緑の手

真夏と大して変わらないような暑さの日だというのに、錦矢にしきや高校の廊下はワイシャツとセーラー服の淡色で溢れかえっていた。安全ピンで腕章を留めた生徒がすみません、と声を掛け、スカートを押さえながらその中に滑り込む。男子生徒の装いはというと指定の学ランが無い分冬服の面影はほとんど消え失せていたが、セーラー服の方はそれ自体に加えて前面にボタンの付いた構造も健在で、くすんだ金色が微かに硬い音を奏でた。ようやく階段にありつき、一階に出る。


錦矢祭――要は文化祭だが、とにかくその行事名が賑やかな字で描かれた看板が掲げられ、広い校舎は入学以来かつて無い賑わいを見せていた。毎年九月上旬に行われる、高校生活の一大イベント。


「あ、真桜ちゃん」

高校に入ってからすっかり珍しくなった呼ばれ方に振り返る。ラムネの瓶を持ったその人は肩くらいの長さの髪を下ろした女子生徒で、二年生であることを示す色の上履きと、真桜と同じ腕章を身に付けているのが目に映った。

「先輩」

「見回りお疲れ様。大変でしょ」

「流石に、そうですね……去年もこんな感じだったんですか」

「うん、多分来年も」

人の流れを横目で見つつ、二人で壁際に寄って息をつく。先輩のラムネはその間も減り、いつしか半分を切っていた。


「片倉さんだ」

「え、本当だ!腕のやつ、かっこいいね」

会話の途中で、今度は聞き慣れた呼び名が耳に入ってくる。揃って甘そうなワッフルを片手に楽しげな表情を浮かべているのは、真桜の同級生達だ。周りからも分かるようなきらきらした目に、笑顔がぱっと移る。

「ふふ、ありがとう。それ美味しい?」

「めっちゃ美味しい!片倉さんも食べなよ、三階で売ってたよ」

「じゃあ後で行こうかな。二人が食べてるの見て気になってきちゃった」

そう告げて目を細めると、会話の外から「わぁ」と零れたような声が聞こえてくる。じゃあ楽しんで、と手を振り、先方がにこにこと振り返したのを境に、真桜は元の相手へと向き直る。


「人気者だね」

先輩が瓶の中のガラス玉を転がしながらにやつく。

「すみません、話の途中で」

「いいのいいの、これは好かれるよなぁって思ったもん。うちのクラスの男子がさ、自分の好きな子が真桜ちゃんのファンだから勝ち目無いってずっと嘆いてるんだよね」

「それは喜んでいいんですかね…………」

訊いたものの、本人は嬉しそうな口元を緩く丸めた手で隠した。


「それじゃあ、僕はそろそろ戻りますね」

「あ、そっか……結構話しちゃったね。次は?」

近くの教室の壁掛け時計を見上げる先輩。その手元のラムネは既に空になっていた。

「園芸部の方です。ワッフルはその後かなって」

「いいねえ、忙しいけどどうせなら楽しまなくっちゃね。園芸部っていうと、あっちの温室か」

じゃあね、と軽やかにその場を去る姿が視界から外れた後、真桜も言葉通りの方向へ向かう。場所が場所なのか、少しずつ人の密度は低くなっていき、目的地に辿り着く頃には歩くのにこれといって苦労は要さない程度になっていた。


屋外へ出て少し経ったところに、その領域はあった。学校の一部とは思えない、格子状の枠に支えられたガラスのドームが鎮座している。すっかり少なくなった人通りのことを思いながら、ローファーから再度上履きに履き替えて、普段はほとんど触れない扉を開ける。


園芸部――校内に植えられた植物の全てを管理するという活動内容の集団だが、近年ではその構成員の人数は著しい減少傾向にあると聞いていた。にも関わらず、広がる光景はとても生徒の数人やそこらで管理を続けているとは思えないほどに生を体現していて、その場ですっかり立ち止まる。

「…………綺麗」

先刻までと同じ校舎とは思えない静寂の中、ぽつりと呟いた。どう見てもこの辺りに分布していなさそうな樹木、植物以外の何かを連想させる形の鮮やかな花々――それが幾重にも眼前を覆って、視覚情報だけが賑やかだ。公共の一般的な植物園ほどではないが、小さく建てたそれであると教えられれば頷いてしまう規模だった。


ふと、女性の話し声が耳に入る。初めは教師か誰かが電話でもしているのだろうかという線を推し量ったが――導かれるように歩みを進めるうちに視野に飛び込んだのは、真桜と同じセーラー服を着て、同じ色の上履きを履いた生徒の姿だった。


「高校に入って初めての文化祭と言われれば、まあそうなんだが……一年生の部員は私だけだし、先輩だって三年生に一人だけだからねえ。私はどうせ来年も再来年もあるんだし、別にいいかな」

