第4話 第4章

 波に呑まれたと思ったその時、誠はハッと驚いて目が覚めたところだった。呼吸困難なくらいに胸の鼓動が激しかった。

――ここはどこなんだ?

 しばらく気が動転し、何も考えられないと思いながらも、必死に頭を回転させていた。

 泊まった宿の蒲団の中でないことは確かだった。そこは、布団というよりも、ベッドだった。それも、懐かしさを感じさせるもので、前にも感じたことのあるものだった。

 真っ暗な部屋の中で、無性に生暖かさを感じた部屋だった。目が慣れてくるまでには少し時間が掛かったが、慣れてくると、そこがラブホテルであることに気がついた。

 最近は相手もいないので行くことはないが、学生の頃には何度か利用したことがあった。社会人になっても、何度か利用していたのだ。

――今、僕はいくつなんだ?

 さっきまで断崖絶壁のイメージを頭に抱いていたが、あれは社会人になって、最初に夏休みに出かけたところでのことだったはずだ。

 断崖絶壁から飛び降りた感覚が、そのままラブホテルのベッドに結びついている。しかもそれは、ごく最近の記憶のようで、三十五歳になっているはずの記憶から、さほど古いものではないはずだった。

 大学を卒業してからの最初の夏休みと言えば、すでに十二年は経っている。記憶としてもかなり色褪せているもののはずなのに、どうして今さらそんな記憶をよみがえらせるというのだろう?

 しかも、目が覚めた今はホテルにいる。どんな経緯でここにいるのかなど、さっぱり分からない。

 さっきまで、何も感じなかったが、気が付けば、匂いを感じていた。相変わらず前を見ることはできないでいたが、感じてきた匂いは、温泉で感じたパインの匂いだった。

――一体、僕はどうしてここにいるんだろう?

 というよりも、元々が十二年前の記憶から、いきなり今の記憶に飛んだことで、自分の意識のどれが本当のことなのだろうかを疑っているのだった。

 自分が信じられないことが、これほど不安を煽ってしまうことになるということに気付いた。どちらかというと人間不信である誠は、

――自分が信じられなくなると、いよいよ何を信じていいか分からなくなるな――

 と思っていた。

 人間不信に陥ったのも、考えてみれば、社会人になった一年目の、あの旅行の時からだったのではないかと思い、今の自分から、その時を顧みることが必要なのだと思うのだった。

 誠が人間不信だと自覚したのは、社会人になってからだったように思う。あの頃は、仕事面でも人間関係でもそれまで信じていた自分の考えが、ことごとく否定された気がしていた頃のことだった。

 それまでもあまり人と関わりを持つことを嫌っていたが、それを人間不信だとは思わんかった。

――自分と相性の合う人が少ないだけだ――

 と思っていた。

 元から人と話をするのが好きではないのに、仕事では話さなければいけない。どうして話をするのが好きではないかというと、人に気を遣うことが嫌いだったからだ。

 嫌いというよりも、気を遣うことができないと言った方が正解なのかも知れない。それは相手が気を遣ってくれていることが分かっているからだ、

――まわりは、自分よりも優れた人ばかりなんだ――

 というイメージをずっと持ってきた。それを自分が人に気を遣っている証拠のように思っていたのは、自分よりも優れている人を感じることが、自然と相手に気を遣うことに繋がると思っていたからだ。まるで本能のように、勝手に気を遣ってくれるものだという思い込みが、誠を委縮させてしまうことに繋がっていた。

 萎縮してしまうと、孤独を感じる。人との関わりを億劫に感じる最初の段階に飛び込んでしまうのだ。

 萎縮は、自分を卑下することで、自分を正当化しようとすることに繋がってくる。そんな気持ちは態度に現れるもののようで、まわりも誠に近づこうとしない。

 孤独感は最初に感じただけで、それ以上感じることはない。感覚がマヒしているからだった。

 それは、子供の頃から感じていた兄に対してのコンプレックスがそうさせているのだろうと感じていたが、コンプレックスは、身体的なことだけだった。

 精神的には決して兄に劣ることはないと気が付いたのは、大学に入ってからだった。

 納得できないことは信じない性格が、それまでの自分の信念だったが、それが少し和らいできた。信じられないことでも信じてみようと思えば、何とかなるものだ。そう思っていると、気が楽になってきたのも事実だった。

