秋霖
無数の雨粒が、スワロフスキーガラスのように散りばめられた窓ガラス。
雨滴は止めどなく、ぶつかり、表面張力で丸まり、後からきた幾つかと混じり、次第に重くなり、それに耐え切れずに糸を引きながら落下していく。
これを止むまで、無限に繰り返す。
よく見ると、水滴のひとつひとつには逆に映る小さな景色が嵌め込まれている。
少し、色味の変化したこちらの世界の、投影。
無数の世界、無数の毎日。
無数の私。
そして・・あなた。
少し旧式の大きく取られた職場の窓に投影されたあなたに目がいくようになったきっかけは、晩夏から降り続いていた雨のある日。
癖っ毛の私は、湿気で髪がうねるので、雨が苦手だ。
その日も、髪を気にしながら終業時刻を迎えた。
ところが、傘立て立てたはずの自分の傘が見当たらないのだ。
どうやら、誰かが間違えてさして行ってしまったらしい。
買ったばかりの水色の傘はお気に入りだったのに。
勘弁してよぉー・・
誰かのを借りようにも、どれが誰のかわからず、ビニール傘にはしっかりと名前が書いてある。
近くのコンビニまでは三百メートル程。
傘を手に入れた時には、もう傘は不要の見た目になっているのは確実だ。
途方に暮れた私は、エントランスで、雨を降らせ続ける暮色に染まった曇天を、恨めし気に、睨んでいた。
「これ、使ってください」
出し抜けに、腕にかけられたビニール傘。
視線を上げると、小走りに雨の中に走り出したスーツ姿の背中が遠ざかっていく。
少し長めのスポーツ刈りの耳元に、ほくろが、一つ。
「河内!おまっなにやってんだよ!傘持ってねーのかよっ」と、彼と合流した同僚が爆笑している声がする。
「あー・・んー持ってかれた、らしい」と、彼が答える。
「なんだよ、そのらしいってー」つか、忘れたんだろーと突っ込まれている。
そんな男性陣のじゃれ合う声が、雨音に紛れて遠ざかり聞こえなくなるまで、私は呆然と突っ立っていた。
河内雄祐。
販売促進部を取りまとめる役についていることが多く、次期リーダーとの呼び声も高い彼。
ふっくらとした頬にスポーツ刈りの愛嬌がある見た目と相俟って、明るくユニークで侠気がある性格をしているため同性異性問わず常に人に取り巻かれていた。
同じフロアとはいえ、経理部の私との絡みは、たまに領収書提出に来た時に業務的な会話を二三するくらいで、殆どないに等しい。
それなのに・・
誰にでも優しいということは聞いて知っていたが、部署違いの私にまで、気を配らなくたっていいのにと臍曲りな思いを抱いた。
いや、そう抱くようにした。
好意を持ちたくなかったからだ。
あんな人気者。
絶対に傷付くし、悲しむのが目に見えている。
だから、敢えて冷めた感情を持つようにした。
失恋の傷がまだ癒えていない私は、傷付きたく、なかった。
彼は、フロアの誰に対しても平等な視線を向けている。
誰のこともよく見ているし、同じことをしていると思えば、なんということもない。
私だけが特別ではないのだ。
あの時は、偶然、私が困っていて、彼がそれを見過ごせない性格だから、ああして傘を貸してくれただけのこと。
勘違いするな。
と、いうか、私はどれだけ優しさに飢えているのか。
情けない。
だけど・・
河内さんの落ち着いた笑い声は、私の耳に心地よく響いてくる。
どこにいても、私がなにをしていても、視界の隅であっても自動的にロックオンしてしまう無意識のキモさ。
業務的な短い会話の中に、声の強弱や音程に隠れたあるはずもない意図を深読みしてしまう私のイカれ具合よ。
河内さんと話したあとに込み上げてくる、幸福な感情。
それなのに、照れ臭いからと、そっけない態度をしてしまい激しく後悔する意味の分からない心情。
『重た過ぎる』
結婚まで考えていた以前の相手から投げつけられた言葉を都度思い出して、己を戒める。
・・ヤメロ。勘違いするな。
そんなある日。
私は、クレームの電話対応が長引いたがために、通常よりも遅い昼休みをとっていた。
誰もいない休憩室で、つけっ放しのテレビに目をやりながら持参の弁当を広げていると、不意に隣にペットボトルが乱暴に置かれた。
なにごとかと振り返ると、コンビニ袋を手にした河内さんが私の横に座るところだった。
周囲は空席だらけ。
まぁテレビが見やすいのがここだったんでしょうと、動揺を落ち着かせようと言い聞かせてさらっと挨拶する。
早くもパッケージを破いたおにぎりに齧り付いていた彼が、お疲れっすとモゴモゴ答えた。