「ああ、私も君と話したかったんだ。無事に咲いてくれて嬉しいよ」

「正確には少しは回ろうとしたんだがね、あんまり賑やかすぎるから引き返した。結局私はこういう場所にいるのが一番良いのさ」

その手に携帯電話の類は見当たらない。折り畳み式の木製の椅子に腰掛ける視線の先に、何らかの動物の姿がある訳でもなかった。近付くか否かを迷っている最中、人の気配に気が付いたらしいその少女が頭を上げて、真桜は思わず半歩足を引いた。長い前髪で隠れていない方の片目が真桜を捉える。


「おや、君は……"片倉さん"だね」


落ち着き払ったトーンでただそう言うので、呼ばれた方はぱち、と瞬きをした。

「僕のこと、知ってるの」

「まあそうだねえ、君は有名人だもの」

「有名人」

「そう。周りの生徒が、よく君について楽しそうに話しているのを見る」

「ああ、そういうことか……ええと、君は」

僅かに軋んだ音を立て、勢いの無い動作で椅子から立ち上がる。空間の全面を覆うガラスからは日光が止め処無く流れてくるというのに、それを以てしても透かせない佇まいだ。一切調子を変えず、やや華奢な体躯で一メートルくらいまで距離を詰めて、薄い唇をゆっくりと解く。


「霧島千秋。君の隣の三組だ」



* * *



「千秋さん、こっちは?」

「その子はアラマンダ。元はブラジル辺りの花だけれど、沖縄辺りにも植えられているよ」

「さっきはアフリカで今度はブラジルなんだ……ふふ、みんな本当に綺麗だね。なんかこう、活き活きしてる」

冬の訪れと表しても差し支えない気温が続いた頃――真桜は「君さえ良ければ、また来るといい」という千秋の言葉を受けて、時折温室に足を運んでいた。どの植物を指されてもすぐに名前と簡単な解説を返す千秋は心做しか上機嫌に見える、という認識が真桜の中で確立されつつあった。


「あ、そういえば。知りたいことがあったんだけど、いいかな」

「構わないよ。何だい」

「よくお花と話してるでしょ。あれって実際に向こうの返事が聞こえてくるの?」

「うん?ああ、そうとも。実際に説明するとなると、考え方としてはアニミズムの類だろうね。私が歳月をかけて彼らを愛し、彼らに丁寧に接する。それで心を開いて、私に声を聞かせようと思ってくれた子が、実際に私に語りかけてくれる」

控えめに切り出した真桜に対し、千秋はすらすらと述べる。

九十九つくも神みたいな話?」

「近いね。尤もあれは年月を経てようやく魂が宿るという話で、私の方は元から宿っているという見解なのだけれど」

「ちょっと羨ましいかも」

「何も特別な能力がある訳じゃないさ。その気になれば誰だってできる……無論、君もね」


明くる日、真桜は再び温室を訪ねた。やけに澄んだ曇り空の放課後だ。慣れてきた様子で靴を履き替えて、重い扉に手を掛けた。いつもの椅子か、それともどこか他の植物の前か。軽い足取りで友人を探し回るが、目的の人影は見当たらない。

「千秋さんってどこに……とか、僕が訊いても意味無いか」

偶然気が向いて、複数存在する出入口のうち、使ったことの無い一つ――校舎とは違う向きにある方から外に出る。


今まで気にしたことが無かったのが不思議なくらい近い位置に、その場所はあった。例に漏れず園芸部の管轄なのだろう植物に囲まれ建っている――明治だか大正だかの時代を彷彿とさせる、横板の壁を纏った木造洋風建築。人の一人や二人が住んでいても違和感の無い風貌は、現代の高等学校の設備としては珍しい、というか、はっきり言って異質だ。


ざり、ざりと小石を踏み締めながら恐る恐る近寄ると、ちょうど鍵の開くような音がして、真桜の肩が小さく跳ねる。二重扉だろうか、再度同じ音が鳴ると、窓にカーテンが取り付けられている玄関らしき扉が動き、黒髪の少女が体を半分出した。

「……片倉くんじゃないか」

「千秋さん!」

互いになんとなく驚いているんだろうということが伝わる顔だ。千秋は後ろ手で扉を閉めて、鍵の束を片手に崩した姿勢を正す。

「もしや、わざわざ私を探しに?」

「その辺にいたらいいなぁって。あぁごめん、迷惑だった……?」

「いや…………今となってはむしろ好都合だよ。付いてくるといい」


二つ目の扉の開閉と共にドアベルが鳴った途端、のが直感的に分かった。あらゆる窓に玄関と同じように取り付けられたカーテンは全て閉まり、日光の差し込まない空間は、電気の照明によってその全てを照らされていた。学校ではあまり見かけないような美術品や骨董品を筆頭に、規則性の類が不透明な物達がそこかしこに並べられていた。

