鬼が島

多田いづみ

鬼が島

「こちらのお部屋です」

 仲居に案内されたのは、二階の角にある二間つづきの和室だった。古くてぼんやりした小さな宿だが、部屋はこぎれいで畳もあたらしかった。


 手前の部屋には黒い座卓が据えてあり、ふっくらした紫色の座ぶとんが四枚敷いてある。床の間には雉子きじを描いた掛け軸がかかっていた。わたしは以前どこかでその絵を見たような気がしたが、どこで見たのか思い出せなかった。


 奥の部屋は手前と同じ大きさで、何も置かれていなかった。おそらくそこにふとんが敷かれるのだろう。その先には奥行きが半間ほどの板の間があって、籐の安楽椅子とテーブルが狭苦しそうにおさまっている。間口いっぱいにとられた窓の障子は、開け放たれていた。


 窓の先には海が見えた。天気はうす曇りで、空は白く霞んでいる。

 日は奥までとどいてこないらしく、手前の部屋はやけにうす暗い。仲居が電気をつけると、蛍光灯の白い輪っかが、黒い座卓に歪んだ円を映した。座卓には銀色のつぶつぶが埋め込まれていて、角度によってきらきらと光った。


 座卓の天板は曇りひとつなく磨きあげられている。仲居はそこに茶の用意をはじめた。

 仲居は鼻が低く額のせまい猿顔で、しわも多く、かなりの歳に見える。が、地味な紺絣こんがすりを隙なく着こなし、振る舞いはとてもきびきびとしていた。


 わたしは窓ぎわに移動して、外の景色をながめた。空が白っぽく見えるのは、窓ガラスに塩のつぶが張りついているせいもあるらしい。部屋の手入れはいきとどいているのに、窓だけくすんでいるのは奇妙だった。


 宿はゆるやかに弓状に広がる海岸のほぼ中央に位置していて、海が左右に大きく開けてみえる。

 わたしはここにきてはじめて、まともに海を見たような気がした。

 というのも、ここの海岸は道路とのさかいに、人の背たけぐらいあるコンクリートの防壁がずっとつづいていて、地上からはほとんど海が見えないのだ。


 海はおだやかだった。しかし空の曇りぐあいを映して、灰青色に濁っていた。

 海岸には誰もいない。といってもそれは天気のせいではなく、海水浴のシーズンはとうに終わって、肌寒いほどの季節だからだ。

 それでも温泉があるから、わたしのようにいくらかの客はあるらしい。


 沖のちょうどまんなかあたりに島が見える。小さなわりにやけに背が高く、海の上にぽっこりと突き出ていて、ごつごつした赤黒い岩におおわれていた。

 島と呼ぶにはあまりに奇妙なかたちをしているので、それがどのくらいの大きさなのか見当がつかない。遠くにあるかなり大きな島のようにも見えるし、近くにある小さな岩礁のようにも見える。その上を、何羽かの海鳥がゆっくりと旋回していた。

 島の裾あたりに、何か人工物らしきものがある。それは――


「お客さん。お茶の用意ができましたから、一休みなさってください」

 と仲居が呼ぶので、わたしはもうすこし海をながめていたかったけれど、座卓のある部屋にもどって茶をすすった。


「沖のほうに島が見えるね。あれはなんて島?」

 とわたしは仲居にたずねた。

「はあ、あれは紅蓮島ぐれんじまと申します。でも、土地のものはあんまりそうは呼びませんけれど」

「へえ、なんて呼んでるの?」

「それが、そんなにいい名前じゃありませんが……鬼が島と」

「鬼が島? そりゃまたいわくのありそうな名前だな」

 わたしは少し興味をひかれながら、茶請けのせんべいをほおばった。ほんのりと海老の香りがした。

「いわくってほどでもないんですけれど、じつはあれは火山島で、今でもときどき噴火するんです。いえ、噴火といいましてもそんなあぶないもんじゃありませんよ。音がするとか、灰が降るとか、せいぜいそのくらいのことでして――。それに、こちらから見ると島の左右の崖がもりあがっておりますでしょう? それが鬼の角みたいだ、なんて言う人があるもんですから」


