時雨
歌舞伎町の通り雨。
アマゾンの蛙を連想させる毒々しいネオンの光が、滲んでいく。
闇に潜む煙草と反吐の饐えた臭いが、絡まり合って濃厚に立ち上がる。
一瞬の雨音のように実体のない言葉だけが、支配する夜の街。
燃え落ちる煙草の灰に似た意味のない快楽を得られる、街。
なにかが残ることはなく、時間の流れに水没していくだけのこの街に、傘は、不要だ。
雨が降れば、濡れるだけ。
曇天を仰ぐアキの瞳は、無機質そのものだった。
雨滴を受けながら、双眼にむず痒い乾きを、覚えた。
アキが握りしめている紙屑は、福沢諭吉が印刷された紙幣。彼女の、今夜の稼ぎだ。
「はっぴぃばーすでー」とぅーみー、とアキは節をつけて呟く。
今日はアキの誕生日。ホームレスのアキが誕生した日だ。
歌舞伎町に足を踏み入れたのは、彼女が十四歳の頃。
両親と言われる人達は、飽きるほど離婚と再婚を繰り返し、最終的には血の繋がりなどない義父母が残った。
よくある話だ。
義父母は、お荷物でしかない彼女を忌み嫌い虐げた。そしてある夜、義父から、体を求められた。
これも、よくある話。
だから、逃げ出した。もう、親なんかうんざりだった。
あちこちを彷徨った挙げ句に、歌舞伎町に辿り着いた。
ここなら、なんとか生きていけるかもしれないと、思ったから。
けれど、未成年の彼女が歌舞伎町で生きていくには、歳を誤摩化し、売春を生業として生きていくしか、ない。
アキという名で、初めて客を取った、夜。
処女膜を破られた激痛はあったが、こんなもんかと、拍子抜けした。
他人に吐かれた唾の感触に酷似した小さな不快感と、皺くちゃの紙幣が幾枚か、残った。
この日から帰る家のない彼女は、アキとして生きていくことにしたのだった。
カプセルホテルと漫画喫茶が、彼女の家。
この街には、諸事情で住民票や戸籍を持たない訳ありの人間がたくさんいる。だから、余計な詮索をされることはない。
こんな蛆虫みたいな生活してるくらいなら、死んだ方がマシだろうと、侮蔑してくる身の程知らずの客は大勢いる。
その蛆虫の体を、欲に塗れた金で買ったのは、誰だ?
死にたいなんてのは、生活が保障された高尚な考えだ。
この世のどん底、地獄を知らないヤツが口走る、戯れ言。
早く成人したい、とアキは思う。
そうすれば、店に雇ってもらえるからだ。コソコソ客引きしなくていい。
腹の虫が、本日の食い物をよこせと反抗の声を上げた。
もう、雨は足早に通り過ぎてしまった。
アキは、溜め息をつくと、マックに向かう。
「・・こんなところで、なにしてるの?」
アキの客引きに引っ掛かる男の、お決まりの常套句。
彼女は乾いた唇を堅く結んだまま、ただ相手をじっと、見つめる。
男は、困ったように薄く笑うと、お腹減ってない? と更に聞いてくる。これもお決まりの台詞だ。
それで、次は、
「こんな物騒なとこにいたら、危ないよ。寒いし、一緒においで」そうして、ラブホに誘導する。
けれど、その夜は、行き先が違った。
年若い男は、アキを焼き肉屋に連れて行ったのだ。
「ここのカルビはうまいよ」そう言いながら、次々と運ばれてくる肉を焼いてアキにすすめる。
焼き肉自体が久しぶりだったアキは、無心になってがっつく。
彼女のその様子を微笑ましく見守る男は、大学生くらいだろうか。折り目正しいチェックの淡色シャツに、分厚い眼鏡の奥の細く優し気な眼差しが印象的だった。
「おれ、松本孝博。君は?」
箸を止めた彼女は一瞬迷ったが、アキとだけ名乗った。
「アキは、これからどこに行くの?」
アキは答える代わりに、俯いた。
行く所なんて、ない。
