第9話 義足のエイハブ

「処理が終わりました、エイハブ」

「おう。悪いがちょっと外すから見ててくれ。フロ貰うよ」

 第四炉の前で吹かしていた煙管を灰壺の縁に転がし、火種を落とす。円匙えんぴを脇に置いて、首に引っかけたぼろ布で浮いた汗を拭い、そのまま掌に叩きつけると、ぴじゃっ、という湿った音がした。

 収容されてから三か月ほど経って、おれは転換炉の作業を任されていた。遺体や排泄物、食品製造過程で出た端材や腐敗した廃棄糧食など有機物系のごみをミキシングし、作物の肥料やエネルギー資源に転換する炉だから転換炉と呼ばれている。酷い臭いなので、一度回すたびに水を浴びなければ他人の近くに寄ることも憚られる。

 おれのすぐ近くまで寄ってきて報告してきたのはシャバニ。十一歳の少年で、初日におれの義足をしげしげと見つめてきた子だ。

 不活フォーマイトの義肢は、海伏の文化における成人の証だそうだ。自分の体を補うだけでなく、うみうさぎを駆ってここを出、海に出るためのツールであるとも。

 おれはといえば失った足を補うための義肢を装着してはいるものの、うみうさぎをどうこうすることはできない。適性がないということもあるが、単純にそういう役回りが期待されていない。協力関係ということで置いてもらっているだけで、海伏の構成員ではないからだ。

 海伏はウェイクボードのように自身をうみうさぎに牽引させることで、海洋での高速移動手段を得る。詳しいことはミラも教えてくれなかったが、おれがラ・グロイール社の外壁で会敵した海伏はそうやって乗り込んできた。眩い灰色を纏い、海を駆ける戦士たち。そうやって外に出られる人間はいわゆるエリート的な立場で、海伏の子供たちにとって憧れらしい。そしてこのシャバニは、義肢を着けているのに一向に海へ出ないおれに興味を持ったようだった。

 簡易的な仕切りで作られた脱衣所で汚れた前掛け、つなぎ、肌着を脱ぎ捨て全裸になる。べこべこの桶に踏み込みハンドルを捻って、生ぬるい、雨の匂いがする水を頭から被る。清潔な水も貴重品だが、この水はもともと飲んだり傷を洗ったりすることは考えられていない。フィルターを通して簡易的に浄化しただけの、汚れをざっと洗い流すための水だ。

 埃臭い。何度も再利用しているからだ。最初は抵抗があったが、もう慣れた。

 ふと、桶に落ちる水の音に、腹に響く乾いた音が混じった。複数発のエンジン。ここに来てから久しく聞いていない類の、金属でできた機械音だ。

「——この音は……」

『エイハブ』

「うおっ待っ、ちょっと待ってくれ……」

 背後に立ち声をかけてきたのはアルミラージ。産汐うぶしおのミラだ。おれは前だけ隠して振り返る。いつものことだが自他の羞恥心に疎いこの女は、人が入浴中だろうが構わず距離を詰めてくる。

『以前お話しした協力者が先ほど到着しました。服を着て、こちらへ』

「ああ。分かった」

 衝立に引っかけたつなぎに足を通す。前掛けはだいぶ汚れてしまっているので、洗いざらしの新しいものに。ぼろ布で濡れた髪をごしごしと拭きながら、先行するミラについていく。

 分かりやすい人工物の匂い、マシンの稼働部位に差すオイルのそれだ。肌に伝わってくる空気の振動。低く重たい駆動音が鼓膜を揺らす。それらは港に近づくにつれ強さを増していく。

 鈍い青色の輝きを放つ、鋼鉄の巨虫がそこにいた。

 海から陸に乗り上げた、金属でできたウツボ、いや、馬陸ヤスデ。おれがそんな風に幻視したのは、その巨体が惰円筒形の胴の後端を海の中に突っ込んでいたからだ。いや、そもそも全長が長すぎて入りきらないのかもしれない。

 全貌が見えないほどに長大な、大蛇のような機械の怪物だ。地面を震わせる轟音を鼓動のように響かせて、搭載された内燃機関がアイドリングしている。

 高さ四、五メートルほどもあろうかという流線形の鼻面には、分厚い回転刃がずらりと同心円状に並んだ、半球形のドリルが突き出している。トンネルを掘るためのシールドマシンのような。多関節のランディングギアが頭部の側面から突き出し、その先端を岩場に噛み込ませて本体を係留している。

