翠雨
雨上がり、草いきれを掻き分けて、君の下手くそな鼻歌を、辿る。
宝石のような雨粒がたっぷり連なった美しい蜘蛛の糸や、生茂った野草の葉からクリスタルのシャンデリアのように垂れた無数の雫。
新芽の先でダイヤモンドのように輝く水滴に彩られた、とっておきの彼女の舞台だ。
濃淡の青葉が重なる樹冠を、ステンドグラスのように透けさせながら輝く金色の日差しが、あくせくと荷物を運ぶ俺を、斑に染めていく。
俺は、某宅急便会社に勤める配達員。
神奈川の海沿いにある街の一画を担当している。
最初は、通販が趣味の人、なのだろうと思っていた。
週に二回、多くて三回の頻度で、彼女宛ての小包が届くからだ。
海を見下ろせる白壁のマンションに住む彼女は、こけしのような簡素な顔の作りをしていたが、切れ長で涼しげな色気を纏う目元が特徴的な女性。
陶器のような頬にかかる前下がりショートヘアが、目元を更に引き立てていた。
蠱惑的な憂いが含まれているようなその眼差しとかち合ったら最後、逸らすのに甚く苦労する。
そんな容姿の彼女は、俺がチャイムを鳴らすと、苦虫を噛み潰したような顔で大儀そうに扉を開ける。
差し出す荷物を無言で受け取って、俺からボールペンを引っ手繰ると、叩き付けるようにミナモとサインをして乱暴に扉を閉める。
その間、四秒程。
おっかねー・・
それが、ミナモさんの、第一印象だった。
自分で頼んどいて、なんだってあんな忌々しそうなんだよと不審に思ったが、どうしても不愉快な気持ちが先行し苛々するので、考えることを止めた。
彼女以外の届け先の住人が、温厚な人達ばかりだったから、余計だ。
だが、そうは言っても、週に二、三度は彼女に荷物を届けに行かないといけない。
一度、扉を閉める間際に睨まれたことが、ある。
その一軒以来、俺は、出勤して彼女宛ての荷物があることが憂鬱になってしまった。
睨むほど俺が嫌なら、どうして、置き配を選択してくれないのかと、自分が嫌われているのだと飛躍した考えをするまでになっていたのである。
そんなある日。
重たい足を引きずって、たった四秒で終わる明日は休みと自分に暗示をかけながら、手にした荷物を投げ捨てたい衝動を押さえて、やっとこ彼女の住む部屋の扉の前に立った。
すると、中から鼻歌らしき声が漏れ聞こえてくる。
音痴過ぎる音の配列で、いきなり高くなったりと酷いものだ。
あまりの下手くそさに、それまで悶々としていた恐怖がおかしさに反転した俺は、吹き出した。
その勢いのままチャイムを押した。
鼻歌が止んだ。
ミナモさんは、相変わらずの不機嫌そうな仏頂面を少し赤らめて対応に出てきた。
毎度のことながら、こんな荷物なんて受け取りたくないという主張が、彼女の全身から放出されている。
俺は、彼女に振り回されないように目を伏せて、機械的に接しようとした。
ところが、伝票にサインをしかけた彼女が、ねえ、と声を発したのだ。
鈴を振るような凛とした良い声だった。
「悪いんだけど、コレ、捨ててくれない?」
彼女からのひょんな頼みに、へ? と、は? と、え? が混ざった、へぇあ? と変な声が出た。
「いや・・申し訳ありませんが・・」と慌てて言葉を濁すと、だよねーと明るい声が遮った。
「無理言って、ごめんなさーい!」
そう言って、彼女は、白い歯を見せて、くしゃっと笑った。
初めて見る彼女の笑顔が、一億ボルトの雷となって俺に落ちてきた。
その後のことは、覚えていない。
とにかく俺は、落雷された衝撃で呆然となっていたのだろう。
気付くと、昼飯を口に突っ込んでいて、気付くと、支店に戻って退勤のタイムカードを押していた。
翌日。
昨日の笑顔の破壊力が凄まじく、昼まで我を失っていたが、空腹を覚えて、俄に我に返った。
もそもそと起き出して、冷蔵庫を開けると空っぽだ。
買い出しに行かなくてはいけないと渋々外に出て初めて、昨夜から雨が降っていたらしいこと、ついさっきそれが止んだことを知った。
