夕立


 不安定な天候の影響を受け、鬱陶しい熅れに支配されているような夏、だった。


 横殴りの雨が叩き付けてきたかと思えば、焼け付くような強い日差しに照らされ、蒸発した熱気が行き場を求めて這い回る。


 それの繰り返しで、幾重にも沈澱して粘りつく湿気は、いつもどこにでも纏わり付いてきた。


 やっと冷房が効いた車内に乗り込めたオレたちは、安堵の息を、ついた。


 オレの隣で、鞄から取り出したハンドタオルで額を押さえながら、スマホを見始めたチサ。

 玉の汗が幾筋も通った濡れた首筋が色っぽい。


 そんなチサに触れたくて、三角巾でつった片手で、羽衣みたいな透けた布地に覆われた彼女の腕を弾いた。


「なに、やめてよ」と、画面から目を上げた彼女が振り向く。


 ちょっとむっとした顔を、してる。


 今日のチサは、しっかり化粧をしていて、大人の女が着るみたいな、すとんとしたワンピースを着ていた。


 だから、いつもより数倍キレイだ。


 チサは、吊り革を握り直すと、再びスマホに視線を戻した。


 暇なオレは、そんな彼女を眺める。


 マジでキレイになったよなぁ・・


 付き合い始めて三年になる彼女のチサは、高校生になってから、変身した。


 それまでは、陸上一筋で、こんがりと日に焼けた小麦色の素っぴんが南国娘みたいだったのに、高校入学と同時に、日焼け止めを塗りたくり、紫外線を避け始めた。

 更に、短かった髪を伸ばし始め、マシュマロみたいな薄い色したふんわりとか、すとんとか透ける服を着るようになって、化粧までし始めたんだ。


 引き換えオレは、国際結婚をした両親のお陰で、目鼻立ちだけはハッキリしてはいたが、背と手足がひょろりと長くサッカー焼けで真っ黒。

 オリエンタル坊主と揶揄される見た目だ。


 おまけに、この間の試合中にドジ踏んで、骨折した腕を白い三角巾でつっているという情けない有様だった。


「ねぇ見てこれ」


 チサが含み笑いで見せてきた画面には、ボールを追って走るオレのショットが写っていた。


 前回の試合でのワンショット。

 この後、相手方に押されて転倒して腕やったんだよなぁと苦々しく思い出す。


 チサが言いたいのは、そのひょっとこのようなオレの顔らしい。


シャッタータイミングが下手くそ過ぎて、神がかってさえいる。


「あたし、奇跡的な瞬間撮るの天才。コータフォルダに保存ーっと」


 チサは、楽しそうに、ブルーのアイシャドウに染まった目を細める。


「・・チサは、もう陸上やんねーの?」


「あ、ここじゃん!降りなきゃ。すみませーん、降りまーす!」

 チサは慌ててオレの手を掴むと、グイグイ引っ張って乗降扉へと向かった。


 毎回、オレの質問するタイミングが悪いのかなんなのか、この問いだけは、いつもなんだかんだと答えをもらえないでいる。


 もしかしたら、チサは答えたくはないのかもしれないと、その時は深追いすることはせずに諦める。

 だけど、気になるのだ。


 短距離走選手として都大会にも出場して活躍していたチサが、高校生になった途端、陸上という言葉を口にすることはなくなり、唐突にイメチェンした。


 どうしてなのか。

 なにかあったんじゃないのか。

 彼氏として気にならないわけがない。


 それなのに、未だ教えてはくれない。

 それは、オレが彼氏として頼りないからだろうか。

 オレが、自分のことで手一杯で、サッカーだって、怪我ばかりして情けないから。だから、打ち明けてくれないのかもしれない。そんなことを考えてしまうと、チサの答えをもらうために食い下がれない弱気な自分がいる。


