第10話 第10章

 誠は小学生の頃、よくケガをして保健室に行き、治療してもらっていた。薬品の臭いというと、まず思い浮かぶのは小学校での保健室の臭いだった。

 学校の校舎に入るなり、保健室がどんなに遠くにあろうとも、薬品の臭いがしてくるように感じていた時期が確かにあった。

 そんなに長い時期ではなかったが、教室と教室の間に長い廊下があったが、そこを通るたびに、どんどん暗闇に入り込んでくるような錯覚を覚えた。

 それは、洞窟の中で感じた冷たさに似ていた。寒くて冷たいはずなのに、どこか冷え切っていない雰囲気を感じた洞窟だったが、学校の廊下も、決して温かいわけではなかったが、暗さのわりには、そこまでの寒さを感じなかったのである。

 暗い廊下は、暗く感じれば感じるほど長く感じられ、その先に見えている光が本当に表に繋がっているのかと疑問に思ったこともあったくらいだ。

 表に出てみると、さっきまでの暗さがウソのように感じられた。薬品の臭いも、光に当たったことで、すべて蒸発してしまったかのように感じる。

――錯覚だったのかな?

 確かに感じたはずの薬品の臭いさえ、まるで自分の思い過ごしではないかと思うほどであった。ただ、臭いが残っていないと思っているくせに、自分が感じないだけで、染みついた臭いは、当分の間、消えることはないのだろうと思えてならなかった。

 薬品の臭いが籠っているのは、学校だけではなかった。誠の家の近くには外科があった。そこは、救急病院で、夜になると、パトランプの赤い色と、サイレンの甲高い音で、何度神経を高ぶらせたことだろう。

 それは子供の頃に限ったことではない。大学入試の間など、サイレンの音とよりも、パトランプの赤い色の方が精神的に追い詰められる気がしてきたのだ。パトランプの光を見れば、思い出すのは学校の暗い廊下だった。廊下の、ただ長くて暗いだけの雰囲気と、切羽詰った息苦しさを感じさせるパトランプの明かりとでは、共通性など感じられるわけもないのに、なぜそれぞれを連想してしまうのだろう?

 それは、自分の意識のない中にでも、怖いものに対して、無意識に共通性を探そうとする意志が働いているからではないだろうか。

 それだけ怖いものに対して、それほど理屈で理解できるようになることが、怖さを和らげる効果があるかということを分かっているからなのかも知れない。

 逆に言えば、怖さを和らげる効果は、共通性を見つけ出して、理屈を積み上げていくしかないということにもなるであろう。ただ、気を付けなければいけないのは、薬でもいくら同じ効果のあるものだからと言って、無制限にいろいろ飲んでいいわけはない。そこには知られざる副作用が含まれているからだ。

 副作用に関しては、薬の臭いが気になるようになってからの、幼かった頃から意識していたような気がする。

 副作用という言葉は知っていても、それがどういう意味なのか分からなかった子供の頃、意味も分からないのに、言葉だけが頭に残っていた。それを口にしていたのは、一体誰だったのだろう?

 副作用という言葉をしょっちゅう口にしていたのは、他ならぬ母だった。誠が子供の頃から、あまり身体が丈夫ではなかった母は、よく薬を飲んでいたような気がする。

 頭痛鎮痛や、風邪薬の類なのだろうが、副作用と言っていたくらいなので、複数の薬を飲んでいたに違いない。

 母がたくさんの薬を飲んでいるところを何度も見た。特に情緒不安定で飲んでいた薬は、種類も多く、精神内科の薬というのは、市販でも売っているような薬とは違い、精神面に影響してくるものだと考えただけで、どうしても、効果の強いものだと、思えてならないのだ。

 母が精神内科に通っていた時、誰かから姉の話を聞かされたのを、思い出していた。聞かせたのは誰だったか覚えていないが、話をする前に、

「誠もそれなりに成長しているので、少しくらい話をしておいてもいいだろう」

 と言われたのが印象的だった。

――それなりというのは、どういうことだ?

