第12話 破軍
『あのでかい達磨が
『資料だけは。どういう作戦で行きますか』
『まずはあたしが前に出る。あなたは打ち合いになったら不利だから、カウンターを警戒しつつ飛び回って攪乱してちょうだい。詰めはあたしに任せて。あいつらの手癖の悪さは普通じゃないわ。うまくやらないと、断末魔でも手足の一、二本は
『ええ。さっきやられましたから』
『とにかく、敵の攻撃を防ごうとしちゃだめ。何としても避けなさい。鉄則よ』
『了解しました』
なるほど。
自分は備えつけの椅子に腰かけた。頭部のアンテナを介して受信した、基地内を遊泳するドローン群が送付してきた音声データと動画データがすり合わされ、ほぼリアルタイムでこちらに状況を伝えてくる。
超音速の吶喊で中尉を屠ったのは、全身を活性フォーマイトで覆った年若い兵士。先遣された鳥のような少女よりも更に若い、まだ子供だ。しかし、各センサーの反応は
存在が予見されていた、天然もののヒトベースのうみうさぎ。
だが、問題はそこではない。
「あの戦争から、誰もが追い求めた『月のうさぎ』。最初に手に入れたのはあいつ、ということか」
「ツキノウサギ……。ジャパニメーションのヒロインでありますか」
「ふふん。よく知っているな貴官」
「恋人の娘がクラシックアニメのアーカイブを好んでおりまして。覚えてしまいました」
同じ発音の魔法使いヒロインが登場する古い女児向けのセル画映像作品は確かにあるが、TP社が投入してきたのは、その名前ほどかわいらしいものではない。世界をひっくり返すための
状況を整理しよう。今の世界情勢をざっくりと図解するなら、三竦みの状態だ。内訳は、中国大陸を本拠地とする最大規模の我が
海伏は現在、表立って大規模な侵略行為を行っていないが、彼らは何らかの方法で、うみうさぎの行動に干渉し、それらを操る力を持っている。これは他のどの企業にもない絶大なアドバンテージだ。漁夫の利を狙って攻撃してくる可能性は大いにあるし、消耗した状態ではRQ社であっても壊滅的な被害を受けてしまいかねない。
まず、序列二位のTP社には、一位のRQ社に及ばないとはいえ、それなりにまとまった組織的な戦力がある。我が社からすれば、現在の力関係のままで仕掛ければ、勝利は揺るがないにせよ総力戦となり、RQ社は消耗を避けられない。その状態を海伏から狙われたくないのだ。
では海伏を先んじて叩き潰す。これも無理だ。ついては先述したように、うみうさぎを操る彼らを戦力的に侮れないということももちろんあるが、そもそも彼らの活動によって民間へのうみうさぎの被害が抑えられている、という事実も関係している。
統一軍が解体した後現在に至るまで、民間衛生保全会社が外海のうみうさぎの駆除活動を一手に担ってきた。しかし当初、個々の企業の保有する戦力で安定してうみうさぎを狩るには、どの企業も実力が足りなかった。何とか遭遇したうみうさぎを駆除できたとしても消耗は激しく、その日その日の仕事を果たすだけで手一杯の状況が何年も続いたのだ。フォーマイトが別格に旨みの大きい商材であることを差し引いても、IDORA遣いを含む企業職員が相手にする敵の危険度が高すぎ、リスクとリターンが全く釣り合っていなかった時代のことだ。たった一個体のうみうさぎに、会社そのものが再起不能になるほどの損害を与えられてしまうことも珍しくなかった。南極会戦が終結してから少なくとも数年の間、民間衛生保全業、すなわちうみうさぎの駆除とそれに付随するフォーマイト採取という仕事は、少なくとも今ほど安定した産業ではなかったのだ。
