第3話 第3章

 ローカル線の写真は、思っていた程度のものだった。あまり期待もしていなかったので、可もなく不可もなくというところであるが、それよりも、まわりの景色が綺麗だったことが嬉しかった。

 時間的にはまだ午前中ではあったが、日差しは結構強かった。それなのに、それほど暑さを感じなかったのは、風が爽やかに吹いていたことと、まわりに広がる田園風景の壮大さに圧倒されたこともあったからなのかも知れない。

 爽やかな風というのは、強すぎてもダメなのだ。もちろん、身体に感じる程度の、ほとんど吹いていない状態は論外だが、吹きすぎると却って、涼しさが半減する。熱い風呂の中で、あまりかき混ぜると余計に熱く感じるのと似ているのだろうか? 体温よりも高いわけではないので、そんなことはないだろうが、それでも爽やかな風というのは外気の暑さと体温とが微妙に当たるところにすかさず吹いてくる風のことなのだろう。

 風がまったく吹いてこない時間というのはなかった。

 普段であれば、同じ場所にいれば、風が吹いていれば、

――爽やかだな――

 と、その時に感じることはあっても、ずっと風を気にしていることはない。それなのに、その日は、風のことがやけに気になったのだ。

 風を感じていたのは、きっとまわりの景色を見ていて、景色が風に同調しているのを感じたからであろう。風に吹かれて揺れている木々や花を見ていると、秋がすぐそこまで来ているのではないかと感じるからだった。ただ、ひょっとするとその後に行った断崖絶壁で感じた風の印象が強すぎて、その前に感じた田園風景での風が、

――これほど爽やかなものだと思いもしなかった――

 と感じさせるに至ったのであろう。

 田園風景をバックに写真を撮ると、ローカル線もそれなりの絵になるものだ。可もなく不可もなくではあるが、満足感はあった。

 昼前には、駅まで行って、電車に乗った。さっきまでこちらに向かってファインダーを向けていた場所を、あっという間に電車は通りすぎる。近いように見えていたが、電車の中から見ると、結構遠くに見えて、小さく感じられるに違いない。

 しばらく見えなくなるまでその場所を目で追っていたが、さっきまで見ていた場所から目線を切って違う方向に目を向けると、今度は打って変って海の雰囲気が感じられた。

 日差しの強さは次第になくなり、グレーの空が見えてくる。

――まるでこれから雨でも降ってくるようだな――

 と思ったが、海が近いと、こんな感じなのかも知れないと感じた。

 山の天気も変わりやすいというが、海はいつも荒れている雰囲気がある。力強さを打ち寄せる波に感じながら、車窓から海が見えてくるのを見守っていた。

 海はなかなか出てこない。平行して走っているのは分かっているのだが、すぐには見えてこないのは、それだけ焦らされているのではないかと思えてくるのだった。

 海が見えてきたと感じたのは、急に車窓が明るく感じたからだった。

 海は見えているわけではないのに、明るく感じる。それはまるで後光が差しているかのようだった。

 本当は小さい頃から海はあまり好きではなく、潮風が身体にはよくないと思っていたのだが、今回は断崖絶壁という自殺の名所。どうして行ってみようと思ったのか、その時の心境は、今からでは簡単に思い出すことはできない。

 駅を降りてから断崖絶壁までは歩いて十五分ほどだという。ローカル線の中でもさらにローカルな駅には、無人駅である上に、駅舎らしいものすら見つからない。ホームが線路の片方にあるだけで、出口らしいところに申し訳程度に切符入れが備え付けられている。

――まるで、無人の野菜売り場のようだな――

 と思ったが、それでも一日に一度くらいは誰かが切符を回収に来るのではないだろうか? 無人ではあるが、荒れ果てた雰囲気はない。やはり乗降客がまったくいないわけではないのだろう。

 駅を降りて、民家は疎らだった。このあたりに住んでいる人は、車でもないと本当に不便である。確かに食堂はおろか売店もない。少しいけば田んぼもありそうなのだが、これから向かう自殺の名所には、民家などなさそうだった。

 断崖絶壁に近づくと、波が打ち寄せる音が聞こえた。普通の人なら、ここで何も感じないが、自殺を考えている人には、あの音は、

――地獄の一丁目――

 のように響いているのではないだろうか。

 海が見えてくると、その向こうに岩場に作られた道が見えてきた。海岸線は入り江になっていて、その向こう側に、断崖絶壁があるようだ。

 テレビのサスペンスものでは、断崖が解決編のシーンに使われることが多いが、なぜなのだろうか?

