呪い

「ああ、これは君に……で合っているのかは判らないが、返しておくよ。預かり物だから」

冬休み明け早々、真桜がコレクションルームに足を運ぶと、千秋は例のドレスと言葉を交わしていた。双方の間にのみ聞こえる糸状の返事の想像が、千秋の声しか届かない真桜の聴覚を埋める。どこかに行かないようにね、と小さく額装されているのは、ドレスと同じ柄の、レースの切れ端だった。


「……千秋」

話が区切られたのだろうという推測の元、場に満ちた教会じみた空気を破る。振り向いた千秋の目はいつもと変わらない。

「話せるように、なったんだね」

「そうみたいだ」

「みたいって……」

床板を踏む音とは存外耳に障るものなのだということを、この時真桜は了解した。正確には、千秋の声以外――己のそれさえもノイズに思えてしまうような感覚だ。

「君にも、色々と説明をしなければ」



あの子が行ってしまう。卒業と同時に、知らない男の元に。


錦矢学園で過ごす最後の年に出会った同級生に惹かれた私は、昭和のとあるを、その相手との時間に費やした。

「三年生で転校なんて」

「いいのよ、お父様の考えですもの」

家庭の環境が違うのだろうということはよく理解していたけれど、きっと彼女にも学友もいて、居場所があって、楽しい思い出を積み重ねてきたはずだった。きらきらとした声で以前通っていた場所の話をしてくれるのを見た私はきっと、苦い顔をしている。それでもあの子は、今の二人で過ごす時を等しく喜んでくれた。その優しくて純粋な甘さが好きだった。


「私、お嫁に行くわ」

寮舎の中のあの子の部屋――私の部屋の向かいにある、西日のよく差し込む部屋で、逆光に包まれた彼女が言う。この学校の教育方針の関係上、何ら不思議なことではないけれど、私には霹靂そのものに聞こえた。あの子の顔が見えない。

「それは……どなたか、愛するお方と……?」

「……いいえ」

もう一度、いいえ、と繰り返す。

「知らない方よ」


また大人に振り回されるなんて、許せない。せめて大人に向けるべきであるはずの矛先を、真っ直ぐあの子に向ける。

「どうして、どうして貴女は、そんな、」

途切れて紡げない言葉が気道を埋めて、行き場を失ったまま膨らむ。何が言いたいのか、何を言うべきなのか、全てがめちゃくちゃに絡み合って、粗雑な結び目となって。幼く慟哭する私に、あの子が先に顔を上げる。


「ねえ、やっぱり、私を閉じ込めてくださらない」


それから私達は、真夜中に一緒に起きて、お揃いのレースの花束を作った。繊細で混じり気の無い色にざくざくとミシンの針を通すのは、些か勇気のいることだったけれど、あの子が楽しそうだったから、それで良い。


このドレスは永遠の少女そのもの。今の私達にしか作れない、私達の像そのもの。

「本当はあの、私のお部屋に置きたいのだけれど、色が変わってしまうものね」

曇りながら笑む彼女の意向で、学園の敷地内にある誰も使っているのを見たことがない小屋――屋外の、温室のすぐそばの空間に、並べてドレスを閉じ込める。


これが、私達二人だけが結んだ――日を浴びることのない、永遠の誓いの形。



「……ドレスも寂しかったのかな」

千秋の話を聞き終えて少し黙った後、真桜は控えめに口を開いた。

「だってこの子は今、もう一着のドレスと離れてるんでしょ。そこから何十年もの間、ずっとここにいてさ。だから、仲間……でいいのかな、そのレースと会えた今、話してくれたのかなって」 

「……そうか」

斜めに目を伏せた千秋が、真桜の真っ白な解釈を咀嚼して、飲み込む。目の前に言葉を返す代わりに、もう一度ドレスの方へ振り向いて、

「ならばやはり、探さなければならないのだろうね、もう一着を」

とだけ、言った。



* * *



「君達はきっと、その色を変えてでも、あの部屋に置かれたかったのだろう」

箱庭と化したこの小屋ではなく、数十年前に約束が結ばれた、西日のよく差す部屋に。たぶん、その問いかけは肯定されたのだ――と、間を空けて変化した千秋の表情を見て了解する。

「本来、この空間の持ち主は君達を作った二人で、私じゃない。そうだね…………従おうか」

トルソーごと、丁寧にドレスを持ち上げると、千秋はそれをコレクションルームの出入口まで運んだ。

「……いいの?」

「先に愛する相手がいたんだ、敵わないさ」


かつて真桜が夏山実波を諦めた日、帰宅してから鏡で見た自身の顔――その痛ましい有り様を追想して、今の千秋に重ねる。そんなに分かりやすい顔できたんだ。そんなに苦しそうな顔、できたんだ。居た堪れなくなって目を逸らしている間に、軋んだ音を立ててドアを開ける千秋。真桜は幾度か足踏みをしかけた後、観念したように回り込んで、ドアを押さえた。


「ひとまず、片割れだけでも寮舎に運ぶよ。二人分揃えるのはそれからだ」

ドレスを外に持ち出しきった千秋が、礼を言って真桜からドアノブを受け取ろうとして――気付く。


指が熱い。比喩でも誇張でも無く、皮膚の下で血色に染まった指先が酷く脈打っている。そしてそれは、身体の内側から発せられているのではなく、千秋が何か見えないものに触れることで、該当の存在から伝えられている熱であった。


「千秋?」

「……不味いことになった」

不味いって何、と真桜が聞き返すのを遮り、千秋が簡潔な文言を発する。

「よく聞いてくれ。もう一着のドレスも恐らく、コレクションルームの中にある」

「ちょっと、何言って」

「悪いが君に頼むほか無さそうなんだ」

「千秋」

「……少しだけこちらへ寄ってくれないか」

頭だけでいい、という声の圧に背を押され、口をつぐみ、真桜が上半身だけを建物の外へ出した。三十センチ程度だった距離が縮む。

「ありがとう」


言うと、真桜の方へ踏み出した千秋が、え、何、と律儀に姿勢を変えぬまま戸惑う真桜と顔を突き合わせ――割れ物に触れるように、そっと唇を重ねた。


「……は」

「すまない、真桜」

相手が目を見開いた隙に、ぐらつかせる勢いで胸骨を押し返し、顔を顰めながらドアノブに手を伸ばす千秋。そのまま勢いよく扉を閉めると、即座に腕を下ろし、びりびりと焼けるように痛む手首から先をさすった。


「…………何、それ」

鍵がかかった訳でもないのに、コレクションルームの扉が開かないことを真桜が理解したのは、それから数秒遅れてのことだった。


残像と化した千秋の体温が、どうにか繋がろうと藻掻く思考を容赦無く断ち切る。冷えた床が膝下に触れることにも構わず、そのまま静かな箱庭にへたり込んだ。

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