月を見たい彼女は、ウサギのお面を被る

月瀬澪

月を見たい彼女は、ウサギのお面を被る


 月にはウサギが住んでいる。



 そう言ったのは早苗さなえだ。


 昔、どこかの国に住んでいる大富豪の夫婦が、月という乗り物を作って、ウサギに願いを込めて、宇宙に飛ばしたと力説していた。


 早苗が真顔で言うものだから、いつしか僕はそれを本当のことだと信じてやまなかった。



「でも、こんなに宇宙の観測技術が発達しているのに、月にいる生き物を見つけることができないなんて、おかしいよ」



 僕はからかうような声で早苗に言った。早苗がどんな返答をするのか、楽しみだったから。



かける」と早苗が僕の名を呼ぶ。「月の裏側は地球から見えないのよ。だから、いないということは、誰にも証明できない。それに」


 早苗は満面の笑みを咲かせる。まるで、夜空に浮かぶ満月のようだった。


「野生のウサギは、人間が大嫌いなの。そんなこと、誰でも知ってるでしょう。だから、人間の視線とか電波とかが、無数に交錯する月の表側に、現れるわけないじゃない」



 月に野生も何もないと思ったが、僕は思わず吹き出した。



 彼女の振る舞いは、僕らが想像する世界を軽く飛び越える。それこそ、野生のウサギのように。



 早苗と二人で肩を並べて寝転がりながら、YouTubeでアポロ十一号の動画を見る。人類が初めて、月へ到達した瞬間だ。スマホの小さな画面から流れる古いモノクロ動画は、僕らを月の旅へいざなう。


 早苗はテレビを嫌った。想像力を阻害するから、とのことだ。YouTubeはいいのかと僕が尋ねると、「人の素朴な想像がそのまま画面に映るから、いいの。無駄に着飾っていない感じがする」


 とくすぐったそうに笑っていた。言いたいことはなんとなくわかるけれど、何が違うのか、さっぱりだ。



『これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。』


 かの有名なアームストロングはこう言った。



「こうやって、人の技術が限りなく発達していくと、想像の余地が薄れる気がするな」僕はぼんやりと呟く。「と言っても、人が月に行ったのなんて、今から五十年以上も前の話だし、そう考えると、人類の技術って、そんなに早く発達しないのかなって思う」



「おもしろ。まるでこの人たちがウサギみたい。ぴょんぴょん飛び跳ねている」



 僕の話を聞いているのか、いないのか。早苗は透き通った声を弾ませ、細くて長い指先を振り回しながら、はしゃいでいた。




 早苗は少し、人と違う。



 想像力とか、感受性とか、思考力とか。そういうものが、普通の人より何倍も長けている。その言葉自体、人間が作り出したものだから、人と違う早苗に適用するのもどうかと思うが、そう言うしかない。


 自分の想像した世界を、あまりに本当のことのように話すものだから、周りの人たちも早苗の話す世界が本当にあって、そこに入り込んだような感覚になる。


 柳のように枝垂しだれたまつ毛を伏せ、世界中の人間へ絵本を読み聞かせるような声で、歌うように物語を紡いでいる。それはきらびやかな装飾を施した宝箱から、魔法のように飛び出してくるのだ。しかも、宝箱はいくつもある。僕らからは見ることができない。早苗が言うには、自分の周りに宝箱は常に、ふわふわと浮いているとのことだ。



「今日は、どんな世界に入りたいですか」



 早苗が物語を紡ぐときは、まるで自分が魔法使いにでもなったかのようだ。両手を広げ、よくわからない記号を指でくるくると宙に描いている。


 僕は早苗が紡ぐ夢のような話が心地良くて、いつも寄り添って聞いていた。



 でも、早苗はその想像の世界から帰ってこないことが、たまにある。


 今だって、月のウサギが見えるかもしれないと、アパートの狭いベランダに、むき出しの白い膝を抱えて夜空を眺めている。YouTubeを見終わったあと、小さな椅子を窮屈そうに持ち込んでいた。顔には、ウサギのお面を被っていた。小さなお面だったので輪ゴムがきつく、横から、黒髪が寝ぐせのように飛び跳ねていた。早苗の髪はおろしたてのシルクドレスのようにサラサラだったので、尚更、目立つ。お面は去年、夏祭りの時に、小さな屋台で買ったものだ。片手には、ほろ酔う程度にアルコールが入った缶チューハイ。夏みかん味。