食い詰めた貧乏所帯ばかりだった衛生保全業者が、それなりに安定したリソースと技術力、十分な継戦能力を得たのも、当初から抱える資産と人材だけは他よりも大きくリードしていたRQ社やTP社が、業界を牽引できるようになったのも、ほかならぬ海伏が出現してからのこと。彼らが在野のうみうさぎに干渉しある程度の個体を抑え込んでくれるようになって初めて、海で暮らす者たち全体に、曲がりなりにも余裕が出てきたのだ。
実のところ、民間に海伏の存在が知れ渡るようになったのはここ最近のことだが、関係者からの認知自体はかなり前、それこそ南極会戦の数年後から、既になされていたということも付け加えておかなければなるまい。
ここまでが我がRQ社の視点。そして次席のTP社にしても、我が社と同じように海伏に
逆に言えば、現在の上位二社が今の地位を得たのは、第三勢力たる海伏の存在あってこそ、ということだ。
ここで話は『月のうさぎ』に戻る。危うい均衡の上に立つ現在の力関係を崩す存在。
なぜ『月のうさぎ』という名前なのか。提唱したのは誰で、なぜ日本語でそれを呼ぶのか。それは分からない。それこそ案外、提唱者がオタクと呼ばれる人間だったのかもしれない。
いずれにせよ、現在の海で活動する民間衛生保全業者にとって、『月のうさぎ』は強力な兵器として戦場に投入されるだけの存在ではない。現状うみうさぎに対する最高戦力であるIDORAを更に進化させ、現在の人類を次のステージに押し上げる起爆剤となるのだ。
依然人類共通の脅威であるうみうさぎの駆除において、即戦力となるIDORAを多数配備できないのは理由がある。IDORAの制御用に組み込まれ使用者の意思を具現化するフォーマイトが貴重であり、しかもそれ自体がIDORA遣いを念嘯で蝕むからだ。念嘯に耐性のある
では、もしも『月のうさぎ』——ヒトを宿主とするFOAM罹患個体、言い換えれば念嘯の影響を全く受けないヒト——が存在するとしたら。それはつまり、活性結晶を直接身に纏っても既存の肉体を結晶化させることなく意識を保ったまま、フォーマイトという万能の物質を意のままに操り、活動できる人間ということだ。
それは全企業の、ひいては全世界の、政治・軍事・医療・経済に関わるあらゆる人間にとってまさしくブレイクスルーであり、垂涎の対象と言って差し支えない。
もし『月のうさぎ』を企業が手に入れれば、それを解剖し、研究し、やがては人類によるフォーマイトの利用法を飛躍的に発展させることになるだろう。技術の応用や供与、それに伴う戦力増強、超国家規模における交渉のイニシアチブ獲得、それに伴う経済効果など、その旨みは計り知れない。あくまでも仮定の話だが、『月のうさぎ』を材料として十分に研究が進めば、全ての人類がフォーマイト適合者になる方法すら分かるかもしれないというブツだ。いずれにせよ『月のうさぎ』は、こと舞台をこの海に据えれば、我が社やTP社が覇権を独占するための最後のピースであり、使い方によっては、比較的安定した現在の企業同士の力関係を大きく揺るがすことになる。
しかし、その存在が提唱された当時から、あらゆる国や企業が血眼になって探してきたにも関わらず、今日に至るまで一件たりとも、人類の支配圏内にそれは見つからなかった。
どうやって探し出したのか、何らかの方法で作り出したのか、あるいは確率という神のもたらした偶然か。とにかくあの男は遂に『月のうさぎ』を見つけた。これで三竦みのパワーバランスは、TP社に大きく傾くことになるだろう。
そういうわけで、たった今閻中尉を屠った『月のうさぎ』の少年は、もちろん強力無比な戦力にはなるにしても、一騎の戦力単位として計上するにはあまりに惜しい、もといそうしておくわけにはいかない存在であると言える。
そして解せないのは、TP社が今この場にそれを投入する意味だ。やっと見つけた極上のサンプルである『月のうさぎ』をわざわざ危険に晒すなど、言語道断だ。多少事情に通じていれば誰でも分かるような、そんな愚かな判断を、賢しいあの男がするとも思えない。そして、そうした事情を一旦脇においたとしても、『月のうさぎ』という貴重な戦力を運用するにしては、用兵があまりに稚拙に思える。それならば。