 なんか、オレ、ダメだなぁ。


 最近、そんな己の自意識低下に輪をかけて、チサがそっけないと感じることが増えた気がする。


 改札から出て真っ先に目を射ったのは、積乱雲が幾つも沸き上がっている青空だ。


 油蝉が声を高らかに合唱している僅かな木陰を選んで歩いた。


「あつーい!まだ、午前中なのにぃーねえ、なんか飲もうよ。一気に喉乾いた」


 照り返しが眩しい芝生が敷き詰められたグラウンドに到着すると、既に人集りだ。


 高校サッカー夏の祭典、インターハイ。


 東京予選を通過した代表校のみが北海道の本大会に進めるとあって、気合いの入り方が違う。

 オレは、その一次予選中に、こんな忌々しい怪我を被った。

 幸い勝つことはできたが、当分出場できない。

 ほんとに、ついてない。


「やべ。アップアップ。悪ぃ、コレ頼む」

 オレは、バッグをチサに押し付けた。

 チサは、むっとした顔をする。

「なんでアップするの? 安静にしとかなきゃくっ付かないって言われたじゃん、お医者さんに」

「足はなんともねーんだし、やっとかねーと鈍って使いもんにならなくなるじゃん」

「試合に出れる訳じゃないんだし、自主練でいいよね。どうせ、グラウンドに降りたら雰囲気に飲まれて、無茶なことし始めるんだから。無理したら余計に治り、遅くなるよ」

 チサはバッグを押し返しながら、頑に反対する。


「無茶しねぇって」

「してるよ。いっつも」

「今日はしねぇって」

 オレは、グラウンドに駆け出したい逸る気持ちを抑えて答える。


「コータ、そう言っていっつも無茶するじゃん」

 チサの眉間に寄せた皺が深くなった。

「無茶しないって。約束するから。アップだけ、今日だけ、な?」

 オレは手を合わせて懇願する。

 チサは、むーと頬を膨らませて、どうしたもんかと思案しているようだ。

 おーい、コーターとメンバーから呼ばれたオレは、不服顔のチサを残してグラウンドに飛び出した。


 オレがサッカーを始めたのは小学生だ。


 それ以来ずっと、プロになる夢を追い続けている。

 チサもそれはよく知っている。だからこそ、心配はしているが強く言いきれないのだ。

 オレはサッカーのことになると夢中になってしまう性分で、仲間内からは、玉蹴りバカとあだ名されるくらいサッカーが好きだった。

 こうして怪我をしてしまっても、懲りることなくグラウンドに向かってしまう。


「なに、チサちゃん来てんの? おー今日もかっわいいー」

 オレの目の前で、秋山先輩がチサに向かって手を振る。


 全てのものを白く照り返すような強い日差しの中、困った顔をして小さく会釈しているチサが見えた。


 オレは、なんだか異様にむしゃくしゃしてきて、ボールに向かって疾走した。

 不自由な腕に痛みを感じるが、思った程じゃない。

 たかが骨にひびが入ったくらい、なんてことないわ。


 そこからはもう夢中になって、チサとの約束なんて忘れたオレは、結局、いつも通り走って、ボールを蹴り込んだ。


「チサ、怒ってんの?」


 帰り道。


 先にたってズンズン歩いていくチサに声をかけた。

 答えはない。


 空は陰気な色をした雲が垂れ込め、今にも降ってきそうだ。


「なぁ・・なぁ、チサ!」そう言って、手を掴もうとしたが、汗に濡れたユニフォームが腕にくっ付いて上げにくい。

 そうしているうちにも、チサはどんどん離れていく。


「ごめんって。チサ、ごめん。オレが悪かったよ!」


 オレの謝罪には一切耳を貸そうとはせず、チサは足取りも荒く駅の改札に消えてしまった。

 片方が不自由なオレは改札でもたつき、ホームに降りた時には電車は行ってしまった後だった。


 仕方なく肩掛けバッグからスマホを出すと、チサに、メッセージを送る。

 が、なかなか既読がつかない。

 本当に怒ってしまったらしかった。


 やべぇーまた、やらかしちまったぁーと後悔するも後の祭り。

 夜になっても既読はつかず、翌日もその翌日もチサからの返信はなかった。


これって、マズいヤツなんじゃねぇのかな・・?

 と気にはしていたが、準決勝まで進出できた興奮で、それどころではなくなっていた。


 オレは、明日からの練習に参加して、少しでも早く復帰して試合にでれるように頑張らないと、それだけで頭が一杯だったのだ。


 そうしてサッカーに夢中になりながら一週間が過ぎた。


 チサからの連絡は未だない。


 オレは、無性に腹が立ってきた。


 なんなんだよ。


 オレの怪我でそんな怒ることか?


