第4話 こんなキスができそうな距離で

 食堂に来るのは初めてのことだ。思えば、こういう場所で食事をするのは施設にいた頃以来だろう。ラ・グロイール社では現場で先輩と飯を食うことはあっても、会話をゆっくり楽しむような余裕はなかった。業務に関する話を手短にする程度だ。

 食堂のドアをくぐると、机を集めて並べた一区画にダンがおり、他にも数人、乗組員の社員が食事を摂っていた。ダンがこちらに気づき手を上げたので、ぼくもそれに応える。

「遅かったじゃないか、あれ、腕はもういいのか」

「そうなんです、すみません。ドクタの好奇心を刺激してしまったみたいで」

「なるほどな。あの人はそういうとこがある」

 席に着く。ぼくのぶんのプレートはもう用意してあった。固いパンと、濃い味付けの合成チキン、シゲリグサの和えもの。

「とりあえず食おうや。いただきま——」

 ダンが匙を取り上げた瞬間、かすかに空気が揺らめいた。唐突に、彼のはす向かいに座っていた男性スタッフの首が回転しながら飛ぶ。

一瞬で頸部を切断されたのだ。噴水のごとく血液が舞う。コマ送りの映像のように、いやにゆっくりと見える。まっすぐに落ちてきた頭がまるで積み木細工のように首の断面に落ち着いて、ぐらぐらと揺れる。『エクソシスト』の悪魔憑きの少女みたいに、顔が真後ろを向いている。

 ダンが匙を投げ捨てて自分の机を蹴り上げる。乗っていたプレートが宙を踊り、派手な音を立てて食事を床に散らばらせる。思わず立ち上がったぼくは飛んできた血液を頭から被り、先ほど着替えたばかりのBDUを真っ黒に濡らす。

 胴体の上で揺れていた首が落ち、胴体の方も遅れてゆっくりと倒れる。ダンが投げて寄越した白球が瞬時に膨張し、ぼくを包み込んで高速回転する。

「敵襲だっ」

 ダンの声。ぼくの周囲を回転する白い檻が、不可視の何かを弾いて激しい金属音とともにノックバックする。

 何かいる。目には見えない何者かが、この部屋でぼくたちを狙っている。

 見回すと、先ほどまで食堂内で談笑したり食事を摂っていたりしたすべての人間が死んでいた。巨大で鋭利な刃物に斬られたように、一太刀で頸部を切断されている。床も壁も血の海だ。

「ヘイヤー。結晶化だ」

「……っ。ジャケット」

 我に返り、結晶ナイフを抜いて腹に突き刺す。

 びきびきと体内が軋む。ウイルスが体表を突き破り結晶化して隆起する。しかし、最初にやったときのように全身を覆うほどの結晶が出ない。『耳』は出たが、体の他の部位は足の付け根と腹周り、手首の周囲を覆っただけだ。

「全身は無理みたいです」

「分かった。耐えろよ」

 突如、回転球の内部でぼくの体が浮き上がる。回転とともに内部に空気が吹き込んできて、それによって全周囲から押し上げられ押しつけられたぼくの体が球内部の空中で安定し、どこにも触れずに浮いているのだ。『耳』の知覚が、球外縁部の多重構造と交互に逆回転するその動きを教えてくる。

 ダンが野球の投手のように全身を連動させ腕を振り抜く。ぼくを取り込んだままの檻が彼の動きに追随して床を削り取りながら旋回し、ジェットコースタのように食堂内をかっ飛んでいく。どう考えても訓練のときの動きより速い。

「うおおおおおおっ」

 ぼくはといえば、高速回転する球の内部で叫んでいた。自分自身の体が風を切って猛スピードで飛んでいるのに、自身の移動に伴う衝撃も風圧も全くなく、それでいて目に入る景色は高速で迫り過ぎていく。視覚と『耳』の知覚は正しく状況を伝えてくるのに、その他の感覚が曇りガラスを通したかのように鈍いのだ。

