慈雨
歪んだ私の中、降り積もる塵。
薄汚い色をした塵が、後から後から降ってくる。
段々、息苦しくなってくる。塵の山は重く伸し掛かり、思考を侵食してくる。
鬱陶しい。
燃やしたい。
火を点けて、積もり積もった塵を私ごと跡形なく燃やし尽くしたい。そんな、狂気な考えが浮かぶ。所詮、私は普通になれない。
焦る。ワイパックスを、飲まないと。
私は鞄の中の残量を思い出そうとする。
正常を装おうとしている自分。正論の塵を四つん這いになって探している自分。その全てに嫌気を感じる。
私は偽善者。
偽善者は、ふと気付く。足下に広がる、暗くて深い罅割れに。ぱっくりと口を開け、どんよりとした闇が蠢く罅割れに。
その闇にじっと目を凝らしていると、徐々に像が結ばれていく。空ろな目で私を見上げる女の顔だ。死んだ魚の目。見覚えのある顔・・私・・
笑わなくなって久しい私の顔、だった。
老けていて、弛んでいて、皺がよっていて、陰気な顔。塵に塗れた嫌な顔。消したいほどに嫌な・・
雨垂れの微かな音で、ふっと我に返る。
見上げると、静かで物悲しい色をした雨が降っていた。
醜い私の心を濡らし、増々惨めにさせていく。
人を思い遣るような振りをして、中途半端な言動で振り回し、結局は土壇場になって自分を守ろうとする意地汚い私。常に自分が発した言葉を後悔して、分析し、その対処にばかりかまけて、勝手に不安になったり、結論を先付けしたり、勘違いの読心術で知ったような態度をとったり。
本当は優しくなんてないくせに、賢くなんてないくせに。くだらない。私はくだらない。
自分を大層な価値のある人間に見せようと見栄を張って、過去の愚かしい経験すらいい経験だった、為になっただなんて前向きな考え方に無理矢理変換しようとしている、嘘つき。
違う側面から見たら悲しいだけだから、惨めなだけだから、そう思い込みたいだけで、本当にはそう思えてないくせに、また、そうなるんじゃないかって不安で不安で堪らないくせに、私は到底嘘つきだ。
冷たい雨に打たれても、清く潔く見えるような強い人間なんかじゃない。
私は弱くて愚かで、優柔不断で、冷静さに欠けてて、人に流されやすくて、ただ必死に見てくれを立派にして、強い振りを装っているだけの醜い女なのだ。
誰に褒められるところもない、冷たい雨から身を守る術さえもなく、愚かな選択をし続けてきてしまった悲しく濡れそぼった大袈裟なばかりのバカな女。それなのに、
そんな私の隣で、彼はなにも言わずに一緒に雨に濡れている。
彼自身も傘を持っていないから、傘をさしかけてくることはしないけれど、雨宿りをすることもせず、文句も言わず、ただ黙って静かに、雨に濡れている。
自分は雨男だから、どこに行っても雨になるのだと、諦めにも似た生真面目な顔をして。
私が勤める緑化公園に、彼が警備員として来るようになってから、一年ほどが経った。
窓口で案内をしている私に、彼が落とし物を届けたり、迷子を連れてきたりしているうちに会話が多くなっていった。
年が明けたら自衛隊に入隊することが決まっていると話す彼。
違う世界の人なのだと思った。
職場には他に若い女性が三人。公園スタッフで唯一青年の彼は人気者だった。だから、きっと、そのうちの誰かとくっつくのだろうと予想して、私は他人事でいたのだ。有り得ないと思っていた。だって、私は嘘つきで、見た目よりも最低な女だから。それに、歳も離れ過ぎている。だから、仲良くしてもそれ止まりのつもりで、いた。
でも、どうしてか、彼に母のような姉のよう年上風を吹かす度に、忸怩たる思いが湧き、胸が痛んだ。
無理してんのかなぁ。でも、
でも、
でも・・・D言葉は中途半端な私の十八番。それで、よく、彼が次の休園日にどこかに行かないかと誘いをかけてきたものだ。どこに行きたいのかと聞けば、バラがある違う公園だと言う。バラって、大の男が・・それに、どれだけ公園が好きなのかと、吹き出しそうになりつつも快く了承した。
「やっぱり・・・降っちゃいましたね」
私は、でも・・と呟こうとして思い直して止める。
彼といる時はそんな弱く謙遜した言葉を使う自分でいたくないと、偽る。
けれど、そんな自分自身に戸惑い安定しない挙動を見せてしまう。自己が安定しない情けない弱い私。
疲れるのは、自分に自分が振り回されているから。決して彼のせいじゃない。
もっと気軽に考えればよくて、なにも考えなくていい。その時に感じた感情だけに身を委ねて・・
そうやって彼の心を掴もうとしているくせに。気ままで勝手で軽やかな年上女性を表面だけで演じて。
私は、やっぱり嘘つきなんだ。大騒ぎし過ぎず、アピールし過ぎずに、自分自身の感情を分析して、冷静に対応しているように・・と、理想的には実行できそうもないから、こうしてズレに苦しんでいる。
私は自分で大切に築いてきたことを、人を壊してしまう悪癖がある。それで、今までどれだけ転職を余儀なくされてきたのか。私は普通じゃない。ワイパックスがないと精神すら保てない。だから、
隣でぼんやりとどこかを眺めている彼をそっと盗み見て、微かにぞっとする。
私は、また、やってしまうのだろうか?
