七月の七分七十七秒のゆくえ ~革命のエチュードを、きみに~

四谷軒

1794年7月27日

 ――七月の七分七十七秒のゆくえ


 そう記された怪文書、というかメモが出回っている。

 フランス共和国公安委員会、戦争遂行委員のラザール・カルノーは、そのメモをポール・バラスが情婦のベッドに置き忘れたもの、として手に入れた。

 カルノーはそのメモをめつすがめつして、異常な点が無いかどうか確認したが、特になかった。

 ただ、メモの片端には、その情婦とやらの落書きなのか、苺の絵が描き添えられていた。

 どうも、走り書きらしく、しかもインクが黒のため、ごちゃごちゃとした丸と丸の集合体で、さながら黒苺といったところだろうか。


「とにかく」


 カルノーは公安委員会の主要メンバーにして、年来の友であるロベスピエールにそのメモを突きつけた。


「このようなメモが、われわれが危険分子と目をつけている、ポール・バラスの情婦の家から見つかった、ということだ。これを君はどう見る、ロベスピエール?」


「…………」


 ロベスピエールは書類から目を離さない。

 決して、カルノーのことを無視しているわけではない。

 公安委員会の、主席とも言える彼には仕事が山積していた。

 公安委員会という名だが、いわば内閣である。

 国王を打倒し、処刑した革命政府は、これまでの国王と政府が担当していた行政府を設ける必要があった。それは紆余曲折をたどり、結局、ロベスピエールの主導する「効率的」かつ「合理的」な公安委員会が成立される。

