第7話 第7章

――見えないものは、本当に見たくないものだけなのだろうか?

 洞窟の中で、顔はハッキリ分からないが、相手は女性だと思った時、

――見えないということは、見たくないという思いがあるから見えないようになっているんだ――

 と、感じた。

 見たくないものはたくさんある。自分の心の中にも見たくないものはいっぱいあることだろう。

 人に見られるのが嫌なもの。それは自分が見るのも嫌なはずだ。そこには、羞恥の心だったり、人への嫉妬、恨み、自分が他人にされると怒りを覚えるものもたくさんある。

「臭いものには蓋をする」

 という言葉もあるが、見たくないものを見ないで済むのであれば、それに越したことはない。

 一番いいのは、嫌なものに近づかないことだ。では、嫌なものというのがどういうものか、見えていない時に、すぐに分かるものだろうか。そう思うと、

――人と関わらなければそれでいい――

 という思いも湧いてくる。

 誠は人と関わらないことを選んだ。兄のようにモテるわけではないし、人気もない。誠は、自分から関わらなければ、寂しさも湧いてこないと思っていた。

 兄の方はどうだったのだろう?

 実は、兄も同じようなことを考えていた。

 見たくないものを見ないようにするにはどうするかというところで、弟と発想が重なっていた。もちろん、お互いにそんなことを考えているなど、想像もしないだろう。兄の場合は弟ほど、割り切ることができないでいた。

 それはなまじっか人気があり、女性にモテるからだった。

――まわりの期待を裏切ってはいけない――

 という思いがある反面、

――どうして、俺がそこまでまわりに気を遣わなければいけないんだ――

 と、自分の運命を呪っているかのような感情を抱いていた。

 そこまで思うのだったら、もう少し開き直ってもよさそうなのだが、簡単に開き直れないところが、外見から滲み出るものと被って見えるようだ。

 それだけに、兄の人気が落ちることがないのだろう。最初から開き直った人間は、まわりから見ていればすぐに分かる。そして、まわりにいるほとんどの人が、開き直った人の相手になろうとはしないものだった。

 兄と、誠の違いはそこにあった。

 コンプレックスを感じる弟、コンプレックスではなく、まわりからの重圧を感じる兄、どちらもお互いに牽制し合っているのだろうが、どちらの思いが強いかと言えば、兄の方が強いかも知れない。

 コンプレックスは、ある意味で、仕方がないと感じることもできる。だが、兄が感じている重圧に関しては、仕方がないという言葉で片づけられないもののようだ。

 まわりに知られたくないという意味でも兄の方が強い。まわりの期待を背負っていると思うからだ。開き直ることもできない。もし開き直ってしまったら、

「あいつは、まわりから信頼されているし、モテているのに、何開き直ってるんだ」

 と言われて、それまで築き上げてきたものが、壊れてしまう気がして仕方がなかった。

 兄が今日あるのは、兄が築き上げたものではないのかも知れないが、築き上げたと思っているのは、自分の忍耐から来ている発想ではないだろうか。忍耐強く我慢することが、兄の築き上げた信用であったり、女性から慕われる気持ちであったりする。

――俺の気も知らないで――

 と、兄はまわりに言いたいに違いない。

 弟は、そんな兄の気持ちを本当は分かっていたのかも知れない。

――兄のことを一番理解しているのは、僕だ――

 と思っていたからなのだが、それでもコンプレックスが邪魔をして、分かっているのに、分からないふりをしていたのだろう。その反面、兄には弟の気持ちがまったく分からないと思うことが結構あったのだ。

 見上げるのと見下ろすのでは、どちらの距離が近いかと考えれば、見上げる方が近くに感じられる。見上げるとその先には、果てしない空が広がっているだけだが、見下ろすと、その先に見えるものは、すぐそこまで迫った地面だけだ。

 背景までの距離が遠いと対象物が近くに感じられ、近いと、対象物までは遠くに感じられるというのは、意識の錯覚なのだろうか。誠は見上げる立場、近くに感じられるのは当然だ。