雨で洗われた真っ新の空に、飛行機雲が白い線を引いていく。
清々しい気分だった。
吹いてくる慣れ親しんだ潮風すら、心地よく感じる。
俺は、仕事中にチェックしておいた隠れ屋風のパン工房に行ってみようと、駅の反対側に出て、住宅街の中にこんもりと茂った森への道を辿った。
残った水滴に反射してキラキラ踊る木洩れ陽の小道を歩いていると、微かな声が聞こえた気がして、立ち止まった。
耳を澄ますと、確かに聞こえる。
鳥の声にしては妙な旋律だ。
俺は、奇妙な音に誘われるままに道を外れて、しっとりと濡れた草むらに分け入った。
近付くにつれて、その鼻歌が音痴なのだと知れる。
そうして、虹色に煌めく水滴で飾られたメヒシバやネコジャラシを掻き分けていくと、突如、空が開けた。
蒼穹の下、ミナモさんが、舞っていた。
彼女の細い腕は、風を表現するかように軽やかに振られ、足は草や波が揺れ動く様だろうか。
バネのような全身で緩急を駆使して、まるで晴れた空に感謝でも捧げているかのように踊っている。
目を閉じた彼女は穏やかな笑みを浮かべていて、外れた鼻歌は止まらない。
神々しさすら感じる光景を前に、俺は、二度目の衝撃に、打たれてしまった。
俺は、彼女と会えることを心待ちにするようになった。
朝、出勤して、彼女宛ての荷物があれば狂喜し、なければ激しく落ち込んだ。
けれど、俺の一喜一憂に反して、ミナモさんの表情は日に日に険しくなっていった。
彼女宛ての荷物の頻度が、急増したのだ。
毎日のように届くようになった荷物の送り主と住所は、毎回バラバラだった。
幾つかの有名な通販会社記名になっている場合が多かったが、時々、男性の名前や女性の名前などが書かれていることがあった。
荷物の梱包の仕方や、段ボール箱の素材やデザインも毎回違う。だが、
彼女宛ての荷物の伝票を何十枚となく見続けていた俺は、ある日、気付いてしまったのだ。
伝票に、印刷もしくは書かれた差出人の住所が似通っていること、更に伝票の端に、小さなWがついていること。それを、確認して嫌々受け取る時が、一番彼女の顔が歪むことを。
俺は、そんな怪しげな荷物に書かれた住所を調べてみた。が、架空のものらしく、なかなかヒットするものが見当たらない。電話をかけてみてもデタラメのものらしく、使われていないのだ。
仕方なく、受取人不明で全てのWがつく荷物を送り返す手続きをしてみた。そのうちの幾つかは、どこかには届くだろうと、当たりをつけたのだ。
すると、電話がかかってきた。
どういうことか説明しろ、と言うのだ。
チャンスだと思った俺は、電話受付が控えた相手の電話番号に折り返した。
Wは、若い男の声をしていた。
俺と対して変わらない二十歳後半くらい、だろうか。
頻繁に、声が微妙に震えて不安定に音が揺らぎ、怒鳴り声を出す直前のような奇妙な間が空く。
「そ、そ、そんなわけ、ないだろ。ちゃんと彼女に、と、届けろよ!」Wは苛々と責め立ててきた。
「はあ・・そう言われましても、こちらでも困っている次第で。なにしろ、お届け先の住所に参りますと、以前は若い女性が対応されてたんですが、今は屈強そうな強面の男性が出てきまして、そんな女は知らん、ここはオレの部屋だと言い張るのです。そこで食い下がると、終いには逮捕するぞと脅してくるのです。どうも、あの男の方は短気な警察官のようで。以前の女性の方は、引っ越しされたのではないですか? こちらとしましては、逮捕されてはたまりませんし、もし、どうしてもと言うことでしたら、お客様自身でお届けになられてはいかがかと思いまして」
手間隙かけてこんな陰険なことに熱中しているようなストーカーに、行ける度胸はないだろうと踏んだが、案の定、受話器の向こうからは荒い鼻息しか聞こえてこなくなった。
そんなそんなと呟く声が聞こえてくるが、確かめに行く気はなさそうである。
結果、Wからの荷物は、止まった。
恐らくストーカー被害も。