 月の下で、ウサギのお面を被る早苗の方が、僕には月のウサギに見えた。実際、こうなると、彼女はウサギになるのだ。何を言っても、言葉を発しない。大声でも上げようものなら、脱兎のごとく、自分のベッドへ逃げ込むだろう。


 彼女はこの世界が美しく楽しいと、いつも笑顔で毎日を過ごしている。だけど、僕にとっては、この世界は退屈で、彼女が見せる想像の世界の方が、よっぽど美しく楽しいのだ。そう思いながら、僕は缶ビールを手に持ち、一緒になって夜空を眺めるのだ。



 薄い雲が流れる合間に、真っ白な満月が輝いていた。








 僕は現実の世界なんて、大嫌いだった。



 月の裏側に、住みたい。夜空を見上げながら、本気で考えていた時期もあった。


 人と違うことをしていると目立つものだし、ちょっと意地の悪い同級生に目を付けられるのは世の中のみょうである。


 そのことについて、僕は中学校の終わり頃から気付き始め、高校の終わり頃に確信した。


 確信すると同時に、僕は人から後ろ指を差されながら過ごした思い出を捨て、これから自分が普通の人と同じような人生を生きていくことに、全力投球するようになった。でも、そうは思っても、既に十八年も生き、型にはまっていた身体を動かすことは、なかなかうまくいかないものだ。



 未経験者、歓迎。


 という張り紙を見て、なんとなくテニスをやってみたくて、大学のテニスサークルに入った。が、一週間と経たず辞めた。


 テニスのラケットを握ったことすらない僕を、誰も相手にしてくれないし、点数の数え方すら知らない僕は審判にもなれない。点の数え方が、どうして三十のあとは四十なのか、全く意味がわからない。


 こうして僕は、経験を必要としないことに、全力投球するしかなかった。つまりそれは、今まで通り、自分の殻に閉じこもり、家へ真っ直ぐ帰宅し、パソコンの前に座り込むことだった。



 世の中の現実は、現実ではないのだ。



 その時から僕は、現実の世界だけでなく、デジタルの世界にすら、楽しさを感じることがなくなっていた。毎日、ホウキで掃くように湧き出てくる埃のような情報。掃いては沸いて、集めては消えていくような芯のない情報。すべてが色褪せて見えた。こんな世界で作られる情報など、結局、すべてどうでもいいのだ。現実の世界もデジタルの世界も、一緒にすべて消えてしまえと思った。


 セピア色の写真のようなものだ。僕の目に映る現実は、見た瞬間に色褪せる。脳にデータ化される記憶のビットレートがきっと、僕は薄いのだ。


 幸い、大学生になった人間は、子供と大人の境界線を一歩、乗り越えるらしい。まさにアームストロングが言った、偉大な一歩だ。大学の講義で、一人でノートを開いていたとしても、学食で、一人ぼっちでサンマ定食を咀嚼そしゃくしていたとしても、人と違うことをしている僕に対して、誰も何も言ってこない。周りの人間は、僕が月の裏側にいるウサギと同じように見えていないのだ。



 早苗と出会ったのは、そんな頃だった。まさに、未知との邂逅かいこうという言葉が似合う。大学の図書館だった。


 僕は図書館というものが、昔から嫌いだった。言い過ぎかもしれないが、凄愴せいそうとした佇まいが、好きになれなかったからだ。古臭い本だけが並び、カビの匂いが充満している。身体の中に埃がたまる感覚がたまらなく嫌だった。


