。


 しかも、スーツにつく皺よりも最優先にしなければいけない重要な案件を。

 眉間に寄った皺が、それを如実に語っている。


 それがわかってしまうだけの年月を、付き合ってきた。


 だからこそ、増々不安を煽られるのだ。


「ねぇ・・」と、喉元まで出掛かった声を飲み込んだみやこは、それを溜め息に変換して出した。


 彼は、怒っているのかもしれないと思った。


 先日、婚約者として彼の両親と顔合わせをした際に、彼女がヘマをしたから。


 彼は、みやこが案内係として勤める百貨店の、オーナーの孫。


 由緒代々続く彼の実家は厳しいのだと知ってはいたが、まさか、わざと足をかけられて試されようなことをされるとは夢にも思ってなかったのだ。


 それをいくら説明しても、彼は聞き入れてくれなかった。

 ただ、絶望に暮れて、頭を抱えるだけ。


 思えば、あの日、実家からの帰路についた二人の間に髪の毛のように細い亀裂が走ってしまったような気がする。


 みやこは、彼に対して、これまでのように無防備に接することができなくなってしまった。

 こうして、当たり障りのない簡単な言葉であっても、始終物思いに耽るような表情を浮かべるようになった彼の前では、口に出すことが憚られるように感じて、反芻し続けている有様だ。


 細い亀裂は閉じることはなく、徐々に深く大きな深淵の口を開け、彼女が彼に近付くことを妨げている。


 ずっと景色を眺めていることが苦痛になってきた彼女は、とりあえずお茶でも入れようかと立ち上がった。

 微動だにしなかった彼が動いたのは、室内にお茶の香りが漂い始めた時だった。


「別れよう」


 彼の口から発せられた静かな響きを持ったその言葉は、みやこの耳から脳天までを素早く貫くと、白い筋雲のような形状になって、上半身を起こした彼を守るようにぽわぽわと浮かんだ。

 彼を見れば、何度でも、同じように、耳から脳天までを突き刺す構えである。


 あぁとうとう彼を見ることさえできなくなったのだと、みやこは、悟った。


 ベッドに腰掛けた彼は、彼女に背を向けている。


 顔を見たくないのだ。


 心配した通り、ジャケットが皺だらけになっていた。

 けれど、みやこには、もうどうしてやることも、できない。


 彼に触れたいと、みやこは思う。

 だが、それは、叶わない願いだ。


 彼はそこにいるようで、いない。


 もう触れられる距離には、いないのだ。


 みやこは手にした茶器に、視線を落とした。

 存外冷静な自分が、いる。


 彼に確かめたいことが山程あった。

 けれど、それらを確かめられたところで、もう価値がないこともわかっていた。

 彼は、一人で決めてしまったのだ。

 そして、今日、決着を、つけようと、している。


 白い陶器に満たされた緑茶に、のっぺりした女の顔が映っている。


・・泣きも、しないの?


 自分の顔に問い掛けた。


 ・・泣いたって仕方ないじゃない。


 萌葱色の顔の女が呟く。


 泣いたって、泣いたところで、なにも変わりはしないのよ。

 彼を困らせて、余計に惨めになるだけ・・


 真面目一筋の彼は、決して前言撤回をしない。する必要はないのだ。

 何度も考え抜いた末の、聳り立つマリンタワーのように確固たる意思。

 みやこは唇を噛む。


「・・結婚の、こと?」


 掠れて声でやっとそれだけを絞り出したみやこは、彼の後頭部が力なく縦に振られたのを見届けた。


 彼の両親は、あの訪問の後、電話で散々言っていたらしい。


 あんな礼儀もなってないような三十路女では話にならない。そもそも、子どもを孕めるのか。例え、妊娠できたとしても、障害児が産まれる確立が高い上に、苦労するのが目に見えている。子どももロクなもんじゃないだろう。あの安っぽい恰好で、格式ある我が家の敷居は二度と跨がせないなど、散々言い散らしていたようだ。


 まさかそこまでとはと、驚いたのが正直なところだ。


 天皇家ですら一般人の嫁を迎えるようなご時世に、時代錯誤も甚だしい。

 どこの馬の骨ともわからないような女なんて、ドラマや小説なんかで使われる差別用語が平気で罷り通る異世界。血筋と家柄に拘り、同等もしくはそれ以上と認めた人間しか仲間には加えない閉鎖的な考え。上流階級以外の生まれの人間は蔑み侮辱して構わないという愚かさ。