 混乱する頭で考える。襲撃してきた相手は現状まだこの部屋にいて、ぼくとダンを狙っている。先ほどぼくを取り巻く『逍遥星ハンプティ・ダンプティ』に数回、不可視の衝撃があったのがおそらくその証拠だ。ダンは襲撃者を見つけ出すため、部屋の床を箒で隅々まで掃くように、食堂内に球をくまなく走らせているに違いない。

 気になるのは、ダン自身が『逍遥星』を自身の周囲に展開していないことだ。さっきの様子を見るに、敵の攻撃は少なくともすぐには回転中の『逍遥星』を破壊する力はないようだし、相手が姿を隠したまま攻撃してくる以上、ダン自身が身を守るために『逍遥星』を展開するのは当然のように思える。

 だが彼はそうしていない。何か理由があるのか、それともできないのか。

 ピンボールのように器物を壊し回った『逍遥星』が静止する。回転は止まっていないが、ダンの隣で数十センチ浮かび上がって滞空している。

「あいつか」

 ダンが独りごちる。ぼくの眼も彼の見ているものを捉える。

 もうもうと舞い上がった土煙の奥に、ヒト。いや、姿は見えない。土煙が、小柄なヒトのかたちに切り抜かれたように途切れているのだ。

「塵が晴れるまでは何とか見えるな。お前『耳』で敵の場所が読めないのか」

 既に試していた。しかし『耳』は、ダンの位置と周囲を取り巻く『逍遥星』の回転以外何も伝えてこない。

「だめです。理由は分かりません」

 そうか、と呟いたダンに今度はこちらから尋ねる。

「他の『逍遥星』は使えないんですか」

「今はお前に使ってるのしか手持ちがないんだ。他は検査でラボにあるし予備機もない」

「……」

 ぼくの表情を読み取って彼は苦笑する。

「俺もそう思ってるよ」

 ダンが壁にはまり込んだ操作盤を触り、奥に隠されていた拳銃を抜いた。切り落とされたかのように短い銃身に不釣り合いな、彼の大きな手をはみ出して延びる長い弾倉。

「こんな豆鉄砲でもないよりはましだ。正直これはもう俺の交戦距離じゃない。今みたいな騒ぎを聞けば誰か来るはずだが、まだ来てないってことは妨害工作もされてるようだ」

 でも、とぼくは思う。これよりもっと近い距離で、ぼくとあんたは殺し合ったはずだ、と。

「いいか。敵は、俺たちを遠距離から始末する手段は持ってないようだ。もしそれができるなら、こんなキスができそうな距離で攻撃はしてこない。でかい銃声で気づかれたとしてもだ。さっきみたいな完璧な不意打ちで、かつ完全に身を隠したそれなりの射手と銃があれば、この部屋にいる人間を残らず射殺してもお釣りがくる。もしかしたら奴が使っている高度な偽装能力が関係してるのかもしれん。とにかく、今あいつに対処できるのは俺とお前だけで、手持ちのカードだけで勝負せにゃならん。そこでだ。大雑把だが作戦がある。俺とお前でやるんだ」

 ダンの提示したプランはこうだ。まず、彼が拳銃で襲撃者を撃つ。それで仕留められれば万々歳だが、避けられる可能性は十分にある。ここが分水嶺だ。銃撃を防ぐか避けるかした場合、奴は銃を持つダンを速やかに始末するため、自分の攻撃が届く距離まで近づこうとするだろう。その隙を突いて、銃撃に気を取られた奴を『逍遥星』の檻で拿捕だほする、というのが第一のプラン。そして、それが叶わなかったときが第二のプランで、ぼくがダンを援護する。

 ダンが射撃を開始する。右手に握った銃そのものではなく、それを支える手首の方を左手で握る妙な撃ち方だ。連続する轟音とともに、銃口から爆発的な火柱が伸びる。

 透明な人影が動く。避けるのではなく、一直線にダンに向かっていく。

 殺到する銃弾が、奴に当たって弾ける。いや。当たる前に手元で弾いている。信じられないことだが、手に持った奇妙な長い得物を器用に使って弾道を逸らしている。得物に銃弾が接触するたびに、サブリミナルのように断続的に、襲撃者の姿が像を結ぶ。