 そんな僕がその時、図書館へ足を踏み入れたのは、何か嫌なことがあって、人との距離を置きたかったからなのだろう。偶然だった。



 そこで僕は目にしたのだ。現実なのか、夢なのか。その姿は幻なのか。



 窓際の席に、背筋をまっすぐ伸ばして、頬杖をついて座っている女子学生がいた。机の上には、本が一冊、置かれていた。肩まで伸ばした濃くて深みのある黒髪が、陽の光を反射させて、蝉鬢せんびんのように透き通っていた。あんなところで本を読んで眩しくないのだろうか。



「本を読んでいるわけではないの。本のタイトルを見ながら、どんな物語か、空想していたの」



 僕が近づくと、聞いてもいないのに、彼女は歌うように言葉を発した。頭の中が、覗き込まれているような感覚だった。僕はその言葉に、ナイフで背中まで貫かれたような衝撃を覚えた。だって、本は読むものだと、当然のように、それまで考えていたから。



「私の物語、話してあげようか。できたて、ほやほやだよ。タイトルは、走れメロス」



 初対面だと言うのに、僕に対して勝ち誇ったような笑顔を見せたのが、早苗だった。その時に紡がれた物語には、国民をしいたげる王も、夕日に向かって裸で走るメロスも、出てこなかった。



 早苗との出会いで、僕は文字通り、世界が変わった。新たな世界の旗が、僕の丸い脳の中に、高々と突き刺さったのだ。Wi-Fiの通信速度がギガからテラになった。時代はまさに5Gだ。脳にデータ化されるビットレートが突然、急激に上がった。僕の目に映る世界が再び、鮮明な色を持ち始めたのだ。


 今思えば、それは現実の世界ではなく、早苗が作り上げた空想の世界の色が、鮮やかに浮かび上がっただけなのかもしれなかった。現実の世界から戻ってこなくなったのは、もしかすると、僕の方だったのかもしれなかった。





 

 

 大学三年生になって、僕と早苗の両方が二十歳を越えたとき、奇妙な共同生活が始まった。二十歳というのは、特に意味はない。なんとなくだ。二人で一緒にお酒でも飲みながら、早苗の世界に入り浸りたかったのかもしれない。


 高校の時、アルバイトで貯めたお金をすべて突っ込み、僕は早苗と二人でアパートを借りた。早苗は空が見える場所がいいと言っていたので、ベランダがある部屋を探した。



 早苗との生活は、やっぱり退屈しなかった。



 ある真夏の暑い日のこと。



「このオレンジジュース、飲みたい人」



 突然、コンビニの袋をぶら下げ、缶ジュースを買ってきては、僕に尋ねてくる。でも、早苗が買ってきた缶ジュースは、一本だけだ。暑くて喉がカラカラだったので、飲みたいと僕が主張すると、



「じゃあ、あめ玉はどっちに転がるでしょうか」



 続けて、ビニール袋の中から、満月のようにまん丸いあめ玉を取り出した。早苗はテーブルにそれを置いたとき、どっちの方向に転がるか聞いているらしい。


 テーブルはリサイクルショップで買った安物だったので、僕が座る側に、ほんの少し傾いていた。見た目ではほとんどわからない。たまに水か何かをこぼしてしまった時、僕の方へいつも流れてくる。しかも、こぼすのはいつも、考え事をして手元が覚束ない早苗なので、被害者は僕なのだ。当然、僕の方へあめ玉が転がると確信していた。そう答えると、早苗は包み紙を破り、キラキラした赤いあめ玉を指先につまんで、テーブルの真ん中へ静かに置いた。