 ちょっとヒビ入っただけじゃん。

 もう、ほとんど治りかけだしさ。


 なんか、わけわかんねーよ・・


 憤りがプレーにも出ていたらしく、コントロールできてないボールがゴールキーパーの股間に当たったり、仲間の顔を直撃したりした。

「なんだなんだー随分と荒れてんな。大事な時期に引っ掻き回すなよ。チサちゃんと喧嘩でもしたかー?」

 見兼ねた秋山先輩が、タオルを投げてきた。

 別にと不貞腐れるオレを一瞥した先輩は、そういえば数日前に、チサちゃんが武藤と一緒に歩いてんの見たなーと言い出した。


 陸上部の色男で有名な武藤先輩のことだ。


 オレは、陸上関係の話でもしてたんじゃないっすかねと、興味無さげに答えた。


「そうかぁ? そんな雰囲気には見えなかったな。チサちゃん、中学の頃は陸上すごかったんだってな。けど、棄権したヤツの代わりに怪我した足で出場して、新記録を打ち立てたけど、それが元で足を壊したんだったっけか?」二度と走れねーんだろ、可哀相になぁと、付け足した。


 それは、オレが知らない事実だった。


 よっぽど驚いた顔をしていたのだろう、なんだよその顔は、と先輩に気付かれてしまった。

「まさか、知らなかったとか?」あちゃーそりゃないわ、と大袈裟なリアクションをされた。


「チサちゃん、有名人だったらしいじゃん。ま、可愛いしな。俺は陸上やってたダチに聞いたんだけど。オマエ、サッカーバカだからな。言い出せなかったんじゃねーの?」


 確かに、チサの引退間際の大会の前後は、俺も引退試合に集中している時期だったから、お互いにあまり連絡はとれてなかった気がする。だけど、メールのやり取りはしていた。

 でも・・オレがいつも自分のことばっかりだから、何度聞いてもはぐらかされたのか。

 それとも、オレに余計な心配をかけさせない優しさからか。


 チサが思いやりが深いってことはわかっている。

 それに、甘えてる自分も。


 だけど、だからって、打ち明けてくれてもいいじゃないか。


 オレ、そんな頼りないかよ。


 三年も一緒にいるんだぞ・・


「うかうかしてたら、誰かにもってかれちまうぜ。狙ってるのは武藤だけじゃないからな。ボールを追い掛け回すしか脳がねー犬みてーな彼氏じゃあな。そもそも、オマエらちゃんと好き合って付き合ったのか?」


 先輩の言葉に、ドキリとした。


 チサとは塾で知り合った。


 志望校が同じだったこともあり、励まし合いながら一緒に勉強するようになって、その延長と言ったらいいのか、自然の流れでなんとなく付き合った。


 オレは言葉にするのが苦手で、それはチサも同様だった。

 だから、お互いに気持ちを確かめ合ったことなんてなかったし、そんなことなんてする必要はないと思っていたんだ。


 当たり前に一緒にいて、だから、そんなことしなくたって、オレたちは間違いなく好き合っているんだと、傲慢に思い込んでいた、のかもしれない。

 

 だのに、こうして会えない時間が長くなると、当たり前だと信じて疑わなかったチサとの時間そのものが、実は実体のないものだったのかもしれないと考えざる負えない得体の知れない不安に悩まされ始めている。


 遁れることができない夏の湿気のように纏わり付いて離れず、絶えず終わりの予感を煽ってくる不安だ。


 オレは、どうしたらいいのかわからず、一番手っ取り早い怒りという感情に走って発散させようとしている。


 問題の解決にすらなっていない。


 そんなことをしているうちに、チサが誰かにとられてしまう・・そんな心配、

 したことなかった。


 いや、違うな。


 キレイになっていくチサを見る度に、胸の奥で汚い色をしたなにかが、かそけき音を立てていた。


 オレは・・怖かったのかもしれない。


 チサはどうだったのだろう?


