移り変わらぬ気持ち

いずれ死ぬのに何故生きているのだろう――という思考に、苛まれたことがある。例えば食事をしている時。例えば眠ろうとしてベッドに入った時。例えば、よく知る人物がその生涯を終えた時。棺の中で冷たく眠る曽祖父が酷く脆弱に見えて、とうとう骨と五円玉だけの姿になったものを目に焼き付けた時は、全身が空洞と化すのを覚えた。


中学生の頃、私の不注意でティーカップをひとつ割った。気に入っていたそれが、赤と白の椿の柄に似合わずに散ってしまうのを見て――その時初めて、代わりに全てが満ち満ちたのだ。あらゆるものは壊れるその時のために在り、いつか壊れるからこそ美しい。動揺の中で飛び散った破片を拾い上げようとして、手を切ってしまってから、気付く。一縷の赤に合わせて脈打つ指先とは別に、この頬が、耳の先が、心臓が、著しく熱を帯びていることに。



嫌な予感のする時ほど頭が回るという己の性質が、果たして良いものなのか否か、千秋には判らなかった。コレクションルームの境界が、定義が、変容している。つまり、あの場を千秋の――ないし数十年前の少女達の箱庭たらしめていたのは、今まさに自身が連れ出してしまった、このドレスそのものだったのだ。記憶を、愛情を、全てを閉じ込めておくための檻。人に見向きもされないただの小屋を複雑な感情で満たし、異質な空間を作り出したのは、千秋や千秋のコレクション達ではなく、数十年前に引き離された二人の少女と、たった二着のドレスと、それに込められた感情だ。


じわりと痛みが引いて、代わりに目眩に似た感覚が走る。思考の整理が必要だった。千秋がドレスを持ち出したことによって、コレクションルームがそれでなくなったのなら、この手が内側から拒まれて痛む理屈は通らないはずだ。よって未だ檻の機能は存在していると仮定し、その動力源たるドレスも内部へ隠されているとするのが、今導き出せる限りのそれらしい仮説であった。


しかし――それなら、もう一着のドレスは何処に。あの建物の中に、千秋の知らない場所が在るとは思えなかった。とりあえず今あるものを運ぶしかない、と結論付け、再度トルソーを抱える。

「私は大丈夫だ。それに君も……誰も悪くない」

「ああ、ひとまず君を運ぶよ。あの裁縫道具がある部屋だろう」

「真桜、は……どうしているだろうね…………」

「恐らく真桜も、あの時外に出てしまっていたら、私と同じ目に合っていたんじゃないかと思ってね。苦しむのは私だけでいい」

「……あれは、思考を一時的に鈍らせて、その隙に閉じ込めるための手段だったんだけれど……今思えば鈍っているのは私の方だったな。よりにもよって何故…………」

歩き出してもぐるぐると止まらない思考をドレスとの会話に連ねるが、一向に湧く言葉は収まらない。風が冷たいと頭が冷やせるのでよかった、と内心で思うのは、先刻見た真桜のあの、美少年然とした顔が、真赤に壊れきっていたからだろうか。



* * *



外から微かに聞こえる足音が遠ざかる。ふらつきながら立ち上がろうとした瞬間、背後から声がかかった。

『真桜』

「うわ!?」

肩を跳ね上がらせて振り返ると、顔馴染みの、少女の絵画と目が合う。

『ようやく聞こえるようになったのね』

「えっ、何、喋ってる?」

『私、ずっと話しかけていたのよ。口は動いていないでしょうし、千秋を通してようやく伝わっていたんだけれど……気付いてくれて嬉しいわ』

自分の身に起こったばかりのことも忘れ、瞼をぱちぱちさせる真桜。腰を上げて後退ると、怖がらないで頂戴、と呼び止められる。

『千秋と同じことが、貴方にも起こっているだけよ。解るかしら』

「それ……は、つまり、僕が君と仲良くしてたから……?」

『そう。私の声が、届くようになったの』

以前、千秋が語っていたことを追憶する。

「何も特別な能力がある訳じゃないさ。その気になれば誰だってできる……無論、君もね」

当時はその実感は無かったが、余程の錯乱状態にある訳でもない限り、その通りのことが起こっていると考えるのが妥当だった。


「……僕に今、話したいことが?」

『そうね。秘密にするようにって、ドレスから言われていたんだけれど……聞く限り、今はそうもいかないのでしょう?だから、教えてあげようと思って』

こちらへいらして、と内緒話のように言われ、歩み寄る。少女の声色はあくまで上機嫌だった。

『いいこと?私を、壁から外して頂戴』



重い額を慎重に外そうとすると、横の一辺が固定されたまま、もう一辺が扉のように開く。下は床から五、六十センチ程度の壁を枠に、いかにも道として用意されているように見える、額より一回り小さな長方形の穴が出現した。

「……えっ、何これ」

『私達……コレクションと呼ばれる皆だけが知っている、隠し扉ね』

「こんなの、千秋は気付いてないの……?」

『私が壁から外されるのを嫌がったら、ちゃんと外さないでいてくれるんだもの』

「ああ……」

いかにも千秋らしい要因に、やっぱり王子様だな、と目を細める。

「あれ、てことは、君は最初からここに居たってこと?」

『来たのはドレスの後。千秋が連れていったドレスの持ち主……転校していない方の子が、もう片方に黙って、奥の部屋を作ったのよ』

「器用すぎない?」

『本もドレスも作ってしまうくらいですもの』

――とにかく、迎えにいって差し上げて。王子様でありコレクションでもある貴方なら、きっと。少女の声が後押しをする。

「……なんとなく、そんな気はしてたよ」

若干困ったような眉になると、真桜は低い壁を越えて、薄暗い檻へと飛び込んでいった。



「……君が、もう片方のドレスだね」

光があまり入らない空間でも分かるほど、目映い純白だった。制服によく似たシルエットの、長袖に膝丈のレースの花束。

「初めまして。君を、君の大事な相手のところへ連れ出しに来たんだ。聞いててほしいな」

千秋がそうしていたように、屈んで目線を合わせる。

「君は、錦矢に転校してきて、早くに結婚していった人のドレスだよね。僕、教えてもらったんだ」

「僕が勝手に考えてるだけなんだけど……多分、君を作った人は初めから、どこにも行きたくなかったんだよね。大切な相手がそばにいる時間って、幸せだから」

「……僕、好きな人がいるんだ。多分僕とは見えてる世界が違ってて、僕だけを見てくれることはないけど……でも、みんなに好かれようとして王子様なんてやってる時点で、僕も僕だよね」

