第8話 第8章

 タブーというものを考えていくと、洞窟の中での出来事をさらに思い出していた。

 あの時に、見た光景は、吊り橋の恐怖とは違った意味で、頭に残っている。

――ついさっき見たような気がする――

 という感覚は、洞窟での出来事を思い出した時に共通して感じることで、吊り橋を思い出す時とは少し違っていた。

 吊り橋の上を思い出すのは、想像や妄想の中で、

――ついで――

 として思い出すことが多いのだ。

 誠にとって、洞窟というのは、

――つり橋と、断崖絶壁の上で感じた恐怖をやっと逃れることができて、訪れた場所だ――

 という意識だった。

 それが、最後に夢から覚める前のクライマックスでもあるかのように、強い意識を残したまま、結局どうなったのか、分からないままである。

 妄想というのは、元々そういうものなのだろうが、それだけで納得できるものではないだろう。

 誠は、洞窟の中で最初に感じたのは、湿気だった。

 頭の上からピタッピタッと、水滴が落ちてくるのを感じながら、嵐のような強風から一点、風がなぜか通り抜けない洞窟に辿りついた時、生暖かい空気を感じていた。

 どこから、こんな生暖かさが溢れてくるのだろう?

 誠はそんなことを感じながら、背中に汗を掻いてくるのを感じた。

 その汗は冷や汗というわけではなかった。不安は相変わらずあったが、それによる発汗はなかった。それよりも、湿気がひどいことに、不快感を感じたほどで、

――このまま発熱するんじゃないかな?

 と感じるほどだった。

 それは、誠が海が嫌いなことから影響していたのだ。

 子供の頃、家族で何度か海水浴に出かけたが、元々あまり潮風が好きではなかった誠は、いつも海から帰ってきた次の日には熱を出して寝込んでしまった。

 それほど高熱というわけではないのだが、熱が出ると、身体が無性に痛くなっていた。自分一人で起きることもままならず、食欲は全然なく、食べればしばらくすると戻してしまっていた。

――身体が受け付けなくなっているんだ――

 という思いがあり、身体が何も受け付けないことがこれほど辛いことだとは知らなかった。

 潮風が嫌いになったのはその後だったかも知れないが、誠の中では、元々潮風が苦手だったという意識が残っていて、

――意識の交錯なのかも知れない――

 と思ったが、自分の中での信憑性は低かった。

 根拠など元々ない信憑性。誠は、それを時系列のせいだとは思わない。それだけ意識の中にインパクトを得たかということの方が大きいと思っている。

 海水浴と洞窟は違っているが、潮風が苦手だと思った一番の原因は、湿気だということは最初から分かっていたのだ。

 洞窟にいた女性の顔を確認できないのは、何か女性に対して思い出したくない思いがあるからなのかも知れない。

 それも、自分がしてはいけない何かタブーを破ったからなのではないかと思ったのは、吊り橋でタブーを感じてからであった。

 記憶の欠落の中には、洞窟での思いもあるのかも知れない。欠落した記憶が、見えるはずの顔を見せられないとすれば、その時蠢いていた顔の見えない相手は、顔が見えた時の相手と同じであると言えないだろう。

 もちろん、妄想の中の出来事なので、顔の見えない相手が男性なのか女性なのか、ハッキリしていなくても不思議ではない。それなのに女性だと最初に感じたのはなぜだろう?

 誠は子供の頃、

――女性だったらよかったのに――

 と思っていたことがあった。女の子が男の子に比べて得をしているという感覚ではない。男性にないものが女性にはあり、それが神秘的だったからだ。

 人からは朴念仁のように思われているほど、女性とあまり関わりのない誠だったが、本当は子供の頃から人一倍、女性に興味を持っていた。

――僕が女性だったら――

 などという発想は、子供の頃だから思えたのだ。

 今感じたとしても、すぐに打ち消せる。女性だったら、女性を愛することができないという思いがあるからだ。そういう意味では、誠は女好きになるのだろう。

 大人になってから、

――男性が女性を好きになるのは当たり前のことだ――

 と思うようになると、女性が好きだという発想を、必要以上に持たないようにしようと思った。

 ただ、子供の頃に女性に憧れたと言っても、異性に興味を持つ前だったので、異性に興味を持つようになってから、どうして女性だったらなどという発想をしたのか、自分でも分からなくなった。

