自我納得の人生
森本 晃次
第1話 第1章
――断崖絶壁――
それは、なるべくなら立ち寄りたくはないところであるが、人間生きていれば断崖絶壁を意識することが少なからず何度かはあるだろう。今までに一度も断崖絶壁と言われるところを見たことがない人などいないに違いない。それがもしテレビの映像であっても、初めて見た時は少なからずのショックを受けるに違いない。高橋誠も子供の頃にドラマで見た断崖絶壁を、しばらく忘れられないくらいだった。
夢に見たこともある。
どんな夢だったのかまではハッキリと覚えていないが、それは思い出したくないという意識からのもので、見た瞬間には決して忘れないに違いないというリアルさがあったのかも知れない。
リアルさは、夢から覚めるにしたがって消えていくものだ。
――夢の中では色も音も何もない。したがって、自分の意志で何かが起こるわけはない――
と思っていることが、現実に引き戻される時に、夢を架空のものとして記憶の中に封印しようとしているのだろう。夢の世界という架空の世界を自分の中に作り出すことで、世の中の信じられないと思われていることを納得させることのできる「場所」として持っていることで、恐怖を感じることがあっても、それを和らげてくれるに違いないと思うことができるのだ。
子供というものは、実際に自分で見たことのあるものに対しては恐怖を感じるものだが、見たことのないものに対しては淡白ではないだろうか。大人よりも序実に現れているように思うのは、それだけ素直な目で見ているからなのかも知れない。
断崖絶壁を実際に見るということは、それほどあることではないだろう。観光スポットの中には、北陸の東尋坊のように、断崖絶壁が観光地として全国に知られているところもある。当然、悪しき評判も全国に知られていて、
――自殺の名所――
としての汚名も一緒にくっついているのである。
ドラマでは、そんな自殺の名所を使っているのだろう。まったく知られていないところよりも、
「どこかで見たことがある」
あるいは、
「行ったことがある」
などと、馴染みのある風景の方が、印象深いからである。
それは恐怖感を味わう場所でも同じこと、いや恐怖感を味わう場所の方が余計にイメージが湧くというもので、
「怖いものほど印象深く残っていて、さらに懐かしさを感じさせる」
と言っていた人もいたくらいだ。
誠にとって最初の断崖絶壁は、テレビで見たのが最初だと思っていたが、テレビで見た光景は、最初目に飛び込んできた時、
――懐かしい――
と感じるものだった。
以前に、行ったことがあるところだと思い、過去の記憶を引っ張り出してみると、確かに行ったことがあった。しかもその時に、一緒に思い出した記憶があったのだが、その記憶も恐怖の記憶として封印されていたようで、思い出してくると、その時は恐怖であったと思ったものでも、懐かしく感じる。それは時間が経ったから感じるものなのか、それとも成長したことで感じるものなのか、すぐには分からなかった。
その時の光景は、「地獄」のイメージだった。多分、どこかの温泉に行った時のイメージなのだろうが、鬼がいたり、赤い池があったりしたのを覚えている。別府に行ったという話は聞いたことがないので、きっと他の場所なのだろうが、案外温泉地というところは、見るところは似たり寄ったりなのかも知れない。
硫黄の臭いだということも知らず、黄色く見えた煙に息苦しさを感じながら、それまで好きだったタマゴを、一時期食べることができなくなるほど、タマゴの匂いにも似ていたのが印象的だった、
その時に感じた臭いは、タマゴの臭いが強烈だったのだが、印象に深く残っているのは、実はパイナップルの匂いだった。まったく違う匂いが交錯する中、記憶が錯綜していたのも仕方がないことかも知れないが、確かにパイナップルの匂いを嗅いだ時、若干の恐怖心と、鬼の顔が黄色い煙の向こう側にイメージされたのも事実だった。呼吸困難に陥りそうなイメージを思い出しながら、パイナップルという南国のイメージが温泉には不可欠な印象だという思いを抱かせていた。
温泉には家族で出かけた。まだ小さかった誠は、温泉というのが、あまり楽しいところだという印象はなく、むしろ、地獄の印象が強かったので、怖いところだというイメージしか残っていない。それでもインスピレーションはあったようで、家族での旅行が嫌いではなかった。
毎年のように両親が旅行に連れて行ってくれた。誠には兄がいるが、兄も同じように温泉には怖いイメージを持っていたようで、兄の後ろを絶えず歩いていても、怖がっているのが分かり、
――お兄ちゃんでも怖いくらいなんだから、僕が怖くても当たり前なんだ――
と、妙なところで納得したものだった。
毎年の旅行は、ほとんどが温泉を搦めたところであった。同じところには、続けていくことがなかったので、鬼がいる温泉も断崖絶壁の温泉も一度きりだったと思う。鬼がいる温泉と、断崖絶壁の温泉が同じところだったかどうか、記憶としては定かではないが、それだけ自分がまだ小さい頃だったに違いない。