私は、いつか、彼すらも、壊してしまうのだろうか?
恐怖が、ジワジワと背中を這い回る。
・・・嫌だな。
なにも起こってはいない、なんの関係にもなっていない他人に抱いた初めての気持ち。欲。
「・・・少し歩きませんか? ここにいても、濡れていく一方だ」
遠慮がちに、その大きくて筋肉質の背格好に似合わず、不思議な間を挟みながら提案してきた彼。
若木のように低くて真っ直ぐな、よく通る声。
特に感情を出すことはなく、いつも落ち着いて思考に耽っているように見える顔。
誰にでも合わせるのが上手い、順応性が高い、育ちのいい性格。私とは正反対だ。
狼狽している私を一瞥してから、頷くようにゆっくりと大股に歩を踏み出す彼の濡れ始めた背中を慌てて追い掛けながら、気付いてしまう。私は彼を失うことを恐れている。それはつまり、
頭でっかちの私は、心理学を総動員した否定的な思考を開始する。
誰かを好きになる・・親和動機、寂しさ、自分に足りないものを埋めるための存在。不安が強いほど、現実逃避をするために気を紛らわすための相手。それも、一人でいられないから。
理想の相手だと思い込むのは、弱っている時に助けてもらった場合。好きだと勘違いするのは、自分を保護してくれそうだから。生殖本能の一部で、よりよい相手に自分の遺伝子を残すための生物的行動の一環でしかない。安らぎや癒しなどの特定の感情を満たすためだけの存在としても、そう。自分を理解してくれる相手がいれば、孤独を解消できる。共感して刺激もくれる。新鮮な発見は面白いし楽しい。全て、自分都合。結局は相手の中に自分の新たな可能性や、理想や存在感を見ているだけ。その人といればもっと幸せになれるかもしれないと、図々しくも思い描く。それって、きっと、所有欲。性欲。欠乏愛情欲求。ありのままの自分を受け入れてくれる安心感。申し訳ないと思いつつも、居心地の良さと束縛されない気楽さを享受する。ちゃっかりと自分の価値の再認識までして。好きになるなんて、そんなもの。吊り橋効果や不安な時の親和動機、単純接触効果で、いくらでも簡単に人を好きだと錯覚することなんてできる。簡単に好きになって、簡単に嫌いになる。人を好きになる構造なんてそんなもん。そんなこと、わかっている。
わかっているのになぁ。ほんと・・・
前を歩く濡れ始めた広い背中が不意に止まって、曇天を見上げた。
「・・・雨、あがってきました」
その言葉につられて見上げると、くすんだ色の空の先、重く垂れ込めた雨雲の隙間から神々しい光の筋が幾つか差し込んできていた。
ヤコブの梯子。
いつか雨は気にならないくらいになり、新緑色の葉や草むらにかかった蜘蛛の巣が美しいスワロフスキー硝子のような水滴を幾つも身につけて、雲の動きにつれ徐々に本数を増やす光の信託を待ち受けている。
その身に纏った水滴を利用して、一斉に反射して七色に輝く気でいる。
それをじっと見つめている彼。
私には七色に輝けるだけの水滴のようなものは持ち合わせては・・・いや、もしかしたら長年流した汗と涙で反射させられたりするのかななんて、またしてもくだらない事を考える。私は汚いから、到底七色にはならなさそうだなんて。なんだかふと、笑えてきた。
彼がそんな私の様子に気付いて、ゆっくりと振り返る。
少し笑って、どうしたんですかと聞いてきた。
はにかんでいるその笑顔。なんだか嬉しそうなのは気のせいか。
彼は、雨を引き連れる雨男。
雨は雨でも、慈雨だ。恵みの雨、慈しみの雨。
私の中の汚い塵すらも、慈雨ですっかり濡らし、七色に輝かせようとでもさせるようだ。
そんな彼と一緒にいたいと欲が湧く。
「同じものを見ていることが、嬉しいなと思ったから」
私がそう言った途端、彼が透けるように笑って、同時に太陽が顔を出した。
慈雨を纏った草木が、彼の笑顔が、一斉に輝き始めて、私の目を、射った。
恋雨 御伽話ぬゑ @nogi-uyou
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