 わたしはふうんと思いながら背すじを伸ばすと、窓から島をのぞいた。白く霞んで見えにくかったが、言われてみれば左右の崖が鋭く切り立ち、真ん中は削られたようにへこんでいて、たしかに鬼の頭のように見えなくもなかった。


「噴煙は見えないね。ずっと煙をあげているわけでもないのか。あそこに人は住んでるのかな?」

「いいえまさか、住んでないと思いますよ。火山島ですから。それにあのへんは暗礁が多くて船もなかなか近づけません」

「そりゃますます鬼でも住んでるかもしれないな。あれ? でもさっきなんか建物が見えたような気がするけど」

「それはもしかしたらほこらかもしれません。むかしはちゃんと神社を建てようって話もあったらしいですけれども、なにせ崖が切り立っておりますから島に上がるのもひと苦労でございましょう。それでしかたなく崖のくぼみに祠を据えたんだとか。でも海に近いもんですから、台風がくるとすぐ流されてしまいます。今のはたしか何代目だったかしら……。ま、とにかく毎年のように流されてますわね」


 仲居はわたしの湯呑ゆのみが空になったのを見て、すかさず茶をつぎたした。

「――それに島ができたのはわりと最近のことですから、鬼もなにも住んじゃおりませんでしょう。あたくしの祖父が子供のころ、なんでも一夜にして現れたんだそうです。生前、よくそう申しておりました」

「へえ、そりゃすごい噴火だったんだろうな」

 かなり歳がいってそうな仲居の、そのまたじいさんが子供のころというと、だいたい百年くらい前のことだろうか。

「さあ、どうなんでしょうか――あ、そうそうお客さん。それでお夕食の時間は何時にいたしましょう?」


 宿には人けがなく、ずいぶん暇そうに見えたからつい引き止めてしまったが、そういつまでも客の無駄話につきあってはいられないらしい。仲居は自分の仕事を思い出し、話を切り替えたようだった。

 わたしは移動の都合でまともに昼飯も食べていなかったから、けっこう腹がへっていた。それで時間を早めにたのんだ。


 食事の前に風呂に入ると、それが小さいながらも気持ちのいい浴場で、湯船も洗い場も淡い緑色の石で造られている。

 ほかに入ってくる人もいなかったから気がねなく湯を浴びることができ、それからゆっくり夕食をとったあとでも、まだ日は残っていた。


 わたしは窓ぎわに席を移して籐椅子に腰をおろすと、のんびりビールを飲みながら外の景色を楽しんだ。

 海岸に出てみようかとも思ったけれど、風呂に入ったあとに足が砂まみれになるのがいやだったし、髪や肌が潮くさくなるのもごめんだった。かといって、もういちど風呂に入り直すのもめんどうだったから、けっきょく部屋からながめることにしたのだ。


 例の鬼が島とやらは夕日を受けて、血を塗りたくったようなどぎつい紅色に染まっていた。何かの呪いか、むきだしの溶岩のせいでそう見えるのか、理由は分からない。

 島の上には蚊柱みたいに海鳥が群がって、もやのように黒く霞んでいる。その数は、昼にもまして多そうだった。


 砂浜の遠くの方にちらと動くものがある。誰かが犬を散歩させているらしかった。かなりの早足に見えたが、なかなか近くまではやってこなかった。犬は人にくらべて歩幅がせまいので、意外と時間がかかるのだ。

