クリスタル・ジャケット

ZYPRESSEN

プロローグ

ふと、昔観た映像を思い出す。

 映画だったのか、広告だったのか、ドキュメンタリーの再現ドラマだったのか、もしかしたらよくできたゲームのCGだったかもしれない。覚えていない。

 ある国の戦場——平原で、戦列を組み銃を担いだ歩兵部隊に、場違いな若い女が一人、いる。周りの兵士はみな男だ。

 本来銃後にいてしかるべきであろうその女は、戦場にいるというのに武器を持たず、修道服を着ていて——その風体に違わず、もちろん神に仕えている。ご丁寧に、胸には経典を抱えている。私が頼みをおくのはこれだけだ、と言わんばかりに抱きしめている。

 敵軍は、強固な陣を敷いている。堡塁があり、おびただしい有刺鉄線の柵や塹壕が設置してある。女が身を置く歩兵連隊は、準備万端で待ち構えている敵方の陣地に、援護もなく、徒歩で真正面から突撃しなければならない。相手方の陣地には歩兵だけでなく、野砲や車両がいくつも並んでいて、しゃにむに突っ込んでも死ぬのは目に見えている。

 それが分かっているから、突撃の命令が下っても、銃を担いだ兵士たちは誰も動けない。現場指揮官が早く行け敵を殺せと怒鳴るが、兵士たちは互いに顔を見合わせるばかりで、最初の一歩を踏み出すことができない。

 そこで、件の修道女が叫びながら走り出す。その可憐な唇から迸るのは、突撃の雄たけびではなく、敵への悪口雑言でもなく、味方を鼓舞する文句でもなく、祈りの言葉だ。主よ、この身を捧げます。

 女が撃たれる。敵には——女より遠く離れた陣地から見たがゆえに——その女が年若い修道女であることが分からず、武器持たぬ兵士でないことも分からず、何を言っているかも分からないから、何かを叫びながら走ってくる誰かを敵とみて、射殺する。

 それを見た兵士たちは誰もが、一瞬の静寂ののち、意味をなさない言葉で怒号を上げる。誰からともなく走り出す。罪のない、守るべき対象である女を殺した敵への憎悪と殺意とを滾らせて。彼らの怒りと戦意とを引き出すためだけに、しこうして殺されるために、彼の女が従軍したことも知らずに。

 その昔の歌には、「戦争中でも、遠くから見ればあなたは友達に見える」というフレーズがあるらしい。

 実際はその逆だ。遠くから見ると、友達すら敵に見える。特に戦場においては。だからこそ近世以降の軍団には所属を表すシンボルと、それを描いた旗が必需品だった。味方から、敵と間違われて害されないように。

 以前読んだ本にそう書いてあった。

 それはそうだろうと思う。誰だって、正体不明の相手は怖い。正体が分かるくらい近づくのを許して、むざむざ殺されたのではお話にならない。

 わたしはその修道女に似ている。とはいえ、わたしはあんなに華奢じゃないし、歳もだいぶ上だし、だいいち修道女じゃない。

 わたしは狩人だ。

 胸に装着したコーデックがうるさい。まだ若い男の声。

『おい、もういいか。上がそろそろうるさくなるぞ』

 ドーマウス。わたしとバディを組む観測手だ。わたしたち特務部隊は基本、作戦行動中は本名でなくコードで呼び合う。ヤマネドーマウスなどというかわいらしい名をしていて、姿も軍人とは思えない小柄な優男だが、その実食えない奴で、わたしが仕損じた際にはリカバリーを担うことになっている。まあ、しくじるつもりも毛頭ないのだが。

 指で挟んだ紙巻をもうひと吸い。向かい風なので煙が顔に直に当たる。まだ少し残っているがしかたがない。残りを携帯灰皿に放り込む。

「ああ、もうやるよ」

 左手に握った巨大な骨弓を持ち上げる。文字通り、骨で作った長弓だ。

 標的は現在の洋上プラントから、南東十二・六キロメートルの水面。青と緑の間のような色をした、八メートルほどの界柱の歪獣Freaks Of Axis Mundi。統一軍ではFOAMと略すのが正式だが、市井の人々は特徴的なアンテナ器官から奴らを「うみうさぎ」と呼んでいて、わたしもそう呼ぶことにしていた。FOAMだなんて無味乾燥な名前は奴らには似合わない。

数年前南極海に出現したこいつらを屠るために、人類はわたしという兵器を作り出した。

腰に提げた筒から矢実体しじったいを抜く。骨弓のレストに番えるのは捻纏矢ねんてんし。最も弾道安定性の高い、二本の矢柄が規則正しく捻じれ絡まりあって螺旋構造になっている矢実体だ。工作ドリルの刃のようにも、医神アスクレピオスの杖のようにも見える。