「……なあ、ミラ。何だいこりゃ」

『これは彼の移動手段です。見ていてください、もう降りてくるはずです』

 馬陸を思わせるマシンの上部から展望塔キューポラのような円筒が突き出した。金属板が左右に開き、さらにその奥のドアががちゃん、と跳ね上がる。

 古ぼけたオリーブグレーをした、綿入りのぶかぶかの外套と、耳当て付きの黒い革帽子を身に着けた男がゲートから顔を出した。手慣れた様子で穴の内側から折り畳み式のラダーを下ろし、鋲打ちブーツの規則正しい金属音を鳴らしながら降りてくる。

『お久しぶりです、キャット。ご健勝ですか』

「おう、おかげさんでな。やってるかい」

 潮風にさらされた、がさがさした声で男が言った。身幅の広い外套の内側に手を突っ込んで、何か黒い塊を取り出して口に放り込む。

「ん、そいつは。見ねえ顔だな」

『紹介します。彼はエイモス・ハーバート氏。TP社傘下の社員ですが事情がありまして、現在は我々と協力関係にあります。エイハブ、こちらが件の人物です。キャタピラーこと、キバザキ氏です』

 キャットというのは芋虫キャタピラーの略か。なるほど確かに、男が乗ってきたこの怪物は鋼鉄の芋虫と形容できるかもしれない。白いものが混じりかけの黒髪が、帽子の縁からはみ出している。

 獰猛な鮫を思わせるその風貌の中で、特に目を引かれるのは男の両眼の色だ。焼きなましをした鉄のような、鈍く光る瞳。彼の乗機と同じ、鈍い青色だ。何もかも擦り切れくたびれ薄ぼけた印象のある全身の中で、二つの鉄色の虹彩だけが浮かび上がり意思を放っているように見える。そこだけ見れば、キャットっぽいと言えなくもない。

「兄ちゃん、エイハブって呼ばれてたよな」

「へ。ああ、はい。渾名みたいなもんです」

 普段あまり上下関係やら言葉遣いやらに頓着しないおれだが、男の威圧感に思わず敬語が出た。少なくとも年齢はおれよりだいぶ上に見える。

「古い小説の主人公と同じ名だよ、そいつは。映画にもなってる」

「映画っすか」

 お前さんよりだいぶツラのいい男がってたけどな。キャットと呼ばれた男は、鉄色の眼を光らせて口の端を吊り上げた。

「すまんすまん、冗談だよ。まあいいや。で、こいつがついて来たいって坊主かい」

『その通りです。しばらく様子を見ていましたが使える人材ですよ、彼は』

「ふうん……」

 キャットはこちらをじろじろと見る。値踏みをされているようで居心地が悪く、おれは少し身じろぎをした。

「お前さん、運転はできるか。それか、マシンの整備の経験は」

「は。ええ、何度かあります。民生の水陸用浮揚二輪ホバーバイクっすけど、いじったことも少し」

「そいつに積んでた発動機はどんなのだ。フォーマイト駆動か。それとも内燃式か……」

「両方っす。趣味でやってました」

「そうか。それならまあ、いいだろう。武器の扱いはどうだ。銃か、槍だが」

「銃はマニュアル訓練だけっすね。うみうさぎにゃほとんど効かないんで。槍っつうか、もりくらいなら実戦でもちょっと触りました」

「ふふん。義足のエイハブが銛撃ちってか。ちっとできすぎな話だな」

 謎のようなことを言って、キャットはまた少し笑った。

「いいだろ、乗せてやるよ。これから忙しくなるんで、助手が欲しかったとこだ」

『助かります。彼はいずれ我々に必要な存在ですし、連絡は都度していただきたいですが……』

「走行中は繋がらねえが、そうする。まあどこにいようと大丈夫だ。こいつならよ」

 鋼鉄の馬陸の方へキャットが顎をしゃくる。

「これは何なんです。こんなどでかいマシン見たことないです」

「まあな。知る限りじゃ、今時こんなのを乗り回してるのはなかなかいねえ。こいつは南極会戦で、統一軍の兵站課——輜重しちょう部隊で運用するのを前提に開発された、最前線への物資・兵員輸送が目的の無制限軌道破泡艇むせいげんきどうはほうていだよ。ま、化石だな」