 不甲斐ないことに、オレはそれを知らなかった。


「オマエがいても、邪魔なだけだ。帰れ!」

 練習場を追い出されたオレは、チサに会いに行こうと決心した。


 会って、彼女の気持ちを確かめよう。

 ハッキリさせないと、このままじゃ生殺しだ。


 バスを待っていると、着信音が鳴り響いた。チサからだ。


「今から会える? 話したいことがあるの」


 初めて聞く、暗い声だった。

 この声は、なんだか好きじゃない。

 嫌な予感がする。


 指定された自然公園へと向かう間、オレは膨らんでいく気持ちを持て余していた。


 それは、恐怖を地に、愛しさや後悔や悲しみや不安などがごちゃごちゃに混ぜ込まれた複雑な色をしたものだった。


 なんだか、こんなのは映画やドラマですごく見たことがある場面だ。

 オレはこれから、どうしようもない辛い現実を突きつけられなきゃいけないんだろう。


 逃げたい弱さを、チサに会いたい気持ちが必死に引き止めていた。



 山の起伏を利用して作られた自然公園は、遊具などはなかったが、蛙やトンボがいる自然に近い池や味のある東屋があるオレたちのお気に入りの場所だった。


 寄りにもよって、こんな場所を選ぶなよ。

 口内に苦さを感じた。


 ロシアンブルーの毛色みたいな雲に埋まった空は、ゴロゴロと喉を鳴らすような不吉な音を響かせている。


 草いきれが混じったむっとする湿気に気分が悪くなるようだ。


 紺色のワンピースを着たチサは、色の褪せた東屋の中で佇んでいた。


 そこに入っていったオレを、チサは無言で見つめ、お互いにそのまま突っ立ってしまった。

 丁寧に化粧されたチサの目からは、感情と呼べるような類いを窺い知ることはできない。


「なぁ、なんで陸上辞めたんだよ」


 無言の時間に耐え切れずに、先に口を切ったのはオレだった。

 それも、敢えて知っている問いをかけた。


 チサの口から真実を聞きたい欲が、捨て切れなかったオレは、試すように意地悪い口調だったと思う。


 本当はわかっていた。

 チサが怪我をした過去なんて、オレが拘るべきことじゃないこと、くらい。


 チサは僅かに顔を歪めると、オレに合わせていた視線を曇天へと滑らせた。


「・・夕立、くるかも」


 また、答えをはぐらかされた。


 オレは、唇を噛んで、拳をぎゅっと握りしめる。

 数分の沈黙が降りた。


「・・・オレじゃ、そんなダメかよ」


 蟠っていた苛立ちが、零れ落ちた。


 雷鳴が響く。


 チサが不審な顔で振り返るが、オレは俯いたまま、止まらない。


「武藤先輩、カッコいいもんな。優しいし、自信もあって完璧だよな」

 堰が切れたように不安が言葉に変換されていく。それも、刺がある皮肉な言葉にばかり。

 そんなふうに言うつもりはないのに、オレの口は止まらなかった。


 チサの顔が、歪んでいく。


 自棄糞になっているオレは、見ないようにした。

「つか、前から会ってたんじゃね? 先輩のことが好きなんだろ!先輩を好きになったって言えばいいだろ!」

 そこまでを一気に吐き捨てたオレは、大きく息を吸って曇天を仰いだ。


 雷鳴は激しくなっていた。


 チサは俯いている。

 間違いなく雨が降ってくるだろうな。


 オレは、チサを傷つけているんだ。


 それはわかっているが、どうしても後には引けなかった。


 情けないな。


 こういうのは負け犬の遠吠えって言うんだ。

 オレは、ボールを追っかけるだけしか脳がない犬みたいなもんだから、お似合いか・・


「別れたいならそう言えよ!わかってんだよ!ハッキリ言えよ!オレと別れたいってさ!」


 俄に、雨が勢いよく降り始めた。


 雨滴は東屋の屋根を激しく叩き、あっという間に地面を水浸しにしていく。


 チサが顔を上げて、オレをきっと睨みつけた。

 その両目には、今まで見たことがないくらいの怒りが漲っている。


 あ、ヤバい・・

 言う。

 振られる・・!


 オレは身を固めて目をきつく瞑った。

 貫くような雷鳴に、歓喜する拍手のような雨音が絡み合う。


 その時、一陣の風が頬を撫でた。

 懐かしさすら感じるシトラスのシャンプーの香り。チサの髪の臭いだ。


 オレは怖々目を開けた。

 目の前からチサは消えていて、少し先の東屋の外、土砂降りの中に立ってオレを睨んでいた。


「そんなわけ、あるかぁー!バァーカアー!」


 チサは、雷の轟きに負けないくらいの大声で、叫ぶ。


 彼女の紺色のワンピースが夕立に打たれて、見る見る艶を帯びていく。


 ・・好きだ!


 オレは雷雨の中に飛び出した。

 チサへの思いが溢れ出してくる。


 好きだ!


 好きだ!


 チサは、あっかんべーと舌を出して逃げていく。

 さすがは元短距離選手。

 足がダメになったとは言え、速い。

 濡れて纏わり付くスカートなんてものともせず、どんどん山道を駆けていく。


 オレは本気を出して追う。

 そして、彼女の手を掴んで引き寄せた。


 雷鳴が響き渡り、湿気を洗い流していく。


「チサ、好きだ!」


 ずぶ濡れのオレの腕の中で、すっかり、化粧が落ちて素っぴんになったチサの顔が赤く染まっていた。

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