小さかった頃というと、小学生低学年の頃である。四年生の頃くらいからは、記憶もだいたい時系列で残っているが、それ以前としては記憶としては定かでもないし、定かであっても、時系列としては残っていないので、曖昧だという意識もそのあたりから来るのであろう。
断崖絶壁に行ってみたいと言ったのは、父親だった。
――怖いもの見たさ――
が父親にはあり、家族みんなはどちらかというと怖がりだった。それを面白がって怖いものを見ようとするところが父にはあり、
「お父さんの悪いくせだわ」
と、母親も苦笑いをしていた。
兄弟二人は怖がっていて、そんな余裕はない。
――やっぱりお母さんは大人なんだな――
と、感心していた。
子供にとって、父親が絶対的な存在だと思う時期はあるようで、小学生低学年の頃は、父親は絶対的存在だった。それは兄も同じことのようで、父には一目置いていた。
小学生の低学年の頃は、兄と誠は実によく似ていた。近所の人たちも時々間違えてしまうくらいで、母親ですら、間違えていた時期があった。それは外見もそうなのだが、性格的にも実によく似ていた。
「まるで双子みたいね」
と、言われたくらいで、兄も誠もまわりから言われることを真に受けて、
――僕たちって、本当に双子のように似ているんだ――
と思ったようだ。
弟は兄の後ろをいつもピッタリとくっついて歩いているので、その姿を見ると、どちらが兄で、どちらが弟なのか分かるのだが、もしそれがなければ分からないに違いない。身長もほぼ同じ、体型もほとんど変わりない。そのせいもあってか、同じ服をいつも親が着せていたので、双子のように見えるのも仕方のないことだ。
「たった一年先に生まれたから、僕がお兄ちゃんというだけだよ」
と、兄は大人になっても同じことを口にしていた。
中学に入った頃から、それまで似ていた二人だったが、弟の方は少し太りだし、兄は相変わらずスリムだった。成長期になっていくにしたがって、外見は明らかに変わっていったが、性格も次第に変わって行った。
兄は相変わらずののんびり屋だが、弟の誠の方は、気が短くなり、何にでも反発するようになっていた。
好奇心が強いのは弟の方で、何にでも興味を示すようになっていた。しかし、気が短いのが災いしてか、何事も長続きすることはなかった。
兄の方は、中学時代から始めたバスケットを高校卒業するまで続け、キャプテンも務めていた。それに比べて弟は、
「何事にも飽きっぽい性格」
と、まわりからも思われているようで、一貫したものはなく、友達もいるにはいたが、親友と呼べる人はいなかった。
兄に、親友と呼べる人がいたかどうかは定かではないが、弟に比べれば充実していたのは間違いないようだ。それでも、時々、
――俺は孤独なんだ――
という思いに駆られ、いつも何かに怯えているような性格になっていた。やはりどこか子供の頃の、怖がりな性格が今も残っているからに違いない。
誠の場合はというと、
「あの子は、いつまで経っても落ち着きがない」
と言われるほど、ちょこまかとしたところがあり、昔で言えば、
――ワンパう坊主――
という言葉がピッタリではないだろうか。
だが、そんな中でも誠本人は自分のことを、
――やっぱり俺は怖がりなんだ――
と感じていた。
飽きっぽくて、落ち着きがないのも、元々の怖がりな性格が影響しているのかも知れない。一つのことに集中することを、どこか怖がっている。それは兄のように一つのことに熱中していて、充実した毎日を送っているのに、どこか寂しそうな孤独感を感じてしまうからではないだろうか。
それは兄弟だから分かることであって、兄の孤独がどこからくるのか分からないが、絶えず不安な気持ちになっているということは見ていて分かる。自分の中にある不安と同じものを感じるからだ。
誠は、その思いを表に出すようなことはない。その代わり、まわりに対して虚勢を張っているかのようだった。時々、ピエロのような道化を演じることがあったが、それは自分の意志というよりも、本能的に態度に示しているところが大きい。意識はしているが、無意識に近い行動で、それこそ、
――自分の性格が滲み出ている――
と思うところであった。
誠が兄の背中ばかりを追いかけていたのは、いつ頃までのことだったのだろう? 誠自身はあまり意識はないが、追いかけられていた兄の方がハッキリと覚えている。
――あれは、五年生の途中くらいまでだっただろうな――
五年生の途中というのは、兄のことで、誠にとっては四年生の途中ということになる。
それまでずっと後ろにくっつかれて、鬱陶しいと思い始めた頃だったので、その時は、
――ちょうどよかった――
と思ったのだが、それもあまり長く続かなかった。
半年もしないうちに、今度は、
――背中が寒い――
と思うようになった。