 早苗が指を放すと、コロコロとあめ玉は、早苗の方へ転がっていった。



「大不正解っ」



「え。なんで」



「種明かしです。ご覧ください。昨日、テーブルの位置をこっそり、反対に変えておきました」



 早苗が両手をテーブルに乗せ、首を傾げながら、にこりと笑う。昨日、寝る前、ごとごとと何やら動かしていたのは、その音か。



「ちょっと。それ、ズルでしょう」


 と僕が抗議しても、



「私がテーブルの位置を変えたかもしれないと、想像できなかった駆の負けでーす」


 早苗は僕の方を指差して、白い歯を見せて笑った。かと思うと、すぐさまオレンジジュースのプルトップを開け、喉を鳴らしながら一気にあおった。



「……きんっきんに冷えてて、最っ高。暑い夏はやっぱり、甘酸っぱいオレンジジュースだね」


 ぷはぁと僕に見せつけるかのように、早苗はオレンジジュースの缶を握り締めた。桃色の唇には、オレンジ色の雫がついていた。当然、僕の分はもうなかった。甘酸っぱい香りだけが、暑苦しい部屋の中に色を添えていた。



「駆くん。世界はそーぞーりょくじゃよ。そーぞーりょく」



 まるで酔っぱらっているかのように、眉を寄せ、目を細め、唇を尖らせ、低い変な声で僕に教えを説く。大学の教授のモノマネでもしているのだろう。


 早苗は自分の元へ転がっていたあめ玉を、そのまま口の中へ放り込んだ。舌の上で転がしながら、もごもごと笑っている。かと思うと、



「すっぱ」


 唇よりも濃い桃色の舌を出し、あめ玉をころりと手の上に吐き出した。



 たまに思うのが、早苗の言うそーぞーりょくが、想像なのか、創造なのか、どっちかわからなくなる。



「そーぞーしていたよりも、酸っぱい」



 早苗は鼻に皺をよせていた。こっちのそーぞーは想像だと思った。




 秋も深まった、ある満月の日のこと。アポロ十一号の動画を見た一か月後くらいだった。


 一年前、早苗に買ってあげたウサギのお面のひもが切れた。早苗は声も出さず、泣いていた。ベランダの床に、ぽたぽたと涙の雫が落ちていた。



「私が月を見上げすぎたから、ウサギが怒ったのかなぁ」



「……また、買えばいいよ。ちょっと、時間があいちゃうけど」



「うん」



 僕が寄り添いながらそう呟くと、早苗は泣き止んだ。ひっくひっくとしゃくりあげる声を出し、素顔で月を見上げる早苗の横顔は、初めて見た。それはまるで、月から迎えを待つかぐや姫にも見えた。









 時は流れ、僕らは大学四年生になった。



 研究室。卒業論文。公務員試験。就職活動。エントリシート。面接。内定。自己分析。そんな堅苦しい言葉が大学内で飛び交うようになった。否が応でも、僕は目の前の現実に少しずつ、足を踏み入れなければならなかった。


 僕も大学の狭苦しい研究室に配属された。初対面だと言うのに、現実の人間たちが、僕のことをなぜかあざ笑っていた。



「お前、吉岡と一緒に住んでるらしいな」



 吉岡と言われて、僕は一瞬、誰のことか理解できなかった。早苗の苗字だったことを思い出した。



「あいつ、病気なんだろ。ネットで調べたぞ」



 その言葉を聞いた瞬間、頭から熱湯を被ったようだった。気づいたら、僕は名も知らぬ彼の胸倉を掴んでいた。はずだったが、彼はそれをかわした。



「そんなに怒んなよ」



「お前らの方がよっぽど病気じゃないのか」



「なに言ってんだよ」



「そうやって、いつまでも、自分と違う人種を、痛め続けてろよ」僕は呻くように言った。「ネットで拾った情報で、勝手な理由つけやがって」




 僕はそのまま研究室を飛び出した。大学を卒業できたとしても、僕なんかがこの現実の世界で通用するわけもない気がした。やっぱり、現実の世界なんて、大嫌いだった。


 家の玄関に飛び込むと、心地よいカフェのような空気が僕の鼻をくすぐった。耳にはジャズのような音楽。


 部屋の扉を開けると、キッチンの前で早苗が鼻歌を歌いながら、ポットを持ってコーヒーを淹れているところだった。これまでコーヒーなど飲んだこともないくせに、しかも、きちんと豆から挽いていた。おまけに、ジャズが流れているのに、早苗が口ずさむ歌は、今YouTubeで流行っている音楽だった。