「千秋さん、ここは」

「私はコレクションルームと呼んでいる。表向きは我々の部室ということになっているが、そちらは別の場所にあるんだよねえ」

「コレクションってこの、色んなとこに置いてある……」

「そうだねえ、私が美しい、愛おしいと思った物を集めて……まあ、端的に言えば私物ということになる」

加えて、ルームという呼び方はある種の名残のようなもので、実際のところ部屋は複数存在すること――それからその全てにコレクションを配置していることを説明しながら、千秋が傍らの机を撫でる。真桜が自らの視界に入った白いドレスを「わ、可愛い」と褒めると、満足気に続けた。

「私はね、片倉くん……いつか君を彼らに紹介しようと思っていたんだ。皆、君を待っているから」



* * *



「あ、片倉くん、虫は平気かい?」

「えっ?……あー、苦手かも」

ある程度見て回った後、ふと思い出したように千秋が問うた。数秒躊躇ったが、結局濁すこと無くそのまま答える。


「ふむ、それならこっちはやめておこう。生きた虫という訳じゃないんだがね、標本が並んでいるから」

「標本って、蝶々とか?」

「主にはそうだね。蝶と、少しだが蛾もいる」

そう述べて千秋が扉を一つ飛ばそうとすると、真桜がその場でぼんやりと唸る。

「片倉くん?」

「…………ちょっと、見てみてもいいかな」

目を丸くする千秋。提案した本人さえも少し覚悟を要したかのような面持ちだ。

「……私は構わないが、別に無理はしなくていいんだよ。苦手なものが無いのは素晴らしいことだが、だからといって苦手なものがある人間が劣っている訳ではないだろう」

「無理っていうか……君が綺麗だって思うもの、もっと知りたくて」

勿論文句は言わないから、と付け加える真桜。あくまでその瞳と声色は真剣で、千秋は些か押される、ないし流されるようにして了承する。

「ふうん……なら、行くとしようか。そこは段差があるから気を付けたまえ」


それまでと同じように扉を開いた。電灯の代わりにカーテンを開けると、もう一枚の薄いそれによってのみ遮られてぼやけた自然光が差し込んで、空気の色が変わる。近所にいる種類から何らかの媒体を通してしか見たことの無いような艶やかなものまで、所狭しと、それでいて整然と、命の抜け殻が並んでいた。

「カーテン、いいの?」

「本当は好ましくないんだけどねえ……彼らが空を見たいって強請るから、たまにはね。で、平気そうかい」

「思ったより。動いてないなら結構大丈夫なのかな」

「やっぱり無理して言ってたじゃないか……」


そうして簡単な質疑応答を繰り返していると、真桜が立ち止まって煌めく青色を指した。

「あ、綺麗……ねえ、この子ってモルフォチョウ?」

「そうとも!ご存知かい」

いつにも増して上機嫌な顔で振り返るので、名前と色だけね、と慌てて付け加える。

「美しい蝶の代表格だからかな……彼ら全般に言えることだけれど、これほど鮮やかなのにものすごく繊細で、脆くて、扱いも難しいんだよ。だからこそ美しい」

そう語って千秋はガラスのケースの蓋に手を添える。想い人でも見ているかのような、眩しそうな目だ。


「……千秋さんって、壊れやすいもの、好きだよね」

釘付けになってしまいそうな己への自制を込めて真桜が発すると、「今日は驚かされてばかりだな」と標本を前にした時のままのきらきらした声が返ってくる。

「ああ、好きだよ。私は彼らを愛している」


一拍置いて、真桜が言葉を返そうとした時、千秋が先に遮り、全てを絶った。

「さて、随分長く付き合わせてしまったね。そろそろ出ようか」

「え?うわ、もうこんな時間……」

眉を下げて頷く千秋の表情は、恐らく意図的に、瞬時に元の落ち着いたものへ戻っていた。先刻までの様子は幻だったのだろうか、などという寝ぼけた仮説を立てかけて、すぐに思考から追いやる。標本の部屋を後にして、二重扉の方へ出向いた。

「温室の時も言ったけれど……もし私のコレクションルームを気に入ってくれたのなら、また足を運んでおくれ。連絡さえ寄越してくれれば、私が鍵を開けるから」



* * *



四月――無事に進級してから少し経った日の昼休み。コレクションルームには、スノードームの表面を布で磨きながら、友人がドアベルを鳴らすのを待つ千秋がいた。

「真桜も中々ぶれないよねえ、本当に。名前通りの人間だよ」

「うん?そろそろ来るんじゃないかな。大方今日も……ああ、ほら」

落ち着いた動作で扉に目をやる。彼女以外にただ一人、この場所に足を運ぶ人物が、ファンから貰い受けたクッキーの包みを持って顔を出したので、それに合わせて口を開いた。


「――やあ、王子様」

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