 滞っていた国務を負うことになったそれは、「より早く」ことを進め、処断し、特に「危険分子」の処分にその早さが象徴されている。

 そして今、内閣総理大臣のような立ち位置にあるロベスピエールは、目下、ありとあらゆる仕事が――決裁が押し寄せ、忙殺されていた。


「……それのどこがおかしいんだ、カルノー?」


 ようやくにして顔を上げたロベスピエールは、カルノーの手にするメモを、受け取る手間すら省いて、一瞥してから、そう言った。

 だがそれだけだと、さすがに同僚にして友人に対して非礼かと思ったのか、こうつけ加えた。


「……


「それは……そうだが」


 カルノーの背後、他の委員たちの間で、それはバラスと情婦の「あの時間」のことじゃないか、と軽口と笑声が上がる。

 ロベスピエールがその方向に目を向けると、即座に笑い声は収まる。


「……たしかに、……しかし」


 カルノーが口ごもりながら、懐中時計を取り出す。

 ブレゲ製のそれは、フランス革命暦にもとづき、十進法で時を刻んでいた。

 そう、で。

 ちなみに、十時間で一日とし、十日で一週間というのが、フランス革命暦における「時間」である。

 そうまでして、メカニカルに時を管理したかと思いきや、日にちや月には名前が与えられていた。詩的な名前が。

 たとえば、革命暦元年元日(西暦一七九二年九月二十二日)は、葡萄月ヴァンデミエールの葡萄の日である。


「何かが引っかかるんだ」


 カルノーは逡巡する。

 後年、「勝利の組織者」として知られる軍人であり、そして数学者としても名を残す彼には、このメモに、引っかかりを感じるのだ。

 そこまで言われては、とロベスピエールはそのメモを手に取る。


「ふん……この黒っぽいは何だね? 苺? まあそれはいい……うーん……そうか!」


 ロベスピエールは、のできた目を見開いた。


「この七月だ! これじゃないか、今は七月じゃない! もう八月だという意味では無いぞ。七月ではない、熱月テルミドールだ!」


 ロベスピエールはひとり納得し、そしてだがそんなのでは、バラスを反革命と断ずるには薄い、とこぼした。


七月Juillet……カエサルの月……ゆえに、反革命? 牽強付会な論法だな。カルノー、やはりこれはバラスかその情婦の落書きだよ。論ずるに足りん」


「しかし……」


「くどい!」


 だがロベスピエールはそれこその無駄と断じた。


「くどい! カルノー、われわれはそんなことにかかずらわっている暇は無い!」


 ロベスピエールはそう言うや否や、件のメモを床へ放り投げた。

 他の委員たちがそのメモを拾って、回し読みする中、ロベスピエールはカルノーを睨んで、言った。


「仕事に戻りたまえ、カルノー。君には君の任務がある。われわれの革命を軍事的に終わらせようとする輩を、排除するために」


「…………」


 悄然と自席へと向かうカルノーに、だがロベスピエールは無情に過ぎると思ったのか、声をかけた。


「……バラスはどちらにせよ、。こんな落書きに頼らずに」


「……わかった」


 以後、カルノーはロベスピエールとは距離を置いた。

 かつての友は、今では革命に取りつかれ、その犀利な頭脳の輝きを失いつつある。

 いや、それはいい。

 それよりも、あのような狷介な男ではなかった。

 仕事が迫っているのはわかる。

 かつてのように、国を良くしよう、詩を作ろう、音楽を聞こう、そして……絵を描こうと声をかけて来た快活さが、今のロベスピエールには無かった。


「もう、あのときには戻れないのか……あのときの、アラスでの文学と集いの日々に……」


 その時ふと、カルノーは、その文学の集いにいた、もうひとりのかつての友のことを思い出した。



 深夜。

 パリの街角を、二人の酔漢酔っぱらいが歩いていた。

 いや、酔漢に見える男が二人、蹣跚まんさんと歩いていた。


「……貴様のくだらんメモに、こんな理由があったとはな、フーシェ」


「……くされた時のため、と思っていたが、まさか本当に失くすとはな、バラス」


 そう、二人の男のうち、痩せぎすなひとりはジョゼフ・フーシェ。大柄なひとりはポール・バラスだった。

 フーシェはつい最近、リヨンの王党派を「鎮圧」して、リヨンの霰弾さんだん乱殺者という悪名を轟かせている革命家である。

 一方のバラスは、捕虜を何百人も殺してその金銭を奪い、公金を使い込み、やはり悪名を轟かせている。

 そしてフーシェは後年、警察卿となり、バラスは総裁政府の総裁となる。

 ……熱月テルミドールの反動によって。


「そう、つまらなさそうな顔をするな、フーシェ。カルノーの手下が、つまりはが、おれを張っているのは知っていた。だから、欲しがっているものをくれてやったのさ」


 情婦とには、邪魔だったからなとバラスはうそぶいた。

 フーシェは眉一つ動かさない。


「カルノーは感づく可能性があった。そういう意味では賭けだった」


「おれは賭けは強いぞ。この前も、ボナパルトって奴を相手に……」


「そういう問題ではない」


 バラスはフーシェにため息をつかせることに成功した。

 だがそれが何ら意味のないことを、バラスも、フーシェも知っていた。


「とにかく」


 フーシェは道に転がっていたびんを蹴った。


「……たしかにバラス、貴君の言うとおり、公安委員会の委員からも、われわれに接触を持とうとしている」


「だろう」


 バラスは得意満面な表情を浮かべる。


「おそらくロベスピエールは、今は七月ではなく熱月テルミドールだ、といるだろう」


「……首肯する」


「……まあ、そんなに引っかかるようじゃ、かつてのアラスの天才弁護士サマも、サマになってないというもんじゃあないか?」


 アラス、という地名にフーシェは初めて眉をぴくりと動かしたが、バラスはそれに気づかず、と笑声を上げた。

 そして真顔に戻ると、「帰る」と告げた。


「……どちらに?」


「知れたこと。にだ」


 悪行三昧だったバラスは、ロベスピエールによってパリに召喚されていた(フーシェも同様に召喚されていた)が、それがいつの間にやら国民公会の軍の総司令官になっていた。

 むろん、それがバラスの目の前に立つ、痩せぎすの鋭い目をした男の工作であることは、言うまでもない。


さらばだオールヴォワール。次会う時は、に」


 バラスは伊達男らしく、片目をつぶって手を振り、そしてラ・マルセイエーズを唄いながら、去って行った。



 あとに残ったフーシェは、懐中からメモを取り出した。

 そのメモには「七月の七分七十七秒のゆくえ」という一文と、の絵が、描き添えられていた。

 そう、これはフーシェら、反ロベスピエール派の決起の符牒である。

 七月だの、七分七十七秒だのは、目くらましに過ぎない。

 このメモの要諦ようたいは、黒苺の絵だった。 


、か……」


 黒苺の日。

 それは、フランス革命暦によると、熱月テルミドールの九日を意味した。

 革命暦二年熱月テルミドール九日、あるいは西暦一七九四年七月二十七日。

 のちに、熱月テルミドールの反動という、クーデターの起こった日として知られることになる日である。


「この意味するところを、ロベスピエールはわからなかった……」


 ロベスピエール以外の他の公安委員たちの何人かは察して、フーシェに連絡を取っているというのに。


「カルノーにしても、おかしいと思うだけ、か……」


 かつて。

 アラスという街において。

 ロベスピエールとカルノーとフーシェは出会った。

 その出会った場である文学の集いにおいて。

 ロベスピエールは、文学だけでなく、楽曲も、絵もやろうと言った。

 そして国のことも考えよう、、と。

 カルノーは大いにうなずいていた。

 フーシェはというと、それを真に受けてへたくそな絵を描いて、二人に笑われていたものだ。

 これが音楽なら、せいぜい練習曲エチュードだ、と。

 だが悪くなかった。

 快活な、闊達な笑いだった。


「…………」


 フーシェはメモを破り捨て、無言で去って行った。

 去り行くその背が少し、ほんの少し、寂しそうに見えた。





 ……熱月テルミドール九日のクーデター。それにより、ロベスピエールは失脚、そして処刑された。

 ロベスピエールと距離を置いていたカルノーは断頭台を免れたが、やがて王党派の疑いをかけられ、亡命を余儀なくされる。

 一方のフーシェは、フランスの警察卿として生き抜き、のちにトリエステに隠棲した。

 その余生において、詩を作り、音楽を聞き、絵を描いて過ごしたというが、定かではない。






【了】

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