 犯人が自殺の場所に選ぶことがあって、断崖を解決編のシーンとして使うことが多かったことから、断崖絶壁のシーンが使われるようになったのかも知れないが、よく考えてみると違和感があるのに、いつも見慣れていると、不思議な感じもしないものだ。

 砂浜から断崖絶壁を映したシーンも印象的だった。

 絶壁の上には、木が一本だけ生えている。雑草が生い茂っているのが見えるが、一本の木だけが印象深いのも不思議な感じがする。それが何の木なのか分からないが、冬の時期を勝手に想像させるものだった。

 夏の時期であれば、涼しさを感じるだけで、映像には似合わない。やはり荒波が絶壁にぶち当たり、砕け散ってしまう印象が深いからだ。風も舞っていて、一方から吹いてくるわけではないことで、高いところにいると、それだけ恐ろしさが倍増する。そんなことを考えながら歩いていると、階段が崖の中腹あたりで、終わっていた。その先には、両側から崖が迫ってくるような狭い道を歩いていくと、吊り橋が見えた。

――こんなところから落ちたら、ひとたまりもない――

 自殺の名所に辿り着く前に、

――自殺しようとしている人の決意を鈍らせるような場所を作っておくことで、自殺者を一人でも食い止めようという意志でもあるのだろうか――

 と、思わせるような場所を見ていると、足が竦んでいるくせに、思わず笑いたくなってしまう自分がいた。それは、洒落にならない笑いで、

――こんな笑いが、実際に存在するんだ――

 と、唸ってしまうような思いを感じさせられた。

 吊り橋が風に揺られる。普通にただ遊びに来ただけの人なら、ここで引き返すだろう。危険な思いをしてまで、向こうまで渡ろうという奇特な人は、そうはいないだろうと思った。

 そう思うと誠は、却って渡ってみたくなった。自殺の名所がどういうところかを見てみたいという思いが、危険なつり橋を見ることで深まったのだ。

――怖いもの見たさ――

 というのとは、少し違っているような気がした。それよりも、

――つり橋で危険を煽るようなこんな場所、まるで誰かのハッキリとした意図が介在しているようで、そんなところを見てみたい――

 と、感じたのだ。

 最初はゆっくり渡ろうかと思ったが、ゆっくり渡ると却って恐ろしさを倍増させてしまう。

 思ったら一気に渡ってしまわないと、躊躇する。躊躇してしまうと、きっと足元を見てしまうだろう。そこに危険があることが分かっているからだ。

 足元を見てしまっては、まず先には行けない。

 かといって、戻るのも恐ろしい。

 踵を返すことは、前に進むよりも怖いことだ。首から上だけを捻って、後ろを振り返るしか方法はないが、そうして見ると、後ろがかなり遠くに感じられる。

――こんなに進んでいたのか?

 ちょっとしか進んでいなくても、半分以上進んだ気持ちになっていることだろう。そうなると、後ろに戻ることは不可能なのだ。

 こういう足元が不安定で危ないところを渡る時は、

「絶対に振り向いてはいけない」

 と、聞いたことがあった。その場で立ちすくんでしまうからだと教えられた。

 その時は意味が分からなかったが、

――こういうことだったのか――

 と、納得させられたのである。

「行くも戻るも地獄なら、進むしかないか」

 と思うのも仕方がないことだ。

 その時初めて、どうしてここに来ようと思ったのかを考えた。そこには後悔の念がハッキリと存在したからである。もし、後悔しなければ、ここに来てみようとどうして考えたかなど、思い返すこともなかったであろう。

 足元を見ることもできず、後ろを振り返るなど、もっての他。前を向いて進むしかない。それもゆっくりでは恐怖が募るばかりだ。

 しかし、一旦立ち止まってしまったのだ。そこから急いで渡る勇気を持つことはできなくなっていた。誠は、綱でできた不安定な手すりをしっかり握りしめ、命綱がそれだけであることを自覚しながら、進んだのだった。