「だから、ここで過ごせたのは、特別な感じがして嬉しかったんだ。閉じ込められたのも……びっくりしたけど、怖い訳じゃなかった。慣れかもしれないけど」

「ずっと一緒に過ごせる時間が永遠じゃないなんて嫌だからさ、僕から先に迎えに行くんだ。千秋のことも、今ここで出会った君のことも」

「僕は僕の会いたい人に会いに行くよ。君は、どうしたい?」

静まり返った後、柔らかい微笑を崩さない真桜が、じっと少女のシルエットを見つめる。


『……不思議なお方』

微かに零すような、そよ風のような呟きを拾うと、真桜は一層笑みを咲かせた。



繊細なレースをどこにも掬われないように注意しながら、寮舎の階段を上る。九番目の部屋の木馬はもう怖くなかった。扉が開いている向かいの部屋から、よく知った声がする。


「千秋」

「…………真桜」

かつて無いほど目を見開いた千秋が、椅子から立ち上がる。

「そのドレス」

「うん。連れてきたよ」

ぎりぎりの幅の入り口にドレスを一切触れさせず通り抜けると、既に置かれていたもう一着の隣に並べる。

「ごめんね、遅くなって」

ドレスに跪いて言った後、立ち上がって千秋の手を引く真桜。

「ほら、帰るよ」

「え、いや君、帰るって」

「コレクションルームに!」


また来るね、と片手を振ってから、元来た階段を駆け下りる。幾らか混乱している千秋がまともに口を開いたのは、旧女子寮舎の門を抜けてからのことだった。冬という季節故だろうか、眩しいけれど、柔らかな西日が辺りを包む。

「……真桜、どうして」

「どうしてって、僕にドレスを託したのは君でしょ」

「いや、それはそうなんだがね、にしたって早くないかい」

「そりゃあ僕だもの、お姫様の望みの一つや二つ、すぐに叶えられなきゃね。一応、そんなに柔な王子様じゃないから」

呆気に取られた千秋が、やがて遅れて真桜の言い分を理解する。――つまり君はいつからか、私のやっていることを解っていて、それでも尚あの空間に足を運び続けたというのか。


一瞬で顔が綻んだかと思うと、糸が切れたように笑い出す千秋。一頻り声を上げて、少しだけ息を整えてから、心底の愉悦を以て呟く。

「あぁ、全く…………本当に面白い奴だよ、君は!」



* * *



「やあ、王子様」

相変わらず軋んだ音を立てるドアを開ける。日光のほとんど入らない部屋に並べられた、煌めくガラス細工、整然と色彩を放つ蝶の標本、憂いを帯びた顔の少女の絵画。ただそこに、あの白いドレスと、聖域じみた空気だけが無い。


「お待たせ、千秋」

四月にしては暖かすぎる晴天から隠れて、適温の空気を扉の中に閉じ込めた。幾分か上気した真桜の血色が自然に引き、元の皮膚に戻っていく。

「切れ端は寮舎に届けておいた」

「ありがとう。僕達、ちょっと気付くのが遅すぎるよね……」

「否めないねえ……随分長く待たせてしまったよ」


二人は結局、それまでと同じコレクションルームで、毎日顔を合わせていた。共学の王子様として振る舞う真桜と、この部屋の主としてコレクションの手入れを続ける千秋。三年生になっても変わらない、密会の時間。


「……そうだ。もう一つ忘れていたことがある」

「ん?どうしたの」

言うと、千秋はすたすたと近寄って、真桜の頬を両手で包む。

「え、待って、千秋」

片方が首を傾ければすぐに無くなる四センチの身長差を、正面から確実に埋め――千秋はそのまま、宝物を扱うように口付けた。


「…………冷静な時にやるものじゃないな、これは」

照れたように表情を歪め、肌が内側から赤く色付く千秋と、その何倍も熱を帯びた顔の真桜が――背丈の差と同じ距離だけ離れて、互いの瞳の間にぱち、と柔らかい火花が散る。


「………………帰っていい?」

「その顔でどこに帰るっていうんだい。君はこの昼休みを私と過ごすんだ」

くく、と楽しげに声を零す千秋に、嫌な性格、と半分ごちるように言う。


「計算で動いているのは君も私も同じなんだ。仲良くやろうじゃないか」

「本当、なんで僕はこんな、分かりやすく怪しい人と仲良くしちゃったんだろうね」

「似た者同士で惹かれるものがあったんだろう」

「それは無いから!」

遠慮の無い言葉を重ねた後、どちらともなく笑うと、千秋はようやく真桜から手を離した代わりに、いつかの花火に向けたような、燦然とした煌めきを浴びた目を注ぐ。


美しいものを――ただ一人の少女さえもコレクションとして愛でる千秋と、それを受け入れながら何度でも「王子様」の像を取り戻す真桜。


これが二人の正解であり、錦矢学園高等学校で二番目に生まれた、歪で愛しい、ただそれだけの、移り変わらぬ瞬間の形。

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