第3話 ずんぐりむっくり
目の前に差し出されたのは
一本目は鋭いフォーマイト製のナイフ。重合体で成形された柄と鞘の中に、緩やかに曲がった削り出しの刃が隠されている。
「君の強みはまず、フォーマイトを他の誰よりも自由に扱うことができるということだ。このナイフは、そのための触媒になる」
ジェルボアの声を聴きながら、ぼくは両足を撫でる。
今でも信じられない。ぼくに足がある。
形状はヒトのそれではない。どちらかといえば、カーボンブレードなどを組み合わせて制作される、アスリートが競技で使うような義足に近い。食肉目の獣の後足のように後ろに張り出した踵が高く上がり、先端——爪先の面積はかなり小さい。板ばねのような一体構造の、フォーマイトで形成された異形の足。
ぼくが賭けに乗ると告げてから、二か月が経とうとしていた。
例の侵入事件ののち、目覚めたぼくにはこの足が生えていた。記録が残っていないので詳しいことは分からない。ジェルボアが何か掴んでいることは確かだが、まだ調査の段階ということで教えてくれなかった。
まずしなければならなかったのは、この足で立ち上がって歩くことだった。
ぼくにあてがわれたのは「ティーポット」と渾名される不格好な装甲艦の一室だ。壁面は強化ガラスで普段はスモークがかけられているが、眠るときは透明になる仕様。プライバシーもへったくれもないが、とにかく、当座衣食住には困っていない。
一通りの動きができるようになったというところで、今日だ。戦闘訓練の初日。ジェルボアどころか、生身の人に会うこと自体久しぶりだ。
「我々の擁する対うみうさぎ兵器には、不活化したフォーマイトが使用されている」
ジェルボアは自分の乗った車椅子の側面のパネルを外して見せてきた。灰色の結晶が回路に加工され、照明を受けてきらきらと輝いている。
「そもそもフォーマイトとは、思考を食らったFOAMウイルスが幾何学構造化して感染者の体外に露出したものだ。ただ、結晶化してしまった後のFOAMウイルスにも、思考に反応する性質そのものは残っている。それを応用したのが、我々の運用する対うみうさぎ兵器’
手渡されたパネルをジェルボアに返す。もとの位置に嵌め込むと、ころころと唸りのような駆動音が鳴った。
「うみうさぎの駆除方法には二つのやり方がある。FOAMを侵食する特殊菌を撃ち込むか、人工的に変性させたフォーマイトを奴らに接触させることで、奴らの自己崩壊を
何かを思い出すように老人は斜め上を見た。嫌な記憶を思い返すように、あるいは、愛おしい青春を蘇らせるように。
「対FOAM特殊菌はもう手に入らない。南極会戦の頃は主力兵器として使われていたが、今は生産できなくなってしまった。それにフォーマイト自体も当時ほど希少ではなくなった。IDORAは後者の手段なんだ。ただ、適合者とはいえ、通常は結晶とそのまま接続すると結晶からの逆流——
話を聞きながら、ぼくはもはやぼくのものとなった人外の足で床を蹴り、宙返りを決める。壁を蹴り、照明に気をつけながら天井を蹴り、真っ白な床に着地する。
歪で醜いぼくの足はしかし、とにかく軽く、桁外れに強い。こんな風に軽業じみた動きもできれば、厚さ二十センチもの鉄板を蹴りでぶち抜くだけのパワーもある。配属初日に艦の壁を壊してしまった苦い経験が、足に込める力を否応なく調整させる。
「ぼくはそのイドラとかいうデバイスを使わなくてもこの足を使えているようだけど……」
「そう、そこが、君が他の適合者と違うところだ。とにかく、その足の扱いにはそれなりに習熟したようだね。重畳だ」
天井にボルト留めされた握り棒を掴んで逆さまになり、ジェルボアの声を頭上から聞く。ぶら下がってから床に降り立つと、両足が柔軟に撓んで落下の衝撃を吸収する。
「まあ、とりあえずは今日のことだ。これを見てくれ」