我が身を売って、今日の生活費を稼がなければいけないだけ。それをどう切り出そうかと思案し始めた彼女を観察していた孝博は、困ったように笑って、口を開いた。
「食べ終わったら、出ようか」
焼き肉屋を出ると、冷たい雨が降っていた。
視線を上にして呆然とついてくるアキを伴った孝博は、ラブホテル街に、足を向けた。いつものパターンだ。
「アキ、風呂、先に入ってきていいよ」
部屋に入るなり、孝博はベッドに寝転んでテレビをつけた。つまらないB級映画が流れている。
アキは言われた通りに、バスタブに湯を張って、沈む。
彼女の伸ばしっ放しの長い髪が、白い湯に散らばって水紋のような模様を描く。温まって桜色になった痩せぎすの己の体は、白いばかりで全然凹凸がない。それでもいいという男共がいるから、こんな生活が成り立っているのだ。
バスタオルを巻いただけの姿で風呂場から出ると、孝博は鼾をかいて眠っていた。
起こそうかと手をかけたが、あどけない寝顔を見て引っ込めた。
起きたら、ことに及べばいい。
それまでは。
仰向いて鏡のような天井を眺めているうちに、アキも眠ってしまった。
どのくらい経ったろうか。勢いよく流れる水音で目が覚めた。
隣を見ると孝博の姿が、ない。
シャワーを浴びているのだとわかった。
あぁこれからって、ことね・・
アキは静かに目を瞑った。
しばらくすると、孝博が出てきて、狸寝入りをしているアキを揺する。
「アキ、起きて。そろそろチェックアウトの時間だから。朝飯食いに行こうよ」
言われて起きると、既に着衣している孝博は、ドライヤーで髪を乾かし始めた。アキは、昨夜寝る前に洗って乾かしておいた下着と服をノロノロと身につけた。なんだか、妙な感覚だ。
それからは、週の半分ほどを孝博と過ごすのが常になった。
孝博はなにも聞いてこなくなったが、自分の身の上も話さない。
多分、大学生。多分、裕福。多分、親切な人・・
二人で会って、夕ご飯を食べて、ラブホテルで寝転んで話したり、カラオケに行ったりして遊び、朝ご飯を食べて別れる。
全て費用は孝博持ちで、けれど、手を出してくることはなかった。
「おれ、雨男なんだ」
電飾で作られた疑似星空の天井を二人で見上げながら、孝博はそう切り出してきた。
「だから、今夜も雨。おれが行くところは、どこでも雨が降る。昔だったら、崇められてたかもしれない」
孝博雨之伸様~と低い声を出したあとで、雨はさ、と続ける。
「四百種類以上の呼び名が、あるんだって。今の時期みたいに秋から冬にかけて降るのは、時雨ってつく雨が多い。時雨って、時の雨って書くんだよ。カッコいいよな」
孝博は、ラブホテルのベッドに寝っ転がって、色んな寝物語を、話す。
アキの知らない世界を、教えてくれる。
それが、好きだった。
彼の話を聞きながら眠ると、話してくれたような穏やかな夢を見られるのだ。
孝博といると、安心して子どものように眠っている自分が、いる。
彼の温かい手で頭を撫でられるのは、心地いい。
背中をトントンと優しくさすられると、安堵する。
・・まるで、お兄ちゃんみたい。
最近、欲望に塗れた客に体を触れられるのが苦痛になっているのは、きっと、孝博のせい。
お陰で、商売は上がったりだ。
僅かな金を切り詰めて生活し、雨が降ることを心待ちにするようになった。
あの優しい声音で「アキ」と、呼ばれたい。
孝博が口にする「アキ」は、売春婦の「アキ」じゃなく、小さな女の子の「アキ」だから。
彼に寄り添われて、眠りたい。
いつのまにか、それが彼女の願いになっていた。
そうして季節は、褪せてきた暖色を脱ぎ捨て、冬色の薄い衣を纏い始めた。
