第5話 次こそは守って

 無気力でつまらない男。第一印象はそれだった。

 正直言うと、あたしはあいつが嫌いだった。

 もともと、あたしがラ・グロイール社などという、さして戦略的価値も持たない子会社に出向したのは、ジェルボアの密命を受けたからだ。目的はガシュウ・ヨクトの保護と監視。もちろん本人に任務について気づかれてはいけない。つかず離れずの距離感で、かつ彼が危険に巻き込まれるのを防いだり、自ら危険に飛び込まないように監視したりする。そういう特別任務だった。

 彼は施設で育ち、在籍する他の子供たちとの諍いを経て自分のハンディキャップと向き合いながら、生き残るために過度なまでに自分を律し、鍛え上げてきたらしい。確かに肉体はそこらの興行競技選手と比べても遜色ないほどたくましく維持されているし、長時間のきつい単純作業にも文句一つ言わない忍耐力がある。しかし奴には、情熱を感じさせる行動や傾向といったものが何も見られなかった。他の社員とも最低限の交流しか持たず、休日は資料室に籠って読み終えた本を何度も繰り返し、つまらなさそうに読む。あるいは惰性のような筋力トレーニングや持久力トレーニングに明け暮れる。

 何が楽しくて生きているのか分からない。いや、趣味嗜好の形や楽しみ方は人それぞれなのだと思うが、何をやっていても楽しそうでないのだ。一度本人に訊いてみたことがあるが、「夢を見るのが趣味ですね」と冗談めかして返されただけだった。

 濁った、全てを諦めたような目で常に黙々と仕事をこなし、愚痴も言わず、さぼりもせず、爪の先に火を灯すようなしかたで倹約しては金を貯めていた。夢云々というのは本当に冗談で、貯金が趣味なのかと思ったくらいだ。ただそれにしたって、他にやることがないから、というような様子で、別に楽しそうではなかった。

 長い間監視対象だったからこんなことをやっているが、元来あたしも、赤の他人の性格や人格を分析して知ったかぶるのは好きじゃない。ものの本にはそういうプロファイリングのやり方が書いてあるのだろうが、興味はなかった。あたしが興味を持つのはこの世で一人だけ。あたしに生きる目的と力とをくれたジェルボアだけだ。

 そのジェルボアが、自分の生命と人生を賭けた大勝負に出るという。数カ月前にその話を切り出されたとき、遂にその時が来たか、と思ったものだ。彼のためだけに砥ぎ上げてきた我が牙の使い道が現れた、と。

 しかし、下された命令は退屈極まりない男一人の監視任務だという。しかもそいつ自身、自分にも他人にも興味がなく、野心も主体性もないというありさまだ。正直落胆したし拍子抜けした。

 今から三か月ほど前、ラ・グロイール社の精製ラインに海伏のうみうさぎが侵入するまでは。

 その当時、自分のIDORA『黒拍子ドードー』は手元になかった。『逍遥星ハンプティ・ダンプティ』や『代替瑁モックタートル』のようなIDORAなら、工夫すれば普段から身に着けておくことができるのだが、『黒拍子』は大型で装着にも時間がかかる。潜入の都合で、他の職員に見られるわけにもいかないから自室に隠していた。加えて、今まで海伏やRQ社による襲撃は、常に本社上層部の予測によって正確に通知されてきたので、丸腰で会敵するのは初めてのことだった。

 対人用の拳銃だけは常に隠し持っていたが、そんなものはうみうさぎには無力だ。どうにかして作業場を抜け出し、社員寮に隠してある『黒拍子』を持ち出さなければならない、と判断した矢先のことだった。海緑色の巨獣が現れたのは。

 早すぎた。あまりにも唐突で速やかな侵入だった。作業場の機械類が停止してから数十秒。仮に、停止直後から全速力で『黒拍子』を隠した社員寮に向かったとしても、作業場を離れることすらできなかったはずだ。

 うみうさぎは近くにいる標的から順番に襲う。野生動物のように動けない者や足弱の女子供から狙う、というようなことはしない。機械のように精密な動作で、容赦なく、速やかに、一人ずつ。『うみうさぎの足』は、他の生物の持つどんな器官よりも精妙に、かつ力強く動く。あたしはガシュウが避難する時間を少しでも稼ぐため、社員を掴み上げる『足』や『耳』を狙って発砲を続けたが、ほとんど効果はなかった。

 フォーマイトに影響を与えうるのはIDORAだけなのだ。

 あたしが捕らえられ、手繰り寄せられたとき。さすがに死を覚悟した。海と埃の匂い。そのときこの胸にあったのは、ジェルボアの人生を賭けた大勝負の結末を見られないことに対する無念と、任務を遂げられなかった悔しさだけだった。

