桜雨


 今年も、桜の季節が巡ってきたことを、会社の窓越しに、知る。


 青空の下、満開に咲き乱れるソメイヨシノを一瞥したおれは、天気予報を調べる。

 夜から雨と出ていた。


 桜が咲く時期には、雨が降りやすくなる。

 桜流しと呼ばれ、花見好きからは忌み嫌われる雨。

 でも、おれは、桜の季節の雨が一番好きだ。

 特に桜雨と呼ばれる、花びらを叩き落とすことはしないが、項垂れた桜の花に大小の水滴を纏わせる静かな雨を好む。

 ビニール傘をさして、雨が降り注ぐ桜並木を歩いていると、聞こえるような気が、するから。



「ね、踊ろう」



 おれには、高校生から付き合っていた彼女がいた。

 名前を、愛という。


 大学生になってから、お互いの両親に挨拶して、家族ぐるみで遊んだりもした。

 おれは愛が大好きで、当たり前に、結婚するんだろうなと思っていた。

 だけど、


 ある日、突然、彼女と会えなくなった。


 連絡は取れるが会えない。

 理由を聞いても誤摩化される。心なしかそっけない返信ばかり。


 寂しさに際悩まされる日々が続いた。

 そのうちに、悪い予感に蝕まれて夜も眠れなくなってしまった。

 とうとう耐え切れなくなったおれは、愛と同じ大学の友達を問いつめた。


 愛は、講義中に倒れたのだという。


 そのまま緊急搬送されて入院。だが、彼女がなぜ倒れたのか、原因はわからないという。

 おれは、愛の実家を訪ねた。

 彼女の両親は、驚いてはいたけれど悲痛な面持ちでおれを招き入れてくれた。

 愛が倒れたと聞いたときから燻っていた不安が、彼女の両親の態度で煙を上げ始める。

 君には口止めをされているんだ、と頑に口を開かない父親の横で、母親がハンカチで目元を押さえ始めた。

 その異様な雰囲気に、只事ではないのを察した。


 不安の火が、勢いよく燃え始め、爆ぜる。


 打ち拉がれた帰路の途中で、愛からメールが届いた。

 明日、花見に行かないかと。


 明日は、雨の予報だ。


 だけど、そんなこと言っていられない。

 おれは、愛に会いたかった。



 夜半から降り始めた雨は、やむことがないま憂鬱な朝を迎えた。

 家を出てからも、会いたい気持ちと知りたくない気持ちのせめぎ合いで、夢の中を歩いているような覚束ない足元は、一歩毎にズブズブと沈んでいくような感覚に襲われる。

 これから待ち受けているだろう恐ろしいことに、目眩がした。

 傘を伝った雨垂れが、アスファルトに跳ね返って、おれのスニーカーを濡らしていく。


 指定された公園の桜並木は、愛と毎年花見をしていた場所。


 花見どころか、告白したのも、この公園だったと思い出し、更に歩みが遅くなる。

 行き慣れているはずの公園が、遥か彼方にあるように感じられた。

 そうして、ようやく辿り着いたおれを、同じビニール傘をさした後ろ姿が待っていた。


 久しぶりとも違うし、元気だったでもない、なんと声をかけていいのか迷っていると、愛が振り向いた。

 あんなに健康的だった肌色が、青白くなって見る影も無い。

 グロスを欠かさなかった剥き身のフルーツみたいな唇は、白く乾いて生気がなかった。


「・・あたしね、死ぬの」


 愛は、精一杯で笑うと、開口一番そう言った。


 急性骨髄性白血病。


 それが、愛の病名だった。


「もうダメなの。もうね、治らないの」最後の声が震えている。


 それでも気丈な愛は、唇を噛み締めて、足を踏ん張って泣くのを堪えている。

 泣いてしまったら、もう止まらなくなって、死の恐怖に囚われてしまうから。

 だから、


 でも、そんなの、いいんだよ。

 おれは、愛の彼氏だろ?

 愛が絶望的な時に支えてやれなくて、おれの存在って、彼氏の意味ってなんだよ!

 だけど・・


 傘の柄を握りしめる手に雫が落ちた。


 ごめん・・ごめんな。


 勉強が不得手なおれでも瞬時にわかった。

 どうしようもないんだって。


 これは夢じゃなく、現実なんだって。


 愛が死に絡めとられようとしているのに、おれは・・


 おれは、無力だ。


 おれは、愛を救えない。


 おれは・・


 シトラスの香り。愛が好んでつけていたコロンの、におい。

 その香りが、柔らかい腕が、オレを抱きしめた。

 二つのビニール傘が、音もなく落下する。


 おれは、いつの間にか大泣きしていた。鼻水まで垂らして。


「ごめん。ごめんね、ユータ」


 震える息が小さな音になって、おれの鼓膜に届く。

 聞き慣れた愛の声。おれが、好きな声。


 なんで愛が謝るんだよ。

 謝らなきゃいけないのは、オレじゃないか。でも、声が出ないんだ。

 喉から絞り出されるのは嗚咽ばかりで、おれ、情けないな。


「あたし、愛って名前の通り、みんなに愛されて幸せだった。ユータにも、たくさん・・たくさん」


 みなまで言えずに、愛はおれの肩に顔を埋めた。

 冷たく濡れそぼったジャケットの右肩が熱を持っていく。


 愛の熱い涙。


 愛の体温。

 いつもより高い。きっと熱があるんだ。


 だけど、愛は生きてる。


 生きて、ここにいるんだ。


 おれの手で、こうして抱きしめられるところに、いるんだ。


 遠くに行ってしまうなんて、もう二度と会えなくなるだなんて、この世から、愛がいなくなるなんて、そんなこと・・

 信じられない。

 嘘だよ・・

 嘘だ嘘だ!