 矢実体を番えた弦をゆっくりと引き絞る。苦悶する獣の脊椎のごとく骨弓が撓み、きりきりと空気が軋む。限界まで引いた右手のトリガリリーサを頬に押しつけると、矢実体の鏃の先に見えるのは虚空。どんよりとした灰色の空だ。

 右手の筋肉が小刻みに震える。この震えは不随意運動なので、無理に止めようとしても意味がない。震えの方に呼吸を合わせる。

 呼。吸。呼。

 リリース。トリガを絞る。

 きん、と鋭い音がして、限界まで引き絞られた弦が解放される。

 わたしを兵科でたとえるなら狙撃手が近いのだろうが、やっていることは砲兵に近い。うみうさぎを対象にした狙撃は超々遠距離が望ましいので、直接照準は物理的に不可能なのだ。ゲンペイ・ウォーのごとく海上の有視界戦闘だが、山なりの曲射でなければ届かない。

 わたしと砲兵の違いは、砲兵は数字で着弾点を割り出し試行を重ねて命中を得るのに対し、わたしは初弾を外すことが許されないということ。そういう意味でわたしは狙撃兵だ。

 普通の銃や、まして弓矢では届かない。そもそも試すことすら馬鹿らしい距離。

 わたしと、わたしの扱うこの骨弓でなければ。

 近代以降、狙撃の主役は銃だった。熟練の狙撃手は手ずから愛銃を徹底的に管理し、使う銃弾も自分で作る。これは責任を自分で負うため、という側面も大いにあると思う。

 野戦の狙撃手というのは古式ゆかしい西部劇のカウボーイみたいなもので、往々にして自己判断で動く。場合によってはあえて命令無視をすることもあるし、現場の指揮官から苦々しく思われることも少なくない。だが狙撃手の方にも言い分はある。戦場においては、狩場を俯瞰できる自分にしか見えないものがある。指揮官は各報告を情報源として総合的に判断を下すことができるのだろう。しかしそれは、後方で戦場に身を置かぬがゆえに決定的に遅きに失することがある。そして、その空隙を埋め得るのは狙撃手しかいない、ということも、ある。

 ゆえに、狙撃手は自分で得物を自分で管理する。自分や戦友の生命を守るためには、得物を意のままに操れなければならない。そうでなくては、自らのなす業に責任が持てない。

 しかし同時に、銃は複雑な機械だ。どれほど厳重に管理し、自分で作った銃弾を使おうとも、だ。動作不良や不発の、その兆候を読み取ることにどうしても限界がある。可能性を限りなくゼロに近づけることはできるが、ゼロにはならない。わたしが弓を使うのは、戦術的な理由からだけではない。弓幹ゆがらを撫ぜれば、弦を引けば、わたしには弓の好調不調が分かる。弓はわたしの身体の延長だ。牙も爪も生来持たぬヒトは武器を持って初めて獣と対等になるのだから、手にした武器を生まれ持った牙や爪のごとく十全に使えなくてはいけない。

 余談だが、わたしは女版ランボーと呼ばれることがある。ランボーといっても武器商人になった詩人ではない。古い映画の方、それも二作目以降のスタローンのことだ。私見だが、あのシリーズは二作目以降正直馬鹿馬鹿しいエンタメ路線になって、一作目のようなテーマ性は失われたと思う。

 とはいえ、わたしは二作目以降が好きだった。戦場を取り上げられた戦士ほど悲惨なものはない。スタローンと同じように、もしも狩場を取り上げられたら、などと考えるだけで頭がおかしくなりそうだ。わたしは満足のいく仕事がしたいし、そうでなければ狩人を自任できないと思っているが、そんな自分の偏執性というか、ろくでもなさを、映画を通して再確認させられるのはあまり気分がいいものじゃない。


 さて。

投射し、命中したという成果そのものは風向きや空気の粘性、気圧、発射物の形状や重さなど様々な数字が絡んでくる総合的な現象だ。だがそれとは別に、弓矢や銃には、それを放った瞬間に標的にあたる、中らないという予感がある。こればかりは言葉で表現できるものではない。そして、撃ってしまった後にどうか中ってくれと祈ることも当然、しない。

 届く前に、分かる。中ることも中らないことも。

 バスケットボールのスリーポイントシュートや、離れたごみ箱に丸めた紙屑を放り込むときの感覚に近い。弾にしろ、矢にしろ、撃ち出すものが手元を離れた瞬間に分かるものだ。頭で理解するというよりも、肩や指先から伝わるというべきか。

 これは、中る。

 コーデックから的中の連絡が入る。襲撃に気づいた取り巻きのうみうさぎが動き出すだろう。

 手元のスイッチを押して、骨弓の握りを変える。上下の弓幹が割れ左右に展開し、束になっていた弦が幾本にも分かれて、反りかえった百足を思わせる連射仕様に変わった。

 飛距離は落ちるが、この状態なら同時に複数本の矢を番えることができる。わたしの腕と合わせれば、秒間で七矢は放てる。

「バックアップよろしく。預けたぜ、相棒」

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