 納得できないことを信じない自分だから、まわりの人から比べて劣っているという反対の面を感じていたのだ。

 納得できないことは信じられないからこそ、人より理解するまでに時間が掛かる。問題はその後である。

――理解してしまえば、こっちの方が応用が利いて、柔軟な発想ができる――

 というところまで頭が回らなかった。もし、頭が回っていれば、小学生の頃の自分は、まわりともうまくコミュニケーションが取れたのではないかと思う。

 誠は、高校時代、兄に彼女ができた時のことを鮮明に覚えている。

 その女性は、兄にふさわしいと言えたかどうか、今から思い出しても不思議だった。性格的には大人しい女性で、いつもどこにいるか分からないような感じだった。

 兄はバスケット部の部長を務めていたくらいなので、

「他にも女なんて、より取り見取りなのに」

 という話が聞かれた。

 誠が不思議に思ったというよりも、ショックだったと言ってもいい。不思議に感じたのは、本当に最初だけで、すぐに兄の気持ちが手に取るように分かった。

――兄貴は、自分にふさわしくない相手をわざと選んで、自己満足に浸りたいんだ――

 と感じた。

 誠は、彼女がほしいと思ったのは、

――他の人に見せびらかして、羨ましいと思われたい――

 という思いが働いたからだ。

 その思いと兄に感じた思いは同じものではないが、

「分かる人には分かる」

 という言葉になぞらえるなら、誠は、

――分かる人――

 になるのだ。

 それは、決して交わることのない平行線を描いていて、つかず離れずの感覚を映し出している。

――こんなことで兄弟を感じるなんて――

 兄に対して元々コンプレックスを持っていただけに、兄のやり方は、許されることではない。

 しかし、納得できないわけではなかった。それは、

――僕が兄のようにスリムで外見に申し分なかったら、同じようなことをしたかも知れない――

 と感じたからだ。

 その思いは、誠にとって兄への絶縁状に近い感覚だった。

――僕は兄とは違うんだ――

 といくら言い聞かせても、平行線が離れていかないように、自分の視界から消えてくれようとはしない。それを思うと、絶縁するしかないと思った。荒治療であるが、兄が視界に入らないところで生きていくしかないと感じていたところで、兄が就職で、家から通うことのできないところに赴任したことで、こっちから絶縁することもなかったのだ。

 どうやら、兄もホッとした様子だった。

 兄の顔を見ると、

「お互いに諸刃の剣のようだな」

 と言っているのが分かった気がした。

 本当なら、分かり合えたはずなのに、どこかでボタンの掛け違いがあったことから、分かり合える機会を永遠に失った。それを思うと、残念でならなかったが、これも運命、仕方がないことだった。

 兄の彼女は、本当に控えめな女性だったが、よく見ていると、ただ控えめだったというだけではなさそうだった。

――どこかに、何か企みがあるようだ――

 と感じたが、それなら、兄も彼女も、どっちもどっちである。

 しかし、誠はそれでも兄を許すことができない。納得できているのに許せないのは、やはり、

――僕も同じ立場になれば、同じことをするかも知れない――

 と感じたからだ。

 兄の彼女は、誠にも、時々話しかけていた。別に特別なことを話すわけではないが、話しかけてくれること自体が、大きなことだった。

――彼女は、僕に同じモノを感じるのかな?

 と思ったが、それであれば、誠自身も同じ穴のムジナだということになる。外見の違いから兄を選んだのだろうが、一歩間違うと、自分と付き合うことになっていたかも知れないと思った誠は、ゾッとするものを感じた。

「誠さんは、彼女作らないの?」

 彼女は誠の精神的な核心部分に触れてきた。

「作らないわけではなく、できないのさ」

 というと、ニヤリと彼女が笑った。

「私のこと、嫌い?」

 完全に誘いを掛けている雰囲気だが、ここまで露骨にされると、誠は冷めてしまった。だが、相手がどう出るかを想像しながら、相手のペースに乗ってみることにした。

「嫌いじゃないけど、どうしたんだい?」

「ううん、誠さんって、可愛いと思って」

 兄の彼女は、兄とは同い年、兄の前や、まわりの人にはあれだけ無口で大人しいのに、誠にだけ、いや、その時の誠にだけは別人のようだった。

「そんなこと言わないでください」

 照れて見せると、彼女はさらに増長したようだった。

「そんな誠さんに、私たち女性は、ドキドキするのよ」

 と。身体を寄せてくる。

――私たち――

 という言葉を、彼女は意識せずに言葉に出したのかも知れないが、誠はその言葉に反応した。

――どうして、私だけって言えないんだ?

