第5話 第5章

 誠の兄は、中学時代からまわりも羨むほとの好青年になっていた。弟の誠が一番嫉妬しているのを感じてはいたが、それ以上にまわりからの視線を痛いほど感じていたのだ。

 羨ましいという感情と嫉妬心は、裏返しである。どちらを感じるかによって、その人の気持ちに与えるものは、

――気持ちにゆとりを持てるか、持てないか――

 という感覚に変わってくる。

 普通の人は、素直に考え、羨ましがられていることを感じるだけだ。それだけであれば、さほど自分にプレッシャーがかかることもない。しかし、誠の兄は、プレッシャーを思い切り感じていた。そこには、裏も表も、両方の感情を一緒に感じていたからである。

 彼はその両方を甘んじて受け止められるほど、ふところの深い人間ではない。むしろ小さいと言ってもいいだろう。それは、弟の誠と比較しても小さなものなのかも知れない。それを知っている人は誰もいない。本人はもちろん、弟の誠にも分かるはずのないことであった。

 バスケットをしている時は楽しかった。何も考えずに集中できるからである。一つのボールに向かって集中している時は、

――悩みなんて、ボールを追いかけていれば、なくなるかも知れない――

 と思い、必死に追いかける。

 それをまわりは、彼の表情に真剣な中に、芯から楽しんでいる表情に、憧れを抱くのであろう。

「どうすれば、あんな楽しそうな顔になれるのかしら?」

 女性は、そう言って、彼に憧れるのだ。

 裏を返せば、自分の心に余裕のない女性にばかり、彼はモテていた。それを、

――俺はモテるんだ――

 という思いに一度駆られてしまうと、違う考えが浮かばなくなる。

 彼としても最初から、

――俺を好きになる女性が、好みの女性ばかりだとは限らない――

 と思っていたはずだ。

 それなのに、相手の顔を見ると、

――好きになってくれてありがとう――

 という思いが顔に出ることで、相手も、

――好きになってあげた――

 という、相手が優位な体制を最初に確立させてしまうことに繋がることを、彼には分かっていなかった。

 お人よしと言えばそれまでだが、そこが兄弟で似ているところなのかも知れない。

――女性は、俺よりも優秀なんだ――

 という思いがどこかにある。

 女性に限ったことではないが、相手と話をしているうちに、自分のことをすべて見透かされているような気持ちに陥ることで、自分よりも優秀だという気持ちが湧いてくるのだった。

 彼は、誠に比べると、誠のことを分かっているつもりだった。

 そのくせ、自分のことはよく分からない人間だという自覚があった。

――弟を見ていれば、弟の目線で、自分を見なおすことができる――

 と思うようになっていた。

 しかし、弟を見ていると、自分を見る目に、ロクな感覚は湧いてこない。完全に嫉妬心しかないという感覚しかなかったからだ。

 そのうちに弟のことも分からなくなってきた。

――俺と誠では、性格も違えば、考え方も違う――

 と思うようになった。

 その頃になると、まわりから、いろいろ押し付けられるようになった。バスケット部の部長もそうである。

「お前がやるのが一番だよ」

「お前しかいない」

 と、まわりはニコニコしながら言ってくる。

 もし、その顔にニコニコした表情がなければ、疑うこともなく、引き受けるのだろうが、なまじっか笑顔を浮かべることで、感情がウソだらけにしか思えない。

 要するに、

――厄介なことは任せておけばいいんだ――

 と言いたいのだ。

 完全に嫉妬心からの押し付けであろう。

 ただ、表面上は、

「一番バスケットがうまいやつが、部長をやるべきだ」

 というもので、それがモテる人間の「宿命」でもあるかのような発想であった。

 確かに間違った発想ではないが、任された方は溜まったものではない。ただ、おかげで、彼に憧れる女性が増えたのも事実だった。

 きっとまわりは、少し後悔している人もいるだろう。だが、モテることだけが幸せではないと思っている人もいる。

「好きな人が一人いれば、それで十分だ」

 という感覚である。

 その感覚が一番強いのは、本当は押し付けられた彼なのかも知れない。憧れてくれるのは嬉しいが、しょせん憧れでしかない。

「女性というのは独占欲が強いからな」

 という話は、何度となく聞いているので、案外モテる人間は、一人を選ぶことが難しい場合が多い。

 選択肢がありすぎると、それだけ間違った相手を選ぶ可能性も増えてくる。もし選択肢が一つであれば、イエスかノーかの違いだけで、判断もしやすいのだが、たくさんの中から選ぶのだから、その中には感情の葛藤もあるはずだ。