 さらに、見上げるということは、

――頑張って、そこまで届きたい――

 という意志の表れでもあり、逆に見下ろす時は、

――落ちていきたくない――

 という気持ちの表れだ。

 どちらを近くに感じたいかというのも、一目瞭然だと言えないだろうか。

 弟と兄の距離も同じなのかも知れない。

 弟は子供の頃から兄の後ろをついて歩いていた。後ろから追いかける方は、前ばかり見ていればいい。しかし、兄は追いかけられる方である。後ろを見なければいけない。

 吊り橋の時にも感じたことだが、踵を返して後ろ、つまり今まで歩いてきた道を顧みるというのは、前を見ているよりも遠くに感じるものである。そういう意味でも、後ろを見る兄の方が、前を見ている弟よりも遠くに感じられるのは当然と言えるであろう。

 ただ、兄としては、遠くに感じられない瞬間があることに気付いてはいたが、それがどうしてなのか分からなかったが、弟には少しだけイメージできていた。

 それは、兄が踵を返して後ろを振り向いた時、少し歩みが鈍ることだった。しかも、後ろ向きに歩いているのだから、スピードが鈍るのも当然、後ろを気にした瞬間から、距離が少しずつ狭まってくるのを予感できないわけではないだろう。

 そのことを弟は分かっているので、今度は自分がそのままのスピードでいけば、いずれ追い越してしまう。

 弟は兄に追いつきたいという思いは持っているのだが、追い越したいとまでは思わない。なぜなら、追い越してしまえば、今度は自分が追われる身になってしまう。

――兄を追いかける弟というのが当然のシチュエーションで、弟を兄が追いかけてはいけないんだ――

 という思いを抱いているからだ。

 どんなに頑張っても年齢では兄を追い越すことができないのと同じで、本当は近づくことができないのも分かっている。

 兄と弟は、少しずつ離れたり近づいたりして、適度な距離を保っている。いつも同じ距離の平行線では、絶対にうまくいくはずがないと思っている。平行線であれば、それ以上お互いに近づこうという意志がなくなり、距離の感覚がマヒしてしまうかも知れない。そう思うと、兄弟でも、他人になったかのような感覚が芽生え、一度芽生えた感覚は、消えることはないだろう。

 特に重圧を感じている兄にとっては、弟の存在が疎ましく感じられることが多くなってきた。兄の彼女も、兄のそんな気持ちに気付いたのか、その頃に弟の誠に対して興味を持ったのだった。

 誠を誘惑したのは、彼女の方だった。しかし、誠も兄の重圧を感じている気持ちが分かっていて、自分に対して憎悪の気持ちが芽生えてきたのを感じると、彼女が自分に近づいてくるのであれば、拒否はしないだろうと思うようになっていた。

――拒否をするのは、彼女に対しても失礼だ――

 という思いと、

――据え膳食わぬは男の恥――

 という二つの思いから、拒否をすることはなかった。ただ、どちらにしても、言い訳にしかすぎない。兄のものを欲しがる弟というのは、兄弟では当たり前のことのように思われているが、まさにそんな感覚だったに違いない。

 二人きりになると、それまで以上に緊張した。最初の時にできなかったイメージを思い出したり、他の女性のことを、その時になぜか思い出していた。普段であれば、その人のことだけを想って反応する身体が、他の人との比較によって、さらに敏感になっていたのだった。

 妖艶さを身に沁みて感じながら、敏感になっている身体は、まるで夢見心地だった。ただ、相手にされるがままの快感に、初めて気が付いたのだ。それまでは、

――男の僕がリードしなくては――

 と思っていたのだが、相手に身を任せることの快感は、それまでに感じたことのないマヒした感覚が、頭の中では、次に何をされるのかドキドキしているわりには、想像通りの動きに、満足感まで味わっていた。

 彼女に対して、言い訳など失礼だった。身を任せることで、さっきまで感じていた兄の面影が次第に消えていき、自分のためだけに奉仕してくれる彼女を、純粋にいとおしいと思うのだった。完全に、誠は彼女に対して、従順になってしまったのだった。

――兄も彼女に対して従順なのだろうか?

