第1話 界柱の歪獣

 海の匂い。

 金属の軋む音と、キャリアの操縦席に漂う汗の匂い。薄い色の空にぎらぎらの太陽。

 こわばった肩を少し回して、コントロール盤とレバーを操作し、山と積み上がった海緑色の結晶——あるいは怪物の残骸——に金属のシャベルを突き刺す。

 現場で唸りを上げているのは、親会社から貸与リースされた精製装置ピュリファイヤだ。防錆塗料で鮮橙色に彩られた鋼のミキサーの投入口に、キャリアの腕で運び出した結晶をがらがらと放り込む。ピュリファイヤの表面に施されたマーキングの図案は、パンケーキに突き刺さった両刃の剣。物騒な茶会のロゴマークで知られるティーパーティーズTP社は、ぼくたちの雇い主であるラ・グロイール社の親会社だ。

 作業場で稼動しているマシンは全部で三台。それぞれ二人でペアになり、キャリアで結晶を移動させる係、ピュリファイヤに取りついて操作する係に分かれて日がな一日、単調な作業に従事する。

「ガシュウ。そろそろ昼だ、飯にしよう」

「了解です」

 キャリアを停止させると、先輩が寄越してきた金属の弁当箱を引っつかみ、キャリアの席に投げ出した太腿の上で開く。そっけない銀色の箱には、無人洋上プラント栽培の六等米を固く炊いた飯がほぼ一面に敷き詰めてあり、端にザラザラ豆の辛油漬けがほんの少し押し込んである。配給の弁当は巨大な釜で一週間くらいの分の飯をまとめて炊いてしまうので、日によってはかちかちになっていることもあるのだが、今日は炊いてからまだ二、三日目らしく、まだ旨い方だ。

 辛油漬けの濃い匂いに腹が鳴る。飯に匙をつける前に、先輩から受け取ったトメ茶を一口飲む。知らない間に魔法瓶が緩んでいたのかぬるく、実に苦い。

「そういやガシュウよ、配置換えの通知見たか……」

 忙しく飯をかき込んでいると、先輩がそんなことを言ってきた。

 そうだ、そんな話もあった。数日前の夕方、仕事帰りに一度見たきりの掲示板を思い出そうとして、諦める。口いっぱいに頬張った飯をトメ茶で強引に胃に収める。

「見た気がしますけど忘れました。先輩どっか行くんです……」

「おうよ。回収ラインだとさ。嫌だよなあ、最近はRQ社の連中ともちょくちょくバッティングするって聞いたぜ」

 レッドクイーンRQ社はうちの親会社よりも規模の大きい民間衛生保全業者で——同業では最大手で、企業母体には統一軍の息がかかっており、事実上統一軍傘下の公社みたいなものだと聞いている。

 配置換え自体は別に珍しいことでもない。なんなら定期的にある。慣れてしまえば誰でもできる仕事だ。そしてぼくたちは住み込みで働いているのだし、たくさんの私物を持つような余裕もないから、引越しに手間はかからない。身一つで別の現場に配属され、大概その近くにある社営宿舎に移るだけだ。

 ただ確かに、RQ社と現場でかち合うことを考えると憂鬱になるのも分かる。もし揉めごとになったら、RQ社の正規軍準拠の兵士と、うちの雇われ警備員とでは装備も練度も違うのは容易に想像がついた。本社も近頃は回収ラインに本職の重武装兵を派遣して警備にあたらせているという話だが……。

「お別れ会とか、しますか……」

「いや、まあ……」

「そもそも、うちの本社ってRQ社にどういう優位があって、あちらさんに対抗できてるんでしょうね。あっちにシェア取られないのが不思議ですけど」

「さあな——」

 そこで先輩は、周囲にぼく以外の作業員がいないことを確認してから、こちらに顔を近づけた。後頭部で無造作に縛った髪が揺れ、白い喉仏から落ちた汗が腰で結んだつなぎの袖に染みを作る。

