涙雨
幾片かの綿雲が、悠々閑々と流れていく様を、ガラス越しに眺めた。
視線を下げれば、遥か下方にはジオラマのような景色が広がり、様々な色のミニカーが行き交っている。
その景色を突き破るように林立しているのは、一様に行雲を映じた鏡のような高層ビル群。
鳥の囀りすら聞こえない奇妙な静寂が支配する。
時々、洗剤を吹付けるスプレー音と、水切りワイパーのゴムがガラスと擦れるキュッという音がするだけ。
「空に、飲まれるな」
それが、研修の最初に受けた注意だった。
人工物に投影された空は、奇妙な色合いを纏って、魔物のように人の心に忍び込んでくるのだという。
「作業中に飛んだヤツもいた。それまで、元気だったのに、いきなりだ」まぁ実際どんなことを思っていたのかは不明だがなと、やまっさんはあご髭を擦った。
「油断すんじゃねぇ」というのが口癖の、勤続三十年になるベテランやまっさんは、全くの未経験で入社した佐竹に清掃のいろはを教えてくれた。
顔を横に向けると、やまっさんが、大筆書道パフォーマンスさながらの切れのあるワイパーさばきを披露している。やまっさんの手にかかれば、窓の汚れは瞬く間に払拭されていく。
今日は、何度やっても水垢の線が消えてくれない。今日は、だなんて言い訳しているのは、素人だ。佐竹は、己の未熟さを痛感する。入社して一年。単純だと侮っていた窓清掃の奥深さに、溜め息の連続だった。
ゴンドラに乗った佐竹達がぶら下がっているのは、有名大手企業のオフィスビル。
四十階建てビルの三十階付近に差し掛かった時、ふとブラインドが開いた窓の内部に目がいった。
重役や社長クラスの部屋なのだろう。落ち着いた色の絨毯が敷かれ、大きな観葉植物と、なにを表現しているのか不明の抽象画が効果的に配置され、黒い革張りの応接セットが置かれている。そのソファーの上で、若い女性が、高級そうなスーツに身を包んだ中年男に襲いかかられていたのだ。
佐竹は、その女性の姿に目を奪われた。
揃ったまつ毛の伏目と、おちょぼ口、桃のような頬の小作りな顔には落ち着いた品が滲み出ており、シルクのような艶のある長い黒髪は、彼女が動く度にサラサラと音が聞こえてくるようだ。ブラウスやスカートから伸びた手足は、しなやかな女性らしい美しいラインを描き、露出が多いのに上品な雰囲気である。
女性は小さな顔中に皺を寄せて全力で拒んでいるが、重役と思しき男は、彼女の細い肩を掴んだ獣のような手を放さない。その手が前に回るのを、必死に抑える彼女の歪んだ顔には相手に対しての嫌悪が満ちていた。
「見るな。よくあることだ」
佐竹たち清掃員には、業務中に見たことに対しての守秘義務がある。
なにがあろうと、なにを見ようとも決して関わってはいけないのだと繰り返し言い聞かされていた。
佐竹も、それは重々承知していた。けれど・・
男が、力づくで女を組み敷いた。
押さえ付けられた彼女は、助けを求めて叫んでいるらしく、抵抗しながら水晶のような涙を零し始める。
それを見た佐竹は、我慢できなくなりヘルメットに覆われた自分の頭を、強化ガラスに連打し始めた。真っ青になったやまっさんが佐竹を羽交い締めにしようとした反動で、ゴンドラが揺れたが、それでも佐竹は頭突きをやめない。
不審な音に気付いた男が、さっと身を起こした。
彼女は、その一瞬の隙を見逃さず、脱兎の如く逃げ出した。
女の後ろ姿を忌々し気に見送った男が、再び顔を引き攣らせて周囲を見渡した時には、やまっさんの指示でゴンドラは上がり、窓の外には何者の姿も確認することはできなかったのである。
「死にてぇのか!」
やまっさんに一喝されて、佐竹はやっと、己がしたことの重大さに気付いた。
「・・見て、いらんなかったんですよ」