ジェルボアが台車で牽いて持ってきたもう一本の短剣は、真っ黒な細長い板に片手握りの柄をつけたような、不格好な形をしていた。先端は鑿のように平たく、刃の部分はゆったりと内側に湾曲していて、剣というよりも大型の鉈に近い。結晶のナイフは長く見積もっても三十センチほどだったが、こちらはその倍ほどの長さがあり、持ち上げるのが難しいほど重い。
「こっちは
支給されたカーゴパンツのベルトに二口の刀剣を装着する。クリップのような部品でズボンの伸縮ベルトを挟み、固定するようだ。動くのに邪魔なので、結晶ナイフは左腰に刀のように装着し、もう一口は腰の後ろに水平に履く。
「さて、渡すものは以上だ。来たまえ」
案内されたのは艦内訓練場だ。ドーム状にくり抜かれた奥行き百メートルほどの広い空間。
その奥に、長身の男が待っていた。
場内に敷設されたスピーカから声が響く。ジェルボアだ。
「ヘイヤー。そこにいるハンプティ・ダンプティが君の教官だ。私はこれから用があるのでここで失礼する。以後彼の指示に従うように」
「初めまして。ヘイヤーです。よろしくお願いします」
「ハンプティ・ダンプティだ。こちらこそよろしく。社長から話は聞いているよ。早速だが、始めよう」
次の瞬間、何の前触れもなく、ぼくの腹に灼熱の衝撃が襲いかかる。ぶちぶちという嫌な音が体内から伝わり、バランスを崩したぼくは背後の床に転がり背を打ちつける。
「が——」
「立ち上がれ。次、行くぞ」
混乱する。何が起きたのか。腹を見下ろすと、ソフトボール大の白い球体が高速回転しながらぼくの鳩尾にめり込んでいる。
次。男の言った言葉が予感となって、背中を悪寒のように駆け上る。右腕で床を思いきり叩き、横たわった自分の体を左側に無理やり転がす。
ハンプティ・ダンプティは直立不動だ。ぼくがさっきまでいた空間を貫いて、コンクリートブロックの床面に白球が埋まる。
ハンプティ・ダンプティがあの球を投げたのか。いや、そんな素振りは見えなかった。とにかく、もう訓練は始まっているのだ。
距離を取らなくては。力みすぎた結晶の足が床面を穿ち踏み抜き体勢を崩す。次の球が来る。とっさに掲げて顔を守った左腕が球に打擲され、嫌な音を立てる。たぶん骨が折れた。
「くそったれっ」
痛みと混乱と理不尽への怒りで視界の端が白く染まる。力むと足の埋まったコンクリートブロックが丸ごと抜け、足にくっついたまま持ち上がる。
「何なんだよ、くそ」
持ち上げた足に力を込めて撓ませ、解放した反動で付着したコンクリートを破砕する。
耳を澄ませると、かすかに蜂の羽音のような唸りが聞こえる。足元を見ると、先ほど飛来して埋まり込んだ球は跡の穴だけ残して消えている。一度投射した球を引き戻し回収することもできるようだ。
ハンプティ・ダンプティは球を単純に投げているのではない。理屈は分からないが、高速回転する球をドローンのように浮かせ操っている。
左腰の結晶ナイフを抜き、逆手に持ち換える。
サムライが割腹するように、自分の腹に突き刺す。
「
ジェルボアに教わった言葉を呟く。
心臓が跳ねる。
ぼくの体内に保菌されたFOAMウイルスが、体内に押し込まれた結晶の刃に反応する。砂鉄の山が磁石を呑み込むように、ナイフが引っ張られて肉の中に沈んでいく。爆発的に増加・増殖したウイルスが皮膚を押し上げ、体表に露出して服を破り、硬化・結晶化する。硬くしなやかなフォーマイトが腹を覆い腰を覆い胸を覆う。
同時に頭部側面から、頭蓋骨を突き破るような感覚とともに杭のような鋭い構造物が斜め後方に伸びていく。『うみうさぎの耳』だ。両眼含め顔面全体が蝟集した結晶に覆われる。仄かに温かい氷に全身を包まれるような、矛盾した感覚。
ジェルボアの言葉が蘇る。
『君には
視界は結晶に覆われ全くのゼロだ。しかし、ハンプティ・ダンプティの位置が、動きが、直接脳内に流れ込んでくる。これが『耳』の知覚か。
『君の場合、一度結晶化できたら、難しいことは考えなくていい。ただ目標に突っ込めばそれだけで、何かに当たって止まるまで、君の体は巨大な砲弾になる。完全結晶化した君の体なら、何をされようがそうそう壊れない』