その後、二人でテレビを眺めながらしばし無言。
これといって共通の会話がないのだ。
河内さんは、なにかを話したいのかもしれないし、そうではないかもしれない。
でも、わからない、もっと他の用件かもしれない。
無邪気に食事をする彼に、全神経を集中させながら口を動かしていた私は、色々と考え過ぎて食べているものの味がわからなくなっていた。
そもそも、河内さんは、どうして、私の隣に座ってきたのだろうか。
きっと、気を使ってくれたんだと、思うことにした。思い込むことにした。
そこで、この間、借りた傘のことがふっと浮かんだ。
あ、あれだと気付き、お礼を言わなければいけないと今度はそれで頭が一杯になった。
ところが、スムーズに口が動いてくれない。
傘は翌日には傘立てに戻したけれど、それだけじゃダメだ。
なにか言わないと。
なにか。なんでもいいから。
このままじゃ、印象最悪の人になる。
「・・あの、そういえば・・傘を・・」そこまでやっと紡いだ言葉はしかし、遮られた。
「あぁ、受け取りました」
あ、そうでしたか、そうですよね・・と呟くような小声になりながら、恥ずかしくなった。
ほらね。
やっぱり、私と河内さんとでは、会話にすらならない。
だから、彼が特別な感情が僅かでもあるなんてことは絶対に期待しちゃいけない。
そんなこと、あるわけ、ないから。
もちろん、私も河内さんに対してなにかを特別に感じようとしちゃいけないんだ。
決して・・
そう、何度も、何度も、言い聞かせるのに、
窓ガラスに写り込んでいる彼の姿を、盗み見てしまう自分がいる。
気付けば、あんなに嫌いだった雨を心待ちにしている自分も。
雨が降れば、雨を気にして窓に目をやる回数が多くなっても、誰にも気にされない。
雨粒がまぶされ景色がぼやけた窓ガラスは、水槽の中を覗いているような気にさせた。
太陽光の明度が落ちてくるにつれ、こちら側が水槽の中なのかもしれないという錯覚を引き起こす。
陰気な色彩に染まった世界は、まるで月夜の海中みたいだ。
そこに浮遊する、得体の知れない、生きもの、私たち。
私は、同じ色彩の同じ海中に、河内さんと生きている幸せを、そこはかとなく噛み締める。
いやいや・・おかしいおかしい。
決意と行動が矛盾しているじゃないか。
けれど、雨の窓ガラスでなら、この理解し難い気付きと考察を打っ棄ったままで、誰に臆することなく、自由に好きなだけ河内さんを眺めることが、可能なのだ。
面と向かってなんて十秒も保たない私でも、こうしてじっくりと彼を見つめることができる。
私と同じ位置、焦点で見ない限り、二重に写る景色の奥にいる河内さんを見ている事実が露見することは、ない。
同僚と笑っている彼。
企画を考えている真面目な表情の彼。
自信のあるドヤ顔をした彼。
電話対応で謝罪する彼。
後輩にレクチャーしている凛々しい彼。
不意打ちを食らって唖然とする彼。
様々な彼を、じっくりこっそり凝視できるのだ。
それがいつしか、三十路女の密やかな楽しみと、なりつつある。
私は、このままずっと雨が続いてくれればいいのに、とすら願っていた。
「なぁそういや、河内って、経理の石井さんが好きらしいぞ」
「マジかよ!案外ババア趣味なのかー」
「石井さん、まだ三十。ババアは酷い。しっかし、わっかんねーよな。あいつの好み」
自動販売機の前で、河内さんの同期が話しているのを偶然聞いてしまった。
大砲で打ち抜かれたような衝撃が、私の胸に走る。
あ、そ・・か。
そ、そうだよね・・そうだよ。
好きな人くらい、いるよ。いるに決まっているよ。
というか、彼女がいないわけない。
あんなに魅力的なのに。異性が放っとくわけない。
でも、
私の先輩の石井さんかぁ・・
言われてみれば、確かに、二人はよく話しているのを見かける気がする。
石井さんは、そつがなくて優秀なキャリアウーマンという言葉がよく似合う女性だ。
仕事ができることを鼻にかけずに、誰かの尻拭いや手助けをそっとしてあげている。
クレーム対応も冷静に対処して一見クールに見えるけど、冗談も通じて、融通も利く。おまけに少し天然で。
惚れるのも無理ない。
同性の私でも、胸がときめいてしまうくらい魅力的だ。
ババアなんかじゃない。河内さんは、見る目があるのだろう。
とても優良なチョイスだ。
それにしても、尊敬している先輩だなんて、私はどう足掻いても敵わないではないか。
だけど、
二人はとてもお似合いなので、私も、河内さんに対しての得体の知れない感情に、踏ん切りはつけられそうな気が、するのだ。