 犬は波打ちぎわの、ちょうど波がかからないぎりぎりのところをえらんで進んでくる。どうしてそんなところを歩いているのか分からないが、犬には犬の理屈があるのだろう。

 犬と飼い主のうしろには、長い影がのびていた。


 犬は茶色の柴犬だった。太いしっぽをくるんと巻いて、まじめそうな顔をしてまっすぐ前を向き、夕日に照らされた背中が赤くけてみえた。

 犬はちょこまかと小走りでわたしの前を通りすぎると、やがて影さえ見えなくなった。

 そして夕波が犬と飼い主の足あとを消し終わるころ、ようやく日が沈んだ。



      *



 その夜、地震があった。


 そのときわたしは夢を見ていたらしい。

 夢のなかで、仲居が部屋に大きな膳を運んできた。そのあとを、白衣を着た男がコンロを持ってついてくる。

「本日のお夕食でごさいます」

 と仲居は膳に乗った料理をひとつひとつ説明していき、最後に、

「キノコのおいしい季節ですので、この場で揚げたての天ぷらをご賞味いただきます」

 と言うと、横に正座していた白衣の男が深くおじぎした。

「裏の山で採れたばかりです。どれでもお好きなものをお選びください」

 と仲居はさまざまなキノコで山盛りになった竹のかごを、わたしに見せた。

 キノコからは土の香りがしていかにも新鮮そうだったが、どれもなじみのないものばかりだった。そのなかに、真っ赤な指みたいな形をしたキノコがあった。


「これは?」

「それはカエンタケと申しまして、毒キノコでございます」

「毒だって!?」

「しかも、触れるだけで火膨れができるほどの猛毒でございます。ですが食べるとこの世のものとは思えない、えも言われぬ美味だとか」

「美味って……きみたちは食べたことあるのかい?」

「いえ、ございません。食べたら死んでしまいますから」

 白衣の男も首を振った。

「じゃあ、誰がうまいと言っているの?」

「それは以前お出ししたときに、お客さまがそうおっしゃっておりました」

「え、だってその人は……」

「もちろん、そのあとお亡くなりになりました。さあ、いかがなさいます?」


 夢のなかのわたしはしばらく考えた末、

「よし! 食おう」と覚悟を決めて言った。

 白衣の男は「かしこまりました」とうなずいて、赤いキノコに衣をつけ、油にくぐらせていく。そして揚がったキノコを、もみじをあしらった皿のうえに盛りつけた。

 わたしはおそるおそる箸をつけると、

「うまい! ちょっと舌にぴりっとくるけど、とんでもなくうまい。こんなうまいもの、今まで食べたことがない!」

 などとやけにおおげさに舌つづみをうち、そのあとは揚がったそばから次つぎにキノコを腹におさめていった。


「うまいなあ。ほんとにうまい」

 夢のなかのわたしはキノコの味に陶酔して、うまいという以外の言葉が出てこなかった。

「おかわりはいくらでもありますから、ぞんぶんに召し上がってください」

 そんな仲居の言葉も、ほとんど耳には入らなかった。わたしは取りかれたように、手と口を動かしつづけた。

「うまい、うまい、うまい、うまい、うまい――――」


 地震の揺れはすぐにおさまった。

 それほど激しい揺れでもなかったが、目が覚める程度には大きかった。夢で見ていた宿も同じように揺れていたから、どっちがどっちやら分からないほどだった。

 揺れを感じなくなったあとも、座卓に置かれた湯呑みが長いことカタカタと音をたてていた。夜はかなり更けているようで、ほかには何の物音もしなかった。


 しばらくして、花火を打ち上げたような大きな音がした。

 ずいぶん遠くからの音だったらしく、少し遅れて宿の裏手にある山々にこだました。湯呑みが揺れて、鈴が鳴ったような音を立てた。

 どこからか犬の鳴き声がきこえた。


 わたしはあわててふとんから半身を起こしてじっと耳を澄ましていると、だれかが階段を上がってくる気配がした。そしてその足音は、わたしの部屋の前でとまった。

「お客さん、起きてらっしゃいます?」

 仲居の声だった。

「起きてるけど、何かあったんですか?」

 わたしはふとんから出るのもめんどうだったので、扉ごしに応じた。

「紅蓮島が噴火したようです」

「えっ!? それって、どこかに避難とかしなくてもいいの?」

「だいじょうぶです。大きな音がするだけで、とくに危険はございません」

 仲居はそんな大したことでもないというように、平然とした口調で答えた。


 わたしはあっけにとられ、しかし土地の人が言うのならそうなのだろうと思いながら、もっとほかにききたいことがあるような気がしたのだが、のどの途中でつっかえてなかなか言葉がでてこなかった。そしてまだ考えがまとまらないうちに、