足を曲げ、両膝に力を込める。甲殻類の鎧のように折り重なった全身の結晶が逆棘のように連動し
溜め切った力を開放する。地面に対して水平に、ほぼ全身が一直線に伸びきる。
音を置いていくほどの爆発的な加速。通過した空気の壁がドーナツ状に変形し乱気流が周囲のコンクリート片を吹き上げ、空中で渦を巻き互いに衝突して乾いた音を立てる。
しかし、音速を超えたぼくの体当たりは、ハンプティ・ダンプティに命中しなかった。ちゃんと当たっていれば、彼を壁にへばりついた血の染みにするほどの速度と重さが乗っているのにも関わらず。
確かに当たった、だが接触と同時に逸らされた、と気づいたときには壁が目の前に迫っていた。咄嗟に体を丸めたおかげで頭から突っ込みはしなかったが、かなりきつい衝撃とともに壁に大穴が空き、おびただしい建材が粉々になって飛散する。
「判断は悪くない。社長の入れ知恵か、それとも天性のセンスか。中の上だ」
ハンプティ・ダンプティの声。『耳』の極端な精度に慣れない。ゼロになった視界では具合が悪い、と感じた次の瞬間、思考を読み取った結晶が一部脱化し、顔面を覆う結晶の左半分が剥離して足元に落ちる。
戻った視界の中、ハンプティ・ダンプティは半透明の巨大な真球に包まれていた。いや、『耳』が違うと言っている。彼の全周囲を囲んでいるのは、白い球状の
「これが俺のIDORA、『
ハンプティ・ダンプティが自身を包む球を通り抜ける。普通なら高速回転する球の外縁部に触れただけで大怪我を負うだろうに、自動ドアを通るような気軽さで。主人を排出した『逍遥星』が見る間にその径を縮小し、ぼくの腕を折り砕いたソフトボール大の白球に変わる。
「俺は『グリッチ』でも対人戦力としてはそこそこのIDORA遣いだ。だからまあ、ひとまず俺を殺せるようになれば、お前もそうそう死なないってことだ」
考える。さっきの体当たりは間違いなく直撃コースだったし、実際当たりはした。だが逸れた。理由は当然、あの球の回転だ。
「そうだ、考えろ。だが動きは止めるな。立ち止まっても、考えるのをやめても、戦場では命取りになる。この訓練場なら何を壊してもいいぞ。俺を殺してみろ」
次々に球が飛来する。いくつあるんだ。しかし限りはあるはずだ。避けながら更に考えを巡らせる。
少なくとも投射しているということと、実際に喰らった経験から考察するに、あの球は遠距離で殺傷力を発揮する武器だろう。同時に、さっきのようにぼくの体当たりを逸らすときには、ハンプティ・ダンプティ本人が、拡大した球の中に入らなければならない。順当に考えれば、最低でも一つは防御用に残しておくはず。奴が同時に何個の球を使えるのかは分からないが、いずれにせよ遠距離戦では追い込まれてしまう。こっちが遠間から攻撃できる武器を持っていない以上、飛んでくる球を避けて相手の懐に飛び込むしかない。
球の動き自体は直線的だ。結晶化し身体能力が上がった今のぼくなら避けられる。速さもぼくの方が上だ。
身を屈め、跳ぶ。
「考え続けろ。ただ速いだけでは軌道を読まれる。狙い撃ちになるぞ」
飛来する球に足を合わせ、蹴る。空中で軌道を変え更に加速する。球自体の回転を借りることでぼくの体が錐揉み回転する。
「いい動きだぞ。上の下だ。次はどうする……」
回転しながら『耳』が周囲を走査する。滞空中の球は全部で六つ。うち四つは既にかわしてぼくの背後にあり、残り二つがぼくとハンプティ・ダンプティの間にある。通り過ぎた球を引き戻したとしても、それがぼくに当たるよりもぼくが奴に届く方が先だ。
前方の二つが連星のように螺旋を描いて飛んでくる。折れた左腕を盾に一方を払い除け、もう一方をロンダートの要領で跳び越える。ハンプティ・ダンプティまで残り六メートル。もう一度跳んで間合いに飛び込む。
ハンプティ・ダンプティは既に本人の周囲に『逍遥星』を展開している。ぼくは腰に提げた