 まだまだ半人前ということなのだろうが、それも仕方がないと思っていた。

 ただ、母が情緒不安定な状態が子供の頃からで、それが遺伝したのではないかと思われていたとすれば、どう反応すればいいのだろう?

 面と向かって反発できるだけの自分に自信もなかった。言われることはもっともだと思いながら、逆らえない自分が少し情けなかったのである。

 大人になってくるうちに分かってきたのは、母の情緒不安定の原因は、父の浮気に原因があるようだった。

 父が浮気をしていた時期というのは、それほど長いものではなかったようだが、母が受けたショックは結構多くなものだったに違いない。

 しかし、それはショックを受けた人間側が受け入れるキャパがそれほど大きくなかったことで、抑えることのできなかった思いが、頭の中で堂々巡りを繰り返すことになった。抜けることのできない泥沼の堂々巡りは、母を苦しめたことだろう。言語を絶するものだったに違いない。

 父にも罪悪感はあっただろうが、どうすることもできない現状に、さらに浮気を続けたようだった。

 離婚にならなかったのが不思議なくらいだが、子供二人は、何とかきちんと育ったのだ。

 その中で、母の懸念として、兄が本当に自分の子供ではないのではないかという思いがあったという。

――自分が生んだ子供なので、間違いはないはずなのに、どうしてそんな風に思うのだろう?

 どうやら、母は子供を病院で取り換えられたと思っているようである。そこに作為があったのかなかったのか分からないが、母は妄想のように思い込んでいる。

「子供を取り換えたっていうけど、それで誰が得をするっていうの?」

 と、言われて母は、

「あの女が私に嫌がらせをしているんだわ」

 と、言ったことから、父の浮気が表に出たということだが、父はそのことを否定しなかったという。

 母の情緒不安定な性格を分かっていて、さらに、他の女性を改めて知ったことで、父の中には、

――俺の人生は、まだやり直せるかも知れない――

 という思いが生まれた。

 その思いは、

――離婚も辞さず――

 だったようで、相手の女性とのこれからの人生を思い浮かべていたのも事実のようだ。

 かなり深いところまで考えていたようで、別れてからのことも頭の中にはあったようだ。ただ、そんな時に、母の口から不倫がバレた。母が不倫に気付いていることはウスウス気付いているようだったが、離婚するには、まだ黙っていてほしかった。

――計画が狂った――

 と思ったに違いない。

 そこまで修羅場に近いくらいのことが、誠が小さかった頃には繰り広げられていたというが、よく持ち直したものだ。

 兄もそんなことがあったなど、知らないようだ。

「よくケンカしたり、会話がなかったりしたことはあったようだけど」

 と言っていた。まさか、自分が母の本当の子供ではないと思われてるなど、想像もつかないに違いない。

 誠がどうしてそのことを知ったのかというと、情緒不安定な状態が慢性化し、時々発作的に襲ってくる母の興奮状態から、ポロッと、そんなことを聞いたからだった。

 母が兄に対して嫌悪感を抱いていたことは、今になって知ったわけではない。昔から分かっていた気がしたが、それを確かめるすべがなかったからだ。

 兄も母から疎まれていることは分かっていた。だから、家庭内に目を向けることはなく、いつも表ばかり見ていた。誠はそんな兄を見ながら、

――本当に兄弟なのだろうか?