 進むにつれて、揺れが激しくなる。

 後ろから誰かがついてきていて、揺らしているのではないかと思うほどの揺れに、思わず、後ろを振り向いた。

 もちろん誰もいるはずもなく、後ろがかなり遠く感じられた。

――やっぱり――

 遠くに感じられたことと、後ろを振り向いたことで、目がくらんでしまったことの確認とで、思ったことだった。

 ただ、そんな呑気なことは言っていられない。一旦振り向いてしまったことで、前を振り向くために、今度はさらなる勇気が必要だ。

――断崖絶壁よりも怖いかも知れない――

 本当に地獄の一丁目である。

 目の前を通り過ぎる風が、さらに揺れを誘い、足元がいつ崩れても不思議がないように思われた。渡ってしまったことを完全に後悔している。

――僕はなんてことをしてしまったんだ――

 と感じながら、急いでこの場から立ち去ることを考えていた。開き直るしか手はないことに気付くまで、しばらく時間が掛かったのだ。

 とりあえず、荷物は身体に結び付けていたのは正解だった。下手に宙ぶらりんの状態にしていれば、荷物に気が散ってしまい、立ち往生してしまうと、どうしようもなくなってしまう。何とか渡ることだけに集中していれば、何とかなりそうな気がした。

 ゆっくりと足を前に進ませた。最初は恐ろしさから、背筋が凍る思いだったが、次第に慣れてきた。

――これなら渡れそうな気がするな――

 と感じたかと思うと、さっきまで遠く見えていた橋の終点が目の前に見えてくるようであった。

 急いで渡りきった。呼吸は完全に乱れたまま、渡りきった途端、腰が抜けたのも当たり前のことだろう。とりあえず、しばらく身体を休めておかないと、凍えそうな冷たい空気に、硬直してしまった身体が動かなくなってしまう。

 それは時間を掛ければ掛けるほど、歩けなくなってしまうことを意味していた。急いで渡ったのは正解で、そのおかげで、このまま先に進むことができそうだ。

――確か、断崖絶壁まで行けば、帰りは、橋を渡らなくてもいい道があると言っていたっけ――

 それは潮の関係だった。

 自分が渡ろうとした時は、ちょうど、潮が満ちていて、渡れない時間だった。それが三十分もすれば、少し潮が引いてきて、陸地になって渡れるというのだから、不思議なものだ。

「このあたりの地形は不思議なものでね」

 と、ここに来た時に、出会った一人の老人が話していた。

 その老人は、どこからともなく現れた。まるで、誠が来るのを最初から待っていたかのようだった。杖をついていて、白髪の、まるで仙人のような老人だった。

「ありがとうございました」

 話を聞かせてくれたので、お礼を言って立ち去ろうと踵を返し、少し歩いたところで振り返ると、老人はすでに消えていた。

――何とも言えない妖気が漂う場所のようだ――

 と、いきなりのセンセーショナルなインパクトを感じさせられた。

 吊り橋の上で、パニックになっている時、必死で助かりたいという思いを頭の中に抱いていたが、その時に浮かんできたのが、その時の老人だった。ただ、雰囲気は浮かんでいたのだが、顔が思い出せなかった。頭がパニックになっていたから、思い出せなかったのかも知れないとも思ったが、それだけではない。帽子をかぶっているわけでもないのに、顔に影が掛かっている。しかも、その表情は、薄気味悪い笑みが浮かんでいた。そのことを思い出すと、またしても、背筋がゾッとしてきたのだ。

――まさか、後ろから見ていると思ったのは、さっきの老人ではないだろうか?

 そう思うと、渡りきったことで、老人がこちら側にくることはないだろうと思い、逆にホッとしたくらいだ。

 気を取り直した頃には、少し風が止んできたように思えた。気のせいかも知れないが、風が止んできたのを感じると、今度は、失っていた勇気が回復できたように思えたのだ。

 立ち上がって歩き始めると、断崖までは、さほど遠くないように思えた。ただ、実際に上がっていく階段がかなり向こう側にあり、行ってみると、らせんのようになっていた。歩く距離はかなりの長さのようである。

 かなり遠くに見えていた階段だったが、近づくにつれて、あっという間についてしまうように思えた。それなのに、なかなかたどり着かない。それは目の錯覚だけではなく、身体のだるさが影響しているようにも思えたのだ。

 遠くに見えていた山が迫ってくるように見え、断崖絶壁が手に取るように見えてくる。見えている分だけ、ゆっくりと視線が上向いてしまっていて、その分、なかなかたどり着かない感覚になっているのではないだろうか。

 断崖を上っていくと、階段はいかにも簡易で作られているのが分かる。途中で急な坂になってみたり、緩やかになってみたり、平地であれば、でこぼこ道だったに違いない。

 手すりは金属の手すりに巻き付くように綱の手すりも一緒に引かれていて、まるで命綱のように見えた。

 そういえば、以前登山した時に、同じようなものを見たことがあったのを思い出した。登山の経験がないわけではないので、それを思えば、断崖まで上るくらい訳もないように思えてきたのだ。

 ゆっくりと歩いていくと、その向こうに見える景色を想像している自分がいた。てっぺんには一本の木だけが生えていて、先ほど想像した通りだった。一本の木は、風に揺れていた。

――かなり遠いとは言え、曲がりなりにも一本の木。それなのに、風で揺れて見えるなんて、目の錯覚なのかな?