「それだって、関わっちゃいけねぇって教わったろ!」
申し訳ありませんでした!と、前職の銀行員時代で叩き込まれた謝罪をしながらも佐竹は、内心で胸を撫で下ろしていた。少なくとも、あの女性は助かったのだ。
新宿駅に向かう帰路。
水滴が降りかかってきた気がして空を仰ぐと、微かなピアノの調べが佐竹の耳を撫でた。
聞き覚えがある旋律だ。
佐竹の足は、途切れながら聞こえる音色に誘われるままに、小雨が降リだしたビル街を彷徨いだした。そうして記憶の中に曲名を手繰りながら夢遊病者のように辿り着いたのは、住友ビル下の三角広場。
そこに置かれたストリートピアノを、誰がが弾いていた。
陰気に濡れる外界とは打って変わり、木々が芽吹き始めた森の日溜まりにいるかのような柔らかい音色が、その場を満たしている。
しっかりとした丁寧なタッチで奏でられた音の粒は、独立した一音ごとにひっそりとした静けさを感じた。
弾くものの人柄が滲み出る、ゴルトベルク変奏曲のグレン・グールド版のアリア。
佐竹の好きな曲の一つだった。
アリアが溶けるように終わると、第一変奏曲へと弾き繋げる奏者。
目視できた後ろ姿は、腰まで届くほどの黒髪の、恐らく女性だろう。動きに合わせて、絹糸をまとめたような髪が優雅に揺れ動く。あの彼女のように美しい髪だ。
佐竹は、いやまさかと思い、鍵盤に乗せたしなやかな手と、ペダルを踏む美脚に目を滑らせた。・・間違いない。
演奏していたのは、襲われていた例の彼女だった。
彼女は、ゴルトベルク変奏曲の最後のアリアまでを弾き終わると、満足したように小さく息をついた。そんな様子を、映画を鑑賞する如く凝視していた佐竹は、錆び付いたロボットのように動くことができなかった。
予感に満ちた雨音が聞こえるようだ。それとも、それは佐竹の鼓動の音だったのかもしれない。
彼女が立ち去った後、雨は、いつのまにか止んでいた。
佐竹の三角広場通いは、退勤後の習慣となる。
窓ガラス清掃は、進めるごとに階が下がっていき、とうとう最下層のガラスを拭き終えた。明日からは、別のビルだ。
彼女のことが、気がかりだった佐竹は、水紋のような雲が描かれた空を投影するビルを見上げた。
彼女がもし、あの男の秘書のような立場であったなら、この間のようなことがまた勃発しないとも限らない。けれど、社会的になんの地位も財力もない自分では、どうにもしてやることができないのだ。せいぜい、彼女の演奏を聞くだけ・・
その日、彼女はピアノを弾きに現れなかった。
それから、数ヶ月後。
定期的に依頼される窓ガラス清掃が再び巡って来た。
・・彼女は元気だろうか?
離れた現場に行っていたため、しばらく三角広場には通えていなかった。
今回もやまっさんと組んで、ゴンドラに乗る。
本日は曇天。
春から夏にかけては、強い太陽光の鏡面反射が目にこたえるので、雨が振らないくらいの曇天がお誂え向きだ。
やまっさんと交互に鼻歌をうたいながら、作業を進める。
雑に千切ったような雲が幾層かに敷き詰められた空は陰気で、今にもひと雨ありそうだ。
佐竹は目の前のガラスに集中する。
脳内に、アリアが流れてきた。静寂の中になにかを予感させるト長調の和声構成が美しい。佐竹はアリアを奏でる彼女の姿を思い浮かべながら洗剤を吹きかけ、ワイパーを手にした滑らかな動きでもってしゅっと拭き取る。
下に屈んで、同じように洗剤を吹きかけて、ワイパーで滑らかに拭き取る。それから、横に移動して、洗剤を吹きかけてを繰り返す。ゴンドラが一段下がったので、洗剤を吹きかけ、第一変奏の力強い初めの音と共にワイパーで・・その瞬間、
ガラス窓に映った背後の景色に、長い髪がふわっと広がりながら通り過ぎ、次いで白い手足が映って消えた。
・・え?
