第9話 第9章
いろいろな妄想が誠の頭に浮かぶ。兄の背中を見ていた子供の頃に、
――似てはいるって言われるけど、何を考えているか分からないところがあるな――
兄を見ていて、そんな風に感じたことがあった。兄はそんな弟の視線には気付いていないだろう。
元々兄は、まわりをあまり考える子供ではなかった。
――我が道を行く――
というところがあり、誠は子供心にそんな兄の性格に密かに惹かれていたのだ。
それが、中学に入ると逆転した。
兄はまわりを気にするようになった。モテていたり、まわりから慕われる立場になったから仕方がないのだろうが、誠はその点、まわりから気にもされないので、楽ではあった。
誠は、本人も気づかなかったが、子供の頃を思い出すと、結構人に染まりやすい性格だった。
今であれば、嫌な性格である。人とあまり関わりたくないと思っているので、人に染まるなど考えられない。しかも、気付かなかったとはいえ、子供の頃、染まりやすかったなど、考えたくもないことなのだ。
いや、気付かなかったことが自分で許せない。
――どうして気付かなかったんだろう?
ただ、もし、気付いていたとして、子供の自分に何ができたであろう? 何かに反発するにしても、その対象が見つからない。
少年時代の頃は、大学生の頃くらいまではあまり思い出すこともなかったし、思い出すこともないだろうと思っていた。それは、自分が人に染まりやすい性格だと気が付いたからである。
しかし、今は結構思い出すことが多い。思い出したからといって、懐かしさに浸るわけではないが、嫌な思いをすることもなくなった。
思い出すことといえば、いつも兄の背中を見ながら後ろにくっついていたということだけである。他のことを思い出すことはほどんどない。
特に家族のことはあまり思い出さない。思い出したとしても、母のことで、父のことを思い出すことはない。
いつも遅く帰っていた父、顔さえおぼろげだ。
それでも兄が大学生の頃、
「俺は母親のことはあまり思い出さないんだけど、父親のことは、なぜか思い出すんだよな」
と言っていた。まるで、誠の心を見透かされたようで、わざと正反対のことを言っているのではないかと勘繰ったほどだった。
兄と自分の性格は、結構反対なところが多かった。それだけに、
――逆も真なり――
で、さすが兄弟だと思ったほどだった。
しかし、違うところは極端に違う。それを大きく感じたのは、兄は絶対にまわりに染まることがないということだった。
兄を見ていると、人に染まることを嫌っている意識はなさそうだ。誠は逆に人に染まるのを嫌っているのに、なぜか気が付けばまわりに染まってしまっている。意識しない方がいいということだろうか?
意識し始める前を思い出そうとしたが、意識し始める前の自分が人に染まっていたかどうか分からない。人に染まっているということを感じるようになって、自分が実は人に染まることを嫌がる性格だったことに気が付いたくらいだ。
昔の自分を思い出そうとすると、思い出せる部分と思い出せない部分が極端であった。思い出せるところはハッキリと思い出せるのに、それ以外は、まるで記憶が欠落したかのようにまったく思い出せないのだ。
それは、二重人格の裏表を示しているかのようだった。
どんでん返しの舞台のように、表に出ている自分と、裏に隠れている部分、
――本当に一人の人間に宿っているものなのだろうか?