「ガシュウ、海伏わだふせって知ってるか……」

「え。ああ、まあ噂くらいは」

「そっか。お前、今夜空いてるか」

 別に予定はなかった。職場で結婚して家庭を持つ人もいないことはないが、うちの社員は基本独身だ。ぼくもその例に漏れない。

「悪いんだけど、ちょっと部屋に来てくれ。見てほしいものがあんのさ」

「分かりました。遅くても消灯前には」

「あんがとな。ここじゃ難しくてさ」

 作業再開の予鈴が鳴る。ぼくは弁当箱の飯に、カップに残った茶を空けてしまい、一気に口の中に流し込んだ。

 ぼくたちの所属するラ・グロイール社は、洋上に建設された複数のプラントと巨大なフロートとを連結して作業場を形成する海洋汚染健全化企業だ。南極会戦後、統一軍の軍事力が後退したことをきっかけに雨後の筍のごとく急激に台頭した民間衛生保全業者——RQ社を筆頭に、うちの親のTP社もそれに含まれる——は、戦後規模を縮小した統一軍から払い下げられた設備や、職にあぶれた元軍人の受け皿となり、今や世界経済の中心となった。

 二十年ほど前のことだ。南極大陸に突如出現した界柱の歪獣は、全世界を混乱に陥れた。何しろ奴らは既存の生物と全く異なった行動様式を示し、その生態が人類にとって脅威だったからだ。

 奴らは、ヒトを食う。海獣類やイルカ・クジラの仲間を好んで宿主とすることから、現在その類の海生哺乳類はほぼ全てがFOAMを保菌していると言われている。

 界柱の歪獣Freaks Of Axis Mundi——FOAMフォームはウイルスの一種だ。感染した宿主の思考を吸収し、その肉体と思考とを鋳型として、あらゆる形状・構造に結晶化クリスタライズする。ウイルス種の多くがそうであるように、宿主の肉体を置換するかたちで増殖をなし、特異なことに宿主の思考に従って動く。個体の成長に伴い結晶化が進行すると、体表のFOAM結晶フォーマイトが甲殻状に展開し全身を覆うようになり——この姿から、ごく初期にはFOAMに罹患した海生哺乳類を指して「ケッショウクジラ」と呼ぶこともあったらしい——より複雑な思考を求めてヒトを襲うようになる。

 ウイルスに宿主が操られるという例は他に確認されていないが、冬虫夏草のような菌類やロイコクロリディウムのような寄生虫など、寄生体が寄生先の生物の行動に干渉するという現象自体は、現生生物でもさほど珍しいものではない。特にFOAMの場合は、宿主の生理的——生物的と言い換えてもよい——行動を制限しない。排泄、食事、睡眠、交尾といった原始的な欲求や志向に、「他者の思考に誘引され、その他者の思考を求める」という欲求が、それらと同レベルのものとして追加される。そういったしかたで、宿主に寄生するのがFOAMであるといえる。

 進行が重度になると完全に眼や鼻といった感覚器官を結晶で覆い隠してしまううみうさぎが、いったいどのようにして対象を探り当てるのか、ということについては、彼らに特有の器官の一つ——『うみうさぎの耳』が鍵だろうと予想されている。FOAMに寄生され結晶化した現生生物はその全てが、フォーマイトによる一対の器官を備えている。これは対象の脳内で発生する電位差を空間的に感知できると推測されており、観測された全ての個体で頭部後方から延びているため、『耳』と通称されている。

 ヒトを食うとはいうが、奴らはヒトを経口摂食するわけではない。そもそも思考は食料のように物理的に連続して成立する現象とは違うものであり、実体があるわけではないからだ。『耳』で対象を捉え、獲物に接近すると、奴らはFOAM罹患個体の付属器官である『うみうさぎの足』と呼ばれる強靭でしなやかな触腕を使用して、その先端を対象の脳内の松果体に突き刺す。刺された個体は体内に注入されたFOAMウイルスにより急速に体組織を作り替えられ、同質量のフォーマイト塊となってしまう。そうして増殖したフォーマイトはうみうさぎの体表から速やかに吸収・同化される。

 しかし奇妙なことに、この捕食ともいうべき現象は、他の生物には起こらない。たとえば海生哺乳類は同様の手順で『足』を松果体に刺されても、ヒトほどの急速な結晶化も起こらなければ、吸収されることもない。陸生の他の哺乳類——ブタやチンパンジーなど、遺伝子的によりヒトに近い哺乳類で実験しても結果は同じで、保菌者となり部分的に結晶化はするものの、捕食対象として吸収されることはない。