 彼はそんな世界で、ずっと生きてきた。


 そんな世界を忌み嫌い、自由に生きたいがために、彼は家を飛び出したのだと聞いている。

 自分の人生は自分で切り開いていく、その強い意志に、みやこは惹かれた。

 それなのに、これからの人生を決める重要な選択とも言える結婚に関しては、どうして易々と決意が揺らいでしまったのか。疎遠になっていた両親の主張する体裁が、いったいなんだと言うのかと腹が立った。


 確かに、未婚者にとって、結婚とは、どうなるのかわからない不確かさや不明瞭のベールで包まれた未知のものだ。そんな形のないものに自分の人生をかけてもいいのか、不安になる彼の気持ちはわかる。

 それは、みやこも同じだからだ。

 でも、だからこそ、二人で相談して乗り切って・・そうしたかった。だのに、


 彼はその不安を解消するべく、経験のある両親の意見を手っ取り早く採用してしまったのだろう。


 彼にとって自分の存在はお荷物でしかなかったらしいと、目の前に突きつけられた失望に、みやこは目眩がした。


 結婚って、結局のところ、なんだったの?


 恋の延長にあるゴールだなんて言われているし、彼女自身もそうなのだろうとずっと思っていた。

 恋愛の究極の形。

 愛情が形を成したもの。

 愛する相手と暮らし、愛する相手の子どもを作り、愛が基盤となった家庭を二人で築いていく。

 より大きな幸せの始まり。

 でも、それは、誰にでもどんなカップルにでも当て嵌まる訳ではなくて、あくまでも理想、だったのだ。

 戸籍や家といった社会的責任が派生している時点で、恋愛とは似て非なる異質なものだったようである。

 彼の場合は、みやこへの愛情が、両親や家への従順さより劣っていただけのことなのだろう。

 共に人生を歩むための覚悟とか、家族の一員になる自覚なんかの大切な要素を、もしかしたら、彼は見落としていたのかもしれない。


「・・そっか」


 みやこは、苦々しさを感じながら、窓へ視線を投げた。

 そこには、俯く彼の姿と二重露光で写りこむ外の景色があった。


 外は、白く煙り、マリンタワーの色鮮やかなライトが、ぼんやりと滲んでいる。

 いつのまにか、霧雨が降っていたのだ。

 霧雨は、音もなく、色の褪せた建物の輪郭をぼやけさせ、幻想の衣を被せて曖昧にしていく。

 彼の苦悶に歪んだ顔は、そんな景色の中で唯一、明らかに異常な濃影を纏って存在していた。

 落ち着きなく瞬きを繰り返す窪んだ目元のくまと、顔色の悪さは両親の言い分と彼女の気持ち、自分の本音に責められ散々悩んだ証なのだろうが、みやこにはまるで、迷子の子どものように見えた。

 すっぽりと霧に覆われた心細い街中で迷子になって、震えながら怯えている小さな子ども。


 私を切り捨てたら、この人は楽になる、のかしら?


 そんなことを考えながら彼の顔を注視していると、既に色褪せ始めている思い出が、蘇ってきた。


 彼らは、週末になると、改札で待ち合わせをして、外食し彼の部屋に泊まるのが恒例行事だった。

 みやこは、待ち合わせの時に、彼が改札からの短い距離を、小走りに走ってきて、抱きつくようにお待たせと笑顔で言ってくれる瞬間がたまらなく好きだった。

 あのみやこを見る愛おしそうな笑顔が好きだった。

 それなのに、

 今の彼は、どう贔屓目に見ても、もう完全に彼の嫌っていた実家の人間と同類の顔つきをしている。

 それが、心底、悲しかった。

 あんなに鮮やかな幸せを纏っていた思い出が、色褪せ始めている事実が、悲しかった。

 みやこの愛した彼の顔は、もうどこにも、ない。


 ・・笑ってほしい 


 笑顔どころか、みやこに対する謝罪の言葉すら発そうとはしない彼の哀愁が漂う皺だらけの背中。


 そのまま、どのくらい、時が止まっていたのだろう。

 窓の外は暮色に染まり、霧雨に抱かれた夜景をぼんやりと白く浮かび上がらせている。


 先に時間を動かしたのは、彼だった。


「この部屋は、明日の朝までは自由に使ってくれて、構わないから」


 それだけを言い捨てると、彼は足早に部屋を出て行った。

 最後まで、みやこと、顔を合わせることはせずに。


 横をすれ違った時にみやこの鼻腔を掠めた彼の臭いが、別れようと言われて咄嗟に閉ざした彼女の理性を扇情的に抉じ開けようとする。茶器を持つ手に、微かな震えを覚えた。


 扉が閉まった後の部屋の静寂が、波立つお茶を手にしたみやこに押し寄せてきた。


 追い掛け なきゃ・・!