 曲がりなりにも高級機だから生産費用がばかにならねえのと、速いは速いが操作に慣れるのに時間がかかるってんで制式採用はされなくて、試しに作ったのもこの一隻だけってブツでよ。終戦ぎりぎりまで、倉庫で埃を被ってた代物だ。

「船なんすか、これ」

「おうよ。統一軍で海列艘うみれっそうって呼ばれてたタイプの輸送機の、外装アップグレード版だな。壊れたらその都度ありもので直すんであちこち変わってるが、基本の構成は変わらん」

 半日くらいでここを出るから、積み下ろしに人呼んできてくれ。あと、それまでに兄ちゃんは荷物まとめといてくんな。次の仕事が立て込んでて、あんまりのんびりもできねえんでよ。

 そう言うとキャットは再びラダーをよじ登り、キューポラから巨大なマシンにすっぽりと呑み込まれてしまった。ほどなくエンジンが咆哮を上げる。

『エイハブ、行きましょう。他は私が声をかけるので、シャバニを呼んできてください』

「了解だ。おれも家財道具取って来なきゃな」

 とは言っても、荷物などほとんどない。着の身着のままで転がり込んだのだ。

「どのくらい出てることになるんだ、おれは」

『こちらまで戻るのは一か月ほど先になるでしょうか。必要なものはありますか』

「んにゃ、特にねえかな」

『分かりました。では、荷物をまとめたら後で私のところへ来てください。出発の前に渡すものがありますので』

 首肯すると、ミラはその場で方向転換して歩いていった。


 キャットに続いて青鉄色の馬陸に乗り込んだおれは、生活道具の一切合切が入った防水袋をばさりと足元に落とした。

「よっし、行くぜ。揺れるからそこ座って、壁のハンドル握ってな」

 巨虫の運転席に着いた男に促されるままに、狭い操縦室の後ろに滑り込む。

 ティアドロップ型のゴーグルを下ろしたキャットが操作盤のスイッチを上げる。左足でペダルを踏み込みながらスターターハンドルを引く。咳き込むような音とともに一発で始動した発動機の回転数が上がったのを確認し、レバーをがちゃん、と押し出した。

 金属板が擦れ合うメカノイズが船内に木霊し、鋼鉄のマシンが獣のようにいなないた。

「オールクリア。タキシング」

 キャットが呟くと、円筒形のサイドレバーがひとりでに立ち上がり、ランディングギアが岩盤から引き抜かれる鈍い音が響いた。ギアをリアに入れ、アクセルを踏み込むとぐりぐりと後退が始まる。

 彼が前にしたクラシックなブラウン管モニタに周囲の様子が映し出される。頭を洞窟から引っこ抜いた馬陸が、全身を海中に戻したようだ。

 完全に海の中に出た今の状態では何も感じない。尻から伝わる振動は先ほどよりもやや鈍くなったようだが、エンジンの振動はむしろ強くなったようだ。「ふおん、ふおおん」と開けた音が船の全体から響き始める。エンジンのそれではないし、単なるメカノイズでもなさそうだ。

「何の音です、これ」

「ああ。このフネは走るときな、耐圧殻より上の、一番外側の艤装ぎそうブロックがシャーシを軸にして高速で回転ローリングすんだよ。船外の空気なり水なりを巻き込んでな。だから摩擦が減って、こんな重てえマシンがホバー移動できるわけだ。で、こりゃその音だよ。ロールしてるときゃ危ねえから、不用意に窓開けねえほうがいいぜ。艤装に触ったら指でも腕でもなくなっちまう」

「摩擦は減っても、車輪とかスクリューとかないっすよね、これ。前や後ろに進むための推進力はどうなってるんすか」

「静止状態からなら、発動機から動力引いて、水か空気を前のインテークから取り入れて外装のスリットから後方に噴射できる。係留用の足で走ったりも一応できるけどな。高速域に乗っちまえば、船体そのものの回転が多重反転ローターみてえになって推力も安定するがよ」