「また何か分かりましたら、お知らせにまいります。でも、今夜はもう寝ていただいても問題ないかと――。もしあるとしましても、きょうあすのことではないでしょうから」

 と言って、また階段を降りていった。


 ひとりになってから仲居の言った言葉について考えてみたが、わたしには何のことだかさっぱり分からなかった。

 逃げようかとも思ったけれど、案内もなしで動くにはあまりに土地勘がなさすぎる。正面は海だし、裏には山が迫っている。ふつうに考えて、どこにも逃げ場がない。

 わたしはいたたまれなくなって、寝床から出ると、電気をつけずに外のようすをうかがった。


 障子をあけると、外はまっ暗だった。宿のすぐ手前にある街灯が、ぼんやりかさをかぶりながら道路を照らしているほかには、何も見えなかった。あんなに大きな音がしたなら、わらわらと人が出てきて大騒ぎになってもよさそうなのに、外には誰もいなかった。

 空には星がたくさん出ている。海は黒い油みたいにのっぺりとして、まったく静かだった。くだんの島も暗やみにまぎれて、どこにあるのかさえ分からない。


 考えてみれば、島とのあいだには海があるのだから、映画みたいに溶岩流が押し寄せたりはしないだろうし、火山弾が飛んできてもさすがに瓦屋根を突き破ったりはしないだろう。


 そう思い直したところにまたドン、と打ち上げ花火のような音がした。

 さっきよりは小さい音だったけれど、部屋の空気まで揺さぶられるようだった。遠くでまた犬が吠えた。

 わたしはひどく不安になって、備えつけの冷蔵庫からビールを取り出すとぐいぐい飲んだ。そしてそのあとはもう、音も何もきこえなくなった。


 飲み終わったあとふとんに入ると、わたしはすぐに眠ってしまったらしい。

 気がつくと朝になっていた。


 日はまだ上ったばかりで、うす暗かった。障子は開けっ放しだったので、蒼白あおじろい光が部屋の奥まで差し込んでいる。宿はしんとして、だれも起きていないようだった。わたしは寝起きが悪いほうなのに、なぜこんなに朝早く目覚めたのかと考えたら、夕飯が早かったせいでもう腹がへっていたのだ。火山が爆発しようが何がどうなろうが、腹というのはへるものらしい。


 わたしは階下に降りると、備えつけのつっかけを履いて宿を出た。通りをうろうろし、コンビニエンス・ストアでもないかと探してみたが、開いている店は一軒もなかった。

 朝方の空気は、霧雨のように重くしっとりしていた。黒っぽいアスファルトの道路の上には、まだらに白い灰が積もっている。宿の裏手にある山の木々も、灰をかぶってくすんでいた。

 わたしのつっかけの音が、通りじゅうにカラコロと響いたが、ほかには何の物音もきこえなかった。

 道を渡ろうと左右を見渡したが、人も車の影さえも見えなかった。わたしは防壁の出入り口から海岸へと出た。


 踊り場のような奥行きの広い階段が数段つづいた先は、埋もれて砂浜につながっている。階段には貝がらや、えたいの知れないものが色々くっついている。わたしはその場所を注意深く避けて腰を下ろした。


 海岸はすっきりしているといえばきこえがいいが、ボートをひっくり返したのが何艘なんそうか置いてあるだけで、あとは砂しかない。シーズン中であれば海の家くらいは出るのだろうが、商売っ気がないというか、とても海水浴場とは思えないくらい殺風景なながめだった。