快晴の日が、続いた。
目眩がするほど眩しい冬の光は、視界が黒ずんで、なにも見えなくなる。
期待していたわけでは、決してない。
それなのに、虚しさの影が、濃く、落ちる。
頭痛が、酷かった。
体のどこもかしこもが、ひび割れてくるようだ。
孝博が紡いだ実体のある言葉たちは、乾燥したアキを潤していたの、かもしれない。
どうして、彼がどこの誰なのかを聞かなかったのかと、後悔が込み上げてきた。
一夜限りの儚い夢を売り物にしているこの街では、私情を挟まないのが暗黙の了解となっている。
だから。
でもそれは、どこかでこの関係が、永続しないことを予期していたからだったのかもしれない。
多くを知って、傷付かないように。灰心喪気、しないように。
アキは、そんな愚かな己を恥じた。
ただ、雨が降ることだけを、待ち続ける、日々。
けれど、僅かな湿度も奪い去る冷酷な木枯らしが吹き抜ける、だけ。
なかなか雨は、降らなかった。
今冬は、例年より遥かに降水量が少ないのだと、何日か前に泊まった漫画喫茶のパソコンで、知る。
働いていないアキの手持ちは、すっかり底をついていた。
稲荷鬼王神社の縁側の下に、こっそり段ボールを持ち込んで寝起きをしていたが、日ごとに本腰を据える寒さに難儀していた。
日中は、残飯と温もりを求めて外出したりもするが、それ以外は、霜焼けの手足を擦りながら、根がらみや大引きに寄りかかって、時折訪れる参拝者の囁きを聞くともなしに、ぼんやりと聞いている。
「・・オレは悪くない。あんなところで彷徨いてたあのヤロウが、悪いんだ。だから・・オレは悪くない」
「・・どこの誰だか知らねーが、身代わりになってくれたお陰で、助かった・・ナンマンダブナンマンダブ・・」
「・・あの巻き込まれた子、どうしてあんなところに、いたんだろうね?」
「さぁ・・人でも探してたんじゃないかい。よくある話さ・・」
あまりの空腹から、意識が白濁し始め、このまま、儚くなってしまうのではないだろうかと、考えるように、なった。
吐く息すら体温がないらしく、真っ白にはならない。
この神社には、天水琴という名の水瓶がある。
水瓶に溜めた雨水が、竹筒を伝って少しずつ地中に注がれることで、琴のような音を奏でるのだが、連日の晴天続きのため、水瓶は枯れてしまっていた。
アキは、その雨琴の音は、どんなだろうかと想像したりする。
彼の睦言にも似た、優しい音なのだろうかと。
そんな、ある晩。
夢うつつに、軒下から落ちる雨垂れの音が、聞こえたような気がして、重い瞼を抉じ開けた。
改めて耳を澄ますと、雨が、降って、いた。
凍えるような湿度を含んだ夜気の中、雨滴が、静かな音色を奏でている。
「・・アキ」
俄に、懐かしい声が、した。
それは、彼女がずっと待ち望んでいた声だ。
アキは、痺れた体を引きずりながら、両腕だけで這っていく。
「・・アキ」
再び、声がした。悲しそうな、声だ。
・・彼だ。
彼がいる。ここに。近くに。
やっと、会えた。
アキは、縁側の下から這いずり出た。
暗闇に目を凝らすと、石畳の上に濡れそぼったシャツの後ろ姿が、見える。
濡れて泥だらけになったアキは、必死に手を伸ばす。
開いた口から吐き出されるのは、わずかに白く見える細い息ばかり。
・・待って
・・行かないで
・・あたしは、ここに、いるの!
ふと、彼の歩みが、止まった。
宵時雨は、二人を隔てる距離を埋めるように、降りしきる。
そうして間もなく、通り過ぎていく。
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