 それは違った。どちらかというと、主導権は兄にあった。彼女は自分で主導権を握りたいタイプなので、本当は誠のように従順な男性を好むのだろうが、どうして自分が兄と付き合うようになったのか、本人にもハッキリと分かっていないようだ。

 彼女には、元々付き合っている人がいて、その人は彼女に従順だった。そんな時、彼女の目の前に現れたのが兄だったのだ。

 兄は、彼女に当時他に男性がいたことを知らない。彼女が悟られないようにしていたからだったのだが、兄も彼女と付き合い始めるなど、最初から考えていたわけではないようだ。

 それなら、どこで付き合い始めようと感じたのかと言われると、正直、兄にも分かっていないようだ。まわりからモテることにプレッシャーすら感じていた兄は、女性と付き合うことを、最初は怖がっていた。実際にモテていたのに、女性と付き合っているという話はしばらくなかったし、気が付けば彼女ができていたというのが、まわりの見方だったのだ。

 したがって、兄が女性を口説くということはない。自分から女性を好きになったこともないだろう。

 相手から好かれて、初めて相手を感じる方なので、相手が兄のことを好きだと思ったとしても、兄の方で、いろいろ考えて付き合うかどうか決めている。

 そんな態度を兄に嫉妬している連中は、

「お高くとまりやがって」

 と思っている人も少なくないだろう。実際に、誠も最初はそう思っていた。だが、兄の苦悩が分かってくると、

――それも仕方ないか――

 と思うようになったが、自分に理解できることではなかった。どうしても、住む世界が違う相手だという思いが強いからである。

 誠はそんな兄を見ながら、

――僕は兄に比べれば、まだ平凡なのかな?

 と思っていた。

 誠がコンプレックスを感じているのは兄に対してだけなのに対し、兄がプレッシャーを感じているのは、まわりにいる人たち、つまり、不特定多数である。それを思うと、不安の大きさは計り知れないのではないかとも思った。

 しかし、相手が一人であろうと、複数であろうと、自分が感じることのできる範囲は決まっている。どんなに深い悩みであっても、飽和状態というのはあるものだ。

――飽和状態になったらどうなるか――

 というのも考えたことがあった。

 まず考えたのが、記憶を失うかも知れないというものだった。それは完全になくなるものではなく、一部欠落するだけではないかということであった。一部の欠落であっったら、本人がどこまで意識することになるか分からない。ひょっとすると、記憶を失っていることを意識していないのかも知れない。

 そういえば、誠の友達の中にも、記憶の一部が欠落しているのではないかと思える人がいた。

 いつも一緒に子供の頃は遊んでいたのに、急に態度が変わってしまった。本人は変わってしまったという意識がないようなので、そのことを指摘するのは可哀そうなことだった。指摘できる雰囲気でもなかったし、もし、指摘すれば、確実に殻に閉じ籠ってしまうのは必至だったからである。

 誠も最初は、彼の記憶が欠落しているなど、想像もできなかった。記憶が欠落している部分がどこなのかも分からない。

――きっと本人にしか分からないんだ――

 本人にしか分からないだけではなく、記憶が欠落していることを理解できる人の方が少ないだろう。

 記憶が一部欠落するなど、普通は、そう簡単に分かるわけもない。分からないからこそ、彼の豹変ぶりに誰もがビックリし、彼のまわりから、人が少しずつ離れていった。

 それも一気に離れたわけではない。

――何か変だ――

 とは思っても、それがどこから来ていることなのか、ハッキリと分かる人も少なかったのかも知れない。

 誠は、彼から離れた一人であったが。結構早い段階で彼から離れていた。

 彼の記憶の欠落を知った時、

――このままでは僕にも伝染するのではないか?

 という根拠のない思いが頭を巡ったからだ。

 そう思って、彼のまわりを見ていると、確かに、途中から少し雰囲気が変わった人もいた。彼もどこか記憶がないところがあるような素振りだったので、誠はその人からも花r手いった。

 誠がまわりに、

――記憶の欠落――

 というのを感じたのはその時だけだったので、しばらくそのことについて忘れていた。記憶の奥にはあったのだろうが、引き出すことを自分からすることはなかったのである。

 意識が飽和状態になると、その記憶が引っ張り出された。

――そういえば、そんなことを考えていたんだ――

 と思うと、兄と、兄の彼女を見ているうちに、意識が繋がってくるのを感じたのだ。

 兄を見ていると、時々、

――記憶が欠落していることがあるんじゃないかな?