 キャットは着膨れた外套のポケットをまさぐり、また黒い塊を取り出して口に放り込んだ。黒いゴムのように見えるが、何だろうか。

るかい」

「いいっす。何すかそれ」

「飴だよ、アメ。チャイニーズボール。まあいいや。じゃ音楽でも聴くかい。長い移動になるからよう」

 そう言って革手袋を嵌めた指でアンプをいじる。賑やかなポップス——というか、蜂蜜みたいに甘い声の若い女性アイドルだ。べたべたのラブソング。

 一人ででかいマシンを転がして海を旅する、いかにもムーディーなジャズでも聴いていそうな枯れた男の好みがアイドルとは。分からないものだ。

「よっしゃ。じゃ、本格的にぶん回すぜ。舌噛むなよ、ベルト締めな」

「うす」

 キャットが楕円形の太いステアリングを手前に倒しながら回し、右足のペダルをぐっと踏み込む。船内に木霊す回転音が徐々に高まる。その音と振動とが最高潮に達したとき、今までとは明らかに質の違う重低音と同時に体全体が座面に押しつけられた。おれとキャットを乗せた巨大な海列艘が、水中を前進しはじめたのだ。

「ようし。エイハブ、気分悪くねえかい。そこのソナーの画面見えるかよ」

 発進時はさすがに奥歯を噛んだが、今のところ酔ったりもしていない。首を巡らせて左側のモニタを見ると、線状の光がピクセルグリッドで仕切られた画面内を静かに回転していた。

「見えます」

「当座のとこ、お前さんには索敵と装備管制をやってもらう。その画面に光点が出たら敵が出たってこった、すぐに知らせな。で、『剥がし』に使う足はそっちに操作盤がある。速度が出てりゃあ大方の障害は撥ねられるし、そうじゃなくても艤装の回転でぶっ飛ばせるんだがよ、たまに気合入った厄介なのが取りついてくるもんでな」

「うみうさぎっすか」

「色々だよ。ケッショウクジラのこともあるし、食い詰めた警備隊崩れのこともある。後は小規模な荒っぽい民衛の連中とかな」

 TP社やRQ社といった大手の後ろ盾のない民間衛生保全会社があちこちにあることはおれも知っている。現代が、海を舞台にした群雄割拠の時代と言われる所以がそれだ。フォーマイトの調達にあたっては終戦直後の混乱期に流出した型落ちの対うみうさぎ装備を使っているらしいが、上位二社に比べると死亡率はかなり高い。そういうわけで普通の人間はまず入りたがらないので、他に行くところのない食い詰め者や前科持ちの失業者など、後ろ暗い背景を持つ連中が主な従業員らしい。

「奴らは対人用の装備をしててな。場合によっちゃ、このフネも標的になるんだよ」

「衛生保全会社っすよね。うみうさぎを狩るのが仕事じゃないんすか、奴ら」

「そりゃそういう真面目なとこもあるだろうよ。中にはな。だけど考えてみな、そうやってわざわざ危ねえ橋を渡るより、ケッショウクジラを狩った帰りの、疲弊した他企業の作業員をカツアゲする方がよっぽど楽だよな。警戒しなきゃいけねえのはそういう、人間からの略奪を専門にしてる連中だ」

 そうだ。おれがラ・グロイール社で警備員をしているとき、そういう連中についても仮想敵として研修を受けた覚えがある。まあ報復を考えれば、業界の末端に近い中小企業の連中が、よりにもよって第二位のTP社の傘下の縄張りを襲ってくるというのもそうそうない話で、実際の敵はもっぱら序列争いをしているRQ社だったわけだが。

「ソナー画面の端に番号と記号が振ってあんだろ。足元の操作盤に書いてある番号と記号の組み合わせはそれに対応してる。もしソナーが光ったら、その座標のボタンを押して、安全装置を外して右下のレバーを回しな。簡単だろ。本来の用途は着陸脚だが、ぶんぶん振り回せば大方の奴は叩き落とせるからな」

「荒っぽいっすね」

「こっちに近づかねえ方がいいことを、誰が見ても分かるようにしなきゃな。強請ゆすたかりで上前を撥ねるなら、相手は選べよってこった」

「他に武器はないんすか」

「おう、少しはあるぜ。澎湃砲ほうはいほう重質量爆汞銃じゅうしつりょうばっこうじゅうに、後は銛だな。対人専用の装備なんか積む余裕はねえから、ケッショウクジラ用ので撃ち落とすしかねえ。ただまあ、あんまり出番はねえな。ほとんどは振り落とすか叩き落としゃ片が付くからよ。気楽にいこうや」

 キャットがギアを一速上げると、呼応するようにエンジンが唸りを上げ、海列艘の全身にトルクが行き渡り始めた。じんわりとした重厚な加速感に合わせゆっくりと左右に振れる船体が、鋼鉄の揺り籠のような安心感を与えてくる。