談笑する二人をガラス窓越しに見かける度、鳩尾がぎゅっと萎縮するような気分になるのを、遠い目を拵えてやり過ごす。
テレビに映る在り来りなラブロマンスを見ているような気になれれば楽勝だ。
大丈夫。
私はなにも傷付いていない。
なにも感じない。
そうして、己の感情の全てを必死に押し殺す。
それを反復することで、窓ガラスに目がいくことが減っていき、湿気でまとまりにくい髪に神経を向けることに成功していった。
なにも、損なわれては、いない。
ただ、振り出しに戻っただけ。
だから、大丈夫。
私は、無表情かつ無感情に業務を遂行する日々を送った。
規則正しいルーティン生活は、精神を安定させてくれるのに大いに役立つ。
こうやって、時間を過ごしていけば大丈夫。
雨は続いていたが、心が動かされることもなくなった。
全ては過去のこと。
河内さんと話すことはあっても、業務の域を出ない内容である。
大したことは、ない。
私は自分の心に、踏ん切りをつけようと、必死だった。
異例の長雨のため、充分に紅葉できず腐ったような色をした木々の葉が、無念そうに雨滴にたたき落とされて散っていく。
通勤の行き帰りに、街路樹のそんな哀れな様子を横目に、私は昨晩引っ張り出したマフラーを巻き直した。
ああならなくて、よかった、と安堵の息をついてみる。
下ろしたてのビニール傘の表面を、透明な雫が元気に跳ね回っては、伸びながら落下していく。
別に河内さんのビニール傘を真似たわけじゃない。
ビニール傘を使ってみたら、降ってくる雨の一粒一粒がハッキリ見えて、滴る雫が宝石みたいに輝いて美しかったから。
ただ、それだけで。
傷付くのは、もう、ご免だ。
誰かを好きになるだけ、きっと、辛くなる。
これで、よかったんだ。
まだ、なにも始まっていないけれど、始まってしまったら私は、突っ走ってしまう、から。
私は、重たい、から。
それなのに・・
ずっと胸の深いところに正体不明の痼りを感じる。
それが時々、なにか電波でも発信しているようで、私の無数にある神経の一つにぴりっと僅かな刺激が走るのだ。
その度に、呼吸にちくっとした痛みがある。
だけど、私はその痛みに気付かない振りを貫いている。
瞬時に忘れるように努めている。
そうしなきゃ、その正体に気付いてしまえば、全てを飲み込まれてしまいそうな気がするから。
きっと、止まらなくなってしまう・・
そして迎えた師走。
年末に向けての多忙さを理由に、忘年会の企画と幹事を何故か経理部に一任された。
要は面倒臭いので押し付けられた体だ。経理も暇ではないのだが。
石井さんは、小さく舌打ちすると「普段行けないような店にして、経理に任せるとこうなると思い知らせてやりましょう」と悪い顔をしてニヤリと笑って、その日のうちに、店を予約していた。
忘年会、当日。
巨大な水槽が圧巻の店内は、海中のようにほんのり薄暗く、石井さんのセンスが光る店選びに、脱帽した。
水槽に沿った長テーブルとカウンター席を組み合わせての配置を一目見た私は、水槽が一番よく見えるカウンター席の一つに、さっさと陣取った。
水槽を眺めているうちに、販売促進課が到着したらしく、うおーすげぇーと騒がしい歓声が聞こえ始める。
色とりどりの魚が泳ぐ水槽は、明るくて、雨が降る窓ガラスのように背後の景色を映すことはなかった。
雨粒が張り付いては落下していくガラス窓と違って、水銀色に輝く気泡が軽やかに昇っていく。
人工的な光に照らされたコバルトブルーの小魚が水草をぬって泳いでいる。
「これ、熱帯魚ですかね」
唐突に横から声がして、その声が、電撃となってすっかり油断していた私の体を刺し貫いた。
私の隣のカウンター席に、ネクタイを緩めながら河内さんが腰掛けようとしていたのだ。
慌てて、周りを見回すと、だいぶ埋まったとは言っても、まだ席に空きがある上に、石井さんが座っている長テーブル方面は賑わい始めていた。
水槽なら、どこの席でも見えるはずである。
鼓動が、一気に速くなる。
「飲み物頼みまーす」と石井さんが呼びかけて、ビール飲む人ーと、カウントしていく。
「飲みますか?」と、真っ直ぐと私を見つめて確認してくる河内さん。
力のある鋭い、眼差し。
野生の、狼みたいだ。
私は追い詰められたウサギのように、首を縦に振るしかできなかった。
「ここ、ビール二つで」と、河内さんは、色々さらっと言って退ける。
・・ここって・・二つって・・!