と感じるほどだった。
表に出ている部分と、裏に隠れている部分はすべてが紙一重ではないだろうか? 一歩違っていれば、どちらが表であっても裏であっても分からない。それは本人にも言えることで、紙一重の部分というのは、元は同じ一つのものだったのではないかとさえ思うのだった。
人に染まりやすい部分は、表に出ている部分を絶えず刺激していたようだ。どちらが表に出ていようとも、絶えず人に染まっていた。人に染まることが楽だったのかも知れない。
――人は無意識に楽な方に行くものだ――
という考えが頭を擡げる。
しかも人に染まっていくと、まるで保護色のように外敵から自分を守ることができる。それを思うと、無意識であるだけに、本能だとは言えないだろうか。
人に染まりやすいのは、何も性格だけではなかった。
外見も人に似てくるらしく、小さかった頃に仲が良かった友達に似ていると言われていたらしい。
もっとも、後になって聞いたことだったので、その時は分からなかった。この話を聞くことで、自分が人に染まりやすいのだということを、自覚するようになったというのが真相だった。
そう思ってくると、もう一つの疑念も感じてくるようになった。
子供の頃、一番誰に似ているかと言われると、当然のことながら、兄だった。
「本当に双子のように似ているよな」
と、まわりから言われていたが、誠はまんざらでもなかった。兄弟なのだから似ているのは当然で、似ていると言われることが光栄に思うくらいだった。
それだけに、中学になって急に似てこなくなると、余計に兄に対して感じた嫉妬は深く大きくなっていった。兄の方も、
――どうして、そんなに毛嫌いするんだ?
と思っていたかも知れない。
毛嫌いしていたわけではないが、兄が疎ましいと思っていたのは事実だ。疎ましさは嫉妬から来たもので。嫉妬は毛嫌いに結びつくものではないと思っていた。
誠は、兄の彼女と関係を持った時のことを思い出していた。
最初は兄に彼女ができて、羨ましいと思う反面、まわりからモテなくなることを喜んでいる自分がいるのも感じていた。
兄にはずっと彼女ができなかったが、それは選り好みしていたわけではなく、たぶん、モテすぎると、女性同士で遠慮があったり、女性の側からすると、
「好きだと思っている気持ちは、ただの憧れなのかも知れないわ」
と思っていたのではないだろうか。
兄が、あまり女性を相手にしないところでそう感じたのだろうが、女性というのは、
――自分のことだけを愛してくれる人じゃなければ嫌だ――
と思うものだからである。
その気持ちは、誠にはよく分かる。そう感じる時、誠は自分が女性の気持ちになったような気がするのだ。それも兄のことを考えた時にである。それ以外のことを考えている時に、自分が女性になったような気はしてこないのだった。
兄の彼女が誠に興味を持ったのは、実は誠が女性の気持ちになった時だった。
普段なら、女性の思いになった時は、少しの間だけ女性の気持ちになるだけで、すぐに女性の気持ちになったことさえ忘れるほど、一気に我に返っていた。
しかし、その時は女性の気持ちになったまま、なかなか我に返ることはなかった。そんな時すかさず兄の彼女は、誠に近づいてきた。
誠はされるがままだった。
「そんなに緊張しなくてもいいのよ。さあ、力を抜いて」
耳元で囁かれると、思わず声が漏れてしまう。その時にはすでに理性は吹っ飛んでいたような気がする。
誠の息が荒くなっているのを見ながら、彼女は満足そうに口元を歪め、妖艶な笑みを浮かべていた。さらに息が耳に吹きかかる。
「あっ」
その声は、すでに男の声ではなかった。思わず自分でも興奮してしまうほどの、甘い女性の声だったのだ。
「あなた、可愛いわ」
兄の彼女と、姉がダブってしまった。身体は痺れていて、緊張と興奮が交互に襲ってくる。
意識していなければ、一緒に襲ってきているように思うかも知れないが、実際に一緒に襲ってくることはない。交互にタイミングを合わせたかのように襲ってくるのだ。誠はおぼろげな意識の中で、そのことだけは意識していた。
感じる部分に、彼女の指が舌が這っている。自分が男なのか女のか曖昧な気持ちになりながら、快感に耐えていると、
