沈丁花が枯れる頃
瞼が上がる。霧島千秋は起床の際、目覚まし時計の類を用いなかった。静まり返った自室の中、決まって午前五時半に、先程まで見ていた夢を追憶するところから始まる一日だ。今日は確か、あの旧女子寮舎の中に植物が入り込んで、建物全体が自然の一部と化しているような夢だった。白い鳩か何かは居たような気がして、どうにか脳内で映像を遡るけれど、とどの詰まり諦めて、冷えた床に両足を下ろした。
「……という夢を見てね」
向かい合って昼食をとりながら、今朝見た偽の現実を共有する。真桜は「これで本当に植物まみれだったら怖いね」などと笑いながら、クリームスープの入った保温ジャーを傾けていた。定期考査と比べれば遅れはあるが、午前授業を狙って確保された放課後だった。真桜が上からカーディガンを、千秋がハイネックのインナーを、ココア色のセーラー服に組み合わせる季節だ。
「あれから一応、私の方でも考えていたんだがね。やはり例の部屋をどうにかしないことには、発展が無い」
「で、今日行くんでしょ」
「そうだねえ。四時間きっちり授業を受けた分、この間よりも日没までの時間は少ないから、今回はあの部屋に狙いを絞るよ」
食べ終わって少ししたら出よう、という提案に、ほとんど躊躇うこともできず頷く真桜。前回同様、同行する旨を先に連絡した――というより、してしまったのは自身だった。
「そういえば、見たよ。美智子さんの写真」
「ひいおばあさまの?」
真桜より早く空の容器に手を合わせた千秋が、思わず片付ける動作を止めて顔を上げる。
「そう。理事長さんだからかな、調べたら出てきてさ。ちょっと千秋に似てた」
「私に?……初めて言われたよ」
「うーん、雰囲気……?話してみたいって思う顔、っていうか…………」
「ふ、どういう事だい、それ」
けらけらという小さな声が流れると、真桜もつられて晴れたような笑いを見せた。
* * *
沈丁花のステンドグラスを抜けて、寮舎の二階に上がる。一度経験したことには多かれ少なかれ慣れが生じるもので、以前よりは肌寒くない廊下を、揃って左に曲がった。
「まあ、この間と一緒だよね」
「そうじゃなかったら困るねえ」
植物が生い茂っている訳でも鳩が居る訳でもなく、ただ時が止まった居室群。故に十番目の部屋は異質であった。背を向けることになる木馬を一瞥するが、当然何某かの変化がある訳でもなく、ただ在るばかりだ。
思い出したように真桜の手を握ると、千秋は「いいかい」と尋ねてくる。それが手云々ではなく、「部屋に入ってもいいかい」を意味することは、これまでの付き合いがあれば察せることだった。
「失礼するよ」
「お、お邪魔します」
ぴり、と空気が棘を含んで、無意識に身構える。真桜が千秋の表情を窺うが、今日は自らが右に立っていたせいで前髪が全てを隠していて、何も見えなかった。代わりに、千秋が指を真桜のそれ一つ一つの隙間に滑らせて、より強固に絡める。風に木々が擦れる音がする。
「引き出しだ」
と一言告げると、千秋の視線が机の方へ定まった。天板に横二列の引き出しが付いた、質素な学習机。表から見れば他に物が無い分、部屋は若干広く見えるように思える。
「……開けるの?」
「私はそのつもりだよ」
「なんで、急に」
「第六感かな。無論、嫌ならこれを解いて、離れても構わない」
千秋が律儀に繋いだ手を緩めるので、真桜は「……大丈夫」とだけ言って、自らの末端に込める力を強めた。
椅子を引いて、取手の金具に指をかける。もう片方の手を包む感触とは真逆の、無機物の冷感。千秋の見立てでは、ここに――
「……あ」
真桜が半歩退く。机と同じ色の木目がこちらを見据える、角の丸い小箱だった。
「ああ、裁縫道具か」
「え、これ?」
「そうとも。おばあさまが見せてくれたものと同じだからね。昔の錦矢では一人一つ、同じように揃って持たされていたと聞いている」
なんだ、と足を戻すと、千秋がニスのかかった艶めく蓋を軽く撫でる。
「突然すまないね。糸が出ているから、仕舞ってもいいかい」
子どもを諭すような声で、真桜が自分ではなくこの小箱――或いはその中身に話しかけているのだと理解すると、一緒に引き出しの中を覗き込んだ。確かに、赤い糸が蓋とその下との隙間から伸びている。
「なんて」
裁縫道具はなんて返事を、という意味を含めて言うと、それを正しく解釈した千秋が、箱の方を向いたまま首を横に振った。
「……何もだ。そもそも食堂の椅子が特別気さくだったと考えるのが妥当だろうね」
「じゃあ、糸は」
「仕方ないからこのまま開けるよ」