――選んだ相手が間違いだったかな? こっちにしとけばよかった――

 という後悔を考えると、なかなか決めることができなくなってしまう。

 しかも、最初に戸惑ってしまうと、後になるほど決めることが難しくなるのも仕方がないことではないだろうか。

 彼はいつもそのことを考えている。そんなことばかり考えていると、結局堂々巡りを繰り返してしまうことは必至であった。

 こんなところでまたしても兄弟の共通点があるなど、二人とも気が付いていない。何しろ、堂々巡りの発想というのは、二人に限ったことではなく、他の人にも言える共通点なのだからである。

 そのことを自覚している人は少ないだろう。もし自覚している人がいるとすれば、その人は、他人の気持ちを自由に操作することができるかも知れない。

 彼は、そのことを知らない中で、過去に行った場所のことを思い出していた。

 それは奇しくも兄弟で同じ場所に行っていたなど、誰が想像もできるというのだろう。その場所が引き寄せたのか? それとも、その場所で出会った相手に引き寄せられたのか、因縁という他ないのではないだろうか。

 その因縁の場所に最初に足を踏み入れたのは、兄の方だった。

 弟はまだ高校生の頃、兄は大学一年生の時、その場所を訪れていた。

 このことは誰も知らないし、本人である兄も、今では思い出さないくらい、本当に衝動的な感情だったのかも知れない。兄は、一度だけ自殺しようと、本気で考えたことがあったのだ。

 理由については、様々だっただろう。自殺まで思いつめるのだから、よほど大きな理由があるか、それともよほどたくさんの理由が点在したかである。

 点在はしていたとしても、微妙にそれらすべてが結びついていないと、よもや自殺など考えたりはしない。兄の場合は、いろいろなことが頭の中で交錯し、自殺を思い立ったに違いない。

 その証拠が、今では自殺をしようなどと思ったことを忘れてしまったことである。

 それでも、気持ちの中の結びつきが大きいと、忘れることはないだろう。たくさんある中の一つが解決したことで、すべての結びつきが一気に解消されることがあるのかも知れない。兄の場合はそれだったに違いない。

 自殺しようと思った時、どうしようかと考えた。

 誰かに対して当てつけのために自殺するわけではない。人知れず死のうと考えたのだ。そうなれば、思いついたのが、自殺の名所として知られるところを調べることだった。

 その時に見つけたのが、誠が社会人になって最初に訪れた断崖絶壁であった。

――ここなら誰にも迷惑掛けることもなく、死ぬことができる――

 そう思った。

 もちろん、未練がないわけではなかった。その時に付き合っている女性もいたからだ。だが、彼女に対しての気持ちの中にも、自殺を思い立った原因がある。それを思うと、計画を躊躇する気にはならなかった。

 だが、兄は死んではいない。その後、何事もなかったかのように帰ってきた。

 同じような生活が送れたわけではないが、少なくとも死を断念したのは確かだ。

――一体何があったのだろう?

 兄も戻ってきてしばらくは、疑問に思っていた。そして、そのことすら忘れてしまっていた。

――忘れてしまったことと、自殺を思いとどまったことに関係があるのかも知れない――

 それは、当たらずとも遠からじであった。

 兄は、それから性格が変わった。そのことを知っている人は少ないかも知れない。元々、社交的なところと社交的でないところの差が激しい兄なので、性格が変わったと思う人と、それに気付かない人がいるだろう。

 ただ、社交的だと思っている人に対しては、少し冷たくなり、冷静だと思っている人に対しては、社交的になっていた。どちらの相手に対しても変わって見えるはずなのに、変わったことを意識させない相手もいるようだ。

 その人は兄のことを普段から意識していないわけではない。意識した上で変わったことに気付かないのだ。その理由は、その人も、兄同様に変わったからであった。

 性格が変わった人は、自分が変わったことすら気付かない。性格の基準を、兄に置いているからだろう。まわりから訝しそうに見られても、そのことに対してはあまり意識しない。そんな人が、性格が変わったとしても、自分では分からないに違いない。

 兄のまわりには、そんな人が多かった。だから、兄も自分の性格が変わったことに気付かない。

 まわりに気付かせないようなオーラがあるのも事実のようで、それは特定の人にしか働かないようだ。

 要するに、

――兄のペースに引き込まれている――

 ということなのだろう。

 誠も、兄のペースに引きずりこまれていた。しかし、途中で我に返り、自分のペースを思い出した。兄が自分のペースを崩しているということはずっと分からなかった。きっと、あのままでは、気付くこともなかったはずだ。それを気付くようになったのは、断崖絶壁を思い浮かべるようになったからだったのだ。

 夏休みに出かける前から、断崖絶壁には、何か考えるものがあった。

――テレビで見たからなのかな?