「我慢しなくてもいいのよ」
と、まるで、
――私は、あなたのことなら何でも分かる――
と言いたげだったのだ。
そう思われているのであれば、却って開き直りも早かった。
――ただ、身を任せていればいいんだ――
と思えばいいだけだった。
実際に身を任さているだけで、快感の波は定期的に襲ってくる。次第に感覚が狭まってくると、それに伴い意識も曖昧になる。曖昧になってくると、自分は男ではなく女になってしまったことに気付かされた。
――女同士で――
そう思うと、最初に感じた後ろめたさは消えていくのを感じた。
罪悪感だけは残っていたが、後ろめたさが消えてきたのは、自分が女の感覚に陥っていることで、快感を味わっているのが自分ではないことで、兄に対しての後ろめたさがなくなってきたという感覚からだった。誠にとって兄の存在は疎ましいという思い以上に、絶大な存在感をずっと感じさせていたことを、その時に思い知らされた気がした。
誠が男に戻ったのは、彼女の中に侵入てたいった時だった。
やはり彼女も女、切ない声で泣き声を上げると、誠は男を思い出していた。
男としての快感が身体を貫くと、後は一気に上り詰めるだけだった。快感の波はすでになく、後は弾き出すだけになっていた。
すべてが終わってお互いにぐったりしている時、
「あなたって、不思議な人ね」
彼女はそう言って、天井を見つめている。
「あなたとは、今日が初めてではないような気がするくらいだわ」
と、続けたが、その言葉の意味はもちろん、理解できるものではない。
「どういうことなんですか?」
「あなたとは、どこか別の場所でも会ったような気がするの。それも、私にとって救世主であるかのような感じでの出会いなんだわ」
と、視線はあらぬ方向を見つめているが、そこで見つめる先は、本当に天井だったのだろうか?
誠は、彼女の表情を横目に見ながら、救世主という言葉が頭の中にこびりついた気がした。だが、少しだけ意識をしていた時期があったが、すぐに忘れてしまった。きっと記憶の奥に封印されてしまったのだろう。
そのことが、洞窟の中で見た女の妄想と結びついている。妄想がなければ、彼女との二人きりの秘密を覚えていることもなかったかも知れない。
もっと普通の恋愛として意識していたはずだった。一回だけの彼女にとってはアバンチュールで、それに誠が乗ってあげたというだけで、終わっていればよかった。
兄に対しての後ろめたさがあったが、それも、兄に対しての嫉妬心を少しでも和らげられたと思えば、それでいい。少し自分に都合のいい考えだが、兄に対しては、それくらいがちょうどいいと思っていたのだ。
誠は人に染まりやすいという子供の頃の性格を思い出したのも、実はその時だった。
なぜ、彼女と身体を重ねている時、自分が女になったような気がしたのか分からなかったが、
――姉がいた――
という秘密を、ずっと半信半疑でいた自分の中の鬱積した気持ちが、自分の中に姉を見せたのではないかという不思議な妄想を感じた。
今までに感じたことのない快感の中で、逃げ出したいほど、どうしていいか分からなくなった時、
――別の人になってしまえばいい――
と無意識に感じたのかも知れない。
そう思うと、誠は自分には、
――何か不思議な力が宿っているのかも知れない――
と思うのだった。
それは、ある日突然降臨してくるものなのか、それとも、一定の興奮状態や覚醒状態に陥った時に湧き出してくるものなのか分からない。だが、その思いを感じたのは一度や二度ではなかったような気がする。
断崖絶壁の吊り橋や、洞窟の中で感じたことなど、その不思議な力の賜物があったのかも知れない。
――あの時死んでいたかも知れないしな――
と一瞬だけ感じたが、
――そんなバカなことはない。あそこで死んだ人なんて聞いたことがないし、自殺の名所を前にして、自殺しようとした人があそこで死んだりしたのでは、洒落にならないからな――
と、思うのだった。
不思議な力について考えるようになって、すぐに兄を見返してみた。
――僕に不思議な力が備わっているのだとすれば、兄にも備わっているはずではないか――
と感じたからだ。
だが、そう思って見れば見るほど、兄は普通の人間だった。どこかに不思議な力を感じさせるようなオーラが潜んでいるわけではない。