 と思うようになったことがある。その時は自分の中の奥に封印した記憶を引っ張り出すことはできなかった。だから、意識が繋がらないので、兄に記憶の欠落を感じたとしても、――感じただけ――

 という思いで終わってしまうのだった。

 兄の彼女に対してはどうだろう?

 普段はいつも兄のそばにいて、自分の心の中に、人の気持ちの侵入を許さない感覚に思えるが、やはり時々、いつもとの違いを感じていた。

 それが記憶の欠落を招いているのだということを、誠は感じていた。

――もし、僕が彼女と兄と知り合う前に知り合ったとしたら、付き合うことになっただろうか?

 しばし悩んだが、

――付き合っていたかも知れないな――

 と感じた。

 その根拠は、彼女の中に、誠が求めるものがあったからだ。

 ただ、その思いは絶えず持っているものではなく、時々ふっと感じるもので、もしその時に彼女と知り合っていれば、一にも二もなく付き合っていたに違いない。

――では、長続きしただろうか?

 ある程度は長続きしたかも知れないが、誠の中での長続きとは、どの程度の長さなのだろう?

 三か月くらいでは長いとは言えない。一年であれば、長いと言えるだろう。そう思うと、微妙な感覚であった。長く続いたとしても、そこには、

――ある程度――

 という但し書きが付く。

 記憶が欠落したと思える人を思い返してみると、結構今までに出会った気がする。

――やはり伝染するのだろうか?

 という思いもあったが、それよりも、他の人が誰も気づいていないことを誠自身が気付いているだけで、本人も気づいていないのだと思うと、記憶の欠落のない人の方が珍しいのではないかと思うようになった。

――ということは、記憶が欠落しても、そんなに大したことではないんだ。自他ともに意識していないのに、ちゃんと世の中、まわっているじゃないか――

 と思うのだった。

――僕が気にしすぎるのかな?

 それもあるだろう。気にしすぎるのは、誠の悪いくせでもあったが、それは気にしたことを、どのように考えるかということが重要なのだ。

 必要以上に考えてしまって、本来の事実から離れてしまい、それが想像や、妄想に発展してしまいかねないと思うからであった。

 想像や、妄想が豊かになるのは、記憶の欠落ということが大きく影響しているのではないかと思う。ただ、欠落しているだけではダメなのだ。自分でそのことを意識していることが必要である。

 高校生の頃、記憶の欠落を意識しているのではないかと思う友達がいた。

 彼は、自覚しているくせに、そのことを誰にも話そうとしない。悶々として自分一人で抱えているのが見えていたのだ。

 どうやら彼は、

――このことをまわりに話してはいけないんだ――

 と思っていたようだ。

 話すことはタブーであり、話してしまうと、自分によからぬことが起こってしまうと思い込んでいたのだ。

 彼がまわりを見る目に怯えがあることでそのことを悟ったのだが、誠に対してだけ視線が違った。まるで訴えるような視線を誠に浴びせていたが、誠は、まともにその視線を見ることができなかった。誠もまた、怯えていたのである。

 友達が誠を凝視したことで、彼が記憶の欠落を自覚しているという確信を得たのだが、だからといって、どうすることもできない。ここで、話しかけてしまうと、彼のタブーを破ることになる。誠も自覚があっただけに、タブーを犯す危険を分かっているつもりだ。何よりも、今まで自分の行動に気を付けていたことが、すべて崩壊してしまうのだ。次の瞬間から、どう行動していいか分からず、まるで、吊り橋の上にいるような気持ちになることだろう。

 吊り橋の上で前にも進めず、後ろにも下がることのできない思いを感じた時のことを思い出していた。

――あんな恐ろしい思いは、もうたくさんだ――

 と思ったが、その時一緒に感じたのが、

――僕は、何かタブーを破ったのかな?

