最終話 翔 へ
「――たいしたお嬢さんね」
「はじめさんの知恵です。以前、これで逮捕されたと聞きました」
「
逢坂が手を伸ばすと、凛は握りしめ「お願いがひとつ」と人差し指を立てた。
「美千代さんに、見てもらいたい物があります。わたしは、会うことができそうもないので……」
「何?」
凛はふたたび巾着の
「目の検査結果? これって……」
逢坂が手に持ったのは、コピーと書かれた古い日付の診断書だ。もう一枚を山口が封書から取り出すと、凜の診断結果が書かれている。逢坂が山口と顔を見合わせたところで、凛は立ち上がった。
「ちょっと待って、瀧川の父親は
「はい。その診断書は、事故の日に翔から受け取った物です。記憶が戻るまで意味が分からなかった」
「二十年も前の物ね」
「母親が正常でも、生まれた娘はすべて
「瀧川美千代のこれまでが、無意味だったと証明する物ね?」
「はい、わたしと翔に血の繋がりなどなかった」
凛は窓に近づき、空を眺めた。
「翔から聞いた話ですけど、母と翔の父親は結婚を反対され、それぞれ違う
「なるほどね」
「父もそう、翔の母親もそう……
凛はふっとため息を吐き、逢坂へふり返った。
「それは、一週間で結果が出ました。たった一週間ですよ。どこかで誰かが声をあげていれば、わたしも翔も違った時代を過ごせていたのに……しわ寄せは、いつだって子供に来る」
「そうね」
「あの人には、気が狂うほど
「分かったわ。あなたは、これから声をあげて生きていける?」
「そうありたいと思います。わたしは、この街で好きなことを言って、口がすべって
「ちょっとうるさいけど、いい人達ね。廊下を曲がったあたりで気配がするわ」
逢坂が指を差す方へふり返ると、窓に人影が揺れていた。
「行ってあげたら? ここに来られると迷惑だから、わたしたちは
「では、僕は一足お先に」
と山口が笑いながらうなずく。凛に一礼してから自動扉の中に消えて行く。逢坂はボイスレコーダーをビニール袋に入れてから、凛に視線を戻した。
「あなた、メガネはどうしたの?」
「ぼやけるので、外しました。外してから、右目は翔がくれたサインだと気がつきました」
「『目を調べろ』って、言うこと?」
「多分……」
「そう、よかったじゃない。これでプログラマーに戻れそうね。一度、署に来てもらうけど、大丈夫よね?」
「はい、両親のことを宜しくお願いします。できるだけ早くわたしも手を合わせたい。確かに
凛は逢坂にあいさつを終えると、背中を向けて歩き出す。廊下には中庭を映す窓が、エレベーターホールまで続いている。凛の姿を追うように、風が窓をカタカタ揺らしていた。
あの人、助かったよ――
窓に手を触れながら凛はささやく。とけ出した氷の世界に、翔からもらった最後の言葉があふれだした。
『もう一度言うから、ちゃんと聞いてよ。雪がとけたらあの教会で、平野と幸せにね』
凛は窓に向かって何度もうなずく。「ありがとう……」と言いながら、指を窓から離した。
廊下突き当りを左に曲がると、視界を
「凛!」
正美の姿を見つけると凛は走り出す。たどり着くまで涙が堪えられない。窓の外に揺れているのは駐車場を飾る雪あかり、もんもんと降る雪を照らし、正美に抱きつく凛を見守っていた。
◇
瀧川 翔 様
夏の便りです。届くはずもない手紙を、また書きました。春の便りと同じように朝里川に流すので、『凛はうるさいね』などと言わずに、受け取ってください。
小樽の夏はわたしの期待通り、さわやかな風がよく似合う。この街で、在宅プログラマーの職に就き、土日は『喫茶・お散歩』のお姉さんと、慌ただしい日々を送っています。
六月二十五日、小樽の空は快晴でした。たくさんの祝福と冷やかしを受け、わたしと拓海はあの教会で式を挙げました。
一番泣いていたのは、京香さんとはじめさん夫妻。入籍は、わたしたちより早い五月です。祐衣ちゃんの姓も岡島に変わり、年末には第一子が誕生予定です。そして、祐気君の報告をしなければなりません。
彼にも春は来ました。春頃から常連の仲間入りをした二十歳の看護師で、祐気君とは同じ病棟に勤務しているそうです。
冷やかしの洗礼を乗り越え、式には二人そろって出席をしてくれました。幸せは、こんなふうに人から人へと繋がっていきます。
翔、そこから小樽の海は見えますか? 力いっぱい投げたブーケは届きましたか? 教会の鐘は翔が暮らす空へ届くように、わたしと拓海が奏でた音色です。
ふたたび生を受けた人生が、翔の為の日々であるように――
そう、二人で祈りを込めました。街は短い夏を越えて、また厳しい冬を迎えるでしょう。季節が変わるたび、新しい出会いに足がすくむけれど、生を受けた人生がわたしの為の日々であるように、強くありたいと思います。翔はそこから見ていてください。明日を後悔しない為に、今日を自分らしく生きていくから。
平 野 凜
『インナースノー』END
インナースノー 雨京 寿美 @KOTOMICLUB
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