 それまでは分かっていたはずだ。しかし、分かっていたというのと、納得したというのは別である。

 誠は自分が女性だったらという思いが、単純に女性への憧れだけだったというわけではなかったのだろう。

 誠がなりたいと思ったのは、大人の女性ではなく、自分よりも少し学年が上くらいの「お姉さん」だった。

 自分には兄はいるが姉はいない。子供の頃は兄に対してコンプレックスも湧いてこなかった。しかし、よく似た二人だったこともあって、気が合ったことで、兄に対して競争心が湧いてくるはずもなかった。今から思えば兄は弟の自分に競争心を抱いていたようだ。分かっていたが、知らないふりをしていた。

 今の誠が兄に対してコンプレックスを抱いているのを兄は知っていたが、子供の頃の誠のように、今度は兄が、知らないふりをしているのだ。

 お互いに気を遣っているのか、それとも知られることへの恥じらいが共通しているのか、お互いに、知らないところで、「兄弟」を自分の中に感じていたのである。

 お姉さんがほしいと思っていた誠とは違い、兄は妹が欲しかったようだ。

 兄が誠をまるで妹のような目で見ていた時期があることを誠は知らない。

――何か気持ち悪い視線を感じた――

 と、兄に対して、

――思い出したくない記憶――

 として、残っていたのだが、逆に誠が兄に、お姉さんを感じたことはなかった。姉と兄では、まったく違うものだからだ。

 姉に対しては憧れを持っていたが、兄に対しては、憧れがなかったのだろうか?

 いや、その頃からすでに、嫉妬があったのかも知れない。中学生になってからコンプレックスを持つほど差ができてしまった兄弟だったが、子供の頃は、まるで双子のようだったということは、お互いに追い抜くことができないということだ。

 兄と弟では同じように見えるのなら、兄の方が得をするのではないかと思われた。

――いつまで経っても、兄を追い越すことはできない――

 常に自分よりも先を歩いている兄、それがどれほど短い距離であったとしても、絶対に追い越すことはできない。追い越してしまえば、それこそがタブーというものだ。そんな思いが記憶から、少しずつ欠落していったことを、誠は覚えている。

――少しずつというのも変なものだ――

 と、誠は感じていた。

――短い距離――

 それは、本当に一瞬前だったのかも知れない。

 今までに彼女ができたことは何度かあるが、そのたびに、相手の女性の方から、

「もうあなたとは一緒にいられないわ」

 と、言われて破局を迎えることが多かった。

 その都度、

「どうしてなんだ?」

 と聞いても、明確な回答は返ってこない。中には、

「自分の胸に聞いてごらんなさい」

 と言って、怒りをあらわにする人もいるくらいだ。

「自分の胸に聞いてみろと言っても、そんなの分からないよ」

 というと、相手は溜息をついて、

「そうでしょうね。分かったとしても、どうしようもないことですものね」

 というだけだった。

 どうしようもないことを、一体どうしろというのか、誠は訳が分からない。もっとも、どうしようもないから、相手も誠を相手にしなくなったのだろう。

 それにしても、最初の頃に付き合った女性はそんなことがなかったのに、途中から、別れる時の理由は、ほとんど一緒のようだった。

――何を僕に感じたというのだろう?

 なかなか分からなかったが、途中から気付いてきたのは、

――自分が女性であったら――

 ということを以前に感じていたことを思い出すようになってからだった。

 忘れていたわけではないのだが、自分の中で、そんなことを考えていたのを否定したいという気持ちが強かった。それが次第に、

――今もその思いが燻っているのかも知れないな――

 と、前に考えていたことを思い出すようになると、どこか心地よさを感じるようになっていた。その思いが表に出ているのではないかと感じるようになったのが、ちょうど、女性から同じ理由で別れを切り出されるようになった時期と似ていた。

――こういう感覚というのは、女性には敏感に分かるものなのかも知れない――

 と感じた。

――男が女性になったように感じる――

 これも一つのタブーなのではないだろうか。

 元々、人間は両性だったという話を聞いたことがあるが、男として生まれるか、女として生まれるかは、紙一重なのかも知れない。

――一人くらい僕みたいな人がいてもいいんじゃないか――

 と思っていたが、考えてみれば。今の世の中、「性同一症候群」というものもあるくらいなので、想定外の発想でもない。

 特に女性は、相手に自分と同じ「女」を男性に感じれば、気持ち悪くなっても当然であろう。よほどの性癖の持ち主でもない限り、そんな男性を好きでいることのできる人はいないはずだ。それを思うと、相手の女性が、