 と感じた。

 柳のような木ではない。一本の幹がスッと伸びているのだ。そんなところに吹いてきた風があったからと言って、揺れて感じるのは、おかしなことだ。高いところにあるものを見上げていることで、錯覚を起こしてしまったのではないかと思えていた。

 階段を上って上までやってくると、最初に見えてきたのが、さっき気になっていた一本の木だった。

――あれ? おかしいな――

 さっきまで見えていたのは、しっかりとした幹だったはずだ。それなのに、上に上がってきてみると、見えているのは、まるで柳の枝のように、風に揺れている木だったのだ。

 それも、不規則にではない。何か規則性を持っているかのように思えた。音楽のリズムに合わせてダンスでもしているかのように見えるのは、気のせいであろうか?

 上がってくると、さっきまで見えていた山の上が、思ったよりも狭いのが気になっていた。

――あれだけ遠くに見えていたんだから、もっと広い場所だと思っていたのに――

 と感じた。

 実際には、人が数人いるだけで、危なっかしい感じに見えるほどの場所で、先に行くほど狭まってくるのは、まるで船頭に似ているようだった。

 先に行くほど、少しずつ位置が高くなってくる。それこそ船の先を見ているようで、その先に打ち付ける波を感じることができそうで、それ以上、先に行くのが怖くなっていた。

 足の震えを感じ、少しその場から立ち去ることができなかった。しかし、風の冷たさに慣れてくると、次第に身体を動かすこともできるようになり、一刻も早く、その場から立ち去りたいと思うようになっていた。

 帰り道は、来た時とはまったく正反対で、向こう側にある階段を下りていくことになる。向こう側は、海風を遮断できるようになっていて、ほとんど、風の影響を受けない。その代わり、降り立ったところに洞窟のようなものがあり、暗く陰湿な場所を通らなければいけないというのが、この場所の特徴だった。

 山から下りてきて、洞窟のあたりまでくると、一つの塊を見つけて、思わずたじろいでしまった。

 他の場所であれば、それほどビックリはしないが、今まで恐怖や意外なことの連続だっただけに、神経が敏感になっているのだろう。見た瞬間は、心臓が破裂しそうな驚きだった。

 それでも、奇妙なことには慣れてきているせいなのか、神経がマヒしてしまっているかのように、見えている光景には恐怖は収まってきた気がしていたのに、胸の鼓動は収まる気はしなかった。

 冷静に見えてきている反面、胸の鼓動は、興味本位によるものなのか、それとも恐怖が身体に沁みこんでしまったせいなのか、なかなか取れることはないように思えた。

 今の自分が、不思議な世界に入り込んでいて、自分が不思議な世界の主人公であり、見えない力に操られているのか、それとも、自分の覚醒した能力が力を操作しているのか、冷静になれるのは、そこが原因なのだと思っていた。

 目の前に見える不気味な塊は、微妙に動いているようだった。

「誰だ?」

 懐中電灯を持っているわけではないので、光を照らすわけにはいかない。向こう側の出口から見えている光が逆光になって、目の前にいるのが人間だといういうことは分かったが、男性なのか女性なのか、若いのか年を取っているのか、判断ができなかった。黒い塊に見えたのは、ジャンパーを羽織っているからで、ゆっくりと動いているその姿は蠢ているようにしか見えず、向こうを向いていたのを、こちらに向け変えているのが分かってきた。

 小刻みに震えているのは、寒いからだろうか?

 最初、ここまで降りてきた時は、さっきまでの猛烈な風を受けていたことで、寒いなどという感覚はなかった。しかし、歩みを止めてみると、冷たさが、足元から忍び寄ってくるのを感じると、身体が震えてくるのが分かってきた。

――あの人は、ずっとここにいたんだろうか?

 この場所にいると、時間がどれほど経ったのか、時間の感覚がマヒしてくるようだった。上の断崖絶壁では、あっという間に降りてきたような気がしていたが、ついさっきのことなのに、だいぶあれから時間が経っているように思えてならない。

 降りてくるまでにも、さほど時間が掛かったような気がしなかった。ただ、最初に老人と出会ってから、何か時間の感覚がマヒしてしまいそうな感覚に陥るような予感があった。それは今から感じるからなのかも知れないが、最初のインスピレーションが大切だと、あの時にも感じた気がしていた。

 吊り橋で、肝を冷やした以外では、少々のことでは、それほど恐怖に感じたり、気持ち悪く感じることもない。

――あの吊り橋には、恐怖や不安という感覚をマヒさせる効果があったのだろうか?

