恋雨
御伽話ぬゑ
天泣
眩しい・・
海面に反射する旭光が、覚醒しきっていない目を、嬲る。
護岸に砕ける波音だけの、静謐さに包まれた早朝の山下公園。
モネが描いたような淡い青空の下、ランニングシューズのゴム底だけが、規則正しい時を軽やかに刻んでいく。
目障りなカップルや邪魔な観光客がいない、この穏やかな時間が、好きだ。
インド水塔を経て、新緑色のイチョウに埋もれたホテルニューグランドの看板ネオンが巡ってきた頃、私は全神経を両耳に、集中させる。
鵜が朝狩りに潜る水音や、車の行き交う音などの周波数を一つずつ外していき、目的の音を、探る。
その悠然とした低音は、唐突に背後から、現れる。
毛の生えた肉食獣のように、しなやかな、足音。
湿度を感じる、呼吸。彼の、呼吸だ。
彼が、近付いて、くる。
鼓動が、速くなる。
バスドラの音のように、胸を揺らす。
振り向きたい衝動を押さえて、やや右に進路を寄せる。
近付く、呼吸。左側。
私は不自然にならない程度に首を捻って、見開く。
まるで、シャッターを切るタイミングを待つ、カメラだ。
彼が纏う風圧が、背中を煽る。
来た・・!
少し見上げる位置に揺れる、ツーブロックの髪。
物思いに耽る、横顔。
そして、彼の視線がふっと横に滑り、私の目と、交差する。
太めの眉下、奥二重の清閑な色っぽさが漂う、流し目。
一瞬の閃光が、胸を、刺し貫いていく。
私の瞳孔は、シャッターを切るように閉まった、はずだ。
彼は、減速することなく、バルコニーに差し掛かった私の横を通り過ぎ、氷川丸の横を通過すると、せかいの広場を目指していく。
私は走るスピードを上げて、ナイキのTシャツに包まれた逞しい背中を、追いかけ始める。
新緑の樹冠から差込む光の帯が、水の階段横を脱兎のごとく駆け上がる彼を、斑に染めていく。
無駄がない完璧なランニングフォームの彼と、息も絶え絶えな私との距離は、縮まらないどころか離れていくばかり。
せかいの広場を一周した彼が、未来のバラ園へ、鳥のように滑降していく。
今の季節にバラはないが、代わりに様々な花が少しずつ可憐な色を散らせている。
彼は、緑のアーチの下を、颯爽と走り抜けていく。
下り階段が苦手な私は、彼の絵のような後ろ姿を、その残像を、見送るしかできない。
彼は、インド水塔まで行くと、山下公園通りに出て、赤レンガ倉庫方面に文字通り風のように、走り去った。
残された私は、彼の汗の残臭が混じっているだろう空気を肺一杯に吸い込んで、呼吸を整える。
ー数ヶ月前。
たまたま早起きして、なんとなく出た散歩で、バラが咲き乱れる園を疾走する彼を、見た。
その無関心な様子が、脇目を振らない涼し気な横顔が、チーターのように美しいフォームが、私の脳裏に強烈に焼き付いてしまった。
以来、早朝ジョギングが日課となる。
継続の成果か、この頃では、彼と、目が合う。
その都度、狂喜乱舞してしまう己の心情。
それで、雨が嫌いになった。
朝起きて、雨が降っていると、ジョギングができないからだ。
合羽を着て無理して走りに行ったこともあるが、彼は現れなかった。
私に光を焼き付けていく彼に、雨は似合わない。
昼休みを告げるチャイムが鳴り終わって、廊下に出ると、担任から呼び止められた。
「モリヤマカナエ、陸上部に、入らないか?」
唐突に、そんなことを持ちかけられたので、返答に窮した。
「モリヤマ、最近、タイムがいいだろ?」
体育教師らしく、常にジャージ姿の四十路男は、結婚指輪を光らせながら、ストップウォッチを押す真似をして、暑苦しい無精髭の残った顔で、にぱっと笑う。
「・・ダルいんで、いいです」
これは本音だ。早朝ジョギングを続けているお陰で最近、常に眠く、スタミナが一日続かない。
なんだか、朝のジョギングのためだけに生きているような、そんな毎日になっている。
「そんなこと言わずに。な? 部員が少なくて困ってんだ。一度、見学だけでもさ」な、頼むよ、と担任は食い下がる。執拗な勧誘に、首を横に降り続けることが段々億劫になってきたので、曖昧な動きをしてしまった。
それを肯定と受け取ったらしい担任は、腕を組んで陸上の良さをとつとつと語り始める。
「というわけで、放課後。体育館前でな」言うが速いか、旋風のように消えた。
部活・・しかも運動部なんて・・ダルさの極みじゃないか。
帰宅部一択の私は、うんざりと溜め息をついて、窓の外に目をやる。
初夏の晴天。
刷毛ではいたような白筋が伸びる空に、活きのいい陽光が踊っている。
あの美しいフォームが蘇る。
それから、あの眼差し・・
彼という閃光を、記憶の印画紙に炙り出した私は、しばらく無心で佇んでいた。
放課後。
迷うことなく、昇降口を出て、そのまま校門を通過した。
追い掛けてくる野球部の声や吹奏楽部のチューニングの音に脅かされ、少なからず罪悪感は沸いたが振り解く。
部活なんて、青春臭いものに興味なんて、ない。
なんとなく登校して、なんとなく進級して、卒業できれば、それでいい。