「あ、お帰り。もうすぐ、特製豆で淹れた、とびきり美味しいコーヒーが出来上がるよ。……味は保証できないけどね」



 早苗が破顔した。普通の人なら、このちぐはぐだけど、心が休まる空間に足を踏み入れたとき、胸の中に花が咲いたような気分になるのだろう。でも、僕は今、それらすべてを振り払わなきゃいけないと強く思った。この早苗の世界が、あまりにも心地良すぎたから。



「しばらく、早苗の話を聞くのは、やめるよ」



 と僕が言うと、早苗が首を傾げて、どうしてと呟いた。コーヒーの粉が熱いお湯を吸って、紙のフィルターの中でじゅるじゅると音を出していた。



「……僕さ。僕、もう、現実を生きなきゃいけないんだ……」



 僕は呻くように呟いた。彼女はまつ毛を瞬いて、きょとんとした。瞳を真ん中に寄せて、不思議な顔をしていた。流行りの歌はもう口ずさんでいなかった。手に持ったポットを、二つ並んだコーヒーカップの横に乱暴に置いた。ガシャンと、カップの跳ねる音が響いた。



「駆は、今まで、現実を生きていたんじゃないの。今までの世界は、一体、なんだったの」



 突然、唇と唇が触れてしまうんじゃないかと思うくらい、早苗の瞳が近づいた。その瞳は、僕の空虚な瞳を映していた。早苗の吐息からは、いつか彼女が飲んでいた、オレンジジュースのいい香りがした。



「……この目に映る世界も、自分の頭の中で想像する世界も、すべて現実なのに……」



 早苗は僕の頭をぽんぽんと叩く。



「じゃあ、あなたは、何者なの。月のウサギさんですか?」



 その時、早苗は本気で僕のことをウサギだと勘違いしていたと思う。早苗が僕に対して、初めて疑問を持った瞬間だった。


 そんなふうに現実と闘いながら、僕は研究室に通いつつ、なんとか小さな機械設備の設計会社に内定をもらった。



 気が付くと、夏になっていた。








 祭りばやしが聞こえる。


 早苗はおばあちゃんに買ってもらったという浴衣を纏っていた。紺色の朝顔が刺繍ししゅうされた素朴な柄だった。


 約束していたウサギのお面を小さな屋台で買ってあげると、早苗は子供のようにはしゃいだ。頭の横に紐をひっかけ、熱々のタコ焼きにふぅふぅと息を吹きかけている。僕の手には、綿あめが握られていた。


 今日は満月だった。夜闇に眩しいほど光り輝く月は、僕らを遥か上空から見下ろしていた。



「月のウサギ、見えないかなぁ」



 早苗が数多の星を吸い寄せるように浮かんでいる満月を見上げた。タコ焼きを口の中に入れたばかりなのに、僕の手に握られた綿あめも頬張っている。早苗の口の中は、夜空の星をかき集めたように、いろんな味が舌の上で輝いているのだろう。



 夏祭りの会場は川を隔てていた。岸の反対側も行ってみようと早苗が言ったので、僕らは並んで歩いた。風はなかった。ひんやりとした空気が足を動かすたびに素肌を撫でる。人の影はまばらだった。