ゴルトベルグの第一変奏曲が、大音量で鳴り響く。
佐竹は、慌てて振り返ると、下に大きく身を乗り出した。
「おい・・おいっ!どしたっ!なにやってんだよっ!」やまっさんが血相を変えて、佐竹に飛びつく。
「今、彼女が!彼女が、落ちていったんですよっ!」助けなきゃ!と、佐竹は我も忘れて、ゴンドラの縁に足をかけようとする。それを、やまっさんがやめろー!と、しがみついて押しとどめる。
「しっかりしろっ!だれも落ちてなんかない!よく見ろっ!」
やまっさんに頬を引っ叩かれて、ゴンドラの中に抱え込まれてようやく、佐竹は落ち着きを取り戻す事態となった。そうして怖々と下を覗いてみれば、なるほど、やまっさんが言うように誰かが落ちた形跡はない。じゃあ、今のは、いったいなんだったんだ?
第一変奏曲は、大音量のまま第二番へと流れていく。
「空に飲まれるなって言ったろうが」
水滴が、打たれてじんわりと痺れたようになった頬にあたった。雨が振ってきたのだ。
やまっさんが慌てて、上に合図を送る。ゴンドラが上がり始めた。
佐竹は、膝を抱えたまま濡れるに任せていた。
あの髪や手足は彼女のものだ。間違いない。そんなものを、見るなんて・・彼女は、どうしたのだろう?
縁起でもないものを見た後では、どう頑張っても嫌なことしか浮かばなかった。
上司のセクハラや強制猥褻に耐えられずに、飛び降り自殺をしてしまったとしたら・・
もしそうなら、さっきのは彼女の残像、だろうか?
わからない。
いつのまにか、変奏曲は聞こえなくなっていた。
「・・誰が、見えた?」
片付けが終わった後、やまっさんが煙草を吸いながら聞いてきた。
「あ、いつかの襲われていた女性、です」
「その人のことが、気がかりなんだな」と言った後、少し休めと付け足してきた。
街に出ると、雨は上がっていた。
随分と中途半端な降り方だなと首を傾げながら、佐竹は帰路を辿る。
解雇ということでは、ないらしい。ただ、ちょっと神経を休めろと、飛び降りでもされたら、たまったもんじゃないからと、そういうことであるらしいな。
・・疲れてなんか、いないんだが。溜め息をついて、空を仰ぐ。
積雲の隙間から、青空が見えた。
その付近だけ、ベルサイユ宮殿の天井に描かれたフレスコ画のように、全体的に淡い色彩で神々しい気配が漂っている。まるで、空間が歪んだ拍子に、次元の境目が破けてしまったような。
別世界だなと、佐竹は目を細める。別世界だ。
どこからか、アリアの旋律が聞こえた気がした。
幻聴か・・?
今日はなんだか、自分の五官に自信が持てない佐竹は、それでも三角広場へと向かった。
肩の上で切り揃えられた髪を揺らしながら、一心に鍵盤の上の指を滑らせている女性が見えた。あぁよかった、と佐竹は胸を撫で下ろし同時に、あそこで飛び降りていたら、今頃ここにいなかったであろう自分を思い、遅まきながら恐怖に震えた。
女性は、たっぷり一時間程演奏しラストのアリアまで終わると、ピアノのフタを閉めて立ち上がった。髪を切った彼女は、更に所作が磨かれ美しい。
佐竹は、夢見心地にその様子を見守る。
振り返った彼女は、佐竹に彼女が奏でる音色のような温もりのある笑顔を向けた。
「また、会えましたね」
佐竹は、彼女がなにを言っているのか理解できず狼狽し、答えに窮した。その佐竹の様子に気付いた彼女が、いつも、聞きにきてくださってと補足する。
「あ・・あの、すみません。キレイな音色に誘われて、つい・・す、好きなんです。その、ゴルトベルク変奏曲が・・」好きなどと口走った羞恥心から自然と尻窄まりになる。
すると、彼女の顔がぱっと綻んだ。
その表情は、先程の青空の断片のように淡い輝きを放っていた。
「私も、大好きです!」
別世界の断片を守るように重なる影となる雲から落ちてきた透明な雨滴が、佐竹の乾いた心に音もなく染み込んでいく。と思う間に、次々と降りしきる。束の間の雨が、降ってきたのだ。
涙が零れるような雨だな、と佐竹は思った。
それは、どんな涙だろうかと想像する。
「あの、よかったら・・」
もう一曲聞いていかれませんか? と、彼女は、恥ずかしそうに笑んだ。その顔を見ながら、傷を癒す涙であればいいのにと、泡沫の願いをかけた。
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