最初はそれまで重たく感じていた弟がいなくなったことで、急に身体が軽くなったようで、自由に動ける喜びがあった。身体の重たさは、まるで弟をおんぶしているような感覚で、肩も凝れば、腰も痛い。それが一気に消えたのだから、まるで宇宙空間にいるような感覚だった。
――自由はいいな――
と思ったが、あまりにも身体が軽すぎると、今度は身体のどこに力を入れていいのか分からなくなる。そんなことを考えていると、あまりにも自由なことが却って身体のバランスを崩すことに気が付いた。
――地に足を付けた生き方がいいんだ――
と思うようになったのはそれからだった。
中学に入って急に身長が伸びたこと、誘いがあったバスケット部に入部し、一生懸命に練習したことで、メキメキ頭角を現し、やればやるほどいい結果が生まれるのだから、やめられなくなるのも当然というものだ。
――これほど楽しいことってないよな――
それが、元々の兄の性格だったのかも知れない。あまり焦っていろいろ飛びつくことはなく、ゆっくりと結論を導くことを自分の性格だと自覚し始めた。性格がその考えにそれほど差異がないことで、兄の性格と生き方が、早くも確立されたと言っても過言ではないだろう。
誠の場合は、どうしてもフラフラした性格であった。
何事にも興味を示しやってみるのだが、飽きてしまう。
――僕は兄さんとは違うんだ――
兄に対してのコンプレックスが生まれたのもしょうがないことであったが、兄が弟のコンプレックスを感じていないことが癪だった。何とか分からせようと、意地悪のようなことをしてみたが、馬耳東風とはこのことで、まったく怒ったり苛立ったりすることはなかったのだ。
そんな兄を見ていると、次第に兄に意地悪をしている自分が嫌になってくる。嫌になってはくるのだが、途中で止めてしまう方が、どうにも自分の中で煮え切らないような気がしてくるのだ。
怒らせたり苛立たせようと思っている相手は平然としていて、怒ったり苛立ったりしているのは自分の方だった。この憤りをどこにぶつけていいか分からず、さらに自分を責めたててしまっているのだ。
――堂々巡りを繰り返している――
こんな気持ちは自分の中だけに抑えておくわけにはいかない。飽きっぽい性格に見えるのは、持って生まれたものというよりも、この時の気持ちがそのまま自分の性格の中に根を下ろしてしまったのだろう。
誠は、兄を見ていて、何を考えているのか、さっぱり分からなくなっていた。今の兄の性格を、自分が離れたことで形成されたものであることなど知る由もない。ただ、兄の性格は誠の性格と違い、持って生まれた性格であるという要素が強いような気がする。そのことは兄には、本能的に分かっていたようだ。
もちろん、弟が自分から離れたことで軽くなった身体から影響していることも分かっている。どちらかというと、自分を冷静に分析できる性格なのだ。
そんな兄を誠は羨ましく思っていた。兄の中に不安が宿っているなどということが分かっていないので、羨ましく感じるのだ。
兄は不安に思っている性格を、弟は羨ましく思う。では、兄は弟の性格をどう思っているのだろう?
兄もやはり弟の性格が羨ましく見えていた。
実は自分のことであればある程度は分かっている兄だったが、人の性格に関しては結構疎いところがあった。そのことを兄は自覚していて、密かに苛立ちを感じているなど、誰も知る由はなかった。
兄としては、弟が誰よりも品行方正に見えたのだ。まわりに対して社交的で、自分のように内に籠っていないと感じていたのだ。
まわりは決して兄のことを、内に籠っているなどと思っているわけではない。そのあたりの感覚が次第に大きくなっていき、
――被害妄想な性格――
として、兄の中で形成されていくのだった。
中学時代の兄を羨ましく思っていたのは、結構兄が女性に人気があったことも大きく影響していた。どんどん太り出した誠に比べ、スラッと背が高く、バスケットでも活躍している兄を見ていると、
――男は外見なんだ――
と思うようになっていた。
これこそコンプレックスで、実は今も消えることはない。
それから、どんなに立場が変わろうとも、このコンプレックスに変化はなかった。それは絶対に年齢では兄に追いつけないという感覚に似たものがあり、一度感じたコンプレックスは、
――消してはいけないものだ――
というおかしな感覚をもたらしていたのだ。
兄の気持ちを分かろうなどと思わなかった。兄も弟の気持ちを分かろうという意識はなかった。
――兄弟だから分かり合えて当然――
という気持ちが、小学生低学年まであって、その思いがお互いに消えることはなかったのだ。
そういう気持ちを持ちながら、お互いに分かり合えない気持ちがあり、かたや不安が募っていて、かたやコンプレックスに凝り固まっている。お互いに、
――決して交わることのない平行線を描いているんだ――
という意識を持ちながら、どうすれば交わることができるのかということを、考えようともしなかった。それが運命だと思っていたからである。