 と、サスペンスモノの番組を思い浮かべたが、そんなことはない。テレビの映像は、しょせん、視聴者に恐怖心を与えないように考えられているのだから、そこまで深い印象が残るはずもない。実際にその場所にいるわけでもないのに、強風すら感じるほどであったのだ。

 強風は、冷たさよりも、指先の感覚をマヒさせるものだった。実際に耳たぶの感覚もなかったし、何よりも足元を見るのが怖かった。

――もし、底なしだったらどうしよう?

 吊り橋で感じた恐怖を、思い出しただけで再現できてしまう恐ろしさ。以前、どこかで体験したことのあることなのだろうか?

 パインの匂いをまたしてもその時に感じた。パインの匂いは恐怖の匂いだとして印象にあるから、パインの匂いを感じるのか、パインの匂いを感じるから、恐怖をイメージしてしまうのか、それとも、恐怖とパインの匂いとは、切っても切り離せないものなのだろうか?

 兄のペースに引きずり込まれたと感じたのは、大学時代に行った温泉で、兄に似た人が以前に泊まりに来たという話を聞いたからである。

 宿主との話の中で、

「あなたによく似たお人が以前、泊まりに来られたことがあってね」

「どんな人ですか?」

「体型とかは似ていないんだけど、『またもう一度やってくることになるだろうね』ということを言っていたんだけど、あれからなかなか現れなくてね。でも、あなたが、ここの玄関に現れた時に見えた雰囲気がソックリだったんだよ」

 と言っていた。

 宿の玄関は、表がどんなに明るくても、入った瞬間、真っ暗闇だった。特に天気がいい時などは、完全に逆行になっていて、現れた人をパッと見ただけでは、どんな人なのか想像もできないはずである。それなのに、すぐに似ていると分かったというのは、やはり兄弟だからなのだろうか。

「兄よりも弟の方が、兄弟を意識するものだ」

 という話を聞いたことがある。

 上から見下ろすよりも、下から見上げる方が距離も近くに感じるであろうし、追いつけるはずもないのに、

――兄貴に追いつきたい――

 と思うものらしい。

 兄貴に追いつけるはずなどないという冷めた気持ちはあるくせに、追いつきたいという思いを心のどこかに持っているという中途半端な気持ちを感じていた。

「兄が来たと思われたんですか?」

 その人が兄ではないかと説明すると、

――なるほど――

 と言わんばかりに頷いたので、どれほど似ているのかという意味で聞いてみた。

「いいえ、同じ人だという感じはしませんでした。あくまでも似た人が来たという印象しかありませんでしたね。世の中にはソックリな人間が三人はいるというではないですか。その類だと思ったんですよ」

 確かに、世の中には似た人が三人いるという話を聞いたことがあったが、それは兄妹にも言えることだろうか。兄弟でも似ていない人もいるし、実際、誠も自分たち兄弟は似ていないと思っていた。

 体型はまったく違ってしまっていたが、雰囲気は見る人が見ると、似ているのかも知れない。特にあまり知らない人の方が、漠然として見るので、そう見えるのかも知れない。全体的に見る目は、体型に惑わされることなく、先入観がない分、雰囲気を見ることができるのだろう。

 誠は、兄のことを思い出すと、宿主の言葉が頭を過ぎり、宿主と話をした時のイメージが、まるで今のことのように、感じてしまう。

 今までにも、何度か兄貴の彼女とベッドを共にしている夢を見て、目が覚めると、自己嫌悪でその日一日、憂鬱な気分に陥ってしまうことも少なくなかった。

 それは、ベッドを共にしたことで、兄に対してのわだかまりが深まってしまったという意識、夢の中であっても、兄への遠慮を感じてしまう。

 ただ、遠慮という一言で片づけられるものではないような気がする。遠慮というのは、自分が望んでいることに対して、相手が先にしていることだから、譲るというイメージが近い。

 誠は兄も彼女に対して、彼女になってほしいなどという思いを抱いたことはない。異性という意味で見ることはあったが、それよりも先に、

――兄の彼女――

 という思いが、すべてを打ち消している。

 打ち消しているだけで、本当は望んでいるのかも知れないとも感じたことがある。それなら、言葉通りの遠慮に違いないが、自分の好みのタイプではないし、付き合ってからのことを想像すると、まずうまく行かないことは目に見えていた。

 どんな時でも一緒にいることを望み、甘えん坊なところのある彼女は、見た目は可愛らしいが、彼女が自分を見る目は、完全に、

――見下した目――

 であった。

 年下でもあるし、恋人の弟ということで、年下としての扱いは仕方がないとしても、見下した目を浴びせられると、誠には耐えられないものがあった。

――その思いが嵩じて、あんな夢を見るのだろうか?

