チョコレート・コスモス
雨咲 リリィ
王子様と王子様
「じゃあ、少し早いけど今日はここまで。日直さん、挨拶お願いします」
教師が視線を送った先の一人が号令をかけ、微妙にまとまらない挨拶と礼を終えると、糸が切れたように教室が騒めく。隙無く整ったショートヘアの少女――片倉真桜は手早く机上を片付け、チャイムが鳴ると同時に席を離れた。ココアブラウンのセーラー服の長袖で手首を覆い、四月の昼間だというのに冷え込む廊下に飛び出す。今日の昼食が入った保温性の高いバッグを抱えながら隣の教室のドアの方を窺うと、まさに探していた人物が既にそこを離れかけているのが見えた。呼び止めようとしたその瞬間、不意に背後から声が掛けられる。
「あの、片倉さん……!」
振り向いた先の控えめな佇まいは、同じクラスの見知った女子生徒。十センチ程度の背丈の差を少しでも埋めるべく僅かに屈んで、どうしたの、と応えると、手に持ったシンプルなラッピングのそれをおどおどしながら差し出した。綺麗な焼き色の円形が目に映る。
「クッキー、作ったの……!去年こういうの好きだって言ってたから、ええと、その…………」
「……もしかして、僕にくれるの?」
高さを抑えた声で問うと、その生徒は頬を染めてこくりと頷いた。真桜は柔らかく微笑むと、包みを丁寧に受け取る。
「ありがとう、覚えててくれて嬉しいよ。折角だし、この昼休み中に食べるね」
先方が上擦った声でありがとう、と返すのを聞いてから、ひらひらと手を振ってその場を後にする。教室の壁に掛けられた時計を見やると、針は数分の経過をこちらに伝えている。廊下で追いかけ損ねた人影は、当然姿を消していた。
可能な限りの早歩きで人々の間を縫う。意地でも駆け抜けようとしないのは、息を切らして表情と前髪を崩したところを見せたくないからだ。女子生徒に話しかけられる度に笑顔で手を振る、といったことを繰り返しながら数階分の階段を降りると、冷気が容赦無く肌を刺す。頼りない袖を押さえながら、幸い行き先は把握している、その相手の元へ出向いていった。
* * *
「やあ、王子様」
日光のほとんど入らない部屋に並べられた、煌めくガラス細工に整然と色彩を放つ蝶の標本、総レースの白いドレス。それらに囲まれ守られるような風貌で、少女は立っていた。古びたドアの若干軋む音に気付いて、片目を隠す長い前髪越しに、真桜へその静かな瞳を向ける。
彼女達が通う高校には、ささやかな植物園と呼んでも違和感の無い規模の温室が存在する。加えて、園芸部が管理しているその場所の隣に、相当な年季が入っているような外観の、表向きは園芸部室として佇む木造の建物があった。コレクションルーム――たった今真桜を王子様と呼んだ人物による命名だが、それがこのやや異質と言える空間の通称だった。
「お待たせ、千秋。遅くなってごめんね」
「構わないよ。大方、今日もファンに声を掛けられていたんだろう」
コレクションルームの持ち主――霧島千秋は直前まで手入れをしていたらしいスノードームを棚に戻し、代わりに部屋の隅に設置された簡素なスロップシンクの蛇口を捻った。やがて濡れた手を刺繍の入ったハンカチで拭くと、真桜も適当な椅子に持ち物を置いてそれに倣う。
コレクションから少し離れたところに居座る四人掛けのテーブルに向かい合って席に着き、互いの昼食を広げた。いただきます、と各々口に出す。毎日続けてきた、二人のお決まりの流れ。片倉さんって昼休みはいつもいなくなっちゃうけど、どこでお昼食べてるの?と、同級生から尋ねられることも珍しくなかった。
「あのさ、千秋」
「何かな」
唐突に真桜が切り出した。相手がサンドイッチの二切れ目を運ぶ手を止めて応えたので、大事な話じゃないんだけどね、と付け加える。
「今更なんだけどさ……ここでお弁当食べるのって、大丈夫なの?君のコレクションの管理とか、そういう事情あるでしょ」
「あぁ、君は問題無いよ。寧ろ……ここじゃなきゃいけないくらいだ」
「そう?なら良いんだけど…………」
壁に備え付けられた温湿度計は常時と寸分違わぬ値を示している。やがて頷きだけを返した千秋の興味が再び食事に向いたのを見て、真桜も左手で持ったままのスープジャーを傾け、あち、と小さく呟いた。
* * *
「嬉しそうに食べるね」
「だってわざわざ僕のために作ってくれたんだよ?それに美味しいし……あ、千秋にはあげないよ」
空の弁当箱を片付け終えた千秋が、どこぞの令嬢然とした所作で唇を拭いながら、分かってるさ、と微笑む。その僅かに弧を描いた端整な左目に気付いた真桜が一瞬動きを止めた後、自らの気を逸らすようにクッキーを頬張った。
「…………時に、真桜」
「ん、なあに?」
気温のせいか、はたまた先刻洗った時の冷水のせいか、その指先は強く血色を帯びている。時に、カーディガンの類を上に重ねていない状態のセーラー服は、寒さに対する衣服としては存外頼りないものだった。
「四月とはいえ随分冷えてるのに、君は平気そうだね」
「……っ、まあね」
問いかけが何を指しているのか気付いた真桜が、
「君、寒いなら無理しちゃ駄目だろう」
待って、何、と狼狽える相手をよそに自らの掌でぎゅっと包み込んで、体温を移す。
「何って、温めるだけさ。ほら、私は真桜と違って手が温かいから」
「いや、まあ、それはそうなんだけど」
「それとも、私に何らかの他意があるように見えたのかい?」
今まさに目の前で起こっている反応を狙っていたかのような、明らかに楽しげな話し声だ。それに勘付いた真桜の、別に、という返事にくすりと笑う。やがて悴みかけていたものが元の色を取り戻した頃には、代わりに本人の頬が必要以上に熱を帯びていて、その首から上は居た堪れない様子で斜め下に向いていた。
「気を付けたまえよ、王子様」
最後にそう言って片方の手を取り上げ――静かに口付ける。何事も無かったかのようにするりと指先を離そうとすると、
「あー、もう!!」
という、ぱっと目を見開いた真桜の悶えるような声が響いた。勢いよく席を立つと同時にその角に足をぶつけ、痛、と眉を寄せる。慌ただしくテーブルの上を片付け始めるのを見て、千秋が思わず愉悦で顔を綻ばせ、声を溢す。
「もう予鈴鳴るし、わた、僕帰るから!」
足音を立てて元来たドアに駆け寄った真桜が、振り返ってそう言い放つ。荷物を残らず抱えて外に飛び出すと、膝丈のスカートが大きく曲線を描いて靡くのが見えた。残った一人が一頻り笑い終えた直後、都合良くチャイムが鳴り始める。
その頭蓋まで響くような音に全てを掻き消させるように、千秋が目を細めて呟いた。
「あぁ、全く…………本当に面白いコレクションだよ、君は」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます