花園を分かつもの

「さて、着いたね」

幾分か浮ついて聞こえる千秋の声に連れられ、旧女子寮舎へ続く道の終着点で、ローファーの靴音を止めた。十一月に行われる後期中間考査が一通り片付くところを狙って決められた日取りだった。錆び付いた門を見定めて、真桜が口を開く。

「僕はもう少し、ゆっくりしたかったんだけどな」

通学鞄はコレクションルームへ置いてきたが、それに包まれた弁当箱は既に空だ。真桜の不満の所以は、コレクションルームへの十分な滞在時間ではなく、専ら眼前の、古びた二階建ての建造物にあった。大正時代然とした――実際は昭和時代初期のものだが――横板の壁はすっかり色褪せていた。行くって言ったのは僕だけど、と付け加える。


「まあ、何かあったら引き返すさ」

「そんな肝試しみたいな」

「あながち間違いでもないかもしれないねえ。なんせ立ち入り禁止だから」

平然と言いながら、千秋が門に手をかける。鍵はかかっていなかったらしく、耳障りな音を立てて鈍い動きで開いたそれに、真桜は若干眉を寄せた。

「日が落ちる前には戻るつもりだがね」

「絶対だよ」

以前はあった「立入禁止」の看板が見当たらないことに気付いたのは、門の間に人が通れるだけの隙間が確保されてからのことだった。


さく――と、伸び切った植物を踏み締める音が、二人分弾ける。誰が居る訳でもないのに、聞かれてはいけないもののような気がして、足の進みは淀んでいた。先に進む千秋の顔が見えない。特段長い訳でもない、門から入口への道を歩き終えた時、真桜は確実に千秋の目が見える、左側に並び立っていた。

「繋いでもいいけれど」

と、千秋が掌を差し出す。はっとした顔になった真桜が数秒唇を泳がせると、結局何事も発さぬまま、五本指を重ねた。同じくらいの時間、自らの動きを止めた千秋が、切り替えるように木枠の扉のノブを握る。やはり鍵はかかっておらず、ふぅん、と小さく唸った。


板張りのやや軋んだ床に、硬い靴底が触れる。ひんやりとした――少なくとも不快なものではない――空気が長袖越しに二人を包んで、流れた。

「これ、土足でいいのかな」

一歩踏み出してしまった後、玄関に備え付けられた下駄箱に目を向けた真桜が控えめに言う。

「昔の錦矢は一足制だったらしいからねえ。当時の決まりに則るなら、これが正解だ」

「あの下駄箱は?」

「恐らく、家のシューズボックスと同じ要領だろう。制服に合わせない……他の靴を入れる場所も必要だろう」

「あ、そっか」


「右から行こう」

両側に伸びた廊下を左右に一瞥して、千秋が手を引く。理由を聞くこともなく真桜がそれに応じると、「この寮舎は」と続けた。

「十人程度が生活する場だったらしい。当時の学生の人数はそこまで多くなかったからね。よって、食堂なんかもこの規模に収められている」

両開きの扉を押すと、ちょうど十人分の机と椅子が――人が使うためにあるような配置のまま、ほとんど乱れず並んでいた。奥に台所が見えるが、それも近寄り難い容態とは取れない。

「あの……さ」

真桜が訝しげに、少しだけ手に力を入れる。

「四十年、だっけ。それくらい経ってるなら、もう少しボロボロになってるものだと思ってたんだけど」

今でも人が生活できそうな空間だった。そもそも、それだけの年数が経っていれば、外観にしてもそれがよく判らないほどに植物に覆われていてもいい筈だ。雰囲気だけが古びていて、実際中に入ってみれば――無論内外装は全て古風ではあるが――人のいない期間に見合わない劣化の程度であった。


「ああ、ひいおばあさまの意向だろうね」

「ひいおばあさま?」

思わず反復する真桜。祖母と曽祖母が卒業生であるという話に覚えはあるが、それだけの事実が寮舎の保存状態には結びつかないように思えた。

「過去のものはなるべく残す方針だったというのは話しただろう?ひいおばあさまが理事長だった頃……おばあさまはもうここを卒業していただろうけれど、共学化が決まってね」

「ちょ、ちょっと待って。理事長?」

「……そうか、これも話してないな」

慌てて真桜が話を遮ると、けろりとした声で千秋が説明を述べる。

「ひいひいおばあさまが出資者で、ひいおばあさまが卒業生にして元理事長。おばあさまは卒業生。霧島家はひいひいおばあさま以来、各世代につき一人くらいは、ほとんどが錦矢と関わっていてね」

「出資者!?」

食堂の入口で動揺した声が響く。

「何それ、なんで誰も知らないの」

「訊かれれば教えていたとも。今まで血縁の話をする間柄の相手がいなかっただけさ」

誰も知らない、の部分を否定しないことによって肯定し、千秋はやや目を細めた。そういえば、と真桜は追想する。学校図書館で新聞記事を読んだ際、具体的な字こそ記憶していないが、出資者は漢字二文字に片仮名二文字の氏名だった。

「ひいひいおばあさんの名前って」

「霧島ミル。我が家は婿を取る方針だから、名字は私と同じでね」

「ミル……さんって、片仮名?」

「ああ、よく分かったね」

時代柄ね、と千秋が補足する。

「何にせよ……現理事長も知らないだろうから、君が初めてだね」

「そっ、か」

手に込められた力が伝わって、ふ、と僅かに顔を綻ばせると、「さて、続きだが」と食堂の中を歩き始める千秋。十一月の日没は午後四時半前後で、人の推量や体感を飛び越えるに十分な制限時間だった。


「それで、共学化か。ひいおばあさまはそれ自体には反対はしていなかったようだけれど、何かしらの痕跡は残したいと言って譲らなかったらしくてね。結局校舎は取り壊して、寮は残った訳だ」

「寮の方が校舎より小さくて、残しやすいから……?」

「私も考えたんだが、どうもそれに限らないらしい。まあ折角だ、そのうちおばあさまに訊いておくよ」

少しいいかい、と言って千秋が手を離す。そのまま床に膝を付けると、幼い子どもに接するかのように、食堂の椅子とを合わせた。


「やあ……初めまして。今、構わないかな」

最早真桜にも見慣れた光景だったが、今回ばかりは些か異質に思えていた。千秋が主にコミュニケーションを取る――人間以外の――相手は、曰く「歳月をかけて愛した」ものに限られるという前提がある。しかし今、こうして初対面と自ら明言した相手と言葉を交わしていた。


「やはりそうか。うん、ありがとう、助かったよ」

と残したのを皮切りに腰を上げると、千秋は真桜に向き直った。

「待たせたね」

「いいけど、何か分かった?」

「ああ、ある程度。はじめに、この寮舎の手入れについてだが……定期的に少人数による補修が行われているらしい。作業も小規模なものに限られるとはいえ、我々がそれを認識したことは無いから、恐らく長期休暇中だろうね」

文化祭の準備期間中も見かけなかったから、冬休み辺りだろうか――と、真桜が思考を巡らせ始める前に、千秋が「それで、二つ目だが」と続ける。

「私が幾つかおまじない……例の本の内容を挙げたところ、聞き覚えがあると教えてくれた。二枚の五円玉に赤い糸を通すとか、特定の文言を気付かれずに唱えるとかね」

「恋のおまじないだ」

「よく覚えてるねえ。一応、あの本以外で見聞きしたことの無いもの……例えば線香花火のも訊いてみたんだけれど、それも同様だった」

「じゃ、本は少なくとも、四十年以上前からあるってこと?」

「そうなるだろうね。君のように偶然読んだだけの可能性も十分にあるが、九十年のうち四十年が候補から外れただけでも収穫だ」

なんとなく、真桜も椅子に礼を言って廊下に出る。コレクションや植物以外とも話せるのか、とか、別に恋のおまじないだから覚えてる訳じゃないから、とか、喉元まで浮かぶことは複数あったけれど、今言うべきではないような気がして、そっと押し込めた。


「一応、水回りなんかもあるにはあるけれど。恐らく今見るべきは、二階だ」

そこを訪れた者が行う会話の内容の関係上、共同で使う場所では得られる情報も限られる。コレクションルームがあるように、秘密を隠すべきは当然、閉め切れる部屋だった。


補修というからには出来ることにも限界があるらしく、やはり軋んだ音を立たせる階段が、二人を迎え入れる。踊り場の窓はステンドグラスで、葉が付いた白い花の柄が、そう狭くない範囲に咲いていた。

