君は燦然と

午前五時半、自室。設定した時刻に動き出していた暖房により空間全体は既に暖かく、活動するに差し支えない環境であるといえた。最近敷いたラグに裸足を下ろし、早々に寝巻きを脱ぐ。


「あら、千秋ちゃん」

「おばあさま」

最低限身なりを整えてダイニングへ出向くと、祖母の姿があった。私が声をかけるより先に扉の開閉に気付き、振り返る。他の家族は皆就寝中だろうか。曜日を問わず早起きで、私がこの場に出るよりも早く台所に立ち、「錦矢の教育の賜物よ」と笑みながら料理を運ぶおばあさまは、私から見ても毎日幸せそうだった。


冬休みの私や妹達、退職済みの祖父や曽祖母、昼から働く祖母を除き、私の両親は仕事に出る。霧島家が誰に言われるでもなく進んで紡いできた伝統を良しとしなかった母は、自らが「お母さま」と呼ばれることも、錦矢学園の生徒となることも望まなかった。「私がそうだったのだから、久美子もやりたいことをやればいいのよ」という祖母の考えにより伸び伸びと育った母は、曽祖母から順に続いてきた美智子、美代子、久美子という命名の秩序を崩し、私に千秋という名前を付けた。まあ、自分に付いた名である以上、私としても気に入っているのだけれど。


「千秋ちゃん、本当に私の店を継ぐ進路で良いの?」

「『で良い』も何も、私がやりたいことをやるんだ。あの場所は気に入っているから」

「それなら良いけれど……売り物に情が移ったりしないかしら」

祖母は――もしかすると曽祖母も――私が物と対話を図っていることを知っていた。故に穏やかな口調で心配をされると、どうしても、次の言葉に詰まる。実際私が今直面している、私が錦矢学園を卒業した後のドレスの処遇についても、諦めきれていないというのが本音だ。――否、何ら問題は無い。あと一年、一年で心を開いてもらえれば。祖母が営むアンティークショップを継ぎたい、ないし手伝いたいというのも本心だが、実際商品にコレクションと同じような愛を注いでしまうことが無いとも言い切れない。私が抱く感情が、人が物に対して一般的に持つ思い入れに当たるものではない自覚は、十分にあった。

「……耳が痛いな」

「すぐに決断しきる必要は無いのよ。二年生だって、まだ終わっていないもの」

「そうだね……ありがとう、おばあさま」


ふと、一連の思考の中で、真桜に「旧女子寮舎についておばあさまに訊いておく」と約束したことを思い出す。仕事に出てしまう前に、掴める情報は掴みたかった。

「そうだ、今いいかい」

「いいわよ。どうしたの」

「旧女子寮舎のことなのだけれど」

祖母のこれは、あら真剣な話ね、という顔だ。できる限り単刀直入な方が良いという判断に基づき、手早く本題を提示する。

「あそこが解体されなかった理由は、単にひいおばあさまの独断という訳ではないはずだ。何か知っていることがあるなら、聞きたい」

私から年の離れた二人の妹が無邪気に遊ぶ声が聞こえる中、壁の一つや二つの隔たりがあるだけで酷く一変した雰囲気だった。それを作り出しているのは祖母ではなく、間違いなく自分だ。今私に渦巻くのは、単なる好奇心か、それとも。


「そうねえ」

やや困ったように眉を寄せて微笑む祖母を見て、そんな顔をさせたかった訳では、と内心で揺れる。やがて意を決したように顔を上げると、その困り顔のまま、祖母は一言発した。

「もう、時効かしらね」



* * *



一瞬何か不味いことを訊いたのかと思ったが、そこからの祖母は著しく口数を増やした。自身の出勤時刻を考慮した上で、可能な限り多くのことを伝えようとしてくれたらしく、流石に直前の発想を反省しながら耳を傾ける。


曰く、それは学生時代、寮で暮らす友人に招かれた時のことだった。宿泊しなければ寮外の生徒を連れてきてもよい、という原則に基づき訪れたそこは、実際のところは分からずとも秘匿的で、魅力的で、美しかったという。

「沈丁花のステンドグラスも綺麗でね、ずっと眺めていられたものよ」

確かにあれは相当綺麗だった、という感想をぐっと飲み込む。予め立ち入り禁止の看板を外したのも、門の鍵を開けたのも、他でもない私だ。


その後も寮に通い続けていたある日、祖母が二階で目撃したのは、奥の居室に運び込まれるトルソーだった。ミシンを扱う授業があったからその応用かしら、と思う祖母だったが、昼間にその目立つ音が耳に入ることはなかった。