 と思うと、気持ちが冷めたというよりも、何か企みがあるのではないかと勘繰ってしまうくらいだった。

 そこまで考えると、さっきまでの、話に乗ってみようという思いは失せてしまった。誠の表情が明らかに冷めた顔に変わったのだろう。彼女の顔も驚きに変わり、次の瞬間、態度が豹変した。

「なんてね。誠さんを誘惑しても仕方ないわね」

 と、突き放すように言った。それは、あくまでも自分が、

――大人の女――

 だということを言いたげだったのだ。

 それから、彼女が誠を誘惑することはなくなった。誠も彼女の本性を垣間見たような気がしたが、逆に彼女にも自分を見透かされたような気がして、あまり気持ちのいいものではなかったのだ。

 だが、妄想だけは残ってしまった。

 兄貴の彼女は、自分を誘惑寸前で止めてしまった。それはまるで、子供に対して悪戯をする小悪魔のような雰囲気で、バカにされたような気になった誠は、気持ち的には許せなかった。

――そんなに僕を弄んで嬉しいのか?

 という思いは日増しに強くなってくる。

 そうなると、残るのは妄想だけである。相手は自分の兄貴の彼女、恨みは兄に対しても及ぶ。元々兄に対して感じていたコンプレックス。彼女がその思いを分かっていて、巧みに弄んだのかも知れないと思うと、余計に腹が立ってくる。

――僕には、何か呪縛のようなものが憑りついているのかも知れない――

 兄の彼女に謂れのない悪戯をされるのも、相手から見て、誠が弄びたくなるような男の子に見えたとすれば、そこに見えない呪縛が働いていると思うのも無理のないことだ。

 誠は、すぐには思い出せなかった。

 しかし、一旦思い出してくると、さらに前の記憶が繋がってくるのを感じた。洞窟の中で、女の人を飛び越えた瞬間、海に向かって落ちていく感覚を思い出して、ゾッとしたものを感じた。

――どうして、今そんなことを思い出すのだろう?

 と思ったのだが、兄貴の彼女の表情を見ていると、洞窟の中の女の視線を思い出した。女の顔は見えなかったが、表情だけは想像できた。顔が見えないのに表情を想像できるというのもおかしなもので、それを思うと、兄貴の彼女が誠を弄んだのも分からなくもなかった。

――兄貴があんな彼女を見つけてくるからいけないんだ――

 と、すべての責任を兄貴に押し付けてしまうことが、この場の状況に対して一番納得の行く答えのような気がして仕方がない。本当は、そんな答えを出すことは応急的な手当てをしただけで、根本的な解決になど、なるわけもないのである。

 兄貴に対しての恨みだけで済んでいればよかったのに、彼女に対して許せない気持ちもあったのは、誘惑を途中で止められたからであろうか。その時はヘビの生殺しのような思いをさせられたが、すぐに、

――手を出さなくてよかった――

 と、ホッとした気分になった。

 そして、恨みの矛先を兄貴に向けることで、誠の中の気持ちに整理がついたはずなのに、また彼女に対しての恨みが沸々と湧き上がってくる。堂々巡りを繰り返しているわけではないのだが、納得がいったはずのものが、再度よみがえってくるのを感じると、やはりどこか煮え切らない思いがそのまま欲望という形で湧き上がってくる。

 欲望は留まるところを知らない。

 欲望が、妄想に変わり、妄想はその時の感情を素直に表すために頭の中で想像するものだ。そのために、シチュエーションはいくらでも変えられる。

 時系列などもでたらめであっても問題はない。場面がまったく違ったところに飛んだとしても、

――これは妄想なんだ――

 と思うことで、納得がいくのだ。

 そういえば、この間、ホテルで目が覚めた時も、社会人になってからの最初の夏休みに出かけた温泉地での思い出が、いつのまにか断崖絶壁という妄想に変わっていた。あの時に断崖絶壁に出かけて、洞窟も見たのは間違いのないことだ。しかし、そこで蹲っている女に出会ったり、断崖から落ちるような感覚を感じたわけではない。もし感じていたのなら、今になって初めて思い出すようなことはないはずだからである。