ただ、不思議な力というのは、本当にオーラを発するものなのだろうかという発想もあった。
それは自分にも言えることで、自分にオーラを感じるかというと、感じることはできない。
誠にとって、兄という存在は、子供の頃のようにいつも背中を見つめている相手ではなくなっていた。
――兄は兄なんだ――
年齢を追い越すことはできないので、兄が前を見続けている限り、自分は背中を見つめるしかできない。それは分かるのだが、一度も後ろを振り向かないというのも腑に落ちないところである。
子供の頃もそうだった。
「本当に双子のように似ているわね」
と、言われて兄は複雑な顔をしていた。誠はそれを兄が、
――照れているんだ――
と思っていたが、そうでもないようだ。
誠も人から言われて苦笑いをするだけだったが、それ以上、どんな顔をしていいか分からなかっただけだ。だが、兄の場合は、他の表情をしようと思っていてもできないような引きつった表情が複雑な表情の中にはあった。
いや、他の表情をしようとしてできないという感覚が大部分を占めていたのではないだろうか。
――兄にとって、僕はそんなに疎ましい存在なのかな?
子供の頃なので、ずっと後ろに付きまとっていたことで、疎ましいと思われていたのだと思っていたが、どうやらそうではないようだ。
――兄には弟なんてほしいと思っていなかったのか、それとも、弟はほしいと思っていたが、僕だったから嫌だったのか――
誠は、そのことを考えるようになっていた。
そして、兄の彼女と秘密を持ってから、
――やっぱり、兄は僕だから疎ましく思っていたんだ――
と感じるようになった。
誠が兄の彼女と関係を持つようになって、兄は誠に対して開き直ったようになっていた。
別に怒っているという雰囲気は感じない。きっと二人の秘密を知らないからだろう。
それなら、開き直った態度を取るのもおかしなものだ。何か感じるものはあったようだが、それを突き止めようとはしなかった。
それまでも、他人行儀なところが多かったが、それだけではなくなっていた。ただ、毛嫌いをするわけではない。誠に対しての視線は本当に冷たいもので、それは他人感情を通り越したものに思えてなからなかった。
だが、そのうちに誠に対しては無表情になる。完全に感情を表に出していないのだ。それが開き直りに感じられたが、次第に開き直りではなく、本当に感情が表に出ていなくなったのだ。
誠は、兄が誰に対しても同じような表情をしているのではないかと最初は感じたが、どうもそうではないようだ。他の人に対しては、感情が顔に出ているし、今までと変わりはない。いや、自分に対して本当の無表情を浴びせているので、余計に他の人に対しては、表情豊かに感じられるのだ。
――一体、どうしたんだ?
とも感じたが、考えてみれば、こうなるのは想像済みだったような気がする。
兄の彼女との関係を持ったことへの罪悪感は、この瞬間に消えてしまった。兄の彼女を取ってしまったことへのわだかまりも一切なくなり、
――あんたがボヤボヤしているから、女を取られるんだ――
というくらいに感じたのだ。
だが、兄は、本当にボンヤリしていたから、誠が彼女と秘密を持つことができたのだろうか? どうもそれも違うような気がする。
――兄には、最初から分かっていたのではないか――
と、いう思いも浮かんできた。それが疑念になってくると、信憑性も生まれてくる。誠にとっては、次第に自分の中の考えが、あまりにも自分に都合がよすぎたのではないかという思いに至らせることだった。
誠は兄と一線を画すようになったのは、誠が就職してからだった。
兄は誠と一緒にいる時、露骨に嫌な顔をするようになった。兄もこちらから連絡するから仕方なく会っていたのであれば、連絡しなければいいだけだ。連絡をしなくなると、最初はそれでも気になっていたが、次第に兄のことを忘れるようになった。
ただ、夢の中に出てくるのは姉に変わっていた。それまでは夢を見ると兄がどこかで関わっていて、それだけ兄を意識しているのを分かっていた。
――嫉妬しているはずなのに、夢の中にまで出てくるなんて、意識している証拠なのだろうか?