「自分の胸に聞いてみればいい」

 というような話をしたことも頷ける。

 女性から見れば、男性は自分の中では分かっていることだと思っているのだろう。誠にしても、言われて初めて考え始めて、やっと理由に辿り着いたのである。

 そんな誠は、男女の中でのタブーがあるとすれば、これも一つのタブーだと思うようになっていた。

 しかも、誠がなりたいのは、どうしてもお姉さんと思えるような年上の女性である。それは成人した今でも変わらない。

 そう思っていると、誠は自分には本当は姉がいたのではないかと思うようになっていた。小さかった頃、母親が少しそんな言葉を洩らしたような気がした。ただ、聞いたのは一度だけであり、家の中に姉の痕跡を残すものはまったくなかったので、すぐに忘れていたが、それでも自分が年上の女性になりたいと思うようになって、たまにそのことを意識することがあった。

 しかし、その思いはすぐに忘れてしまう。意識の中からまったく消えてしまったかのように思い出したことすら、覚えていないのだ。

 だが、次に思い出した時、

――前にも思い出したような気がする――

 と、まるでデジャブのような感覚だ。

 記憶の中のデジャブは、普通のデジャブと違って。まだ説明が付きそうな気がする。説明が付くというのは、自分が納得できるという意味で、他の人にも分かるかどうかという意味ではない。

 姉がいたとしても、それは公表できない存在なのだろう。

 子供の頃には、そこまで考える力もなく、余裕もなかった。母が洩らした言葉を漠然として聞いていただけで、事の重大さを分かるはずもない。

 もちろん、父親が知っているはずもないだろう。ひょっとすると、母の結婚前のことだったのかも知れない。

 母の育った時代には。そんな話をよく聞くことがあったらしい。今でもあるのだろうが、母の時代には、大きな社会問題になっていたからだろう。それでも母はきっと人知れずの密かな行動だったのかも知れない。

――でも、どうして、僕だけが知ることになったのだろう?

 そう思うと不思議だった。

 ただ、このことで、母を恨むことになってしまった。なぜなら、自分の女性になりたいという感覚は、母から聞いた話が想像となって、自分の中で消化できない部分がもたらした妄想なのかも知れないからだ。誠はそう思うと、自分にだけ話した母親を憎まずにはいられなかったのだ。

――何て罪作りな親なんだ――

 母親としては、そこまで深く考えていなかったのだろう。どちらかというと品行方正に見られていた母は、人からの信頼も厚かった。それだけに、考えもあまり深いところもなく、人当たりのよさだけが、人気を博していたのかも知れない。

 誠の母親は、誠にとって、嫌いなわけではない。むしろ好きなタイプで、自分が好きになる女性のタイプの元は母親だと思っていた。

 しかし、それが見たことのない姉だとするとどうだろう?

 姉は母親と生き写しだというイメージを持っている。見たこともない相手なので、想像するとすれば、当然母親をイメージしてしまう。母親がどんな思いで姉のことを口走ったのか分からないが、それも運命の悪戯だとすると、誠は、今までの人生を思い返さずにはいられなかった。

 誠が最初に姉を意識し始めたのは、兄の後ろをずっとついて歩いている時だった。

 兄の後ろ姿に、時々女の子が一緒にいるようなイメージを感じたからだ。

 その時はまだ、母親から姉の話を聞いていなかった。

――そういえば、あの時に母に話したんだっけ――

 誠は、母がどうして自分に姉の話をしたのか、少し思い当たるところを見つけた気がした。

 あの時、

「お兄ちゃんの横に、女の子が一緒に歩いているような時があるんだけど、僕っておかしいのかな?」

 と、聞いたように思う。

 その時、母は困ったような顔をしていた。ここまで困惑した母の顔は、ほとんど見たことがなかったし、その後にもあまり感じたことのない顔だったように思う。

 しばらく何かを思い出すようにしたが、急に思い立ったような顔になった。

 子供なのに、そこまで感じたわけではないが、今思い出すと、その時の光景が思い浮かぶようだった。

 まるで昨日のことのように思い出されて、それが姉の話だったということと、ずっと結びついていなかったので、記憶としては分散したものだったことで、姉のことも、母が困惑した表情をしたということも、記憶に簡単に封印されていたに違いない。