 そんなあたしを救い出したのは、あろうことか、つまらない男と見下していたガシュウだった。腹立たしいことに、そんな屈辱的なかたちで、あたしは彼に対する認識を改めなければならなかったのだ。

 ガシュウは捕まったあたしの体を強く抱きしめ、引き止めようとした。しかしヒト一人の力では、まして両足のない彼では、『足』の膂力に到底及ばなかった。あたしとガシュウはもつれ合って、怪物の前に引き据えられた。

 繰り出された『足』が、あたしを庇ったガシュウの胸郭を抉る。

 白状すると、このとき全てを失ったと感じた。あたしが死ぬのみならず、ジェルボアからの任務、守るべき対象だったガシュウ・ヨクトも殺されてしまうということ。それはあたしが最も回避すべき事態だったのだ。恩人の人生を賭けた夢の潰える原因に、ほかならぬあたし自身がなってしまうということだったから。

 諦念が変化した絶望はまるで永遠にも感じられたが、しかし実際、長くは続かなかった。脱力したガシュウの体が異様に強く跳ねたからだ。人体が損傷したことによる反射運動ではない、昏睡状態の獣が意識を取り戻したときのような動きだった。

 次いで、うみうさぎの方に異変が起きた。まるで苦悶するように身を震わせ、ガシュウの体を貫いた『足』を引き戻そうとし始めたのだ。逆にガシュウの方はというと、体内に潜り込んだそれを呑み込むように、意識のない肉体、その傷口が『足』を引き込んでいく。

 綱引きは長く続かず、うみうさぎが『足』を自切した。スパゲティをすするように、『足』はガシュウの遺体に吸収され、同化される。

 彼がゆらりと立ち上がった。幽鬼のごとく。

 そう、立ち上がったのだ。両の足で。石筍の成長を思わせる様子で急速に展開したフォーマイトが、鳥脚チキンレッグのような、異形の両足を形作っていた。それだけではない。彼の全身が、フォーマイトで形成された甲殻——鎧に覆われていた。流線形を基調とした、引き締まった胴。長い上腕。籠手のように厚く鋭く形成された鉤爪を思わせる両手。固く嚙み合わされた顎と、眼も鼻も持たぬ貌。そして何よりも、鋭く延びた『耳』。

 ヒト型をしたうみうさぎ。そうとしか形容できない姿だった。

 つまりガシュウは、適合者アダプテッドであり、何より生まれついてのIDORA遣いとも言える存在だったのだ。彼自身そのことを知らず、また知る機会も、一度死を経験するまで訪れなかった才能ギフト。それは皮肉にも、彼の今までの人生を根幹から揺るがし引っくり返してしまうものだった。

 一瞬の静寂の後、ガシュウが「三月ウサギマーチ・ヘイヤー」のごとく、高く跳び上がった。全身を覆うフォーマイトの鎧が陽光に煌めき、後退しようとするうみうさぎに一直線に落ちていく。

 その後に起きたことは、まるでうみうさぎの捕食だった。ただし、食われるのがうみうさぎで、食うのはヒトという意味で、本来とは真逆のそれ。自身の身丈の三倍、もとは両足がなかったことを考えればそれ以上の巨躯を誇るうみうさぎに飛びかかり、生えてきたばかりの足で『足』の抵抗を弾き流線形の体を中空に放り上げ、鋭い牙で噛みついてしがみつき、蹴り砕いた外殻の裂け目に腕を突っ込んで吸収同化していく。さながら食虫植物が捕らえた昆虫を消化吸収していくような、おぞましさと妖しい美しさとを感じる光景だった。

 捕食を終えたガシュウはその場に倒れ、両足を除く全身の結晶を脱化させた。あたしを含む生き残りはようやく駆けつけたTP本社の職員に保護され、あたしはジェルボアに一連の顛末を報告した。

 二か月前、昏睡を続けていたガシュウが目を覚ましたとの知らせを受けたとき、あたしはラボで『黒拍子』のメンテナンスがてら、更なる改造をドクタに依頼していた。

「守るべき対象に守られた」経験は、ジェルボアの牙として研鑽を積み上げてきた自負のあったあたしの心に、苦い記憶となって刻み込まれていたからだ。そしてゆえにこそ、あたしは再び牙を研ぎ上げた。

 次こそは守ってみせる。ジェルボアに任されたガシュウを守る任務は、彼を「ティーポット」に収容した時点で一旦終了している。しかしあたしは、自分自身の意思でこれを続行することに決めていた。

 もともと負けっぱなし、世話になりっぱなしは性に合わないのだ。

 あたし自身としては、この単純で子供っぽい自分の性分がそこそこ気に入っている。

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