 誠はそんな風に考えた。

 兄に対してのコンプレックスは、そのまま彼女に対しても向けられていた。その気持ちが彼女に分かるから、見下した目になるのではないかと思う。

 誠から見る目が、

――見上げている目――

 だとすれば、見下した目を浴びせられても仕方がない。

 だが、見下ろすわけではなく、見下した目なのだ。

 何が違うのかということを考えてみた。

 見下ろす目は、視線だけではなく、顔も下を向いていて、視線は、そのまま正面を見ている。正対しているので、相手と気持ちが分かり合えるのではないかと思うのだが、見下す目は、顔はあくまでも正面を見ていて、目だけが下を向いている。その視線には、ギロリとしたものがあり、見つめるというよりも、目線で人を刺すような感じだ。臆してしまうのも仕方のないことであった。

 中にはそういう視線に妖艶さを感じ、快感に思う人もいるかも知れないが、誠はそうではない。不気味さに不安が募り、恐怖を感じさせる目線であった。

 そんな恐ろしい視線なのに、どうして何度も夢に見るのだろう?

 夢だから、見てしまうという考え方もある。

 夢は潜在意識が見せるものだという考えがあるが、潜在意識は自分の中にあるもので、普段は表に出すことのない感情を抑えることができなくなり、夢に見ると思っていた。恐怖も、夢だから許されるとでも思っているのだろうか?

 恐怖にもいろいろな種類がある。

 夢に見る恐怖と、夢でさえも見たくない恐怖である。

 恐怖という言葉を聞いて、最初に思い浮かぶのは、オカルトのような超常現象だった。

 自分が想定していることから外れたことほど怖いものはない。想定していることであれば、まだ対策を考えることもできるが、想定外のことは、そうはいかない。

 それを考えていると、断崖絶壁を思い浮かべてしまう。あの時に渡った吊り橋の恐怖、もし、あの時に霧でもかかっていたらと思うと、恐ろしくて仕方がない。

 吊り橋は、行く時は何とか渡りきることができたが、帰りにもう一度あの恐怖を味わうことはできなかった。

「行きはよいよい、帰りは怖い」

 という歌もあるが、帰りには来る時に感じた恐怖が残っている分、足が竦んでどうすることもできない。

――じゃあ、どうして来る時に、あそこを渡ったんだろう?

 渡らないという選択肢もあったはずなのに、渡ってしまった。

 最初に見た時は、そこまで恐ろしいという感覚はなかった。渡っているうちに戻ることができなくなってしまったのだ。

 少しだけしか進んでいないと思ったのに、気が付けば半分まで来ていた。

――ここまで来れば、行くも戻るも同じだった――

 しかし、戻るためには踵を返さなければいけない。あれだけの強風で揺れている吊り橋の上で踵を返すなど、不可能だった。前に進むしかなかったのである。

 だが、どうして半分進んだと思ったのだろう?

 確かに後ろを振り返った時は、遠くに感じた。それは、首だけを必死に後ろに回してやっと見えた光景だ。首を回すのには限界がある。完全に回したつもりであっても、途中までしか回っていなくて、片方の目線でしか見えていなかった。だから遠くに感じたのではないだろうか?

 そこまで考えてくると、

――顔は別の方を向いていて、目線だけをそちらに向けようとすると、遠くに見えてしまうんだ――

 と感じた。

 すると思い出したのは、彼女が誠に示した、

――見下した視線――

 であった。

 見下しているのだから、目線は顔と違う方向になっているはずだ。きっとかなり遠くに誠の視線を感じたに違いない。

――僕が感じていたよりも、あの女は遠くに見えていたんだ――

 と思うと、小さく見えていたことが理解できた。

 見下した目をしているだけで、最初はそこまで思っていなくても、次第に感情まで見下してしまうことになるというのも、ここまで考えてくると分かった気がした。

 誠にも似たような経験があった。

 あれはいつ頃のことだっただろうか、まだ小学生の頃だったように思う。

 いつも誠のそばに寄って来て、

「そばに来るなよ」

 というと、泣きそうな顔になって、少しの間、歩みを止めるが、気が付けば、また後ろにピッタリとついている。もう一度文句を言ってやろうと思っていると、二コリと笑顔になった。その表情を見ると何も言えなくなり、