 灰は浜にも積もっていたけれど、砂と同じような色なので道路ほど目立たなかった。あと何日かすれば、砂にまぎれて一緒くたになってしまうだろう。

 しじゅう波の音がきこえているほかには、宿から見るながめとほとんど変わりない。磯の匂いもそれほどきつくはなかった。

 わたしは誰もいない静かな場所を求めてここに来たはずだったのに、いつの間にか気が変わって、なんとなく人恋しいような気分になっていた。


 しばらくすわっていると遠くの方から、何かがこちらにやってくるのが見えた。

 どうやらそれは、昨日の夕方に見た柴犬らしかった。

 昨日とおなじように脚を小刻みに前後させながら、波打ちぎわを歩いている。しかしどうしたことか、急にそこから外れると、犬は一直線にわたしの方に向かって駆けてきた。

 砂に脚を取られて歩きにくそうだったが、飼い主が引っ張られるほどの早足で、砂の山をけんめいに乗り越えてくる。そしてわたしの足元にすり寄ると、すねのあたりに自分の脇腹をぐいぐいと押しつけた。

 犬はそれほど興奮した様子でもなかったが、背中をなでてやるとうれしそうにしっぽをゆすった。膝頭からじんわりと、犬の体温が伝わってくる。


「ご迷惑かけてすみません。こいつほんと、ぜんぜん言うことをきかなくて……」

 飼い主の男性はハアハアと荒い息をしながら追いついてきて、わたしに謝った。しかし謝罪はおざなりで、あまり申し訳なさそうな態度ではない。犬が勝手なことをするからどうしようもない、と言わんばかりだった。


「ずいぶん人懐っこいね」

 とわたしが犬を褒めると、

「いやあ、いつもはそうでもないんですけど、興味のない相手にははなも引っかけないし――。でもあなたのことはすごく好きみたいだ。っていうのもこいつ、砂に脚を取られるのがイヤみたいで乾いた砂地のところはぜったいに歩かないんですよ。それがあなたを見かけた途端まっしぐらでしたから、よっぽど気に入ったんでしょう」

 と飼い主は感心したような口ぶりで言った。

 ふだんわたしは犬に好かれるたちでもなかったし、そんなに犬好きでもなかったが、それをきいて悪い気はしなかった。


 飼い主は有名ブランドのロゴのついた真新しいスポーツウエアに、派手な原色のスニーカーといういでたちで、こんなへんぴな海岸ではなく、代々木公園だとか皇居のまわりだとか、そうしたにぎやかな街並みを走っていそうな都会的な感じの若い男だった。

 スパッツからはみ出たふくらはぎが子持ちシシャモみたいにきゅっと膨らんで、締まった足首には血管が浮き出ている。顔は日に焼けて、白い歯がきわだってみえた。

 一方わたしはといえば、宿の浴衣に宿の丹前、宿のつっかけを履いた、どこからどう見てもしょぼくれた中年男だ。犬はこんなわたしのどこを気に入ったのやら。


「いつもこんなに朝早いの? 大変だね」

 とわたしは飼い主をねぎらった。

「いえ、早寝早起きになってちょうどいいんです。こいつもきのうは噴火の音でずっとおびえてましたけど、朝になったらさっぱり忘れて散歩にいこうって騒ぐんだからのんきなもんです」

「火山の噴火なんてはじめてだったから、わたしもおどろいたよ。宿の人はぜんぜん動じてなかったから、ここじゃよくあることなんだろうけど。きみ、ここにはもう長いの?」

「五年くらいですかね。でもずっとこっちにいるわけじゃなくて、海水浴のシーズンが終わると空き家が安く借りられるから毎年この季節に来てるんです。噴火に立ち会ったのは、ぼくもはじめてですが」


「あの――横いいですか?」

 と飼い主は、律儀にすわる許可を求めてきた。

 わたしは立たせたままだったことを詫びてうなずくと、飼い主は何か掛け声みたいな言葉を発して、いきおいよく隣にすわった。

 そして陽光をさえぎるように手を眉のうえにかざして、沖に浮かぶ島を見つめながら、

「やあ、あれじゃもう鬼が島とは呼べないな」

 と明るい声で言った。


 昨夜の噴火のせいだろうか。左側の切り立った崖が崩れ落ちて、島はいびつな形に変わっていた。つまり、鬼の角の片方がなくなってしまったのだ。


 そのあとしばらくふたりしてならんで(犬も含めればふたりと一匹で)海をながめていた。青みがかっていた日の光が、だんだん黄色くなってきた。波にもどことなく、いきおいが出てきたようだった。