 という思いに苛まれることがあった。

 兄は、誰が見ても、

――男らしい――

 と思われていたようだが、兄の中に女性的なところがあるのを誠は分かっていた。それが兄弟だから分かるのか、それとも、ずっと一緒にいるから分かるのか、どっちなのかとずっと考えていた。

――兄弟だという目で見ていれば、却って分からないことなのかも知れないな――

 と思うようになった。

 それは、血の繋がりのある者同士、見えてはいけないものがあるのではないかと感じることだった。

 それこそ、

――兄弟の中でのタブー――

 であった。

 見てはいけないものであって、気付いてはいけないものではない。

――見えなければ、気付くことはない――

 ということの裏返しではないかと誠は考えていた。

 ただ、感覚的に気付いていたかも知れないと感じることがある。

 それは兄に時々感じていた薬品の臭いだった。小学校の保健室から臭ってくる薬品の臭いを思い出すと、今でも小学生時代の兄の顔を想像できるようだ。

 今から思えば、母とは似ても似つかぬ顔だった。もちろん、疑念が頭の中にある中で想像するからなのかも知れないが、想像したわけではなく、頭に勝手に浮かんできた顔なのだ。

 ただ、兄に感じた薬品の臭いと、母から漂ってくる薬品の臭い、同じものではない。一緒にいる時に、同時に感じることはなかったので、何とも言えないが、薬品の臭いにも微妙な違いがあった。

 母にはアルコールの感覚があり、兄には、もっときつい臭いを感じた。

――まるでアンモニアだ――

 鼻を衝くこの臭いは明らかにアンモニアだった。

 子供の頃、ハチに刺されたことがあったが、その時の応急治療に使われたアンモニア、まさしく、その時の臭いだった。

 その時、一緒に来てくれたのが兄だったのだが、その時に、兄のイメージがアンモニアの強烈な臭いと結びついたのかも知れない。

 母に薬品の臭いを感じるようになってから、兄にも薬品を感じることで、アンモニアが結びつくのは無理のないことだろう。

 だが、臭いの違いがそれだけにとどまらないように思ったのは、兄に対して、

――本当の兄弟ではないのではないか――

 という思いを感じたからだ。

 自分に姉がいたというのも、その時に聞いたことだったおかげで、頭の中は混乱していた。

 兄に女性っぽさを感じていたのは、その話を聞くずっと前だったのが不思議だったからだ。

 病院で子供を取り換えられたというのが、嘘か本当か分からないが、今までに感じたことのない思いを兄に感じたことへの証明だったように思えたのだ。

――情緒不安定な母は、いつもその時どんなことを思い浮かべていたのだろう?

 誠は、ずっとそのことを感じていた。

 一歩足を踏み入れれば、前に進むことも元に戻ることもできない、まるで強風にあおられる吊り橋を想像していたのだろうか? 足元は谷底になっていて、落ちればもちろん、ひとたまりもない。

 何も考えずに一気に通り抜けてしまえば、なんてことはないのかも知れない。一歩でも立ち止まってしまうから、先に進むことができなくなってしまうのだ。

 時間が経てば経つほど、そこから逃れられなくなる思いは、吊り橋の上だけのことではない。人生においてたくさんのターニングポイントが存在するが、そのほとんどに言えることではないかと思っている。

 母にとって、父との離婚もそうだったのかも知れない。

 思い立ったら一気に離婚してしまわないと、時間が経てば経つほど、抜けられなくなってしまう。それが母には分かっていたのかも知れない。

 吊り橋を超えると、今度は見えてくるのが、やはり強風に煽られながら進んでくると目の前には、断崖絶壁があった。

――自殺の名所――

 として知られるその場所は、断崖絶壁とどのように違うのだろうか?

 誠は、そこに足を踏み入れた時、最初から自殺など考えていたわけではない。自殺する理由もなければ、自殺を怖いものだと思っていたからだ。

――それなのに、なぜこんなところに来てしまったのだろう?

 吊り橋を見た時、怖かったのだから、渡ろうなどと思わなければよかったのだ。

――少しだけ渡って、戻ればいいと思ったのか――

 進めば進むほど元に戻れなくなってしまうということを甘く見ていたのかも知れない。誠には、渡る前に進めば進むほど戻れないという意識はあったはずだ。それなのに渡ってしまったのは、ただの好奇心だけからではないだろう。

 進めば進むほど、後戻りはできない。

 吊り橋から落ちるか、断崖絶壁で、成就を果たすか、どちらにしても、そこに待っているのは、

――死――

 という一文字しかない。

――断崖絶壁にて、自殺をしなかった人は、どれくらいいるんだろう?

