散り菊

「……やっぱりまだ曇ってる」

単調な空が続く放課後。普段はその全ての存在を無かったことにされている、コレクションルームの窓の一つから顔を覗かせ、真桜が短く嘆いた。分厚いカーテンを掴んだままの手を元の位置に戻し、やや雑に午後四時半の冴えない光を遮る。


「天の川かい」

振り向いた千秋が呟きを拾いながら、花瓶に生けた朝顔を据えた。隙の無い艶を湛える小さなテーブルに、丸みを帯びたガラスの輪郭が映る。

「うん……珍しいね、生花なんて」

晴天で染めたような色に真桜が興味を移すと、千秋が一瞬考えた上で「あぁ、君は去年は見てないか」と続けた。

「あ、毎年なの?」

「おばあさまの教えでね。咲いたら織姫と彦星が出会えた印になるから、七夕は朝顔を生けなさいって」

満足気にその場を離れると、真桜と向かい合う形で長椅子に腰を据える。

「夕方でも咲くんだ」

「私がこの子の了承を得て諸々調整した。年に一度の逢瀬だからねえ、多少強引でも叶う方が良いだろう」

「あははっ、流石千秋!」


室温も明るさも狂わない空間で、ぼんやりと時間が流れていく。千秋がふと思い出したような声色で空気を破った。

「それで、天の川」

「あ、そうそう。やっぱり何か一つは七夕らしい事したくてさ」

言いながら立ち上がった真桜が、入室早々傍らの椅子に掛けていた、自らの通学鞄を覗き込む。空調装置の近くに掛けられているらしい風鈴が鳴り、会話の間を埋める。

「短冊辺りじゃ駄目なのかい」

「願い事が人に知られるの、なんか嫌なんだよね……それで、これ」

振り返る手に取られているのは、細長い形状で飾り気の無い化粧箱だった。透明になっている一面から、隙間を空けて色とりどりの紙縒が並んでいるのが見える。


「線香花火」

「そう。企画部の物なんだけど、先輩に許可取って貰ってきたんだ」

企画部――部活動としてあらゆる学校行事の企画・運営を行う文化部。校内屈指の人気を誇るその団体に、真桜は入学当初から所属していた。

「これを使う予定の行事でもあったのかい?」

「いやぁ、去年の文化祭の準備がものすごく大変でさ……先生か誰かが買ってきて、みんなで息抜きにやったの」

結局余ったんだけどね、と付け加えて机上に差し出すと、千秋がそれを受け取って、箱の中身を端から眺めた。

「部活で花火とだけ聞けば楽しそうなんだがね……それで、何故今これを?」

「あ、ええと…………」

訊かれて一瞬言い淀む。再びタイミング良く風鈴の音が挟まった後、向き直った口を解いた。


「千秋……こんな話、知ってる?」



* * *



――線香花火の先が落ちている間に心の中で願いを唱える。すっかり落ちてしまう前に唱え切ると、その願いは叶う――


流れ星を彷彿とさせる一文は、真桜が部活動の合間に学校図書館を歩き回っていた際、その外れの、分厚い本ばかりが並ぶ棚の中から出会ったものだという。渋い色合いの周りの数十冊と比べて随分可愛らしいーーそれでも古めかしさを宿す桃色の表紙のそれには、色褪せた禁帯出のシールが貼られていた。


「うっかり声に出すと叶わなくなっちゃうんだって」

そう付け加えながら階段を上る手には、部室の掃除ロッカーから拝借したらしい、質素なブリキのバケツが携えられている。誘ったのは僕なんだから準備とかは任せてよ、と笑うのは、たぶん、どちらかというと王子様の顔だ。

「先が落ちる前に火が消えたら願いが叶う、なんてのは聞いたことがあるけれど……君が言うその、先が落ち始めた瞬間に唱えるパターンは初耳だよ」

「僕も初めて知った。難しそうだよね、今更だけど…………」


最上階の先で、真桜が水の満ちたバケツを慎重に置いた。空いた手で重い扉を開けると、緩やかな風が流れ込んで、それは直ぐに止む。

「日が差していないだけで随分違うねえ」

真桜に促されて先に足を踏み入れた千秋が言う。上空の、見渡す限りの白磁の色に、外気に晒された左の瞼を細めた。

「そうだね。風が弱いから涼しくはないけど、逆に好都合かも」

ちょうど制服のボタンとよく似た、鈍い金色の燭台に蝋燭を立てる。次いでポケットから取り出したマッチを擦ると、今の空の中には見当たらない、夕焼けの色が淡く灯った。


どちらともなく膝丈のスカートを押さえてしゃがみ込んで、各々手に取った一本に揺れる火を移す。目を覚ました熱が少しずつ弾け出し、爆ぜながら咲く蕾がふたつ、バケツの中身に溶け込んでいく。夜間と比べれば明らかに暗さの足りない空間ではあったが、網膜にはっきりと届くものはあるらしく、些か存在感に欠ける――それでもばちばちと音を立てる花が、味気ない色の水面を揺らしている。


ふと、隣で黙り込んだ千秋の表情を覗く。眩むような色をめいっぱい反射するその眼差しは、純然と煌めき、恍惚としていて――真桜は動きという動きを全く止めてしまった後、数秒を経てようやく慌てて視線を逸らした。


そうして揃って閃光にあてられているうちに、音が萎れ、花弁が落ち、僅かな隙で核が震え出す。散り菊と言っただろうか、たちまち散りゆくそのきわが、他のどの瞬間より美しく映って――


「あ」「わっ」


――じゅ、という痛い音と共に、二本の線香花火は死んでいた。



* * *



――両人ともはなからそれとなく察しが付いていた事ではあったが、このの成功というのは限りなく不可能に近く、実際に願いを叶えようとして臨むには頼りないものであった。

「なんか、夏祭りのくじ引きみたいだったなぁ……」

「あれさえも凌駕しそうだがね……ただ、私は中々楽しかったよ。君もだろう」

そう言って燃え滓を見つめる千秋に、まあね、とぼんやりとした声で返すと、刹那、蝋燭の火を掻き消す風が駆け抜け、揃って思わず瞼を閉じる。


「……来年さ」

午後五時を過ぎたぬるい空気の中で、バケツと燭台を掴んで真桜が立ち上がり、ぽつりと投げかけると、千秋がやっと首から上を動かした。

「またやろうよ、花火」

「ここでかい?」

「でもいいし、じゃなくてもいいよ。三年生になるし、進路の事とか色々あるかもしれないけど…………」

若干言葉に詰まったのを見やり、相槌を打った千秋がゆらりと腰を上げながら空箱を拾うと、長い前髪で横顔がすっかり隠れる。それを払って改めて真桜に向き直ると、丁寧なやっと思考を完結させた様子で、十秒越しにようやく返事を発した。


「……良いとも。君が望むなら」


少し経って、両手が塞がっている真桜が、バケツだけをコンクリートの上に置いてドアノブを捻る。促されて先に屋内に戻った千秋が振り返ると、ちょうど真桜が後に続き、扉が閉まるのに伴って視界から曇り空が失せようとしているところだった。

「次はもう少し遅い時間にしようじゃないか」

「はは、本当にね…………」

真桜が眉を寄せて笑うと、千秋が先に長い階段の一段目に足を下ろす。

「……願い事も、すっごく短いのにしよう」

「君は懲りないねえ」


やがて静かな廊下に二人の靴音が響き始める。未だ日の落ちる気配が見えない放課後、確かに焼き付けた異なる残像のきらきらが、二人の七月七日の記憶を覆っていた。

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