 つまり、ヒトだけがFOAMウイルスによって死ぬ。FOAMウイルスの感染によって、その主体性を失う——すなわち、個体が個体でなくなるのはヒトだけだ。「FOAMウイルスは人類のみを地上から滅ぼすため遣わされた神の使徒である」なる終末論が唱えられるほどに。ようするに、FOAMウイルスは人類にとって、それほどまでに不合理で理不尽で、脅威の存在だった。

 先輩の言っていた「海伏」というのは、そういった終末論から派生した民間信仰の一種、その実践者のことだ。RQ社やTP社のような民間衛生保全業者は業務上の必要から洋上にその拠点を置くが、それ以外の人間はほとんどの場合、統一軍の絶対防衛圏——内地に住む。彼ら海伏はその外、つまり外海を、船団で生活しているのだ。

 彼らの教理は「うみうさぎとの共生」だ。そんなことができるのか、と世の多くの人が思っているが、彼らがそのように生活できているのだから何かしらの方法があるのだろう。あるいは、破滅的な思想として、人類の全てが滅び、FOAMウイルスに吸収されることが彼らの最終目的なのかもしれない。

 かつての統一軍とういつぐん——有史以来、人類文明に存在した中で最も強力だった軍隊——ですら手を焼き、今もなお脅威であることに変わりないうみうさぎが跳梁跋扈する外海に生きる彼らは、内地に暮らす人々とほとんど関係を持たない。だからこそ内地のほとんどの全ての人々も、ぼくらのように海で働く人間も、彼らのことは何も知らない。何だか抹香臭い、物騒な連中だという認識しかない。ほぼ関係を持たないのに物騒な連中だという認識を持っているのは、彼らがときたま内地の人間を攫うからだ。だから内地では、海に不用意に近づく子供を脅すためにうみうさぎや海伏の名を出すものだ。いい子にしてないとうみうさぎに食べられちゃうぞ、とか、海に近づいたら海伏に攫われちゃうぞ、とか。

 何にせよ、ぼくが海伏に対して知っているのはその程度だ。おそらくは、世間一般の認識ともそこまでずれてはいないはずだ。先輩がわざわざ部屋に呼びつけるほどの話とも思えない。


 作業を再開し、四体目の死骸の解体と投入を終わらせた。午後もだいぶ遅くなり、空が紫色になっている。そろそろ今日の作業も終わりで、作業場の多くの作業員が片付けに入ろうとした、そのときのことだった。

 不意に、全ての音が止んだ。

 ぼくが最初に気づいたのは、乗っていたキャリアが停止したことだった。ハンドルを通して伝わってくる慣れ親しんだ振動が止まったのだ。キーを捻っても反応しないので故障かと思い、窓の外を伺うと、ピュリファイヤも停止しているようだった。

 作業場の機材が、同時に警告音もなしに停止したとき。研修で叩き込まれた非常マニュアルを思い出す。

 断線や機械トラブルで電力供給が止まった場合は、スタンドアロンの予備電源に自動で切り替わるはずだ。予備は三基あるから、機材の全ては無理でも一部はもう復旧しなければおかしい。

 ならば、もう一つのケース。

 施設内に、活性状態のうみうさぎが侵入した場合だ。

 この現場も、対うみうさぎ用に武装した警備員が守っていたはずだ。今までにないことだが、その守りを破られたらしい。

 現場監督が努めて平静に振る舞いながら、社員用シェルタに向かう、と号令をかけた。うみうさぎの耳に探知されないよう分厚い絶電板で囲まれたシェルタは海底よりも更に深く、掘り進んだ地下に建設されている。

 ぼくは役に立たなくなったキャリアを降りようとしつつ、ピュリファイヤのすぐそばに佇む先輩を見た。

 先輩は無表情だった。

「あの、せんぱ——」

 音だけでなく、光も消えた。

 先輩がこちらを見た瞬間、ぼくは意識を失っていた。

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