「確認だが、『
「は。現状最前線にて状況に当たっている中で階級が高いのは、第二分隊の副隊長、イリア・ザイツェフ少尉であります」
「そうではない。当基地内の『黒鍬機動衆』について訊いている」
「は。失礼しました。……待機中のサゴン・イド上級大尉であります」
サゴン上級大尉は『黒鍬機動衆』創設時からの古株で、何度か現場指揮の経験もある。いち兵士としても、決して派手さはないが、不測の事態も堅実な戦術と経験で対処できるタイプの手練れだ。あれなら下手な手は打つまい。それならば。
「よし。では現時刻を以てサゴン上級大尉に前線指揮権を一時委譲する。そして……そう、この基地には大陸間輸送用の試作高速機が保管されていたのだったな、可及的速やかに発進準備の指示を出すよう司令部に送れ。当該試験機の実地試験を兼ねて、準備ができ次第、自分はそちらを使ってこの基地を出る」
「は。しかし……」
口ごもる年若い通信士に少しの苛立ちを覚える。しかし無理もない。こいつが自分の指揮を受けるのは初めてのはず。自分が戦場から逃げようとしているように思えるのだろう。きつめに指導してもいいところだが、納得させる方が手っ取り早いか。
「状況中だぞ。まずは指示を送れ。疑問があるならその後で説明してやる」
「はっ。失礼いたしました」
通信士がRQ社の共通符丁で無線連絡をしたのを見届けてから、自分は再び口を開いた。
「今暴れている敵兵士の、緑色の方が件の『月のうさぎ』だ。詳細は省くが、あれを手に入れれば当社はPT社にも海伏にも優位に立てるだろう。それだけ重要な代物だ」
「しかし、ではなおさら、閣下に本基地の指揮を執っていただくべきではありませんか。ご覧の通り、精鋭の『黒鍬機動衆』であっても、あの敵兵を無力化したり鹵獲したりすることは簡単ではありません。このままでは……」
「逆だ。この強襲作戦はTP社の図る陽動か、時間稼ぎの可能性が高い。つまり、奴らの本当の目的はこの基地への攻撃ではなく別にあるということだ。『月のうさぎ』を投入することで、TP社は自分らの目をあれに釘付けにしようとしている。我々の目を惹くには格好の餌なのだ、あれは。我が社の上の連中からしたら、入手のため諸君の命、ひいてはこの基地を丸ごと喪失したとしても釣りが来るほどのな」
「……逆に言えば、TP社の本当の目的は、あちらからすれば『月のうさぎ』を手放してでも達成したいもの、ということですね」
「よし、いい見解だ。自分も概ね同意見でな。戦略は、敵が嫌がることをするのが鉄則。ゆえに自分は、TP社の本命を潰すことを優先しようと思う」
「なるほど。理解いたしました」
「そして、この基地の話だ。これは言うべきではないかもしれんし、上の連中の腹積もりも知らんが、少なくとも自分は、諸君を見捨てるつもりも、命を捨てさせるつもりも毛頭ない。あの『月のうさぎ』は確かに脅威だが、中身は人間。それも若い。貴官よりも更にな」
「は……」
「相手が人間なら、きちんと追い詰めれば必ず焦る。そこを突けば拿捕も十分可能だよ。あまり悲観するとつまらん死に方をするぞ」
肩に手を置くと、通信士は少し表情を和らげた。
「すまんが、出撃まで少し一人にしてくれ。やることがある」
生真面目に敬礼し、彼は去っていった。
さて。こちらも動くとしよう。虚空に向かって独りごつ。
「人払いはしてやった。自分も人のことは言えないが、覗きは趣味が悪いぞ。そろそろ出てこいよ」
自分はダーターに覆われた右手を振り上げ、背後の壁を強く叩いた。
微かなノイズ。
ハニーイエローの丈長ポンチョのようなレイリーカウリング。表面に施された光散乱迷彩が解除される音だ。