驚くことには、彼女宛てで来ていた会社名義の荷物なども全てが、Wからの贈り物だったらしいのだ。中になにが入っていたのかなんて、考えたくもないが。
そして、俺が、配達員として彼女に会うことは、なくなった。
でも俺は、個人的に彼女に近付くことはしなかった。
ストーカーで疲れ果てている彼女の、新たな悩みの種にはなりたくなかったからだ。
それに、配達員であることを利用しての個人情報乱用は、社会人としてどうかと思ったのである。
ただ、時々、例の空き地に行く。
特に、雨が上がったばかりの晴れた日には。
うまくすると、見れることがあるのだ。
広がり始めた初夏の空に舞踊る、光り輝く髪と手足が。
「ちょっと、配達屋さん。お茶、飲んで行きなさいな」
お馴染みの俺の姿を見た老婆が、庭先から声をかけてきた。
「珍しいものがあるの。あなた、きっと知らないわよ」
急いでいたが、珍しいものと聞いて興味が沸いた俺は、荷物を持ったまま老婆の庭先にお邪魔した。
老婆が、香りのいい湯飲みと共に差し出してきた鉢には、小さく白い花が幾つか咲いていた。
「サンヨウカっていう名前なの。花が咲くのに三、四年はかかる珍しーい植物なのよ」
老婆が始めた解説を、へぇーと相づちを打って聞くともなしに聞いていた。
「栽培が成功して、幾つか咲いたから、よかったら、おひとつどーぞ」
「いやいや。だって、これ、希少価値の高い花なんですよね? 俺みたいな花わかんないヤツにくれなくても、売ったりしたらいいんじゃないですか」
「この花ね、一週間で散っちゃうの。だからかしら。見ることができると幸せになれるなんて言われてるのよ。どうしようか考えてる時に配達屋さんが通ったのも、なにかの縁よ。幸せのお裾分けってことで」
尚も辞退し続ける俺に、鉢を押し付けながら、空を指して明日は雨予報が出てるからお誂え向きよ、と意味のわからないことを言う老婆。とうとう呆けてきたのかと心配せざる負えなかったが、結局押しに負けてもらってしまった。
翌日、老婆の予報通り、雨が降った。
日ごとに濃く鮮やかになっていく新緑に降り注ぐ、恵みの雨だ。
何気なくベランダに置いておいたサンヨウカを見て、仰天した。
雨に濡れた花びらが、透けているのだ。
なんだ、これは!
驚くと同時に、ミナモさんに見せてあげたくなった。
晴れ予報は、明日。
タイミングよく休みだった。
保ってくれるだろうか。というか、晴れたら白くなってしまうかもしれない・・
けれど、雨は翌日の昼まで降り続いてくれた。
俺は、雨が途切れたタイミングで、森の空き地へと向かった。
手にした鉢には、透明になったサンヨウカの花が、今にも溶けてしまいそうな儚さで咲いている。
もう限界が近かった。
彼女は、いるだろうか・・
森は、透き通ったゼリーのように揺れながら、少しの振動でつるんと落下していく雫が、雲間から顔を出した太陽の光を宿し始めている。
舞台はすっかり整っていた。
俺の不安をよそに、鼻歌が聞こえてきた。
碧落の元、ミナモさんは、踊っていた。
雨が降っている時から既に踊っていたのかもしれない。
彼女が動く度に、水滴が宙を舞う。
白いワンピース姿に裸足で踊る彼女は、まるで、天に祈りを捧げて舞う巫女のようだ。
俺は、いつものように、木陰からこっそりと彼女を見つめる。
ミナモさん・・
俺は、君のために、なにもしてやれないけれど、
こうしていつも遠くから、君の幸せを、見守っているよ。
俺は、手にしたサンヨウカの花を千切って、空に投げ上げた。
一陣の風が吹いて、氷で作られたようなその透明な花をミナモさんに振り掛けた。
花は、光を反射してダイヤモンドのように輝きながら彼女を彩る。
その光景は、この世に、これ以上の美はないのではないかと俺に思わせた。
「ありがとう」
ふっと目を開けたミナモさんが、誰にともなくそう言って微笑んだ。
俺は、三度めの衝撃が降ってきたのを、感じた。
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