「うわ。すご」



 橋に近づくと、僕は感嘆の声を上げた。


 古びた橋の下で流れるせせらぎ。その中央には、夜空に光り輝く満月と、全く同じ満月がぽっかりと浮かんでいた。


 僕らは小さな橋の真ん中に立ち、二つの満月を交互に眺めながら、息をのんだ。せせらぎの音が耳の奥へ流れ込んでくる。


 まさに渡月橋とげつきょう。こんな場所でも見れたんだと、僕が口を開けながら呆然としていると、



「あっ」



 早苗が声を上げた。身体をひるがえし、浴衣の裾を舞い上げながら、低い土手から河原へ降り、川の方へ走っていく。



 早苗はそのまま、川の中へ足を踏み入れた。僕も「あっ」と声を上げた。薄闇に水しぶきが上がり、水のねる音がする。早苗は浴衣が濡れるのも構わずに、ゆったりと流れる水をかき分け、せせらぎの中心へ進んでいく。早苗の腰下あたりに水面があった。川はそんなに深くないようだ。



「駆。いたよ。ここにいるよ」



「え」



「見てて」



 そう言うと、早苗はウサギのお面を被り、肩を上げて胸を大きく膨らませ、そのまま川の中に頭のてっぺんまで潜り込んだ。僕は慌てて土手を駆け下り、河原へ向かう。足の裏に細かい砂利が食い込んだ。



 水面が揺らめいている。月がゆらゆらとせせらぎの中央に映えている。その下に早苗の影が見えた。



 やがて、ぷはっと息を吐き出す声が聞こえた。



「見て見て。私は今、月の裏側にいるよ」



 僕はまぶたを見開いた。月の裏側から、ウサギが小さな顔を出していた。月を映した水面が陽炎かげろうのようにゆらめく、ちょうど境界線あたりだ。ウサギは両手両足を投げ出して、川の流れに身を任せて浮いている。



「月のウサギ。本当にいたでしょう」



 ウサギが顔を揺らして、もごもごと呟いている。


 その姿に、僕はお腹を抱え、声を上げて笑った。ウサギの振る舞いが面白かったんじゃない。この世界が初めて、楽しくて美しいと思えた。



「……今、幸せが見えたよ」



 たぶん、人生で初めて、お腹の底から笑い声を上げたと思う。僕は目尻から涙をこぼしながら、擦れた声で呟いた。



「幸せって、目に見えるの?」



 月の裏側にいたウサギが川底に足をつけ、じゃぶじゃぶと水をかき分けながら、僕の元へやってくる。ウサギが纏う浴衣は川の水を吸い込んで色が濃くなっていた。雫が落ちてぽたぽたと水面に跳ね返っている。目の前にやってきたウサギが、僕に言葉を発する。



「人がいないところで、誰かの涙を流すのを見ることができるのは、月にいるウサギと神様だけだよ。でも、幸せなんて、きっと神様でも見えないものだと、私は思うよ」



 ウサギはお面を外した。いつもの早苗の顔が、そこにあった。満面の笑みを浮かべている。水が滴ったその素顔は、月の光に負けない輝きを放ち、とても美しかった。早苗は丸い瞳をくるりと回転させ、両手を広げ、世界の幸せを願うように、飛び跳ねた。その振る舞いは本物のウサギに似ていた。水飛沫が月の光を反射させ、キラキラと煌めいた。



「私は、この世界で生きていて楽しいよ。それでいいじゃない。明日も天気が良さそうだな。あぁ、お腹がすいた。さっきの屋台で、お好み焼きも買おうよ。……って言うか、水、冷たっ」



 寝ぼけた月のように、気まぐれな声を溢しながら、早苗は夜空を見上げていた。水に濡れて濃い墨のような色に染まった髪の毛からは、雫がぽたぽたと肩に落ち、月の光を帯びてぼんやりと輝いていた。早苗のしなやかな身体に、ぴたりと吸い付いた濃い色の浴衣。僕は目のやり場に困り、胸がどきどきした。まるで、月へ帰る馬車から落っこちた、かぐや姫だ。



 かぐや姫のような早苗と、せせらぎの中にゆらめく満月と、満点の星空の中でひと際輝く満月。



 彼女の振る舞いは、僕らがする世界を軽く飛び越えるのだ。それこそ、月のウサギのように。




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