 封印が一度解けてしまうと、今まで繋がらなかったことが繋がってくる。繋がってくると、

――まるで昨日のことのようだ――

 と感じるのも無理もないことだろう。

 封印した記憶が、時系列を無視するかのように昨日のことのように思い出されるというのは、これと似たことのようだ。

 誠は、母親のことをずっと意識しないようにしていた。

 一緒に暮らしていても、母親が感じているほど、自分は母親に対して意識をしていない。そのことを、ずっと不思議に思っていた。

 別に避けていたわけではない。避けていたわけではないのに、どうしてそこまで意識しないようにしていたかというと、母の後ろに、どうしても見たことのない姉を意識せざるおえなかったからだろう。

 母親がそのことに気付いていたかどうか分からない。しかし、そのことで悩んでいたのは事実のようだ。

 理由が分からなくて悩んでいたのか、それとも、過去に姉のことを話したことへの後悔の念に悩んでいたのか分からない。しかし、そのどちらかだとしか思えない誠は、母親を気の毒にも思うようになっていた。

 子供の頃からの恨みは消えたわけではない。ふいに思い出して、苛立ちが募ってくることもあった。

 しかしその反面、母親の苦悩は見るに堪えないものがあった。

――どうせなら、僕のいないところに行ってほしい。そうすれば、悩んでいるところを見ないで済むからだ――

 と感じるほどだったが、母親に対して、

――因果応報だ――

 という意識もあった。

 因果応報というのは、結局は堂々巡りで、悩んだとしても、悩んでいる頭の中に限界がある限り、どこかで堂々巡りを繰り返すことになるのだ。

 頭の中をどれほど悩みに使っているかというのは、その人それぞれで違うのかも知れないが、大きさによっても、堂々巡りの回数も変わってくる。

 誠の場合は、さほど大きなものだとは意識していない。そうなると、いつも堂々巡りを繰り返しているように思うのだが、なぜか、それでもいいような気がしていた。あまり悩みに頭を使いすぎるのは、他のことが疎かになる。それよりも堂々巡りが頻繁でもまだいいと思う。

 だが、堂々巡りというのは、あまり気持ちのいいものではない。もう一度同じところに戻ってきた時に、少しでも悩みが解決しているのならいいが。解決していないのであれば、もう一度戻った時点で、すでに解決する糸口がなくなってしまったのではないかと思うのだった。

――一度考えてダメなものは、何度考えても同じだ――

 という意識は、誠の中にあった。

 ただ、誠にはこの意識はない。無意識に感じていることのようだ。だから、堂々巡りを繰り返すことに疑問はないのだが、繰り返すことはあまりいい傾向ではないと漠然と感じているのは事実だった。

 姉のことを、兄は知らないはずなので、兄にとって、子供の頃の誠の視線は気持ちのいいものではなかったはずだ。

――なんだ、こいつ、女みたいなやつだな――

 と思っていたことだろう。

 実際に言われたこともあったような気がする。ハッキリと覚えていないのは、それがあまりにも的を得ていたことだったので、自分の中で否定したいという気持ちが強かったのかも知れない。

 誠はそう思うと、兄の中に女性を見ることなく、どうして自分が女性になりたいと思ったのかを考えてみた。

 姉の話は少し聞いただけだが、本当の姉はもうこの世にいないのではないかという思いが誠にはあった。

 そう思うと、母親が自分にだけ姉の話をしてくれた理由が分かった気がした。

――母が僕の中に姉を見たんだ――

 そう、母はあの時、誠にではなく、今はなき、姉に対して話しかけていたのかも知れない。

――僕の中に姉がいるということか?

 だから、女性になりたいなどという妄想を抱くことになった。そう思うと突飛な発想ではあるが、ある程度の話が繋がってくる。

――妄想から一つの仮説が思い浮かぶと、それがキーになって、一つの線が形成される――

 そんなことは、珍しいことではないかも知れない。

 母にとって、誠は姉の生まれ変わりなのではないかと思うと、

――僕は一体何者なんだ?

 と感じるようになった。

 そんなに誠は姉に似ていたというのだろうか?

 女性になりたいという思いがあるからと言って、実際の誠は、どう見ても女性になれるタイプではない。男としても綺麗とは言い難い、ましてや女性になれるような造りにはなっていない。

 それなのに、どうして母は誠に姉を見たというのだろう?