本社直属の情報部から出向してきた小柄な特技兵。共有識別コードは『
こいつの装備はかなり特殊で、自分の操る『
「さすがお見通しですね。南極会戦の英雄、
「ふん、思ってもいないことを。しかしまあ、戦後生まれの青二才にロートル扱いされたのでは、先に逝った戦友に申し開きもできんからな」
「尊敬しているのは本当ですよ。見上げた義理堅さです。もはやこの世にいない者のために筋を通す。まさに英雄といったふるまいでしょうか。あなたの心はまだ南極にあるように見えますね」
「否定はせんがな……なあ、これは親切心で言うんだが、貴官の今後のために助言をしておこう。万に一つ、今の言葉が単なる当てこすりでないのなら——つまり、形だけでも自分を褒めるつもりがあるのなら、たとえマスクで隠していたとしても、もう少しそれらしい顔をすることだ。本心はともかく、表情は声に出るからな。今の貴官はまるで人形だ。まあいい。それはそうと、何か自分に言いたいことがあるのだろう……」
「こうした会話自体、本来は私の仕事ではありませんから。ただ、その諫言は肝に銘じておきましょう。……本題です。先だって、当社上層部の肝入りでTP社に対して決行された『月のうさぎ』強奪作戦——その失敗を受けて上層部は、范将軍がかつての戦友への義理堅さを発揮したのではないかと見ています。つまり、南極会戦の生き残りドーマウス……TP社の本質的な頭領であるジェルボア氏に対して、今も懇ろの仲なのではないか、との疑念ですね。なにしろあなたと彼とはかつて『統一軍に彼らあり』と謳われ、『南極の双璧』の勇名を馳せた伝説的な兵士同士ですから」
上層部主導による『月のうさぎ』強奪作戦。初耳だ。なるほど、上の連中はあの少年の存在を、自分よりもかなり前から掴んでいたというわけか。しかし、自分が疑われる合理性は薄いように思える。なにしろ自分は今の今までその実在すら疑っていたのだ。
自分は『断頭吏官』の揺れるレイリーカウリングを見つめながら口を開く。
「迂遠な言い方はよせ。つまり、この基地の最高指揮官である自分が、RQ社を売り、古巣時代の相棒であるジェルボア——TP社に与する産業スパイだと……なるほど。それが連中の疑念もとい、大方の見解だと。くだらん妄想だ。しかし、では、貴官はどうだ。自分が奴と通じていると思うか……」
「さあ。そういった事柄については、小官には判断しかねますね。とはいえ、同じ女としては、何となく感じる部分があります。少なくとも、ジェルボア氏に対してあなたが示す執着は、かつての戦友、そして現在の敵に対するそれを超えているかと」
「まあ、その自覚はある。認めるよ。あいつは自分にとって、今も昔も、よくも悪くも大きな存在でな」
「では、お認めになるのですか。当社上層部の疑念通り、ご自身が内通者であると」
「はは、まさかな。……南極帰りを舐めてはいけない。そんないじらしさなどとうに擦り切れたさ。——今の自分は人類社会の延命装置、それも当初の自分の搾りかすにすぎんのだ。彼らに望まれたように、自分はかつて持っていた人間性も強さも、まとめて暗い氷床に捨ててきた」
「そうでしょうか」
「そうさ。いずれ貴官も知るときが来る。……まあ動機についてはともかく、そもそも。連中の読みが仮に正しいとして、自分がどういう方法でその秘密作戦の情報を得て、しかもそれをTP社にリークするというんだ。自分は今までここに監視つきの雪隠詰めで、そもそもあの『月のうさぎ』についてもこの襲撃で初めて認知したというのに」
「上層部は、范将軍のIDORA『揺嵐燻蝟』の隠密性と偵察能力によるものだと睨んでいます。それに閣下には兵士たちを惹きつけ、命を惜しまず忠を尽くさせるカリスマがある。あなたがその気になりさえすれば、心酔する兵卒の一人や二人、命知らずの間諜に仕立てあげることなど簡単ではないですか……」