「やっぱ飴、貰っていいっすか。眠くなりそうで」

「おっ。ほらよ」

 黒い飴を貰う。嗜好品にしてはあまり食欲の湧かない色と形だが。

 口に入れた瞬間、癖のある微かな風味とともに今までに経験したことのないほどの辛さが口腔内に襲いかかった。

 スピーカから大音量で流れるラブソングが遠くなる錯覚。辛い。辛すぎる。いや、辛いなんてものじゃない。これは飴の形をした剣山だ。舌や口蓋を突き刺されているような猛烈な痛みと熱。血の味がしないのが不思議なほどの。

 全身の汗腺が暴走しているような感覚だ。思わず背を丸めてむせる。咳き込み息を吸うたびに気道まで痛みが逆流してきて、喉を傷めそうだ。痛い痛い辛い痛い。

「っい、おっ……はんっ……ふか、ほ、ほれぇ辛すぎ」

「ありゃ。大丈夫か」

 ヒトが食えるものじゃないとまで思える。こんな代物をいつも食ってるのか。何者だ、この男は。

 おれがひと舐めで悶絶したのと同じものを口の中で転がしながら涼しい顔をしたキャットが、船内の冷房をつけてこちらに向けてくれる。

「悪いが、真水もそれなりに貴重なんでな。少し涼んで、落ち着いたらまた哨戒頼むぜ」

「……うっす」

 少なくとも、微かに感じた眠気などどこかに飛んでいってしまった気がする。


 体にかかっていた重力が斜めになり、破泡艇の向きが傾いでから、そろそろ半時間も経つ。唸るエンジンに全身を揺られながら、海列艘の巡航深度が浅くなってきていた。

「そういえば、直上には上がんねえんですか、このマシン」

「できるにはできるよ。ただ海中でそれをやると減圧症でオレらが具合悪くなっちまうからな。それに直角移動した分、移動距離も伸びちまって到着が遅れる。よっぽどの緊急事態でもない限りそういう挙動はやらねえな。そら、もうすぐ第一深度だ」

 ふわっと一瞬体が浮き上がり、斜めにかかっていた重力が真下に戻る。水圧が減り抵抗が少なくなったからか、船体自体の速度も上がったようだ。

「周囲に敵影なし。しばらくはこのまま行けそうですね」

「ん。今のうちに弁当使って、ちょっと寝な」

 持ってきた防水袋から弁当を取り出す。とは言っても海伏の拠点で生産した、かちかちの糧食ブロックだが。そういえば、もっといいものを持って行けとミラが言っていたかもしれない。手近にあったのを見もせずに掴んできたからこれしかないのだ。

「妙なもん食うんだな。そうだ、それなら日持ちもするだろうしよ、今日じゃなくていいだろ。ちょっと待ってな」

 操縦を一時的に自動に切り替えたキャットが上着をごそごそと探り、缶詰と缶切りを取り出して渡してきた。錆びた金属ラベルを見る。合成オイルサーディン。

「古いからな。缶の中敷きが溶けてかなけの味が多少あるかもしれねえが、まあ我慢してくれや。何年か前に土産でもらったんだ。お前さん、合成魚肉は食えるか」

「好物ですけど、いいんですか。高級品ですよね」

「俺こそお前が持ってきたようなのでいいんだよ。舌が馬鹿になっちまってるからな」

 あんなげてものを常時口にしていればそうもなるだろう。あるいは、舌が馬鹿になったからあの飴を愛用しているのか。

 錆びた缶の蓋を切り、匙で頬張る。溶けだした金属の味は確かにあるが、空きっ腹に落ち込んでいくしっとりした合成肉の旨味はさすがだ。好意で貰っておいてこんなことを思うのも意地汚いが、もしこれがキャットからの貰いものでなく、おれがどこかで手に入れた品だったなら、ちょっとした取引に使うことを考えてしまうだろう。見返りなしで他人には譲ることはまずない。それほどに貴重な、少なくとも海の上ではそうそう手に入るものではない高級品だ。そんなものを無造作に寄越してこれるあたり、この男が普段取引をしている相手というのが、それなりの立場であることは推測できる。判断を下してしまうのは早すぎるだろうが、そういう意味でも、おれの夢を汲んだミラの見立ては果たして正しそうだ。キャットについていけば、おれは世界を見ることができるに違いない。