自分でも不思議だった。しかも、兄を意識しなくなると、今度は見たこともない姉の姿が思い浮かんでくる。
優しい姉を想像したいはずなのに、出てくる姉は厳格なところのある姉だった。いかにもしっかりしていて、ちょっとでも中途半端なことをすると、すぐに叱られそうになる。
「誠、しっかりしなさい」
ただ、言葉では叱責しながらも、表情は優しい。
「しょうがないわね」
と、なだめるような表情だ。
誠もそんな姉に対して、苦笑で返す。姉も同じように微笑むだけだった。
――これが、自分が欲する姉へのイメージなんだ――
と感じると、この感覚が初めてではないように思えてならなかった。
兄が、そんな顔をするはずもない。それに今まで付き合った女性の中にも、こんな雰囲気の人はいなかった。それなのに、懐かしさすら感じるというのは、どうしてなのか、考えてみた。
すると、後考えられるのは、母親に感じた思いだけだった。
だが、叱責が苦笑に変わるような母ではなかった。誠に対して、どこか遠慮があるように感じるが、苦笑を浮かべることはない。それは後ろめたさを感じる人にはありえない思いという感覚であった。
母が誠に後ろめたさを感じているのではないかというのを感じたことは何度かあった。だが、母親には誠に対してどんな後ろめたさがあるのか、分からなかった。一つ考えられることとしては、母が遠慮深いのは誠に対してだけではない。必要以上にそのことを感じるのは、誠自身が、母親に対して、逆に遠慮のようなものを感じているからではないかと思うことだった。
誠は相手が遠慮深い態度に出ると、自分も同じように遠慮深く感じてしまい、どこかぎこちない付き合いになってしまう。それはまるで油の切れた工作機械のように、ところどころからミシミシという音が聞こえ、まわりに不安感を与えてしまうのと、非常によく似ていた。
ただ、誠は母親にだけではなく、相手の性格に合わせてしまうところがある。
それが誠の、
――人に染まりやすい性格――
というところに結びついてくるのだ。
ただ、それは意識してしまうと、逆に離れてしまうようだ。それは兄との関係について考えているとおのずと分かってくることだった。
子供の頃に、兄とまるで双子のように似ていると、まわりから言われていた。しかも、その頃の誠は兄の後ろをついて歩くような男の子だった。
――染まりやすい性格だということを、自分で無意識に納得していたのかも知れないな――
誠は納得のいかなことはあまり信用する方ではない。無意識のこととなれば、自分で受け付けないと思うほどだった。それなのに、ここまで似ているということは、自分が兄に染まっていたということを無意識に分かっていて、しかも納得していたということだ。
しかし、それが中学に入ると、染まっていたということを意識し始めたのか、それとも自分の中でどこか納得がいかなくなったのか、兄とは同じでは嫌だという気持ちが働いたのか、兄と正反対の雰囲気に変わっていった。
コンプレックスを感じるほどの変わり方なのに、それでも、兄と同じであることよりもいいと納得しているからなのかも知れない。そう思うと、誠は自分の中にあるコンプレックスというものが、ジレンマであることに気付くようになってきた。その頃から、誠は兄に対して、不思議な遠慮を感じるようになってきた。
――人に気を遣うことが嫌いなくせに、一体どうしたことなのだ?
と感じるようになったのだ。
誠は、自分が家族に対して納得の行かない不思議な感覚を抱いていることに気が付いていた。だからといって、どうすればいいかなど分かるはずもない。家族全体を見る目を持つことなどできず、それぞれ相手を絞って見つめていくしかないと思うようになったのだった。
兄に対しては、子供の頃のイメージがどうしても拭いきれない。兄と一緒にいて、背中ばかりを見ていて、子供の頃は違和感がなかった。似ていると言われることも当たり前のこととして、受け止めていた。
しかし、中学になって似ていないようになると、子供の頃を思い出して逆に、
――本当に似ていたんだろうか?