 飼い主は急におもしろい冗談を思い出したような悪戯いたずらっぽい顔になり、にやにやしながら言った。

「そういえば、知ってます? この土地に伝わる鬼が島のうわさ」

「いや、知らない。昨日こっちに来たばかりなんだ。百年くらい前にできたあたらしい島だってことはきいたけど。なに、変なの?」

「まあ変といえば変ですね。オカルトじみてるというか。つまりそのうわさってのは――島が噴火すると、近いうちにどこかで厄災やくさいがおこるっていうんです」

「厄災?」

「地震。水害。人災もそうですね。火事や事故、戦争なんかも。島が噴火してだいたい数週間から数か月以内に大きな厄災がおこるらしい。そもそもあの島ができたのが、関東大震災のおきるすぐ前だったっていうんです。これ、どう思います?」


 どう思うかと問われても、ばかばかしいという以外にどんな感想も浮かばなかったけれど、それとは別に、昨夜の仲居の奇妙な受け答えはこのことだったのかと、やっと理解できた。あの仲居も、そのうわさとやらを信じる住人のひとりなのだろう。


「いやあ、どうっていわれても――よく分からないな。でも、噴火してから数か月先までっていうのはちょっと幅がありすぎるような気がする。そのくらいなら因果があろうがなかろうが、どっかで何かしらはおこるんじゃないの? たぶん島ができたすぐあとに震災があったもんだから、噴火と厄災が住人たちのなかで結びついてしまったんだろう」

「そうですね。ぼくもだいたい同じ考えです。でも土地の人たちのなかにはそのうわさを信じてる者も多い。なにしろ取ろうと思えばどうとでも取れるような話ですからね。だからこのあと数か月、彼らはびくびくしながら過ごすことになるんじゃないかな」

「でも仮に厄災がおこるとしても、このあたりでってわけでもないんだろう?」

「それはまあそうですけど、どこかで不幸がおこると思いながら生きてくのは気が重いもんですよ」

「しかしその理屈だと、逆に噴火をどうにかすれば、厄災がおこらないようにもできるってことにならないか?」

「そうなりますかね。どうやったら噴火を抑制できるのか分かりませんが……」


 噴火を抑制か――。

 火山の制御についてわたしは何も知らないけれど、現在の科学だとか技術だとかそういった正攻法でどうにかなるとも思えなかった。もし何かできるとしたら、せいぜい神頼みくらいのものだろう。しかしそれなら昔からもうやっている。


 そういえば島にも祠があったなと探してみるが、どれだけ目を凝らしても見当たらなかった。たぶん噴火の衝撃で海に落ちてしまったのだろう。

 土地の人たちも超自然的なことを信じているなら、かんたんに落ちたり波にさらわれる場所ではなくもっとちゃんとしたところに建てればいいのに、とわたしは思った。


 海は依然としておだやかだった。こんな平和な景色をながめていると、きのうの出来事との折り合いがつけにくい。あの噴火は、ただの悪い夢だったようにも思えてくる。が、そうした疑念を、崩れた島の形がすぐに打ち消す。

 しかし、そこかしこに降り積もった灰を見ているうちに、地下の奥底で何か恐ろしい計画が進行しているという不気味な妄想が、頭のなかに湧き上がってきてどうにも振り払えなくなった。


「鬼が島か――。でも相手が火山じゃ退治のしようがない」

 ぼんやりと考えていたことが、思わず口を衝いて出てしまったらしい。

 わたしはそんな勇ましいというより子供っぽい言葉を恥ずかしく思ったのだが、

「もしやるってんなら、こいつもお伴しますよ」

 と飼い主は、犬の頭をなでながら賛同した。


 理解しているのかどうなのか、犬は自信ありげにひと声吠えた。

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鬼が島 多田いづみ @tadaidumi

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