「ふん。そもそも連中が貴官を監視に寄越したのは、そういう事態を未然に防ぐためだろうにな。貴官もご苦労なことだ。針の筵を我慢して手に入れたせっかくの監視記録が、まるで評価されていないようだが」
「……彼らにとっては、小官のもたらす情報よりも、小官がこのプリンス・エドワード——范将軍閣下の膝元に存在しているという事実こそが重要なのです。つまり、上層部の息のかかった者があなたの近くにいるということ自体が、あなたに対する牽制になる。そう考えているのでしょう。もっとも、バンダースナッチという英雄は到底、その程度で御せる相手ではない。小官の所見ですが」
まぜっ返し気味に煽った相手から、逆に気を遣われてしまった。さすがに大人げなかったかもしれない。相手は子供と言っていい年齢なのだ。それともこれが、会戦後に生まれた若者たちの処世術なのだろうか。
「ずいぶんと自分を買ってくれているのだな。とはいえ実際、自分に二心はないとしか言えないが。それにその話に関してはまだ、連中が怪しむ根拠は薄いと感じる」
「閣下のご心情はお察ししますが、もっとシンプルに考えれば、彼らの言っていることも理解できるかと。つまり、今回の作戦について、個人単位で上層部を出し抜く能力を持っているのは、我が社では『揺嵐燻蝟』使用者である閣下くらいしかいない、ということです」
確かに自分の知る限り、RQ社に『揺嵐燻蝟』を超える諜報性能を持つIDORAは存在しない。「うまく歯車が噛み合えばできなくもない」というくらいだが、決して不可能ではないだろう。そうすると上層部の出した疑念にも、なるほど一定の妥当性があると言えるかもしれない。つまり、自分の自認はさておいて、状況証拠は自分の黒を示しているということだ。とはいえ、連中の警戒をかいくぐって能動的にこの海を引っかき回してやろうと思うほど、自分ももう若くない。それに今となっては動機もない。こればっかりは信じてもらうしかないが。
「なるほどな。連中の考えは分かった。しかし貴官、そういう事情を自分に明かしてしまって大丈夫なのか。もしも自分がその気なら当然動くだろう。そうすると、貴官は困ったことになるのではないか。そもそも、自分が動く前に尻尾を掴むのが貴官の仕事だろうに」
「さあ、なぜでしょうね。そうやって小官への忠告——というか、心配が先に立つあたり、この基地の兵士たちの気持ちが分かります。……小官のような役回りは嫌われがちなので、たまに彼らが羨ましくなるのですよ。彼らはみな、閣下に憧れ、閣下のために命を
『断頭吏官』の目的が分からない。自分を篭絡し、懐に潜り込むためかもしれない。自分は真意を読み取ろうと彼女の顔を覗き込んだが、顔をすっぽりと覆う目出し帽に阻まれ、相変わらず表情は読めない。
「……そんなにいいものではないよ、自分のそれは。しかし、つまり。貴官が今伝えてくれた情報は、自分へのちょっとしたサービスという解釈でいいのかな」
「概ね肯定します。もしもこの先、閣下からすれば不都合な指令が下されても、小官は逆らえませんから、それまでには個人的な尊敬の念をお伝えしておきたかったのです。ついでにもう一つ、お耳に入れておきたいことが。小官の所属部隊をご存じですか」
「いや。そもそも部隊所属なのか、貴官は」
「恥ずかしながら、小官も隊の組織構造については全容を知らされていません。しかし、自分と同じような独立兵員は複数いて、上層部はそれらに個別に指示を出しつつ、まとめて独立部隊として扱っています。小官も同僚と会ったことはありません。正式な名前はなく、現在は便宜上『