と思うようになった。
それは、兄弟だからということで、まわりから見る目が似ているという意識の強さから似ているように思い込んでいただけなのかも知れない。
さらにまわりからの声は、信じるようにしていた。疑うことを知らないというよりも、まわりは皆、自分よりも優れているという感覚が強いこともあって、そのために、
――人を疑ってはいけない――
という気持ちになっていた。
その気持ちが、人に染まりやすいという性格に結びついていたのか、染まりやすい性格だからこそ、余計に人を疑ってはいけないと思いこむようになったのかの、どちらかではないだろうか。
誠にとって、小学生の頃と、中学生以降では、かなり違った。
中学に入ってから、自分の外見が「醜い姿」のように感じてくると、コンプレックスによって、まわりの目を憎むようになっていた。そこには、自分よりも優れているという気持ちは打ち消されるほどの思いがあり、そのくせ、人を疑ってはいけないという思いの強さからのジレンマも発生してきた。
奇しくも、兄にもジレンマを感じていたが、そのジレンマの種類は、兄に感じたものとまったく違うものだった。
ただ、どこかまでは同じものなのかも知れないと思うのだが、途中から枝分かれのようになってしまったのは、基本的に、
――人と同じでは嫌だ――
という思いが嵩じてしまったのが、外見に影響しているのではないかと思うことであった。
父親に対しては、もっと露骨だった。
小学生の頃から、兄は父親に対して敵対的なものを持っていた。
兄の場合は、見る人が見なければ、その雰囲気は相手に繋がらなかった。誠には、兄の思いが分かった気がしていたので、
――見る人が見た目――
だったのである。
しかし、誠は兄のように、見る人が見ないと分からないほど、器用な見方ができなかった。
――嫌なものは嫌だ――
という視線を父親に向けていた。
ただ、父親は兄の視線も、誠の視線も分かっていたようだ。母だけは、父に対して嫌がっている視線を向けていないが、その視線には怯えが感じられ、遠慮がちであった。母の視線が遠慮がちなのは昔からなのか、それとも父と一緒にいるとで、何事も遠慮がちに見えるように変わっていったのか分からない。夫婦としては、いかがなものなのであろうかと子供心に感じたものだ。
母の視線を父は、一番痛く感じていたようだ。兄と誠の視線は、適当にいなしていたが、母の視線を逸らすことは、父にはできなかった。
目を逸らすしかできなかった。それでも痛いほどの視線を浴びせられ、いつしか家にいるのが辛くなったのか、なかなか家に寄り付かなくなった。毎日日にちが変わって帰ってくるが、仕事で遅くなっているわけではなく、どこにいたのか、誰にも分からなかっただろう。お酒を呑んでくることもあっただろうし、女性と一緒にいたこともあっただろう。母には分かっていたように思う。
それでも、母は何も言わない。言えないのかも知れない。二人が離婚しそうでしないのは子供二人がいるからなのだろうか? それとも、子供を理由に、お互いに離婚を思い止まっているだけなのか、どちらにしても、自分たちを理由に勝手に決めないでほしいという気持ちもある。
兄はどう思っているのかよく分からないが、兄は、父に対してよりも、母の方をまったく見ようとしない。それは、母の性格を嫌っているように思えた。考えてみれば、母と兄とでは、性格は全然違うようだ。
家族は全体的に、皆自分の世界を持っていたり、悪く言えば、自分の殻に閉じ籠っている人が多かった。誠もその中の一人に違いないが、そのおかげで、兄や父のことはよく分かった。