 あそこで引き返していれば、何も感じることもない。引き返さなかったことを、その時になって初めて、

――よかったのかも知れないな――

 と感じたのだ。

 蠢いている人を覗きこもうとしている自分を感じた時、自分の目が自分から離れて、相手を覗いこんでいる自分を見つめている目になっていた。まるで夢を見ているかのようだったが、目が暗闇に慣れてきて、蠢いている人の姿が少しずつ分かってくると、

――女の人だ――

 と、いうことが分かったのだ。

 男と女しかこの世にいないのだから、確率は五分五分だったはずだ。しかし、その人が女性であるというのに気が付いた瞬間、意外だった自分に気が付いたが、次の瞬間、その人が女性であることに最初から分かっていたように思えてならなかった。

「あなたは、一体ここで何をしているんですか?」

 震えて、丸まっている女性に向かって、声を投げた。洞窟なので、声は響く。それでも思ったよりも大きな反響を感じなかったのは、それだけ、声が自分で感じているほど出ていなかったのかも知れない。

 相手の女性は、声を振り絞るように、

「こんなところに人が来るなんて、これって奇跡なのかしら?」

 その返答は、誠がした質問に対してのものではなかった。まるで独り言を呟ているだけのようなのだが、何を言っているのか、意味は分からなかった。

「そんなに、ここには人が来ないんですか?」

 こちらの聞きたいこともあったが、とりあえず、彼女に合わせて話をしてみることにした。

「ええ、本当に久しぶりです」

 それを聞いた時、不気味な気がして、背筋に悪寒が走った。そして、それを確かめなければいけないと思い、

「あなたは、まるでここにずっといるみたいな言い方ですね」

「ええ、私はここにずっといます」

 と言って、彼女は少し黙りこんだ。そして、どこからともなく、不気味な笑い声が聞こえたが、それが彼女であることはすぐに分かった。ここには二人しかいないからだ。それだけこの場所がまわりに反響する場所なのだろうが、誠は、それ以上、何も言えなくなってしまった。

 その時の彼女の顔が最初に見た老人の形相を思い浮かべさせるものであった。女性と男性の違いがあるのは歴然のはずなのに、

――まるで同じ人にしか思えないのは、僕がおかしいからなのかな?

 と思ってしまった。

 だが、おかしいからだと思ってしまうのは楽である。

――夢なら、早く覚めてくれ――

 という心境なのだが、とりあえず、この環境に身を任せてみるしかないと思うのだけで、後は何も考えられなかった。

 彼女は、その場から動こうとしない。

「僕はここから、どうやって帰ったらいいんですか?」

 と、聞いてみた。

「あなたは、私の前を通り抜けるしか、ここからは出られませんよ」

「えっ? あなたの身体をすり抜けるという意味ですか?」

「ええ、そうです」

 まわりを見ると、確かに水があったりして障害物はあるが、彼女を通り抜けなければ抜けられないことはなさそうだ。

――こんな場所は、さっさと立ち去りたい――

 と思って、彼女の横を通り過ぎようとする。

 しかし、通り過ぎたはずなのに、彼女はまた自分の目の前に鎮座している。

――そんな……。一瞬にして、僕よりも瞬時に動いたということなのか?

 しかし、彼女の後ろに見える光が近くになったような気はしない。明らかに遠くにしか見えてこない。

 彼女が急いで動いたというのは、不気味で恐ろしいのだが、動いたというのであれば、まだ納得できる。

 自分が動いたはずなのに、先に行っていないという方が、よほど気持ちが悪い。それを思うと、本当に彼女のいう通り、ここからは彼女を超えないと、出られないのだということを認識した。

 彼女を乗り越えようとしたその時、誠は自分の身体が宙に浮いた気がした。

 それは、断崖絶壁から落ちていくような感覚である。その時に女性だと思っていたものが、実際は、断崖絶壁の上で見た一本の木だということに気が付いた。

 木を乗り越えるということは、そのまま断崖絶壁を飛び越えるということである。その先に待っているのは、「死」という言葉だ。

――僕は死にたくない――

 という思いを抱きながら、そのまま海に向かって落ちていくのを感じていた……。

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