歴史の教科書にある通り、ラディカルな身分社会においては、支配階層と戦士とは同義の存在だった。自らの生命を危機に晒してまで自集団を守る行為——戦争への参加は、他の何よりも大きな社会貢献だったからだ。敵集団を殺傷するための戦闘力とそれに備えるための経済力を持つ者は、有事の際に命がけで戦うことで、見返りとして集団の運営に携わる権利を得る。しかし文明化が進み戦争に携わる組織の規模が大きくなると、封建社会における下層に位置している被支配層にもそのお鉢が回り——本来は戦闘のプロではない生産者、農民などが戦闘員に仕立て上げられ、戦場に駆り出されることになった。そのような身分階層の者——半ば無理矢理徴兵された、戦闘意欲の低い者たちは往々にして群れの羊のように臆病で、敵兵への刺突や発砲を躊躇し、戦闘という殺人行為に罪悪感を覚え、ともすれば戦場から逃亡する。敵を撃たぬ兵、脱走兵が増えれば増えるだけ抗命や暴動を誘発し、軍団の秩序が失われ、陣営は不利になっていく。
督戦とは、そうした事態への一種の対策としてしばしば行われるようになった行為であり、そのために置かれるのが督戦隊だ。軍団内においては、英雄も督戦隊も、どちらも必要なものだ。英雄がその勇猛な振る舞いや目覚ましい戦果によって、有象無象の兵士を鼓舞し戦場に狂奔させるカリスマであるとするなら、督戦隊がやることはその逆だ。敵を殺さなければ貴様を殺すぞ、と、背後から味方に銃を向けるのが彼らであり、恐怖を以て兵士を戦場に向かわせる存在と言える。
社会集団における天性の殺人者のことを、羊の群れに紛れ込んだ
だがそれは戦闘行為の日常化——つまり慣れと、徹底したストレスマネジメントによるものだ。幸か不幸か偶然生まれる英雄と、目的論的・人為的に生み出された戦士ではやはり決定的に違う。戦士でない者を戦士にすることはできても、天性の英雄を生み出すことはできない。訓練は羊を牧羊犬に変えるが、持って生まれた本能は変えることができないのだ。
そしてこの例になぞらえるなら、対する督戦隊は黒い羊だ。自分たちと同じ形をしているが決定的に異質で、強制的に恐怖と畏怖とを抱かせてくるそれは、周囲からの逸脱を前提したどうしようもないアウトサイダー。尊敬されることも、親しみを持たれることもない存在。何しろ、自身と同じ陣営にいながら、自身を害するかもしれない相手だ。ともすれば排斥や差別の対象になるだろうその役割はしかし、支配者たる羊飼いによる群れへのコントロールを十全に機能させるために必要なものであって、多くの場合特権を与えられることでバランスを保つ。実際には多くの羊たちと何ら変わらぬ精神性を持つ彼らはしかし、有事の際には
正直、真面目に務めるには過酷で、損な役回りだ。与えられた特権を振りかざし甘い汁を吸おうとする者もいるが、そういう手合いは決まって仲間の恨みを買い早死にするか、要領よく出世して早くに前線を離れるかといったところで、いずれにせよあまり現場に長居はしないものだ。黒い
人の心は目に見えないが、精神に刻まれた傷は確かに残り続けるものだ。『断頭吏官』も、ひょっとすると言葉通り、自らの役回りに疲弊しているのだろうか。心理的な距離を縮めようとする諜報員流の策略かもしれない。しかし、とは思いつつ、自分は彼女に心ならずも同情してしまい、その言葉を反芻してしまっている。
『断頭吏官』は我が社の多くの人間がそう呼ぶように、自分を英雄と呼んだ。しかしその認識は間違いだ。自分はそれほど強くない。自分はそれなりに場数を踏んで、よく調教された牧羊犬になることはできた。この基地で今戦っている多くの兵員は仔犬だが、『断頭吏官』は自分の同類かもしれない。似た匂いがするのはあのTP社の烏女もそうだ。では、『月のうさぎ』の少年はどうだろうか。
しかし自分も、彼らも、決して狗ではない。
自分の知る限り、生来の狗と呼べる人物は一人だけで、そいつはもうこの世にいないのだ。
