最終話  翔 へ

「――たいしたお嬢さんね」

「はじめさんの知恵です。以前、これで逮捕されたと聞きました」

極道ごくどうの過去も、人の役に立つのね」

 逢坂が手を伸ばすと、凛は握りしめ「お願いがひとつ」と人差し指を立てた。

「美千代さんに、見てもらいたい物があります。わたしは、会うことができそうもないので……」

「何?」

 凛はふたたび巾着のひもをゆるめ、『札幌さっぽろみやもり総合病院』と書かれた封筒を差し出す。「見てもいい?」と逢坂は聞くと、凛はうなずいた。


「目の検査結果? これって……」

 逢坂が手に持ったのは、コピーと書かれた古い日付の診断書だ。もう一枚を山口が封書から取り出すと、凜の診断結果が書かれている。逢坂が山口と顔を見合わせたところで、凛は立ち上がった。

「ちょっと待って、瀧川の父親は色覚しきかく異常だったの?」

「はい。その診断書は、事故の日に翔から受け取った物です。記憶が戻るまで意味が分からなかった」

「二十年も前の物ね」

「母親が正常でも、生まれた娘はすべて保因者ほいんしゃが色覚異常、例外はない。翔が教えてくれました。わたしの陰性いんせいの結果は、あの人が生きていく為に必要な真実です。わたしにとっても……」

「瀧川美千代のこれまでが、無意味だったと証明する物ね?」

「はい、わたしと翔に血の繋がりなどなかった」

 凛は窓に近づき、空を眺めた。


「翔から聞いた話ですけど、母と翔の父親は結婚を反対され、それぞれ違う伴侶はんりょを得た。ボタンのかけ違いは、自分の意志を置き去りにして、人に流された結果です。母はむくわれない物をわたしにたくして、幻想げんそうだと気がつきながら、そう思い込んでいたのかもしれない」

「なるほどね」

「父もそう、翔の母親もそう……仮面かめん夫婦を気取きどりながら、親にもなりきれない大人です。誰も口にしないで時間を無駄に使うから、不信感が憎悪に変わるんだ」

 凛はふっとため息を吐き、逢坂へふり返った。


「それは、一週間で結果が出ました。たった一週間ですよ。どこかで誰かが声をあげていれば、わたしも翔も違った時代を過ごせていたのに……しわ寄せは、いつだって子供に来る」

「そうね」

「あの人には、気が狂うほどいて、『自分はおろかだ』と翔に詫びてもらいたい。ただ、そんな人でも、翔は好きだったと伝えてください」

「分かったわ。あなたは、これから声をあげて生きていける?」

「そうありたいと思います。わたしは、この街で好きなことを言って、口がすべって喧嘩けんかもする。『あの人は、いつもそう』と、まわりがあきれるまで、自分らしく生きていきたい」

「ちょっとうるさいけど、いい人達ね。廊下を曲がったあたりで気配がするわ」

 逢坂が指を差す方へふり返ると、窓に人影が揺れていた。


「行ってあげたら? ここに来られると迷惑だから、わたしたちは避難ひなんするわ」

「では、僕は一足お先に」

 と山口が笑いながらうなずく。凛に一礼してから自動扉の中に消えて行く。逢坂はボイスレコーダーをビニール袋に入れてから、凛に視線を戻した。

「あなた、メガネはどうしたの?」

「ぼやけるので、外しました。外してから、右目は翔がくれたサインだと気がつきました」

「『目を調べろ』って、言うこと?」

「多分……」

「そう、よかったじゃない。これでプログラマーに戻れそうね。一度、署に来てもらうけど、大丈夫よね?」

「はい、両親のことを宜しくお願いします。できるだけ早くわたしも手を合わせたい。確かに疎遠そえんでしたが、わたしの親です。あの二人が要るから、今の自分もあるので」


 凛は逢坂にあいさつを終えると、背中を向けて歩き出す。廊下には中庭を映す窓が、エレベーターホールまで続いている。凛の姿を追うように、風が窓をカタカタ揺らしていた。

 あの人、助かったよ―― 

 窓に手を触れながら凛はささやく。とけ出した氷の世界に、翔からもらった最後の言葉があふれだした。


『もう一度言うから、ちゃんと聞いてよ。雪がとけたらあの教会で、平野と幸せにね』

 凛は窓に向かって何度もうなずく。「ありがとう……」と言いながら、指を窓から離した。

 廊下突き当りを左に曲がると、視界をさえぎるものはない。看護師姿の祐衣と祐気を見つけ、凛の歩幅は広くなる。壁に寄りかかっているのは、拓海とはじめだ。手をあげた銀次郎の横で、京香が笑っていた。

「凛!」

 正美の姿を見つけると凛は走り出す。たどり着くまで涙が堪えられない。窓の外に揺れているのは駐車場を飾る雪あかり、もんもんと降る雪を照らし、正美に抱きつく凛を見守っていた。

 ◇

 瀧川 翔  様


 夏の便りです。届くはずもない手紙を、また書きました。春の便りと同じように朝里川に流すので、『凛はうるさいね』などと言わずに、受け取ってください。

 小樽の夏はわたしの期待通り、さわやかな風がよく似合う。この街で、在宅プログラマーの職に就き、土日は『喫茶・お散歩』のお姉さんと、慌ただしい日々を送っています。

 六月二十五日、小樽の空は快晴でした。たくさんの祝福と冷やかしを受け、わたしと拓海はあの教会で式を挙げました。


 一番泣いていたのは、京香さんとはじめさん夫妻。入籍は、わたしたちより早い五月です。祐衣ちゃんの姓も岡島に変わり、年末には第一子が誕生予定です。そして、祐気君の報告をしなければなりません。

 彼にも春は来ました。春頃から常連の仲間入りをした二十歳の看護師で、祐気君とは同じ病棟に勤務しているそうです。

 冷やかしの洗礼を乗り越え、式には二人そろって出席をしてくれました。幸せは、こんなふうに人から人へと繋がっていきます。


 翔、そこから小樽の海は見えますか? 力いっぱい投げたブーケは届きましたか? 教会の鐘は翔が暮らす空へ届くように、わたしと拓海が奏でた音色です。


 ふたたび生を受けた人生が、翔の為の日々であるように――


 そう、二人で祈りを込めました。街は短い夏を越えて、また厳しい冬を迎えるでしょう。季節が変わるたび、新しい出会いに足がすくむけれど、生を受けた人生がわたしの為の日々であるように、強くありたいと思います。翔はそこから見ていてください。明日を後悔しない為に、今日を自分らしく生きていくから。

                        平 野  凜 


『インナースノー』END

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

インナースノー 雨京 寿美 @KOTOMICLUB

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