 そのほとんどは、恐怖で足が竦み、自殺を断念した人であろうが、そんな人が、来た道を戻るということは考えにくい。当然、来た道に通った吊り橋を、もう一度渡らなければいけないからだ。

 最初は死を覚悟しながらでも、恐ろしさに足を竦ませながら渡ったはずだ。

 しかし、今度は死を断念して帰って行こうとするのだ。恐怖は最初の比ではないはずだ。そう思うと、そのまま来た道を帰る人はいないと思う。そういう意味では、ここは、

――死への一方通行――

 と言えるだろう。

 だが、誠は死ぬこともなく、そのまま谷を降りて、洞窟に差し掛かった。

 洞窟ではそこに蠢いている人を見つけ、それが女性であると察することができた。

 その時に、母を想像したわけではなかったが、自分にとって、なまじ関係のない人だとは思わなかった。

――誰なんだろう?

 と思ったが、今から思えば、その人も、死を覚悟してここにやってきて、死に切れずに洞窟に辿り着いたのだろう。

――どうして、一気に抜けようとしないんだ?

 蠢いてはいるが、苦しんでいるようには見えない。ただ、その場から動くことができないのだろうという想像はついた。

 その人は、一言も口にしなかったが、どれくらいの時間が経ったのか、目が慣れてくると、やはり母の面影を感じさせる人であるように感じられた。

「誠?」

 その人はなぜか誠の名前を口にした。

「どうして僕の名前を?」

「あなたは、私の弟の誠なのよ」

「どういうことなんだい?」

 誠は恐怖で声も出ないはずだと思っていながら、ここまで冷静な口調で話をしている自分が信じられなかった。

――これは自分じゃない――

 と思い、目の前の相手と話をするには、口で話をするのではなく、気持ちで話をするしかないと感じた。

――今話をしているのは、自分ではなく、自分の中の気持ちが口を開いているのかも知れないな――

 と感じた。

「確かにお姉さんがいたって聞いたことがあったけど、死んだって聞かされたよ」

「そうね、死んだことになっていたとしても仕方がないわね。私はあなたのお母さんの本当の子供、あなたがお兄さんだと思っている人と、病院で取り違えられた本当の姉なのよ」

 母の妄想だと思っていたことをここで聞くなんて……。

 これが自分の妄想なのか、それとも本当に母が妄想していることを、息子の自分も同じように想像ができるからなのか、いろいろ頭を考えが巡っていた。

 母の妄想は、自分の妄想でもあると誠は思った。ただ、吊り橋から続くこの洞窟までが、本当に実在の出来事の中なのかということへの信憑性が、次第に低くなってきたのも事実である。

 母の妄想の中の世界だとすると、誠は今自分がいくつで、どこからこの妄想を感じているのかと考えていた。

 夢であっても、妄想であっても、それは自分だけのものなので、ここで出てきた姉というのは、自分が作り出した妄想の産物でしかないはずなのに、

――同じ思いを母が以前にもしたような気がする――

 と感じていた。

 自分一人だけの妄想で、ここまで辿り着けるわけはない。夢にしても妄想にしても、すべては、

――潜在意識の成せる業――

 だと思っているからである。

 では、潜在意識が他の人と共有できるということなのだろうか?