「ねえ。この花って、校章の」

「ああ、沈丁花だねえ」

歩みを止めずにそれだけ交わすと、残り半分の段をちらりと確かめて、また上る。既にこの空気に慣れつつあったけれど、依然夜のようにひんやりとした実感が身を包んでいた。


やがて新たな廊下に出て、端から順に、元より開いていた扉の向こうを覗く。入らないの、という真桜の問いかけには、私とて躊躇うことくらいあるさ――たまにはね、と言って、曖昧に返した。居室には全て、机と椅子、ベッドという簡素な組み合わせの家具が備えられていたが、加えて決まって個人の持ち物らしき存在、例えば本やら花瓶やらが置かれていて、所謂生活感の程度には差がある。先刻と同じく躊躇いがあったのか、千秋は真桜以外とは話さなかった。

「寮って、出る時に全部持って行くんじゃないの?」

「私もそういう認識だけれどね……何か訳があるのだろう。流石にこれだけでは分からないな」

「そりゃそうか……あ、木馬」

「木馬?」

高校生の生活する場に似つかわしくない置き物に、思わず会話を止める。大人と変わらぬ体躯の人間の実用品にしては可愛らしい規模だ。ちょうど十人分用意されていた部屋のうち、九番目の部屋の中だった。

「ふむ……私と同じように、コレクション趣味があったか……もしくは育児の練習か、と考えるのが妥当かな。もっとも前者なら、それを持ち帰らないのには納得いかないけれど」

昔の女子教育といえば、現代と同じような学問的な科目の他に、例えば裁縫のような、家庭で扱う技能を磨く時間が存在したとされている。「家庭科」という形で引き継がれたそれとは違って、当時のものは主に花嫁修業の役割を持っていた――と、千秋は曽祖母から聞いたことがあった。

「錦矢は、他の女学校に比べれば、そういうのは少なかっただろうけどね。でも確かにあった……よって、当時の教育の名残と考えるのが妥当だ」

「今と全然違うね」

「それだけ色々起こったんだろうねえ。世の中でも、この学校でも」


さて、と振り返った十番目の部屋の窓から、くっきりと暖色が差し込む。いつの間に日が傾いていたのだろう、と真桜が携帯電話をポケットから取ろうとした最中、此度は千秋が握る手に力を込めた。

「千秋?」

「無い。何もだ」

え、と千秋に並んだ位置で室内を見渡す。ベッドは、ある。机も椅子もある。最低限の設備に限っては、整っていた。

「あ」


つまりは、最低限のものしか存在しない部屋であった。花瓶だとか、本だとか、木馬だとか――これまでの、個人の部屋を識別する何らかの要素が、欠けている。無論、一般的な学生寮の空室としては正常だが、ここは錦矢学園の旧女子寮舎だ。

「……帰ろうか、真桜。日が落ちる前に」

まともな返事を発する前に手を引かれる。千秋が何を考えているのかは、半分は勘だけれど、仄かに見当が付いた。背後の木馬に目を向けられないまま、二人は少し早めた足で階段を下りていった。



* * *



「え、もう一回行くの!?」

コレクションルームに真桜の声が響く。人が過ごすのにも程々に適した室温は、十数分前に比べればずっと居心地が良いものに思えた。

「流石に中途半端だからね。ドレスについての手掛かりも無いし、もう少し探すよ」

「あの部屋も……?」

「そうなるね。私一人でも行くつもりだが、君はついてくるかい」

問われて言い淀むと、「まあ、もう少し後の話だから」と千秋が付け加えた。

「今日は中の様子が知れただけでも大きい。霧島家で良かったよ」

冗談めかしく言うので、ようやく元通りに綻びかけていた真桜の頬が緩む。

「食堂の椅子と話せたのも、そのおかげ?」

「恐らくね。偶然だけれど、あの話をしたのが食堂の前なのは幸運だった」


荷物の中身を確認したのち、消灯してコレクションルームを後にする。この頃、真桜は少女の絵画に手を振ってから扉をくぐるのが習慣になっていた。

「私たちが卒業する時って、ここはどうなるの」

「コレクション達なら、全て家に運び込むつもりでいるよ。学園の関係者に縁があるとはいえ、私は直接何かした訳でもない、あくまで一般生徒だから」

「一般生徒は自分専用の建物なんか持たないんだけどな」


真桜の顔が明るくなったとみえて、それが移るように笑った千秋が鍵をかける。やがてからすの集団の声が一段と日常的に聞こえて、やっぱりちょっと寒いや、と零しながら、校門を後にした。

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