しかし、母は二人とは違って、あまり遠慮することもなく、ズケズケと何でも口にしたり、急に訳もなく明るくなることがあった。それは豹変したというよりも、元々そういう性格で、隠し事が苦手だったり、自分の中で抑えておくことができない性格だったに違いない。
ただ、家族の中で、母だけが女性であるということも、紛れもない事実だった。男とは明らかに違っても、それは仕方がないことではないだろうか。
しかし、露骨に違うというのは、少し腑に落ちない。
「お母さんは、急に変わるからな。さっきまであんなに落ち着いていたと思ったのに、何かの拍子にいきなり怒り出したりする」
それは兄が小学校を卒業する少し前に話していたことだったように思う。
――我ながら、それがよく兄の小学生を卒業する少し前だってこと、覚えていたものだな――
と感じたが、まさしくその通りだった。
小学校を卒業する少し前から、兄も急に変わった。
その頃から誠を無視するようになったのだが、ひょっとすると、母のその話をしたのが最後、無視をし始めたのは、その直後だったからだ。
兄が母の話をしたのも本当は珍しいことだった。それが誠に対していつも話しかけてくれていたことの最後になったというのも皮肉なことだった。
母はその頃から、情緒不安定な感じになり、急に怒り出すことも珍しくなかった。
最初は、
「そのうちにすぐに治るだろうから、少し様子を見よう」
という父の一言で、少し放っておいたが、さすがになかなか治らないことで、父が直々に精神内科に連れていったのだ。
「情緒不安定ということで、薬を貰ってきたよ」
と言って、その薬を常用するようになった。
その薬は結構強いもののようで、すぐに眠くなっていた。家族で食事をしながらでも、たまに急に寝てしまっている母がいることも、珍しくはなかったのだ。
そんな時、家族は誰も起こそうとはしない。
「寝かせておいてあげよう」
と言って、父が布団を敷いて、運んでいた。
そんな母の状態も、数か月もすれば、すっかりよくなっていた。それから、母の時々ハイテンションになる時期が始まったのだ。
ハイテンションなら、少し気にはなるが、そんなに悪いことではない。怒り出すわけでもないし、おかしなことを口走るわけでもない。そのうちに家族も、
「これがお母さんの性格なんだ」
と、感じるようになり、今度こそ放っておくことにした。ただ、そんな中で絶えず母のことを心配している父がいるのが気になるところだった。
――何か、母に喋られては困るようなことがあるのかな?
と感じるほどだったが、それ以上を追及する気にはならなかった。
人に対して遠慮のない話し方は、そのうちに誠に伝染したのか、誠も自分の話をした内容で、急に相手が怒り出して、ビックリしたことがあった。
最初は、
――話す相手が悪かったんだ――
と感じたほどだったが、そういうわけではなかった。他の人からも同じように急に怒り出されたことがあったのを感じると、その原因は明らかに自分にあるとしか思えないのだった。
その頃には、誠は高校生になっていて、まわりは皆大人に見えていた。
自分だけが子供のままのような気持ちだった誠は、兄に対して見ていた目を、今度はまわりの友達に向けるようになる。
兄に対しては、最初から年齢差を感じていたので、そこまではなかったが、友達に対しては、コンプレックスではなく、競争心が生まれてきたように思ったはずなのに、
――何を競走すればいいんだ?