 親子だからといって、そこまでの絆はありえないように思っている。もし存在したとすれば、それは、

――タブーに守られていること――

 として、またしても、タブーが介在していることを、誠は感じるのだった。

――やっぱり、母も同じ妄想を抱いていたんだ――

 と、信じてしまうと疑う余地はなくなってきた。

「病院で取り違えられた私は、すくすくと裕福な家庭で、何不自由もなく育った。そして、勉強や教養も身に着けて、幸せな生活を送っていたんだけど、ある日、父から私の素性を聞かされた。父や母だと思っていた人が実は違ったのよ。でも、私は最初は驚いたけど、すぐに冷静さを取り戻した。別に、自分が誰だっていいって思ってね。今の生活が幸せならば、それでいいでしょう?」

 姉と名乗る人は、冷静に話した。そして、

――自分ではない――

 と思っている自分が話を聞いていると、姉の言うことは、もっともなことだと思っていた。

「でも、姉さんは、どうしてここにいるんですか?」

「本当の私は、今、ぬくぬくとしたお部屋で、父でもない母でもない人を本当の両親だと思って生活しているわ。父が私に話してくれたのは、本当の私じゃないと思ったから話してくれたのかも知れないわね。そのおかげで、私は今ここにいることになっているんだけどね」

「ということは、一つの身体に二人の性格が宿っているってことなの?」

「そういうことよ。あなたも今思い知っているんじゃないかしら?」

 確かにそうだ。本当の自分と違う自分が表に出てきている。

「もっとも、今身体の中にいる自分が本当の自分かどうか分からないんだけどね。でも、分からないだけに、その区別は、身体の中にいる人が本当の自分だって思うしかないんじゃないかしら?」

 姉の話していることは、前から分かっていたことのように思う。確証がなかっただけで、自分にもその思いが燻っていた。ここに来て、その思いが確証に変わるのではないかと思えた。

 なぜ知っていたかというと、この洞窟に来るのが初めてではないように思えたからだ。それはデジャブではなく、一度ならず二度も三度もあったことのように思えた。その思いの元にあるのは、

――自分の中に二人いるのだ――

 という考えがあることで、もう一人の自分の意識が表に出てきた時に感じるのだと思えば、その理屈も信憑性を帯びてくる。

 姉の中に二人、自分の中に二人、それぞれを思い浮かべてみると、姉の裏側に、兄の面影を見ることができてきた。

――姉がここに現れたということは、何かの縁なのかも知れない――

 しかも、この時期に現れるということは、時期にも何か意味があるように思えるのだ。

 兄が死んでから二年が経った。自殺だったという。

 自分も今、兄が死んだ年齢になっている。兄が何を思って自殺などを試みたのか分からないが、兄は一度では死に切れず、二度死んだのだ。

 普通であれば、

「二度も死のうなんて思えるものではない」

 らしいのだが、兄は二度目で死んだ。

 ただ、その時のことは、

「事故だったのではないか?」

 とも言われている。

 車に飛び込んだことになっているが、その時の兄は情緒不安定だった。それは、自分たちがまだ子供の頃に見た母の情緒不安定に似ていた。ずっと怒りっぽいわけではなかったが、急に怒り出したりするのが母だった。それだけに手に負えない状態になっていたのだが、兄もそんな状態だったようだ。

「急に何をするか分からないところがありましたから」

 と、まるで急に思い立って自殺をしたかのようにまわりは考えていた。だが、誠はそんなことは考えていなかった。根拠があるわけではなかったが、兄が自分から命を断つことが信じられなかったのだ。

――何かに誘導されるかのように、道路に飛び出したのかな?

 交通事故か自殺で捜査されたが、自殺歴があるからといって、簡単に自殺にされてしまったようで、誠には納得がいかなかった。確かに遺書があったわけではない。一度目の時も遺書はなかった。

――本当に兄は、自分から死のうとしたんだろうか?

 そのあたりから疑ってみる方がいいのではないかと思えていた。

 洞窟の中で、姉と出会って話をしている。ひょっとすると、兄も、姉と話をしたことがあったのではないかと思った。

――じゃあ、僕も、自殺してしまうんだろうか?

 何が兄を死に追いつめたのか、誠にはその時、まったく分かっていなかったのだ。

 何が死をもたらしたのか分からない以上、誠は自分が自殺を企てることはないような気がした。自殺をするのに、自分から死にたいと思う時と、生きることの方が死ぬよりも辛いということをハッキリと意識した時に自殺を企てるのだと思った。

――自分から死にたい――

 と思う時というのは、どういう時なのだろうか?