「仕方がないな」

 と言いながら、また正面を向いて歩き始める。

 その時に見せた彼女の顔には、勝ち誇ったような感じがあったが、誠はまんざらでもない気分になっていた。嬉しさが滲み出ていたことを分かったような気がする。

 彼女は幼馴染という言葉で、片づけられる相手であった。中学までは一緒だったが、高校に入ると、違う学校に通うことになり、連絡も取り合うことはなかった。

 ただ、中学になる頃には、彼女はすっかり大人っぽくなっていて、クラスでも人気があった。

 もし、彼女が今までのように、冴えない女の子だったら、付き合っていたかも知れないと、誠は感じていた。

――皆からちやほやされて、いい気なもんだ――

 と、勝手に彼女が舞い上がっていると勘違いしたのだ。

 なぜなら、中学に入ってから彼女は誠のそばに近づくことがなくなった。それを、

――ちやほやされて、いい気になっている――

 と思い込んだのだが、実際は彼女はあまりにも小学生時代との違いに悩んでいたようだ。

 彼女は聡明で冷静な性格だった。

 まわりが外見だけを見てちやほやしていること、内面を見ようとしないことは分かっていたからだ。

 中学時代の成長期の男の子であれば、それも仕方がないことなのかも知れない。

「私だって、普通の女の子よ。アイドルに憧れたり、ミーハーなところはあるわ」

 と言っていたのを思い出すこともあった。それは、自分が、

「ちやほやされて、いい気になっているわけではなく、これでも悩んでいるのよ」

 と言いたいことを、必死に隠しながら、誠に気持ちを訴えていたことだった。

 彼女の気持ちを半分は分かっていたが、それを認めたくない自分もいた。誠自身も自分の中で納得できないことを抱えて悩んでいたのだ。

 誠が、兄の彼女との妄想の中で、ふいに中学時代の幼馴染の顔を思い浮かべることがあった。

――あのまま成長していれば、こんなに大人っぽくなって、妖艶になっているんだろうな――

 その思いは同時に、

――今ここで妄想している瞬間にも、彼女は他の男と同じようなことをしているのではないだろうか?

 と思わせ、その苛立ちを、妄想の中での兄の彼女にぶつけようとしている自分を感じるのだった。

 ぶつけたとしても、どうなるものでもない。元々が妄想なのだから、想定外のことはありえない。そう思うと、妄想の世界から、逃げ出したいと思うようになってくる。

 自分が作り出した妄想なのに、逃げ出したいと思った瞬間から、自分の妄想ではなくなっているようだ。想定していないことが微妙に感じられるようになり、どうしていいか分からなくなる。

 妄想から逃れるには、何かのキーワードが必要なのだということは分かっていた。今までにも何度も妄想しているから、次第に分かってきた。ただ、それは自分が、

――妄想をコントロールできるようになるのではないか――

 ということではない。

 妄想の暴走を避けることができるようになっただけのことである。

――妄想が暴走すればどうなるのだろう?

 妄想というのは、暴走するものである。

 想定外の世界に入り込んだら、自分ではどうすることもできないが、自分の考えが、妄想を膨らませることになるのだ。

――余計なことを感じてはいけない――

 妄想を続ければ続けるほど、余計なことを考えてしまう。

 想定内の時であれば、それを抑えることができるのだが、想定から外れてしまうと、抑えることは不可能だ。

――まるで因果応報だ――

 と、諦めの境地に至った時、妄想から逃れることができる。

 しかし、それも自然と感じないといけない。自分の中で納得のいく形での因果応報でなければ、妄想は暴走してしまう。それは、妄想が元々自分の想像から来ているからのことであった。

 誠は自分の中で、何をどう整理すればいいのか分からない。

 元々、整理整頓の苦手な誠である。

 自分の好きなことには一生懸命になるが、少しでも興味のないことには、これ以上淡白なことはない。整理整頓という言葉とは無縁になってしまうのだ。

 自分の部屋でも、カメラに関することは丁寧に、几帳面に並べられているのだが、それ以外のものは、適当に放り出されているのが現状だった。

 それを誠は、

――自分の中にある二重人格性のせいだ――

 と思っていた。

 二重人格というべきか、裏表の性格というべきか分かりにくいところだが、厳密には裏表の性格に近いのだろうと思っていた。

 表裏一体という言葉があるが、考え方の中で、

――長所と短所は背中合わせ――

 というのがあった。

 背中合わせでありながら、そこには紙一重の考えが存在する。そのことを誠は自覚するようになって、

――裏表のある性格は、二重人格の中にあると思っていたが、本当は逆も存在し、二重人格は、裏表のある性格の中に隠されている人もいるのではないか――

 と思うようになった。

 それが自分ではないかと思うようになると、その考えが、確信に変わってくるのを感じるのだった。

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