と、自分が考え始めたことが、自分の中でまとまっていないことに気付くのだった。
競争心というもの自体、それまでに感じたこともないのだから、感じたとしても、どうしていいのか分からない。特に今まで家族を意識することはあっても、まわりの友達を競争相手として感じたことはなかった。
入試の時でも同じである。
――競争相手は、まわりではなく自分なんだ――
それは先生も言っていたことだ。その言葉を鵜呑みにできるだけの気持ちが誠の中にはあった。それは、家族を意識しすぎているからだということを、誠はずっと気付かないでいたのだ。
母が情緒不安定の時期を迎えたのは、誠が高校を卒業する頃だった。
「また、お母さんを病院に連れていかなければならないな」
と父が言っていたが、先生に母が最近までハイテンションだったことを告げると、
「お母さんは、精神的に二重人格なのかも知れませんね。今は長い周期での情緒不安定ですが、そのうちに周期が短くなるような気がしますね。怒りっぽい時があると思えば、いきなり、ハイテンションになるような感じですね。もっとも、本当は周期は短い方が一般的なんですけどね」
と言っていた。
母親が二重人格だと知ると、家族は皆、母親に対して憐みの表情を浮かべるようになった。確かに可哀そうだと思うのだが、家族の視線には、まるで他人事のようにしか感じない。
「可哀そうなお母さん。でも、その遺伝が僕にはなくて、ホッとしているよ」
という視線を兄から感じる。憐みの中に冷たさがあり、その根底には、他人事だという意識が根付いているのだった。
父から感じるのは、兄よりももっと露骨なものだった。他人事というよりも、上から目線に感じられ、これから先、何があっても、悪いのは自分ではなく母の方だと言わんばかりの態度に、父の本当を見たように思えた。その冷静な目は、結婚を後悔しているというよりも、自分の方が優位に立てたことを、喜んでいるかのようであった。
結婚した時は母の方が上から目線だったのではないかと思わせた。
物心つく前も、母が怖かったという印象があった。それなのに、実際に成長してみると、子供の頃に感じた怖さは、それほど感じない。それだけ、家庭に入ると、落ち着いてきたということなのだろうが、精神サイクルの周期が大きくなっただけなのかも知れないとも感じていた。
精神サイクルの周期が長いということは、それだけ安定した家庭環境なのか、それとも、忙しくて、そこまで神経が回らないのかのどちらかであろう。しかし母親からは安定した家庭環境というよりも、絶えず忙しそうにしているのが目立った。それは母がわざとまわりにそう見せていたのかも知れない。家族に心配かけたくないというより、心配される方がよほどきついと思っているからなのかも知れない。
家族に対して遠慮することなく、何でも話をしていた母だったが、それを本当の性格だと思ってみていると、実は、必要以上なくらい、まわりに気を遣う性格に見えて仕方がない。母親が家族の中で浮いて感じられるようになったのは、そのあたりが最初だったように思う。
絶えず、母は誰かを怖がっていた。相手は父親だったり、兄だったりするが、誠を怖がっているような感じを受けたことは、最近までにはなかったことだ。
それが、ここ二年ほどの間に母は急に大人しくなってしまい、情緒不安定になることもなくなった。その代わり、急にやつれたように見え始め、数か月会わなかっただけで、十年は年を取ったように思ったくらいだったのだ。
母は、数年前から病気がちだった。入退院を繰り返していたが、持病を持っての入退院ではない。その時々で症状が違うのだ。
中には原因がよく分からないというものもあった。
「とりあえず、入院していただいて、精密検査をしてみないと、何とも言えませんね」
と、その時の病気を中心に精密検査を行うのだが、病気以外のところで、何か異常が見られることはなかった。
「精神的なものですかね?」
母が情緒不安定で、精神内科に通っていることも話をして、以前に通院していた精神内科からの情報も得ていたはずなのに、実際に精密検査をしても、そこから分かることは何もなかったのである。
病院に誠も何度か付き添ったことがあったが、いつ行っても、あの薬品の臭いにはなじめない。頭がクラクラして、気が付けば気絶していたということが今までに何度あったことだろう。
――病院だけは、どうしても好きになれない――
自分が病気ではなく付き添っている時の方がむしろ、薬品に酔ってしまうことが多かった。アルコールの臭いが一番効果があるようで、アルコールの臭いがしてくると、意識が薄れてくるのが手に取るように分かるようだった。
――やめてくれ――
何に対して訴えているのか分からないが、声にならない声を発して、そのまま眠りの世界に入ってくるのを感じるのだった。
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