顔が熱を帯びるのを感じた私は、違う違う!と頭を振った。
それに気付いた河内さんが「え、ビールじゃなかったですか?」と気づかって聞いてきたので、私は慌てて今度は横に頭を振る。
「いえ!大丈夫です。河内さんと、同じで・・」やっとそれだけを口にすると、河内さんと同じでとか・・と自分で言った言葉に妙に恥ずかしくなってしまった。
なんで、
どうして、こんな事態になった?
心臓がバクバクと音を立てているのが耳元で聞こえる。
ヤバい・・
化粧チェックしてない。
口紅、塗り直せばよかった。
ふと視線を下げると、緊張して手汗が放出されている指先のネイルは無惨に剥がれかけている。
あぁどうして昨晩、いくら残業で遅くなって帰宅したからといっても、そのままなにもせずに寝てしまったのかと、激しい後悔に襲われた。
いや、だって、私はもう、河内さんのことは・・
そんな私の隣で河内さんは、あどけない顔をして水槽を眺めている。
その横顔を見た途端、止めようもない愛おしさが込み上げてきた。
ヤバい・・
気を落ち着かせようとして、水槽に目をやる。
けれど、水槽のガラス越しに映る河内さんの顔しか目に入ってこない。
彼に気付かれないようにして、そっと深呼吸を繰り返す。
落ち着け、落ち着け。
溢れさせるわけにはいかない。
なんとしても、堪えなければいけない。
だって、
私は重いから・・
「お、ビール来ましたねー」
そう言いながら、私を真っ直ぐ見つめてグラスを渡してくる彼の温かい手に触れた途端、私の中でなにかが勢いよく弾けた。
もう、ダメだった。
私は・・
この人が、好きだ。
私は、河内さんが、好き!
そう大声で叫びたくなった。
失恋の辛さや痛みを恐れることなんて、くだらない。
なんだか、自制していること全てが、もうどうでもよかった。
ただ、河内さんが好きで、
好きで、
大好きで。
こうして、一緒にいられるだけで幸せで。
それだけが、今の全てでよくて。
それ以外、もう考える必要なんてないのだと悟った。
河内さんは、ビールを飲みながら水槽を眺めている。
彼の空いている片手は、私のグラスの側に無造作に置かれていた。
丸っこい爪が並んだしっかりとした手。
そんな彼の手元と袖の間に、綿埃が、ついていた。
私は、彼の手の根元を撫でるように優しく、それを取り除こうとしてみる。
河内さんは、なにごとかと振り返って私を見ると、なにも言わずに、視線を水槽に戻した。
調子に乗った私は、片手で彼の手に触れ、もう片方でわざと時間をかけて袖口に絡んだ綿埃を取り除いた。
その間、河内さんは、狼のような真っ直ぐな視線を水槽に向けたまま微動だにしない。
なにを考えているのかわからない人と、ふっとおかしくなり、同時にとても愛おしく感じる。
運ばれてきた料理を前に、はにかんだ笑みを浮かべながら、私と談笑する河内さん。
例え、
河内さんとどうにかならなくても、私はこれから先、この人のことをずっと好きでい続ける自信にも似た予感が芽生えた。
それはとても心地よく、幸福なことのように感じられる。
何十年経っても、きっと、
河内さんと出会えてよかった、
河内さんを好きになれてよかったと思い返せるほど、
彼は、いつのまにか私の心の中の特別な場所に根付いていた。
酔いが回って楽しそうに話しかけてくる彼を、私は真っ直ぐ見つめる。
もう、窓ガラスを挟まなくても大丈夫。
彼への愛情の花は、雨粒のような控え目な煌めきを持った、美しく透明な花なのだろう。
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