 ハニーイエローの雨合羽を着た子供。第一印象はそれだった。

フードで顔を隠した襲撃者は、その人間離れした動きとは裏腹に、あまりに小柄で線が細かった。幼くあどけなく映るその姿に、ここが戦闘艦の内部であることを忘れる。

 一瞬、その手に握られた先端の曲がった得物がアイスホッケーのスティックに見えたくらいだ。当然、違う。あれはかま。西洋の死神が持つような、長柄の大鎌だ。

 時代錯誤で非合理な武器に思えるが、ダンの『逍遥星』だって何も知らない人間からしたら空飛ぶでかい球だ。あの鎌にも最先端のテクノロジーが使われているに違いない。

 間合いに入った瞬間に振り下ろされる、使い手に不釣り合いなほど巨大な鎌。拿捕はもはや不可能と判断したダンと襲撃者の間に間一髪で割り込んだ『逍遥星』が、その回転で鎌の刃を防ぐ。球の回転に煽られて襲撃者が半歩後退した隙を見逃さず、ダンが片手で拳銃を突き出しトリガを絞る。

 炸裂する銃声。床や壁、天井で弾けた銃弾が跳ね回って火花を散らす。

 しかし直撃コースは一発もない。見当違いの方向を撃っている。

 銃撃の一瞬前、背面で持ち替えられた鎌が蛇のごとく逆袈裟に繰り出され、ダンの右腕を肘から切断したのだ。持ち主のもとを離れてなお銃を握ったままの腕が宙を踊りながらトリガを引きっぱなしにしていて、そのせいで火星撃ちの銃撃が止まない。

 出遅れた。しかし、この隙は逃せない。ダンの腕一本分の借りは今返す。

 土煙に紛れ、襲撃者の背後に潜んだぼくは瀝青刀を振りかざし、背後に引く。

 雨合羽が気づいた。恐ろしく勘がいい。しかし、もう遅い。

 瀝青刀は、全長が短いとはいえ大質量の金属塊だ。足の代わりにして体重を支え、長時間走り続けられる程度には鍛え上げたぼくの両腕でも、そう何回も振れないほどの。

 それでも、すんでのところで鎌の柄で防がれる。尋常でない反射神経だ。とはいえ、ハンマー投げのように腰の捻りを乗せた不意打ちのフルスイングだ。奴がさすがに体勢を崩す。もう一押し。振り抜いた慣性で体から離れていこうとする瀝青刀はそのままに胴を反転させ、足が生えてからこっち、密かに練習していたコンパクトな左の前蹴りを放つ。

 体の芯を完全に捉えた。背後に吹っ飛ぶ襲撃者を、あぎとを開いた『逍遥星』が呑み込む。ダンはぼくの意を汲んでくれたようだ。あとは、訓練のときぼくがやられたように、『逍遥星』の回転が閉じ込められた奴の意識を刈り取ってくれるはず——。

 次の瞬間、『逍遥星』が真っ二つに割れて黄色い雨合羽が飛び出す。果物を包丁で切断するように、回転が最高速に達する前に中から大鎌で断ち割られたのだ。

 参った。こいつは手に負えない化け物だ。正直手詰まりだ。もうぼくにもダンにもできることはない。それでも、向かってくる鎌の刃を、やっとコントロールを取り戻した右手の瀝青刀で受け止めようとした、その刹那のことだった。

 耳を聾する轟音とともに、建材の破片が降ってくる。部屋に直上からの光が差す。

 何か、いや誰かが天井を破って落ちてきたのだ。輪をかけて巻き上がった粉塵が視界をふさぐが、『耳』はおかまいなしに新たな闖入者の存在を伝えてくる。

 粉塵が晴れたとき現れた「それ」は、黒衣の貴婦人を思わせる姿をしていた。

身の丈を超える、長大な黒の蝙蝠傘を握った長身。腰を覆う、スカートのように長い布が翻る。つややかに陽光を照り返す黒い装束は優美な弧を描く身体の線にぴったりと寄り添っていて、「それ」が女であることが知れる。