腕がもぎ取られるような反動。体ごと振り回されそうになるが、片足を床に突き刺して強引にブレーキをかける。眼では捉えられない速さの回転が確かに止まる。たとえるなら、回ったままの扇風機の回転体に長い棒を無理やり突っ込んだような格好だ。
爆発的な推進力を生み出す、ぼくに備わった人外の足。それを再び撓ませる。この距離なら、ハンプティ・ダンプティがまだ『逍遥星』を持っていたとしても、展開する前に球ごと押し潰せる。もう一度超音速の体当たりをすれば。
ハンプティ・ダンプティが笑う。上の中だ、と呟きながら、こちらに手を伸ばす。
「だが、悪いな。だから俺は『
その姿が妙にゆっくりと見える。
とん、と胸を押された。ほとんど力の込められていない、ちょっとした動作。
それだけでぼくはぐらついた。
瞬間、ぼくは背後から音もなく迫っていた『逍遥星』の巨大な檻に取り込まれていたからだ。いつの間にか足元の床が球の回転で剪断されて粉末レベルにまで砕かれており、それで足を滑らせたのだ。
たとえば、稼動中の洗濯機に投げ込まれた雑巾がどうなるか。あるいは、超高速全自動で回転する回し車に放り込まれたハムスターを想像してみるといい。
直後、『逍遥星』による縦横の乱回転に三半規管を撹拌され、天地前後をめちゃくちゃにされたぼくは、一秒ともたず意識を刈り取られた。
眼を開く。ヘルメットを被った頭を金属バットでしこたまぶん殴られた後のような、酷い気分だ。覚えていないがどうやら吐きもしたらしい。胸元から酸っぱい異臭がする。
「起きたか」
ハンプティ・ダンプティの声だ。身を起こすとぼくは全身の結晶が脱化した後で、全裸だった。腹から下半身にかけて、彼の上着が乗せてある。
サングラスの男はぼくの隣に座っていた。
「悪かった。きつかっただろ」
「……いえ、ぼくも殺す気でしたから」
「新入りの訓練はいつもああやって始まるんだ。どこの軍隊もやってることなんだが、正直申し訳ないと思ってる。ただ、戦時だからな。俺としちゃ、一日でも早くお前を一人前にしなきゃいかん」
さて、と前置きしてハンプティ・ダンプティが立ち上がる。彼の脇には洗いざらしのタオルとぼくの戦闘服が用意してあった。
「何を措いても、とりあえず体を拭いて服を着なきゃな。立てるか……」
「微妙なとこです」
「今手当の手配をしたから、救護室までは歩かなくていい。そのうち迎えに来てくれる。ただまあ、
「遠慮しておきます」
はは、と男は笑う。今気づいたが、彼の手には金属のパーツがついた機械的な手袋が嵌めてあった。
「俺のことはダンと呼んでくれ。治療が終わったらシャワーを浴びて、飯でも一緒にどうだ。疲れてたら次の機会にするが……」
動けるかは微妙なところだが、食事くらいどうにかなるだろう。少し考えて、誘いを受けることにした。まさか自分で誘っておいて殺しに来ることはあるまい。
「じゃあ治療が終わったら食堂に集合な。社長にはこっちから報告入れとく」
「ありがとうございます、了解です」
ダンが去った後、苦労して身を起こす。体を覆っていた結晶は脱化したが、両足はそのままだ。折れた左腕を庇いながらBDUのズボンを穿き、裾を折り上げるためにしゃがみ込んでいると、ふと背後に視線を感じた。
「誰です……」
周囲を見回す。さっきぼくが壊しまくった訓練場に声が反響するが、返事はない。人影も無論、見えない。
気のせいか、と独りごちる。今になって、担架を運んできた二人組の救護スタッフを目の端に捉える。
「いいです、自分で歩けそうだ」
脱化と同時に体外に排出されたらしい結晶ナイフを鞘に戻し、ダンが回収してくれていた瀝青刀を拾い上げる。あれだけ荒っぽく扱ったのに、曲がりも欠けもしていない。驚異的な強度だ。
「ドクタがお待ちですよ」
「ああ、分かってます」
もう一度振り返る。おびただしい破壊の跡が残る部屋に、振り上げたぼくの殺意だけが毒気を抜かれ、虚しく響き続けているようだった。
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