 死にたいなどと自分の意志から考えられるものではないのだとすると、そこには自分の意識しない何かの力が働いている時なのかも知れない。そんな時は、死ぬ時、遺書を残したりはしない。見た目は自殺に思えないが、他殺でもないと判断された時のような不思議な死は、何か見えない力によって死にたいと感じさせられた人が他取る末路ではないだろうか。

 ただ、死を目の前にした時だけ、見えない力が何なのかを悟るとすれば、その正体が何であれ、少し虚しさを感じる。

 本当に自分が死にたいから死ぬわけではないことを悟ったとすれば、それは悲しすぎる最後だからである。

 本当にそのまま死んでしまうのであろうか? ひょっとすると、死に至る前に、もう一度意志の確認がなされるのかも知れない。そこで本当に死にたいと思えば、その人の人生はそこで終わるのだ。

 ただ、最後の選択の時は、少しでも死にたいと思っている心が残っていると、そちらが優先される。したがって、ここまでくれば、ほとんどの人は、死ぬことになるのだろう。最後に一度選択が残されていることで、その人は、「自殺」したということになるのだ。

 兄の場合は、自殺するような雰囲気は感じられなかった。もちろん、悩みくらいはあっただろうが、自殺に結びつくような悩みがあったとは思えなかった。

 ただ、幸せだったというわけではない。漠然と人生を歩んでいたように思う。それは誠も同じように漠然と人生を歩んでいたので、気持ちは分かる気がしていた。見ていて自分と違うところは、

――一体何を考えているのだろう?

 と感じるほど、何事にも無関心だった。何かを考えているとしても、それを自分で、

――何かを考えている――

 という意識を持っていなかったのかも知れない。何かを考えていたとしても自覚がなければ何も考えていないのと同じである。そんな兄に、何かの力が働いたのだろう。

 誠は同じように死にたいと思うほどのこともなければ、幸せだと思うこともない。ただ、漠然と生きていく中で、兄との違いを思い浮かべると、どうしても行きつく先は、兄のように考えていることすら意識していない人に、何かの力が働いてしまうのではないかと思うことだった。

 兄は一度目の自殺にまわりは衝撃を受けた。それだけに、二度目があるかも知れないという思いは誰もが持っていただろう。

 それなのに、誰も止めることができなかった。心の中で、

――一度死に切れなかった人は、二度目は躊躇して死ねないものだ。一度で死に切れなかった人に対して、あまり心配することはないだろう――

 という甘い思いがあったのも事実だろう。

 兄のそばにいた人は、兄が死んだのを見て、さらにショックを受けたに違いない。しかも仲の良かった人だったりすると、相手の気持ちも分かっていると思っていたはずだ。それなのに、止めることができなかったことで、自分も兄のような立場になると、きっと誰にも止めることができないのではないかと思うからだ。

――兄は、止めてほしかったのだろうか?

 本当に死を目の前にすると、どんな人間でも、後悔したり、恐ろしさで尋常ではいられなくなるはずだ。誰であっても、死ぬ瞬間は変わらないものだと、誠は思っている。

 兄が死んでからしばらくは、

――兄のことを忘れることはないだろう――

 と思っていた。

 特に兄に対してコンプレックスを抱き続けたのだ。その相手がいなくなってしまっては、自分の生きていく上での張りのようなものが、なくなってしまった気がするのだ。

 だが、それもすぐに、忘れてしまう。忘れ始めれば、あっという間のことだった。

――ここにも、見えない力が働いている?

 考えてみれば、今まで歩んできた人生の中で、最初に思い立った通りにしなければ、後は意思が鈍ってしまい、次第に考えていたことが達成できなくなるということが多いのではないかと感じていた。

――思い立ったが吉日――

 という言葉があるが、まさにその通りだ。

 兄が死んだことで、誠の生活が変わることはなかったが、何か釈然としない思いが残ったのは事実だった。

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