 顔の下半分を隠している吻部が伸びた黒い防塵マスクと、ケープのように両肩から胸元まで伸びた黒布が、その姿を、翼を畳んだからすのように見せている。

 巨大な蝙蝠傘に見えたものは、円錐状の大槍だ。馬上の騎士がすれ違いざまに敵を突き砕く突撃槍ランス。それを横ざまに構えた女が、純粋な鈍器として水平に薙ぎ払う。鎌の柄で殴打を受けた侵入者が、衝撃で壁際まで飛び退すさる。強引な排撃だが、効果はあった。

 黒い女が突き出した槍が変形する。頂点を支点に円錐がほどけ、多関節のアームが展開する。束になったアームが寄り集まって槍の円錐状の刃を形成していたのだ。ちょうど、布地を取り去った傘のようなかたち。

 アームの一本一本が得体の知れない深海生物のごとく、あるいはストランド・ビーストのごとくかしゃかしゃと床を噛み、持ち主の女の体を中空に浮かせ、壁に追い詰められた黄色の雨合羽に這い寄っていく。

 タコの触腕による攻撃のようにあらゆる方向から繰り出される黒いアームを、鎌を振り回して凌ぐ雨合羽。しかし、手数の差が大きすぎる。徐々に押されていく。

 鎌を大振りして天井と壁の一部を切り裂き、その隙間に雨合羽が滑り込む。度を越して小柄な体躯ゆえにできる芸当だ。隣接する通路に逃げる気だろう。黒い女はそのままでは通ることができない、絶妙な逃走経路だ。女の方は壁を破壊するか、装備を放棄しなければ追跡できない。どちらにしても距離を離されてしまう。

 壁を壊して追おうとした女が、不意にこちらを振り返る。片腕を落とされ血を流すダンを見て、自分の首に手を当てて何かを言った後、ぼくとダンの方に歩み寄ってくる。

「ドードー。間に合ったか。あいつは」

 黒衣の女が答える。

RQレッドクイーン社の『断頭吏官ヘッズマン』ね。あちらさんの中でも、威力偵察と潜入脱出のスペシャリストよ。この場で始末できればベストだったけど、先手を取られてるとうまくいかないわね。一応外の連中に指示は出したけど、今の状況じゃたぶん追いつけないでしょう」

 どこかで聞いたことのある声だ。

「まずはそのへんに落ちてる、適当な石か建材をダンの脇の下に挟みなさい。気休めにはなるでしょ。救護班は無事だからそのうち来るけど、そのままだと彼、死ぬわよ。警戒はこっちでやるから」

 女の指示に従い、拳大の石を拾ってきて彼の脇に押し込む。脱いだ上着で傷口を圧迫し、外したベルトで切断された腕の断面近くをきつく縛り上げる。脂汗を流すダンが少し微笑んだ。

「……手際がいいな。怪我の手当てとか、今までにしたことあんのか」

「前の職場で、少し」

「そうか……っ」

 ダンが力尽きた。失血のショックと、山場を越えた安堵で意識を失ったようだ。脈拍も呼吸も今のところ安定しているようで、ひとまず安心する。

 振り返る。

「……あの。ぼく、あなたに会ったことありませんか」

 ドードーもこちらを見た。うなじのベルトを外し、口元を覆うガスマスクを取り除く。

 つややかな黒髪が印象的な、東洋人。黄色人種にしては不自然なほど肌が白い。

「あるわよもちろん。忘れちゃったの。もしかして」

 思い出そうとしてるんです、と答えると、女が笑ってみせる。

冷徹な美貌が、まるで仮面をかけ替えたように、人懐っこい笑顔に取って代わる。

「三か月くらいで人の顔忘れちまうなんて、薄情じゃねえか。お姉さんショックだぜ、ガシュウ」

「えっ……」

 黒い装束に身を包んで笑う彼女は、あの日、うみうさぎが侵入してきた日にラ・グロイール社の精製プラントにいた、死んだはずの先輩だったのだ。

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