それはやめておいた方が、とも、その方がいいね、とも思えて、結局何も意見せずに「分かった」とだけ返す。実際、この場や錦矢学園に縁があるのも、有事の際の判断を誤らないのも、誰よりも多くを知っているのも、全て千秋なのだ――という認識が真桜の中にあった。ただの使われなくなった寮舎だけれど、恐らく既に常識の通用しない場に足を踏み入れているのだろうという事は、察しが付いてしまっていた。それでも自分が震えずに立っている辺り、多分僕より千秋の方が王子様に向いてるんだろうな、などと思案する。
「……おや」
という一言で、意識が眼前に戻る。既に蓋を左手に持っていた千秋の隣から、ゆっくり箱の中身を覗き込むと、確かに針や糸を筆頭によく知る裁縫道具や、レースの切れ端や、糸切り鋏などが所狭しと並んでいた。恐らく千秋が反応したのはその事実ではなく、巻かれている糸の色だ。
「あれ、白だ」
「そうだねえ。となると君は元から居たのではなく、外からやってきて、偶然挟まってしまったのかな」
蓋を置き、赤い糸を摘むと、しばらくその場で動きを止める。長い前髪のせいで何を考えているかは分からなかったけれど、やがて「君もきっと、ここじゃなきゃいけないんだろうね」と言って、白い糸が入っているものとは別の区切りの中に、そっと赤い糸を仕舞い込んだ。
「真桜、帰るよ」
蓋を閉めて引き出しを戻した途端、切り替えるように千秋が手を引く。
「あれ、もう片方の引き出しはいいの」
「十分だ」
現状、日が傾く様子は無い。前回目を向けられなかった分、真桜がちらりと木馬の方を見ると、無論状態に変化があった訳ではないけれど、子ども向けの玩具にある親しみやすさが少し欠けているような――つまり、警戒されているような気がして、そわ、という感覚が背筋を走った。
* * *
「……流石に、堪えるねえ」
コレクションルームの扉を内側から後ろ手に閉めると、一言目に千秋が発する。
「何かあったの?」
「ああ、やはり私だけだったか。こう……物に警戒されている時特有の圧がね。凄くて」
では、あの時木馬から感じたものも錯覚ではなかったのだろうか。千秋は「邪魔したね」とだけ言って一直線に階段に向かったので、実際にそれと目を合わせたのは真桜だけのはずだった。
「さて」
固く繋いだままの手を何事も無かったかのように解くと、千秋は初めから決まっていたように、純白のドレスが飾られたトルソーの前に足を止める。
「君は、この学園で作られたのかい」
「え?」
「…………このドレスが私のものではないことは、君も知っていると思うけれどね。では誰がここに運び込んだのか、誰が作ったのか、そこが問題だった」
思わず凛々しさの抜けた声で間に入る真桜に、千秋は穏やかな教師のような調子で述べる。
「あの赤い糸は、おまじないの本を綴じていたものと同じ色だ」
「そうなの!?」
そういえば――と追想する。千秋は例の本を手に取った際、その作りにまで考察を巡らせていた。
「食堂の椅子との会話で、本に書かれたおまじないが寮生にも普及しているというのは分かっていたからね。少なくとも共学化の前に、あれが作れるだけの器用さを持つ生徒がいると考えていい」
「でも、それがなんでドレスに」
問いを皮切りに、視線をドレスへ戻すと、千秋は眩しそうに続けた。
「……私が言った『第六感』で受け取ったものは、言ってしまえばこの一着から得る感覚と同じだった。血縁者同士の写真を見た時に、なんとなく似ている……と感じるようなものと思ってくれ」
真桜は横でただ頷く。
「初めは単なる予感でしかなかったんだがね。蓋を開けてみれば、白い糸に見覚えのあるレースの切れ端だ。あくまで確定している訳ではないが、一応こうして面倒を見ている身としては、君の作り手はあそこの寮生だ……と思うよ」
沈黙が流れて、また風葉の音だけが耳を掠める。もどかしくて一つ瞬きをする真桜には気付かず、しかしほぼ同時に、千秋が曇って乾いたように零した。
「はは、まだ足りないか」
「……千秋は、なんでずっとドレスと話そうとしてるの?」
「愛しているから……或いは、永遠は無いから、とでも言えばいいかな。私も君もコレクションも、いつかこの場を離れる。だから私たちも、彼らも、この時間も美しいのだけれど」
「この子、家に連れていかないの」
「昨日まではそう思っていたんだけれどね……あるべき物はあるべき場所へ、だ。このドレスが私を愛さない限りは、恐らく卒業と同時に私の手を離れて、このまま日が当たらず、最低限色を保てる場所にいてもらうことになる」
それでいいのか、とは訊けなかった。
コレクションルームの暖かい光の中でも、このドレスだけは一際
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