 その時のことを思い出そうとすると、なぜか兄の彼女の顔が思い浮かんで、弄ばれた思いに、腹立たしさを覚え、よからぬ妄想をしてしまう。堂々巡りを繰り返してしまうのだ。

 妄想の根幹は、「緊迫」にある。

 相手を縄で縛って、相手が動けなくなったところをじっと見ている。

 女はもぞもぞしながら、こちらに恐怖の目を向けている。それはこれから何をされるのかという恐怖よりも、何もしないことへの恐怖ではないだろうか。

 縄で縛られると、

――何かをされて当然――

 という感覚が頭を過ぎるらしいのだが、縄で結ばれたのに、それ以上何もされないということは、女に対し、この間されたことへの逆の恨みに通じるものがある。

――俺だって、同じ思いをしたんだぞ――

 と言いたくなる。その時、心の中で初めて「俺」という言葉を使った。それまで「僕」としか言ったことのない誠は、その時、何かの思いが初めて弾けたように思えてしかたがなかったのだ。

 女の顔に恐怖が走った。

――これから何をされるのだろう?

 という表情で、声にはならないが何かを訴えるようにこちらを見ている。

「何するの? やめなさい」

 とでも言いたげなのだろうか? 表情は懇願と、諌めるような表情が半々だった。

 誠はその表情を見て、さらに自分の中にあるSの気持ちが高ぶった気がした。

――間違いではないんだ――

 さすがに相手を緊迫しての「おしおき」は、最初躊躇する気持ちがあった。相手に懇願の気持ちと羞恥があれば、許すつもりもあったに違いない。それが相手を諌めるような表情を少しでも見せたのだから、それは誠には想定外であったろう。

――これは妄想なんだ――

 という思いがあるだけに、まさか妄想の中に自分にとっての想定外の発想があるのは、信じがたいことだった。

 信じがたいことは、そのまま怒りに変わり、心の中にあった微妙ではあるが躊躇の気持ちと、

――間違っているのではないか?

 という理性のようなものがあったはずなのに、その気持ちが失せてしまったのだ。

 怒りだけに変わった誠の中に残ったのは、「おしおき」の気持ちと、

――自分はバカにされたままでは終わらない――

 という報復の気持ちとであった。

 女は、それでも懇願の表情を浮かべていたが、そのうちに諦めの表情に変わっていた。それは、誠の表情に、真剣さが浮かんだのを感じたからであろう。怒りに満ちている誠にはそこまで分かっていなかった。

 女も誠も、二人とも声を発することはない。ただ、二人を包む空気が必要以上に濃くなっていて、その原因は、二人の荒い息が交錯しているからだった。

 お互いに息が荒くなっているが、その原因は、まったく違ったものにあった。しかもふたりとも、荒くなった息の原因が一つではないということに、気付いているわけではないようだ。

 誠の場合は、躊躇する気持ちはないが、初めてのことでの戸惑いはあった。そのための域の荒さと、そして、何よりも欲望に忠実になっていることで、相手に対しての気持ちに優先したものが荒い息になっているのだ。

 女の場合は、

――これから何をされるのだろう?

 という恐怖の思いである。なるべくならやめてほしいという気持ちがある反面、

――相手の本性を見てみたい――

 好奇心というべきか、それとも最初から備わっていた女のM性が息を荒げているのだった。

 二人とも自分のことは分からなかった。相手のことばかりを考えていた。相手の一方の気持ちには気付いていたが、もう一方には気付かない。それがお互いに息を荒げている共通の原因でもあるのだ。

 誠は、女が懇願から息が荒くなっているとしか思っていない。

 女の方は、誠に欲望しか感じていなかった。

 要するに二人とも、相手の表面上の感情しか分かっていなかったのだ。それだけ気持ちに余裕がなかったとも言えるのだが、実際にことが進んでいけば、どこかで分かってくることだろう。

 だが、それも、最初にどっちが理解するかということではないだろうか。確かに妄想は誠だけのものだが、もし、相手が最初に、もう一つの域が荒くなった原因を見つけたところで妄想は終わってしまうのではないかと思うのだった。

――そういえば、夢だって、ちょうどのところで終わるよな――

 ハッキリと、どうしてそう感じたのか分からないが、夢の終わりは、自分が想像しているような納得のいくところで終わることも少なくはない。むしろ、ほとんどがそうなのかも知れない。

 誠はそんなことを考えながら、じっと女を見続ける。女も誠を見返しているが、そんな状況がどれほど続いたというのだろう? 誠の中で、

――主導権が自分の中にあるはずなのに、どこか金縛りに遭っているかのように感じる――

 という思いが張りつめた気持ちの中にあるようだった。

 妄想といえば、洞窟の中のことも妄想だった。あの時も自分の中で金縛りを感じた。金縛りは汗を噴き出させた。これ以上ないという感覚は、動けないことへの苛立ちだけのことだったのだろうか?