 あっという間に胃袋に収まった魚肉の余韻を噛みしめながら、おれは少し目を閉じる。


 昼間の現実など幻想にすぎない。夜に見る夢こそ本物の世界である。というのは、昔のジャパンの小説家が残した言葉だったろうか。虚構を紡ぎ空想を描くことで世界に手を伸ばすことを志向する文筆家らしいロマンチックなせりふだが、今の世界を生きるおれたちにとっては別の意味を持つように思えてしまう。すなわち、おれたちにとって夢とは、夜の浅い眠りの中で見るものではなく、現実を生きる自分たちの思い描くものであって、それは世界ではなく自分を変えるのだ。

 おれにとっての夢は世界を見ることだ。ではあいつはどうだろうか。

 ガシュウ・ヨクト。あいつがおれの前で夢を語ることはついぞなかった。そしておそらく、あの頃は夢を見ることすらできなかったに違いない。生まれ持ったハンディキャップによって、これまで世界から「どうでもいいもの」としてしか扱われてこなかった奴はしかし、今や企業や海伏にすら狙われる、場合によっては世界の趨勢を左右しかねない重要な存在となった。

 今までのガシュウは、何も持たず、持つことも許されず、ただ生きていることだけを許されて、世界の隅に放り出されていたやせっぽちの餓鬼だった。おそらく、最初から受け入れてはいなかったはずだ。選択できる者たちを妬み、そうでない自分を、それを強いた世界を、恨みもしただろう。そして、そんな自分の人生に何とか折り合いをつけたところで一度死に、不死鳥のように蘇った。ヒトの姿をした怪物として。あるいは末法の世にて衆生を導く救世主として。

 今、おれの変質した脳の松果体に絶えず流れ込んでくるのは、ガシュウ・ヨクトという一人の少年の、抑圧された怒りと悔悟だ。しかしそれは、特定の誰かに向けることができる類のものではない。こんなになるまで自分を放っておいて、今になってその中心に自分を巻き込み蠢動する世界と、そこに至るまで反抗することもせず流されてきた自分と。その両者に対する感情にほかならない。感情をなかなか態度に出さない奴だから、ちょっかいを出した奴が痛い目を見るのだ。

 そうか。遅れて気づく。

 おれは今、夢を通してあいつと繋がっている。まどろみの中で、あいつの心中の感情がリアルタイムの追体験のようなしかたで伝わってきているのだ。

 身体しんたいが下から突き上げられる。腕をもぎ取るような両肩の痛み。そしてひりつくような高揚感。温かく硬い感触が全身を包む。全能を錯覚させる充実感と研ぎ澄まされた知覚の根底にあるのは、渇望に似た憧れだ。この感覚は、ガシュウのそれに違いない。

 もう戦っている。あいつは既に、戦線に投入されたのだ。

 酷い頭痛がする。脳の芯に針を刺し掻き回されているような。

 唐突に、左腕をもぎ取られるような衝撃。おれは絶叫し眼を開く。


 シートについたキャットが背もたれ越しにこちらを見る。

「酷くうなされてたようだけどよ。どうした。腕がどうかしたのか」

 おれは作業着の左袖を捲り上げる。肩の下、上腕から二の腕にかけて蚯蚓腫れのように帯状に赤く、皮膚が腫れあがっている。あれは、現場で剥離骨折をしたときの激痛に近かった。先ほどの衝撃が嘘だったかのように、もう赤みが引き始めている。

「あいつの痛みを感じました。おそらく、ティーパーティーズ社はもう動いてます」

 キャットは少しだけ眼を見開き、ややあって唇の端を皮肉っぽく吊り上げた。黒い革手袋をぎちぎちと鳴らし、楕円形のステアリングを握りなおした。

「思ったより早かったな、あいつめ。よし、じゃあ行先変更だ」

「ミラんとこ、とんぼ返りですか。それか、北欧のTP社ですか……」

「いや……。今からそのどっちに向かっても、奴らの作戦には間に合わねえ。だから連中の航路を先読みして、TP社の目的地に最速で向かう」

 キャットは鉄色の視線を泳がせ、おれを見た。手元のコンソールをぱちぱちと打ちながら、後部座席へと顎をしゃくる。席に着き、シートベルトを締めると、ぐっと重力が斜めになった。

「第零深度――海面まで浮上するぜ。正直危険だが、その方が速い。――オレたちが目指すのは、レッドクイーン社の暫前橋頭堡ざんぜんきょうとうほ。キャンプ・プリンス・エドワードだよ。じき寒くなる。座席の下のジャケット出しときな。忙しくなりそうだしよ」

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