友達だって、一生の付き合いになるわけでもない。
儚い縁だ。
適当に付き合って、適当に往なして、適当に笑えばそれで、いいじゃない。
「冷めたことを言うでない!悲しくなるぞ」
バスケ部のエースを努める彼女は、いつも溌剌としている。一緒にいて元気になれる存在だ。
そんなことを言われたって、仕方ないじゃない。それが人生なのよ。なんて、諦観した私の考えを、諦めずに何度でも諌める友達。でも、きっと、数年後には一緒になんていないんだ。
「わかるよ。所詮、人の一生なんて瞬きだってことはさ。それでも、今を精一杯生きたいんだよ、若者は」
生徒会役員をしている知的な彼女が眼鏡を押上げながら口にする言葉は、それなりに説得力がある。
「そうだよ。大事なのは今!今を駆け抜けることだよ!」
駆け抜けるって言葉、好きだな。そう思うのと同時に、私の脳内を、彼が風のように走り去る。
「カナエも恋でもしたら、きっと、今を百%で生きられるようになるよ」
なんで恋かよと爆笑すると、発情は人生に刺激を与える手軽な現象だからと意味の分からない返答をする。窓から差込む日差しが反射する眼鏡で不敵に笑う彼女は、どこまでが冗談かわかったもんじゃない。
「そういう相手、いないの?」
いないと即答した私の脳裏を、また彼が駆け抜けていく。
いやいや。違う。
あの人は。恋なんてそんな、可愛らしいもんじゃない。
もっと・・
もっと、強烈な、なにか・・
それから数日間、私は徹底的に担任を回避し続けた。
けれど、担任は決して諦めない。
廃部寸前なのかもしれないが、私には関係ないことだと無視し続けた。
だが、とうとう捕まってしまった。
珍しく図書館に寄ったのが、いけなかったのだ。
私に貸すつもりの陸上の本を借りに来ていた担任に、本棚を挟んでロックオンされてしまった。
慌てて逃げ出し、廊下を疾走する私の横になんなく並んだ担任は、にぱっと笑う。
「伸び伸びとしていて、いいフォームだ。やはりモリヤマは陸上部に入るべきだな」
結構です、と追い越そうとするが、満面の笑みを崩さない担任はそれを許さない。
すれ違った女性教師が、廊下を走っちゃいけませんと金切り声を上げる。そんなこと言うなら、コイツを止めてくれと心で願いながら、全力疾走の私は、徐々に息が上がってきた。
「持久走は呼吸を変えることが必要なんだ。呼吸さえマスターすれば、いつまででも走れるぞ。あ、手の振り方はもっとこうしたほうがいいな。その方が力が入りやすい。腕と足は連動しているんだ。飾りじゃないぞ」
息の乱れなど微塵も感じさせない担任が解説しながら、校庭へと誘導してくる。
体育館前でウォーミングアップ中の人影が、横並びに走ってくる私達に何事かと怪訝な顔を向けている。
私と同じ二学年の赤の線が入ったジャージを来た男女二人だ。
「部員はこの二人。だが、今年は、一人だけ新入生が入部したんだ。後から来るぞ」委員会に出てるはずだから、と汗一つかいていない担任は、肩で激しく呼吸を繰り返している私に、どうでもいい説明をする。
二人は見学者に興味はないらしく、気怠そうに体の曲げ伸ばしを再開した。
部員が増えようと廃部になろうと、どうでもいい。二人の物憂げな様は、そんな雰囲気を発していた。
「お、来た来た。わりと早く終わったみたいだな」
担任の声に、視線を上げると、濡れた頭を犬のように振りながら近付いてくる男子が視界に入る。
私の頬に水滴が、当たった。
最初、その男子の髪から勢いよく飛び散った汗なのだと思ったが違う。
水滴は、次々と降ってきた。
「うわっ!雨? マジか!聞いてないぞー!」担任が空を見上げて叫んでいる。
顔を上げた男子の鋭い奥二重と、私の目が、かち合った。
金色に輝く虹色の雫が、止めどなく降ってくる。
陽光を乱反射する景色は、眩しくてフラッシュを焚いているようだ。
私を凝視していたのは、髪から滴る水滴を手の甲で拭いながら立っていたのは、
彼。
私の脳裏を閃光で刺し貫いた、彼だ。
私達の上に、降り注ぐ光の雫が、勢いを増していく。
雨滴は私の髪を伝い、ワイシャツの透明度を上げ、制服に染み込んでくる。
けれど、私は濡れるに任せて、突っ立っている。
合わせたピントが鮮明過ぎて、目が眩む。
閃光。
彼の、呼吸。
鼓動が、響く。
彼は、私を注視している。
無関心な地に、微かな興味が飛来して瞬く間に消えるあの目で。
彼の背後には、白い雲から鮮やかな夏空が覗いている。
ああ、焼き付けられる。
彼の唇が、動く。
聞き慣れた呼吸が、音を紡ぐ。
「・・晴天が、泣いてるな」
呟いた彼は、空を、仰いだ。
引き寄せられるようにして、私も上を向く。
無数の雨粒が、プリズムのように輝きながら降リ注いでくる様が、迫ってきた。
それは、彼の走る姿のように、眩く、美しい眺めだった。
「・・きっと、うれし泣きだ」
私の言葉に、彼は微笑みを零した。
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