「あれだけ双子のように性格が似ていたのに、ここまで変わってしまうなんて」
と親もまわりも思っているかも知れない。
しかし、一度分かり合えないと思うと、兄弟が理解し合えるところまで戻るには時間が掛かるのかも知れない。
かといって時間を掛ければいいというものでもない。却って時間が掛かりすぎると、収拾がつかないところまで来ているかも知れないと思うからだ。時間が経てば経つほど溝が深まってくるということは往々にしてあるものだ。二人が作ってしまったしがらみは、二人でしか解決できないものだからである。
誠は兄を見ていると焦れったく思うことがあった。
それは女性に対してのことで、
――もっと積極的にならないと、付き合うことなどできないのに――
と思う。
羨ましいくせに、せっかくうまくいきかけていることを、もたもたされてしまうと、実に苛立ってしまうのだ。それはまるで自分のことを見ているようで、その時だけ、気持ちは兄の中に入っていることに、その時の誠は分かっていなかったのだ。
兄が晩生というわけではないような気がしていた。自分も焦れったく見えてはいるが実際にその場面になると、
――本当に積極的になれるのだろうか?
と考えてしまうものだった。
そのあたりが、やはり兄弟というべきなのだろうか。誠は兄の背中を見て育ったのだから、
――兄のことは何でも分かる――
と思っているのだろうが、考えてみれば、背中しか見ていないのだ。相手の顔を正面から見ているわけではなく、どちらかというと兄をバリケードにして、危険なことから逃げようとする態度に出ているのかも知れない。
兄の背中を毎日見ていると、自分が逃れることのできない何かを抱え込んでいるような気がしてきた。
――小学生低学年で、よく分かったものだ――
と思ったが、その頃の誠は、
――自分で納得できないものは信じない――
という確固たるものを持っていた。
信念というほど大げさなものではなかったのだろうが、小学生としては、結構強い意志だったことだろう。そのために兄を利用しているという意識を持ちながら、兄の背中に隠れることは、
――弟の特権――
とまで思っていた。
納得できないことも多かったが、納得できることもあった。特に兄の背中には説得力があり、何も言わないが、じっと見ているだけで、
――兄の考えていることが分かってくるのではないか――
と、思えるほどだった。
誠が兄の背中を意識しなくなったのは、ある日突然だった。
成長期に差し掛かったことで兄の背中を見ることもなく、大人に近づいたというわけではない。逆に、
――兄の背中を見ていて、今まで信じられたものが信じられなくなった――
というのが、直接の原因だった。
では、一体何が信用できて、何が信用できないのかということを、その頃分からなくなった。
飽きっぽいと言われるほどいろいろなことに興味を示したのは、信じられることを見つけたかったからだった。別に飽きっぽいわけでもない。人にそう見えたというのは、誠が無意識に、まわりに対してそう思わせるように仕向けていたのかも知れない。
真剣に何かを探すために、いろいろ物色していたのは事実だが、中学生の誠がそんなことを言っても、誰も信用しないだろう。もっとも、どう説明していいかも分からないのだ。信用される以前の問題である。
そういう意味では、誠は不器用であった。自分の考えを素直に表に出すことができない。いや、出したいと思っていないのかも知れない。
他の人ならまだ、まわりから見て、
「あの人はあの人なりに悩んでいるのよ」
と、悩んでいることが他の人にも分かりそうなものである。
だが、誠は自分が何を考えているか、他の人に悟られることを嫌っていたのだ。
それは、恥かしいなどというものではない。知られることで自分の中にある、
――納得できないことは、信じられない――
ということを知られたくないからだ。
信じられないということは、そのまま嫌悪に繋がってしまう。嫌悪を表に出している人に対して、誰が気を遣ったりするものだろうか。それを思うと、相手も信じられなくなるというものである。
兄の背中を見なくなったことが、信じられなくなったことだということを、兄は知らないに違いない。
もし、そのことを知っているとすれば、少し事情は変わってくる。知らないからこそ、兄はスポーツに熱中することができ、弟は、いろいろなことに興味を持つことができた。しかし、お互いに不器用なので、不安に感じたり、飽きっぽかったりする。そういう意味では二人とも因果な性格だと言えるだろう。
――因果応報――
という言葉があるが、まだ中学生の二人にそんな言葉の意味が分かるわけもなく、最初に知ったのは誠の方だった。
――これから一体どうなっていくのだろう?
初めて、誠が不安な気分になった時だった。
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