或いは、それは彼岸花

「千秋、いる?」

冬仕様の制服が重く感じる五月、真桜は指定の通学鞄を肩に掛けてコレクションルームを訪ねた。一日も欠かさずこの空間における一定の空気感を保っている電球が、降り注ぐ機嫌の良い日差しに代わって来客を照らす。


「ああ、いるとも。君を待っていたよ」

幾分か弾んだような声色の千秋が、コレクションのドレスと向き合っていたらしい手を止めてそう返した。クラスの異なる二人が同じ場所で顔を合わせるのは本来昼休みと定まっていたが、この曜日は真桜のクラスの四校時目の授業が教室の移動を伴うものだというので、その距離を考慮して放課後にまとまった時間を設ける取り決めだった。ありがとう、と唇で弧を描いた真桜が鞄を適当な椅子に置いて、一体のトルソーに歩み寄る。


「例の図書委員の子とは話せたのかい」

千秋が白い手袋を直しながら尋ねる。彼女が四月以前に身に付けていたハイネックのインナーは流石にこの頃見かけなくなり、セーラー服の中に些か見慣れない首元が晒されていた。


「うん、お陰様で。掃除当番じゃなかったから……ってことらしいけど、僕が行ったらもうカウンターに居るんだもん、びっくりしちゃった」

「一年生だから教室も遠いはずだけれど……やはり君の言う、その子の性格故かな」

「きっとね。すごく良い子だから」

ふぅん、と簡素な相槌を打った後、はっとしたように黒い瞳が見開かれる。視線は真桜ではなく、背後に掛けられた一枚の絵画に向いていた。


「おや……随分ご機嫌なようで」

絵画の中の少女は憂いを帯びた目を俯かせている。数ヶ月間ほぼ毎日コレクションルームに通っている以上、今や真桜にとっても馴染みのある容姿だったが、やはり表情に変化は無いように見えた。


「そうなの?」

「君が来たかららしい。さっきまでは普段通りだったのだけれど……流石は王子様だ」

「光栄だよ。こんにちは、お嬢さん」

少女の反応を窺っているらしい千秋がやがて笑みを浮かべるのを受けて、僕も声が聞こえたらいいのにな、とこぼす真桜。話題の軌道を変えるべく、先刻視界から外したトルソーに向き直った。着せられた一着の全面を覆うレースが持つ、ウエディングドレス然とした混じり気の無い色は――錯覚であると分かっていながらも、どこか自ら光を放ち、こちらを導く力を持つものであるように思えてしまう。


「このドレス、綺麗だよね。真っ白」

「ああ、本当にね。先人の世話の賜物だよ」

話しながら、比較的落ち着いたシルエットのそれに手袋越しに触れたのち、いとおしいような、芳しくないような顔で手を離す。

「お話、まだできてないの?」

「残念ながらね。余程警戒されているのかもしれない」

「いつからあるのか分からないんだっけ」

「そうだねえ。女子校時代に遡る可能性も視野に入るくらいさ」

二人が籍を有する私立錦矢にしきや学園高等学校は、創立から九十年を数える学び舎だ。当時の少女達の視野を広げるべく一人の出資者の寄付により女子教育の場として設立され、やがてより永続的に教育を行うための環境が必要だといって行われた大規模な校舎改築を以て共学化が成された――というのが、大まかな沿革であった。


「女子校時代ってどれくらい前だっけ」

「だいたい三……いや、四十年かな。おばあさまが通っていた頃は共学化に関しては噂すら無かったらしいし、旧女子寮も何事も無く機能していたと聞いているから」

「…………おばあさま?」

「うん?あぁ、錦矢の卒業生だよ。私のおばあさまと、それからおばあさまがね」

初めて聞いた、と身を乗り出す真桜に、初めて言ったからねえ、と千秋が返す。


「……旧女子寮ってあの、校舎の隣の、誰も入れないやつ」

「そうとも。おばあさま達は私と同じで自宅から通っていたそうだけれど」

「あれって相当劣化してるよね。取り壊し、されないのかな」

「過去の物はなるべく残したい、という上層部の意向らしいからね。校舎の方はやむを得なかったけれど、寮舎はそう広くないだろうし。私はあのままで良いと思うが……君は?」

「んん…………特に何とも、かな。みんなが怖がってるのはよく聞くけど、僕は残ってる理由が気になるだけ」

「……それはよかった」

安心したような眼差しを長い前髪から覗かせる千秋。真桜は一切の動きを止めかけた後、小さな動作で我に返って訊く。


「…………千秋はさ、あの寮舎も……美しいって思う?」

口元に手を添え、瞬きと共に瞼を途中まで伏せる。やがてそれを起き上がらせるまでの動作を数秒に詰め込んだ末、結んだ唇を解いた。


「…………そうかもしれないね」



* * *



「真桜、もう四時半になるけれど」

千秋が重厚な立ち姿の振り子時計を見やる。毎秒淡々と音を奏でるその図体は、未だかつて鐘を鳴らすタイミングを狂わせたことは無かった。


「本当だ……!先生の会議、そろそろ終わったかな」

「恐らくね。君も大変だねえ、活動日でもないのに顧問と話し合いなんて」

「文化祭の日なんてあっという間に来るから、しょうがないよね……じゃあ、水瀬先生のとこ、行ってくるね」

荷物を置いたまま軽やかに手を振り、コレクションルームを後にする真桜。それを見送った後、千秋が先刻の絵画の少女に向き直る。


「真桜は行ってしまったよ」

「また戻ってくるさ。ほら、そこに荷物があるだろう」

「寮舎が美しいか否かの話?あぁ、そうだねえ……いかんせん、この私でも立ち入れた試しが無いからね。あんな風に答えるしかなかったんだよ」

会話――とは側からは呼べない光景だが、当人は心底楽しそうに目を細めていた。一人分の声しか響かないように見える空間。


ふと、言葉の糸が途切れた。少女が話さなくなったのか、或いは千秋が自ら遮ったのか。傷や曇りの類が微塵も見当たらないローファーがコツ、と数回鳴って、惣暗つつくらで染めたような黒髪が控えめに揺れる。その角膜が、物静かな純白のレースの塊を捉える。再び煌めきに伸ばそうとして少し躊躇った手を、ふらりと宙吊りにした。


「君は、どんな声なんだろうね」

返事は無い。分かっていた結果だ。それは石膏像、それは骨格、それはマネキン。が持つ生気の無い色が、依然、虚しく突っ立っている。視界の外の秒針の動きが規則正しく鼓膜を刺す。


「……やっぱり、王子様がいないと駄目かな」

私だけじゃ足りないのかい。それともまた、何か。喉から出たような掠れた問いかけが床板にただ吸い込まれていった。――次の鐘は、今は鳴ってくれそうにない。

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