「それでね、私、気になって……こっそりお友達の部屋に泊まらせてもらったのよ」

「えっ、決まりは」

「破ったわ。これが一つ目の秘密ね」

一瞬呆気に取られたが、不当に寮舎に侵入している時点で私も同じようなものか、と受け止める。私と祖母――それから曽祖母は考え方が往々にして似通うが、これも血筋だろうか。ばれることは無かったけれど、お友達には迷惑をかけたわね、と申し訳なさそうな顔をする祖母。

「復習ができるように、一階にミシン室っていうのがあってねえ。私、次の日も授業があるのに、夜中まで起きて階段を降りたの」

「よく実行できたねえ……」

「本当にね。好奇心って恐ろしいわね」


ミシン室の前まで歩むと、確かにミシンの音と――それに混じった二人の少女の話し声が、聞こえてくる。結局会話の内容を聞き取れることはなかった上、早々に部屋に戻ればよかったものを、何故かその場から離れることができなかったという。

「盗み聞き」

「そうよねえ……これが二つ目の秘密なの。実は、もう一つあるんだけれど」

「まだあるのかい……」

普段の様子からは想像もつかない振る舞いに半ば呆気に取られていると、ちょっと待っていてちょうだい、と言い残して、祖母が居間を去る。そう経たないうちに改めてドアが開くと、祖母は片手にレースの端切れを持っていた。


「っ、それは」

動揺してはいけない、という意識が喉を押さえつける。やがて先方が元通り、一人掛けのソファに腰を下ろすと、テーブルに丁寧に置かれたレースに視線を送った。私がよく知る柄だった。

「ミシンの音が止まって、私は慌てて階段に隠れたの。しばらくしてその子達が出てきた時、手すりの隙間から覗いたら、真っ白で綺麗なドレスを一人ずつ持って、二階に上がっていったわ」

「それは……ドレスが、二着?」

「そうね。それで……これはあの子達の落とし物」

ドレスの切れ端――それは、三つ目の秘密。祖母が何十年も隠し通した、「その子達」の秘密でもあった。

「私……あれから寮に行かなくなって、そのドレスの行方を知らないの。わざわざ夜中に作っていたのなら、きっと知られたくないことだったのよね。だから、どこかに隠していたとしても露わになってしまわないように、寮ごと残してほしいと。お母さま……千秋ちゃんの、ひいおばあさまに頼み込んだのよ」



* * *



そのレースは捨てるつもりなの、と言う祖母に対し、気付けば「私に譲ってほしい」と口が動いていた。よって今、自室の椅子に体を預ける私の眼前には、その切れ端が鎮座している。


第一によぎったのは、真桜にも話すべきだろうか、という考えだった。そもそも、この探索に巻き込んだのは私だ。ドレスと会話がしたいというのも、そのために何があったのか知りたいというのも、全てがあくまで私の望みで、身勝手。「王子様」たる真桜がいれば変化があるかもしれないという仮説のために、彼女の好意を利用するのも、相当な罪なのだろうということは容易に理解できた。私の真桜への愛は、あくまであの純真な脆さを愛する、コレクションとしての彼女へ向けたものなのだから。


――昨年度の文化祭でが私を見つけた時、好機だと思った。誰もに愛される存在は如何にして保たれているのか。そもそも計算によるものなのか、自然に、意識の外で形作られた像なのか。後者だとしたら恐ろしいが――と、噂を耳にした時から私の興味は彼女に定まっていたし、コレクションルームに招いた時点で私の手中に収まったも同然といえた。


私が手を替え品を替え意表を突いて仮面にヒビを入れる度に、それを埋めて何度でも「王子様」を見せてくれる真桜は、私の歪んだ欲求を満たすにあたって、明確に述べるならばこれ以上無いほどの適役だったのだ。脆いもの。儚いもの。壊すも保つも私の手に握ることができてしまうもの。それを傷つけてしまわないよう面倒を見ることが、私が最適解として辿り着いた愛で方だったというのに――意図的にヒビを入れる背徳を、快感を、高揚を、一年かけて、それも無意識のうちに、私に根深く植え付けた真桜の煌めきといったら!


一連の追憶を経て開き直り、とりあえず事実の共有はしよう、という結論に落ち着くと、頭を冷やすべく深呼吸をした。切れ端が机上ではなく手の上にでもあったら、握り締めてしまっていたかもしれなかった。


もっとあの光を目に焼き付けていたい。整理しても尚その一文に辿り着いてしまう自身の思考に苦笑する。企画部の活動はしばらく無かったはずだから、次に会えるのは冬休み明けだった。


まずは真桜に顛末を話して、それからドレスの二着目を探すと同時に、一着目との対話も改めて試みる。順調に立てられていく計画とは裏腹に、少しずつ、理性的な思考のほつれを自覚する。


「こんな浮気性の人間、口を利いてもらえなくて当然かもしれないね」

純白のレースからの応答は、当然無かった。姉の趣味など微塵も知らない――恐らく今後一切知ることは無い妹達の声だけが、壁越しに響いて、届く。

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