 茶器を放り出したみやこは、扉を開けると廊下に飛び出た。

 エレベーターへと向かうが、ルームキーを忘れたことに気付き、へなへなと座り込んだ。

 もう手遅れだった。

 高層階はルームキーなしでは、エレベーター操作ができない。

 いつも、彼に任せっ放しにしていた怠惰な己を恨んだ。

 おぼつかない足取りで部屋に戻ろうとして、ルームキーを閉じ込めてしまったことを思い出したみやこは、廊下に設置された電話からフロントに連絡した。


 いつも・・こうだ。


 後先を考えず、そそっかしいのが、端々に出ている。

 だから、彼の家族に嗅ぎ付けられたのかもしれない。


 私が、もっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかったのではないだろうか?


 無意味なもしもが、脳裏を過る。


 駆けつけたホテルスタッフに部屋へと通されながら、みやこは己の不甲斐なさを責め続けた。


 放り出した茶器が、絨毯に丸い滲みを作っている。まるで、自分の心に滲みついた愚鈍さのようだ。

 その滲みに吸い込まれるような錯覚に陥ったみやこは、無理に剥がした視線を窓の外に投げた。

 ふと、彼は、私に期待していたのだろうかと、思い当たった。

 引き止める言葉を。

 大丈夫だよと、安心させる言葉を。

 一緒に頑張ろうと、前向きな言葉を。

 そして、優しく抱きしめる包容力を。


 もしかしたら、彼は、ずっと、待っていたのかもしれない。


 八方塞がりになって、成す術もなくベッドに横たわったまま、私の言葉を、私の抱擁を、私の気持ちを、ただ唯一の打開策だと信じて、じっと待っていたのかもしれない。

 何時間も何時間も、ずっと・・

 縋るように窓ガラスに当てたみやこの手足が、ガクガクと震え出した。


 そうだとしたら・・私は、なんてことを・・


 自分から歩み寄りもせずに、ただ、距離を置いて、眺めていただけだった。

 勝手に先回りして予想して、勝手に決めて諦めて、常に受け身で、彼の顔色ばかりを気にして、私は、なんだ?  


 そんなの、他人と同じじゃないか!


 必死さも愛情も感じられないような自己防衛だけの私の無関心な態度に、彼は、どれだけ傷付いたのだろう。


 冷えて結露していく窓ガラスに、先刻の迷子のような辛そうな顔が写る。


 愚かだったのは、私だ・・!


 あの白く煙る異世界のような夜の街に、彼をたった一人っきりで押し出したのは、他の誰でもない自分なのだと、慚愧の念に絶えず嗚咽が漏れた。

 謝らなければいけないのは、自分なのだ。

 みやこは、ルームキーを掴むと、再度部屋を飛び出した。


 そうして、霧雨に煙る横浜の街を、彼を探して宛てどなく彷徨った。


 横浜は、定番のデートスポットだったため、彼と行った場所を巡る。

 港の見える丘公園、中華街、横浜スタジアム、外人墓地、横浜ランドマークタワー、赤レンガ倉庫・・


 息を切らして駆ける彼女の乱れたまとめ髪や肌、身につけているブラウスやスカートなどに、うっすらと付着していた微細な雨滴は、時と共に深く浸透し、しっとりと湿り気を帯びていく。

 化粧が崩れ落ちたが、みやこは、構わず、探す。


 けれど、彼は、いない。


 いるはずないとわかっていても、止められないのだ。

 今更こんなことをしても、意味などないとわかっている。

 けれど、こうでもしないと彼との五年間が水泡に帰してしまうような気すらする。

 ただの自己満足。


 山下公園に辿り着いたのは、夜半過ぎ。


 彼は、いない。


 わかっている。


 霞んでいく景色。

 鼻の奥のつんとした痛み。


 柵に凭れたみやこは、ホイッスラーの描くノクターンのような黒々した海へ向かって、慟哭した。


 泣くな・・!

 泣く資格なんて、ない!


 いくら自身に言い聞かせても、嗚咽が止まらなかった。

 霧雨は、涙を誤摩化してくれはしない。


 そのまま、どのくらい嘆いていたのだろうか。

 纏わり付く湿気が軽くなったような気が、した。


 冷ややかな海風が、濡れたみやこの髪を微かに揺らし、体温を奪おうとしてくる。

 いい加減に、ホテルに戻らないといけない。


 みやこは、腫れ上がった目を擦って、闇夜を仰ぐ。

 彼女の潤んだ視界に、煌めく微細なビーズで形作られた二等辺三角形の組み合わせが花のように開いていた。

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