 という気持ちだった。

 こんな恐ろしい目に遭うのは、何かのタブーを破ったために違いない。

――一体、僕にはタブーがいくつあるのだろう?

 今までに怖い目にあったり、不安に駆られて鬱状態のようになり、抜けられなくなったりしたことがあったが、それもすべてタブーを破ったためだろうか?

 誠は、兄の彼女を抱いたことが頭の中で引っかかっていた。それは、後悔しているしていないという感覚とは次元の違うものだった。

 モラルや理性の問題でもない。あの時の心境を思い出すのは難しかったが、これもまさか記憶の欠落の一部なのだろうか?

 その時の心境を思い出すことが難しいというのは、まったく思い出せないというわけではない。思い出すことはできるのだが、随所に矛盾のようなものがあるのだ。

 矛盾というのは、精神的な辻褄が合わないということであり、一つの記憶としては成立しているのだが、ところどころに納得の行かないところがある。

 それは、

――僕なら、そんなことはしない――

 という思いが存在したり、人には到底理解できないようなことが感覚として残っているからだ。

 そもそも、兄の彼女を抱くということだけで、尋常なことではない。最初から異常なのは分かっていた。

 その中で、自分の感覚としては、

――自分から動いているわけではなく、何かに動かされているんだ――

 という感覚だった。

 だが、それは言い訳のようでいかにもウソっぽい。そう思えば少しは気が楽なのだろうが、それだけであの状況にいるというのは、耐えられないかも知れない。

 もちろん、感覚がマヒしていたという思いはあった。しかし、それも結局は言い訳にしかすぎない。どこまで行っても考えられることは、言い訳でしかないのだ。

 考え方が堂々巡りを繰り返しているのも大いに影響していた。

 堂々巡りを繰り返しているという感覚は以前からあったが、兄の彼女を抱いた時に、ハッキリと意識したのではないかと思う。

 後から思うと信じられないようだが、その時の誠には、次に起こることが想像できていた。

 彼女がどんなに妖艶に誠に接しようとも、誠には最初から分かっていたような錯覚だった。

 ただ、実際は、次の瞬間のことが想像できただけであって、

――まるで次の瞬間を、僕だけが先に行っていたような気がする――

 同じ時間を過ごしていたと思っていたが、それは錯覚だったのだろうか?

 いや、そんなはずはない。身体を重ねるということは、少なくとも、一緒に存在していなければ絶対に成立しない空間だ。もし、他のシチュエーションで人の一瞬前を歩いているとしたとしても、身体を重ねている時に、人の一瞬前を歩くことは不可能ではないかと思う。

――記憶が交錯している?

 と思ったが、逆にその時に交錯していたのが意識だとすると、他の時に感じた人の一瞬前を歩いているという感覚を、その時に初めて感じたことになる。

――精神と肉体が分離したのかな?

 身体が感じた快感で、精神が分離され、分離された精神が感じたのが、一瞬前を歩いている感覚だったのかも知れない。分離した精神は、それだけ自分に対して冷静に第三者の目で見ることができたのではないだろうか。

 兄の彼女を抱いていることじたいがタブーだとすれば、何かその時に記憶が欠落していたのかも知れない。

――欠落していると思うから、一歩前を見ることができたのだろうか?

 という考えも生まれてきた。

 欠落した記憶が誠にとって、先を読んでいるのだとすれば、先にいるのは、もう一人の自分であり、その自分が過去を消していっているというところまで考えてくると、それはすでに想像ではなく、妄想であると考え始めた。

 確かに潜在している意識が考えることなので、考えられないことではないのだろうが、どこまでは信憑性のあるものなのか、自分を納得させられるものなのかが分からなくなってきた。

 それも順序立てて考えているつもりなので、考えている時は理解している。しかし、うふと我に返ると、それまで考えていたことが一気に消えてしまうことも少なくない。それは記憶の欠落が招いたものであろう。

 誠は、タブーや記憶の欠落、そして一歩前を歩いている自分を想像から妄想に導きながら、一人の世界に入っていったのだ。

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