 性格も女性っぽいわけではないと思うのだが。しいて言えば、いつも兄の後ろについていたというくらいであろうか。

 誠もどうしていつも兄の後ろについていたか、自分でも分からない。そうしたいという意志がハッキリしているわけではないし、兄の後ろを追いかけていて、何かを得たいという気持ちもなかった。

 ただ、兄の後ろにいると安心できるということだけだっただろう。

 その思いが女性特有のものだったのかも知れない。

 兄にとって、誠を見る目が、たまに普段と違うことがあるのを感じたことがある。すぐに我に返った兄が、

「俺は今何をしていたんだ?」

 と言って頭を傾げていた。そんな兄を見て、キョトンとしていた誠に対して、兄はさらに見つめなおす。そんなことが何度か繰り返されてやっと、二人は我に返るのだった。

 兄にとっても、誠への思いはあるようで、

――あれは、僕の中に姉を見たからだろうか?

 それは違っていた。

 兄は、その時は思わっていなかったが、あの時に見ていたのは母親だったのだ。

 誠が、見たことのない姉に思いを馳せていた時、兄は、母に対して女性を感じていた。そのことを悩んでいたようだ。

 母親を意識するのは男の子なら当たり前のことだろうが、兄の場合は少し違っていた。恋心に近いものがあった。ただ、相手が母親だということで、悩んでいたのだろう。

 母親は、兄を避けていた。それはまるで自分が本当の母親ではないかのような態度だった。誠はその時のことを思い出すと、不思議な感じを受けたのだが、今から思えば、まんざらウソでもないような気がした。

 母親は、誠と兄が一緒にいるのを、あまりいい気持ちで見ているわけではないようだった。

 露骨とまではいかなかったが、明らかに兄よりも誠の方ばかりを意識している。父親もそのことを知っているようだったが、たまの母に意見していたようだが、説教じみたことまでは話していない。

 母親にとって、誠と兄の関係をどう整理していいのかを父親も考えあぐねていたが、その理由を知っていたかどうか、分からない。

 まさか、今になってそんなことを聞けるはずもない。きっと二人の中では、すでに過去のことになっているのだろう。わだかまりもなく、ここまで来たのだから、今さら波風を立てることはない。誠はそう思っていた。

 兄のことは、父親もあまり気にしていないようだった。そういう意味では家族で一番浮いていたのは兄だった。

――一体、僕の家族にはどんな秘密があるというのだろう?

 と考えていると、いろいろおかしな妄想や夢を見てしまう自分の意識の原点が、家族のことにあるということがハッキリとしてくるのだった。

 兄と父は何か確執があるというわけではなかった。父は何も言わないし、兄も父に対して無反応だ。

――まるで、親子じゃないみたいだ――

 男親と長男は、どうしてもぶつかるところがあるのかも知れない。父親は期待しているし、子供は、期待されることで、煩わしさを感じることもあるだろう。だが、子供の頃から見ていたが、兄に対して期待している雰囲気が父からは見られない。兄も父から重圧を受けているというわけではない。不思議な親子関係に見えた。

 誠も父親とあまり話をするわけではないので、父親の気持ちがどこにあるのか分からない。

 父親の帰宅が、いつも深夜になる時期があったが、母は父が帰ってくるまで、起きていたことはなかった。父が帰ってくる時は、いつも忍び足。家族に気を遣っているのだと思っていたが、ある日、深夜の台所で、父と母が喧嘩になっているのを見たことがあった。

 声は押し殺していたので、自分の部屋にいれば聞こえなかっただろう。だが、ちょうどトイレに部屋を出た時、聞こえてきたヒソヒソ声に、誠は嫌な思いを感じながら聞き耳を立てていた。

 母が父を詰っているようだったが、父は無視していた。それでも、今度は父が二言三言何かを言うと、母も黙り込んでしまった。最初の一言で完全にひるんでしまった母に、それ以上の言葉はダメ押しに近かった。

 それから二人の声は聞こえなかったが、重苦しい雰囲気が、台所に漂っているのは、想像できた。一体何を言ったのかハッキリとは分からなかったが、口に出した父も、本当はこんなことは言いたくなかったのかも知れない。それでも言ってしまったことで、さらに母に対して、

「俺にこんなことまで言わせやがって」

 と言いたかったに違いない。

 父と母の確執はハッキリとその時に分かった。

――父も母も相手を憎んでいるんだ――

 離婚にでもなりはしないかと心配になったが、今のところ離婚の危機ということはない。お互いに気を遣っているからだというよりも、そこには張りつめた緊張感とともに、牽制し合っている二人が重苦しいだけにしか見えてこなかったのだ。

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