「あたしのこと、忘れて、いい から、ね。ユータは、しあわ・・」

「バカっ!なんだそれっ!言うなよっ!そんな、そんなことっ!言わなくたって、いいよぉー・・」


 ダメだ、おれ。

 涙と鼻水塗れで、カッコ悪いな。でも、壊れた蛇口みたいに、止まらないんだよ。

 このまま、泣きまくって体の水分がなくなって、

 そしたら愛と一緒に死ねるかもしれないとか、そんなくだらないことまで浮かんで。

 だっておれ、

 愛と別れるなんて、そんなこと想像したことも、なくて。


 おれ達は、喧嘩してもいつも一緒にいるんだって漠然と、思っていて。


 一緒に、いるんだって・・


「もーう、最後くらい・・カッコつけさせてよね」


 俯いていた愛は、目を擦りながら顔を上げると、莞爾と笑んで、おれから離れた。

 それだけのことなのに、胸に杭を打ち込まれたような痛みを感じた。

 待ってくれ、もうちょっと、とおれは愛の手を掴もうと空を掻く。


「ねぇ、見て」


 愛が指差したのは、雨滴の重さにじっと耐えながらも咲いている桜並木。

 そして、その根元に広がった水鏡に逆さに映る桜。

 薄ピンクの花びらが散りばめられた水面には、雫が起こす水紋が幾重にも響き合い複雑な模様を作っている。


「きれいだね・・」


 屈んだ愛は、そっと水面に触れる。

 彼女の指から、新たな水紋が生まれて、広がって、いく。


 ああ、そうだ。

 おれは、愛という波紋を受けたから、今までの幸せな日々があったんだ。


 愛と初めて会った日。

 最初は生意気だって、お互い会えば喧嘩口調で。

 それなのに、ひょんなことからお互いの見方が変わって。

 それから、どんどん好きになって・・


「ユータ、最初の頃、ヤンキーみたいだったよね」


 くすくす笑う愛。好きな笑い声だ。


「でも、お年寄りに席譲って優しくしてるの見てから、見直したの、あたし」


 おれだって・・


「それでね、そこから気になって。気付いたら好きになってた。だから、付き合おっかって言ってくれた時、マジで嬉しかったんだぁ・・」


 揺れる水溜りに映っている愛の満足そうな微笑みが、綺麗だった。


 悲しいくらいに綺麗で、触れてはいけないほど綺麗で、おれは、雨に紛れて涙を流すことしかできなかった。


「ね、踊ろう」


 愛は、体を左右に揺らして、緩やかに回る。


 いつも甘皮を気にしていたふっくらした手が、柔らかく曲線を描く。

 おれがプレゼントしたブレスレットが、彼女の青痣だらけの細い手首を守るように銀色に光っている。

 雨に濡れて羽衣みたいに艶が出た水色のスカートが、風にそよぐカーテンみたいに閃く。


 その茶色い癖っ毛に、豊かなまつ毛に、濡れた頬に、雨滴を纏った花びらが、ひらりひらりと舞い落ちて、


 夢、みたいだ。


「ユータ・・大好きだよ」


 手を繋いだ時、

 キスした時、

 抱きしめた時、

 あの時この時、何度も聞いた言葉は、今までの中で一番優しくて切ない響きを伴っておれの体を駆け巡り、

 激しく揺さぶった。


 目を真っ赤にした愛は、莞爾に笑んで、踊り続ける。


 この美しい雨が、やまなければいいのにと、願った。


 このまま永遠に桜が散ることなく、時が流れることなく、ずっと、踊る愛の上に、降り注げばいいのに。


 愛、愛、愛・・


 おれは、泣きながら何度も、何度でも名前を、呼ぶ。


 彼女の爪の色みたいな桜の花びらに縁取られた、愛の誕生石でもあるサファイア色をした水面に、桜の大樹をバックに愛の踊る姿が逆さに映る。


 おれ、忘れないよ。


 絶対に、絶対に、忘れないから。


 愛してるよ・・



 愛は、それから数週間後に、この世を去った。


 成人式で着るのを楽しみにしていた振り袖を着て、髪をセットされて、化粧されて棺に横たわった愛は、綺麗だったけど、見ようとすればするほど実体がないものを見ようとするように、どうにも暮夜けてしまった。


 おれの瞼の裏には、元気だった頃の愛と、赤い目で踊る愛の姿だけが残った。


 今でも、桜雨が降る中を歩いて、桜の花びらに縁取られた水溜りを見つける度、あの時のまま踊っている愛が映っているような気がしてしまうんだ。


「ね、踊ろう」


 だけど、意気地のないおれは、まだ、愛と踊れないでいる。

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