 金縛りは、しばらく続いた。その間、女に対しての怒りと、自分の中にある欲望が少しずつ萎えてきているのを感じていた。気持ちに余裕が生まれてきたわけではない。自分の中で消化できないものが気持ちの根底にあることは分かっていた。分かっていたが、気持ちが萎えてきていることだということに気付かなかったのだ。

 しかし、金縛りも次第に解けていく。解けてくると身体が軽くなってきて、いざ女に覆いかぶさろうとした時のことであるが、足に痺れを感じ、前に進めないことに初めて気が付いた。

 前に進めない感覚は最初から分かっていたような気がする。女に近づいているはずなのに、女の顔が次第に小さく感じられていたからだ。

――おかしいな――

 と思いながらも、その理由が分かるはずもなく、どこかに憤りを感じていたのも事実だったが、顔が小さく感じるのが、彼女が次第に遠ざかっていく感覚だとは、気が付かなかったのだ。

 本当なら、もっとすぐに気付くはずだ。それに気付かないのが、妄想を抱いているゆえんであろうか。妄想というものは、思い込みの激しさを誘発することで、自分の考えていることや感じていること以外を否定してしまうのかも知れない。

 そんなことを考えていると、誠は以前にも同じような妄想を抱いたのを思い出していた。妄想は、そんなに昔だったような気がしない。まるで昨日のことのように思うというが、本当にさっきまで抱いていたような気がするくらいだ。その正体を思うと、それが社会人になって夏休みに行った温泉での洞窟の中のことを思い出すのだった。

 洞窟の中で蠢いていた女が、どうしても頭の中に引っかかっている。あの時の女の顔を確認できなかったことが今も後悔として残っている。

――また、堂々巡りを繰り返してしまいそうだ――

 この思いはさっき感じた思いだったはずだ。堂々巡りを繰り返しているということは、同時に、その場所から逃れることができないということだ。女の顔が小さく感じたというのは、女の顔が遠ざかって行ったことを示している。それは自分から遠ざかったわけではなく、相手の女が後ずさりしたのだ。

 それなのに、自分から近づくことができなかった。それは金縛りが、足だけに残っていて、追いかけることができなかったからに他ならない。

――俺はどうしたらいいんだ?

 まだ、自分のことを「俺」という表現をしている。欲望はまだ心のうちにあるのだ。そう思うと、苛立ちがどこから来ているのか、一つではないということになる。足が動かない苛立ち、女を蹂躙しようとしているのに、どこか気持ちが萎えてしまっていることへの中途半端な精神状態。

 誠は、洞窟の中で、女を見ていて一つ感じたことを思い出した。

――この人は、ここの断崖絶壁で自殺しようとしたんじゃないかな?

 何か根拠があるわけではなかったが、女の影が薄かったのを感じた。

 洞窟の真っ暗な中で、影が薄いなどという感覚があるはずもないので、どうしてそう感じたのか分からない。ただ、小刻みに震えていた身体は、じっと冷たい洞窟の中にいて、感覚もマヒしているはずなのに、震えだけが止まらない。そこに、

――半分生きていて、半分死んでいる――

 という感覚があったように思ったからだ。

 大体、彼女がいつからそこにいるのかということも分からない。一時間程度だったのかも知れないし、何年もいたと言われても、きっと疑うことはないだろう。もし、何年もいたとしたら、ずっと震えたまま、誰も来ない状態で、放置されていたことになる。

――とっくに死んでいていいはずなのに、死ぬことも許されないのだろうか? いつからいるのか分からないが、どうすれば、そんな状態になるのだろう?

 などと、いろいろなことが頭を巡った。

 妄想というよりも、本当に悪い夢を見ているとしか思えない。それなのに、妄想だと思うのは、兄貴の恋人への欲望の気持ちに結びついているからだった。

――結びついているというよりも、背中合わせという感覚なのかも知れないな――

 という思いも次第に強くなってきた。

 どちらが表でどちらが裏なのか分からないが、表裏一体、そんな思いが誠の中にあった。裏と表が、それぞれある場面では表に出て裏に回る。気が付けば、それがいつの間にか反対になっている。誠は、表裏一体という言葉を思い浮かべて、そのことを考えていたのだった。

 自分の欲望と、洞窟の女を中心とした断崖絶壁や、温泉宿での思い出など、それが絡み合って、表裏一体のイメージを誠の中に形成しているのかも知れない。誠はそのことを感じながら、足の痺れから逃れられなかった……。

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