戦友だが、恐ろしい奴だった。首輪とも呼ぶべき安全装置を植え込まれてなおそうだった。あいつこそが英雄であり、生来の狗だ。猟犬どころか、
閑話休題。もちろん、『断頭吏官』は辛い業務への愚痴を垂れ流したいわけではないはずだ。それくらいは駆け引きの苦手な自分にも分かる。
彼女が言っていることはつまりこうだ。上層部は、RQ社創立から実働部門に関わってきた自分を、そしてIDORA遣いとしては未だ第一線級の戦力を維持しているはずの自分をすら、いざとなれば切り捨てかねないフェーズに入った。自分の代わりとなる戦力を見つけたのかもしれない。同時に、たとえ自分かこの基地の誰かが、何らかの方法で獅子身中の虫たる『断頭吏官』を排除したとしても、代わりの人員を送り込むことは容易い。そういうことだ。
更に『断頭吏官』の心情に思いを馳せる。この女はあえて、身の安全を度外視してまで、自分へ釘を刺しついでに警告してきた。ここまで義理を通してきた相手に、いつまでも距離を取っているのもそれこそ大人げない。そしてこれが何より重要なことだが、誠意からの情報提供にせよ、より遠大な目的があるにせよ、この女は少なくとも裁量の範囲内で自身の心に従い工夫している。押しつけられた役割として、群れの中の黒い羊を嫌々演じているだけではない。
実を言うと、不本意ながら、自分は既にこの女のそういう精神性を気に入りはじめている。上官から命令が下れば即座に刃を向けてくるかもしれない相手であり、こういう手合いはやると決めたら躊躇せずやる。無論そうなれば殺すしかないのだが、それでも。
束の間の止まり木の一つくらい、用意してやってもいいと思うほどには。
「穏やかではないな。もしも上層部が、自分がTP社への内通者であると確信したら。そのとき、手を下すのは貴官なのだろう」
『断頭吏官』は無言のまま首肯した。自分は努めて静かに、労うつもりで声をかける。
「厳しい仕事だ。同僚がいないのも寂しいだろう」
「最初は悩みもしましたが、もう慣れてしまいました。それに、小官のような役も戦場には必要だと理解しています」
「そうか、難儀だな。……なあ、もしよければ、自分が尻を持ってやるぞ。強制はせんが」
「ありがとう存じます。小官も閣下に尽くせたらと思いますが……今はこれが精いっぱいです」
「分かっている。いや、ありがとう。最初にこれを言うべきだった。その真摯さにはいずれ然るべき形で応える。約束しよう」
そのとき、部屋に備えつけられたブザーが鳴る。自分が乗り込む機体の発進準備が整ったようだ。
「ではまたすぐに。貴官とはいつか一献傾けて、建前なしの会話をしたいものだな」
「は、感謝いたします。しかしご相伴は何年か先になるかと。小官は未成年ですから」
「そうか。律儀だな。それならば、自分も貴官が呑めるようになるまで生き残らねば」
「は。では、ご武運を。将軍」
「貴官もな。次に顔を合わせたとき、互いの敵となっていないことを祈る」
ハニーイエローのカウリングタープが微かなノイズとともに作動し、ひとりでにフードが作動して『断頭吏官』が姿を消す。同時に、ダーターが皮膚を這い上がり、額のアンテナを中心に仮面のように展開して自分の頭部を覆い隠した。
さあ。気は進まないが久しぶりに、腹立たしい男の顔を見に行くとしよう。
二十年前、あの地獄の南極で、互いに双璧とまで呼ばれながらも、ついぞ自分を振り返ることはなかった男。
あの瞳に映っていたものは、最初から、もっと深く、遠くにあった。同時期に入隊してやっとの思いで肩を並べた自分など、最初から眼中になかったのだ。
騒乱に不釣り合いな感傷を心から追い出して、自分は一歩踏み出した。
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